お城嫌いのお姫様



男の癖に、シンデレラの本を持っていたのは。



病気がちな母親が、唯一読んでくれた話だったから。




毎日継母と義姉達に苛め抜かれながらも健気に生きるシンデレラ。



魔法にかけられてお城の舞踏会に向かった彼女は、そこで王子と恋に落ちる。



魔法使いと約束した零時の鐘が鳴り、急いで立ち去る際、硝子の靴を落としてしまった彼女は、後日それを手がかりに捜しに来た王子と再会し結婚する。





―世界中にシンデレラにだけしか合わない靴なんて存在しないだろ。





隣で熱心に聞く楓の事も、話の内容も、心底馬鹿にしていた。




一瞬で恋に落ち、王子が迎えに来るのをただ待っているだけのシンデレラ。



玉の輿に乗って、さぞかし安泰に暮らしたに違いない。



王子も王子だ、見かけだけに騙されやがって。



相手がどんな人間かもわからないのに。



苛め抜かれた人間なんか、絶対良い性格になるわけがない。



出て行くこともせずに、そこで小動物と戯れながら清く正しく笑って生活できるなんて、どんな神経の持ち主なんだ。逆に怖い。





―そんな女、絶対存在しない。





諒自身、かなり反発したい内容だった。




初等部の女共ですら、今から将来どの男が安全牌かハイエナのように目を光らせている。




それでも。




母との少ない記憶に繋がるそれは、自分の中で特別なものにならざるを得なかった。




金木犀香る頃。



母親の容態が芳しくなくなって。



諒は母方の実家で暫く過ごすことになった。




そこで出逢ったのが楓だった。



元々親戚の集まりで何度か顔を合わせてはいたが、父親の陰に始終隠れているような楓との接点は、無いに等しかった。



楓は、母の義姉の弟に当たるのだが―つまり実兄の妻の弟―姉と弟と言うには違和感を覚える位、それこそ親子程の年の差があった。



無論、父親はかなり年老いていて、手を引いて歩く姿は祖父と孫。



楓が中等部の頃、すい臓癌を患い、他界した。





家から離れ、遊ぶ友達も居なくなった諒は、最初、そんな同い年の楓に声を掛けた。



だが、引っ込み思案で人見知り、波立たない湖面を一日でも眺めていられるような性格の楓は、諒にとって宇宙人のようなものだった。






―つまんない。




母親の体力面を考えて、共に過ごせる時間は僅か。



その他の時間は、学校を除けば、だだっ広い敷地を歩き回る位しか潰せる術がなかった。



ゲームの類はとっくに飽きていたし、サッカーや野球をやってくれるような、心許せる使用人は居ない。




その内散策も嫌になって、使用人の目を盗んで敷地外に進出することにした。




当時7歳だった諒は、決まりを破る、という事に罪悪感を上回る興奮を覚えた。





しかし。




一度出てみると、外の世界は案外呆気なくて。




単調で平坦な道がただ続いているだけだった。





―失敗だったか。




飽きるのにそんな時間はかからなかった。



それでも直ぐ戻るのは癪だから、持っていた小銭で、自販機でジュースを買ったりしながら、ぶらぶらと当ても無く歩き回った。





「あれ…」





そして見つけたのだ。



大きな竹林。



それを囲う塀際には、大きなブナの樹が何本かあった。




山や林は近所にも幾つか見られるが、どれも立ち入り禁止区域のように鉄線で囲われていて中には入れない。




だが、今目の前にある塀はコンクリで、少し頑張れば乗り越えられそうな気もしないでもない。




―誰かの家かな?どこか登りやすそうな所とかあるかな。




興味が湧いた諒は、取り囲む塀をぐるりと見て歩く。





「ラッキー」




やがて、塀の崩れた部分がボロリと傍らに転がり、大きく口を開けている―ちょうど諒くらいの背丈であれば少しかがめば入れる位の―箇所を発見。



迷うことなく、諒はその隙間に体を滑り込ませた。





「やっと面白くなってきたな。」




重なる枯れ葉が、洋服にくっつくのを振り払うこともせず。




諒はにやっと笑うと、ひとまず広がる謎めいた景色を仁王立ちで眺めた。



実際は、これっぽっちも謎めいてなんか居なかったのだが、当時の諒にとっては、かなり不思議な世界で、自分はそこに迷い込んだつもりでいた。





―いざ、出陣!



訳のわからない掛け声を心の中でかけて、足元にある棒切れを拾うと、諒は冒険を開始する。




時折、無駄に竹や樹に勝負を挑み、至って順調に勝ち進んでいた。




が。




強気な姿勢はいつまでも続かない。




それに、少しも怖くなかったと言ったら嘘になる。




ましてや、自分以外の言葉を話す生き物が、じっと息を殺して隠れているのを見つけたら。





「うわ。」





心臓が口から飛び出るという表現がぴったりな位、驚くに決まっている。



絶叫しなかっただけ、自分を褒めたい。




―死ぬかと思った。




ブナの樹にできた洞。




その中に、膝を抱えて、憂鬱な顔をして座り込んでいる女の子。





諒の登場に、当たり前だが彼女も相当驚いたようで。





目を丸くして諒を見つめている。






―お化け、じゃなさそうだよな。






「なんでそんな所に座ってるの?」






諒は驚いてしまった事が悔しくて、代償を女の子に求めた。



問い詰めるような言い方になってしまったが、構わない。



お門違いにも、謝れ!と思っていた。




だが。





「―あんた、ふほうしんにゅうって知ってる?」






ばらついた黒髪が印象的な彼女は、諒のことをきつく睨み上げた。





―ふほうしんにゅう?




自分より、幼いだろう彼女を見下していた諒は、難しい言葉を言われてカチンと来た。




呆れたように笑って見せて、





「別に不法に侵入したわけじゃないよ。道が続いてたんだよ。」





と、優位に立てるように威張って見せた。




なのに。





「へぇ…」





全く信用していない、という一瞥を食らい、その後視線を木漏れ日の方へと向けた女の子。



まるで、「もう興味ありません。話しかけないでください。」と言っているようだった。



要は、諒の存在を完璧に無視する姿勢をとった。




―なんだ、こいつ。




諒にとって、こんな女は生まれてこの方会った事がなかった。




自慢じゃないが、ルックスはかなり良いと自負している。



洋服からわかるだろうが、家柄も良い。




よって、寄ってくる女はこの年からでも掃いて捨てるほどいる。




だが、無視するような輩は、楓以外に初めてで、女としては史上初だ。



憤りよりも、好奇心が勝った。




「名前、なんて言うの?」





気付けば、訊ねていた。





女の子はまだ話しかけてくるのかと、煙ったそうな顔を諒に向け。





少しの沈黙の後。





「…さぁ?」




と答えた。



一瞬、はぐらかされたのかと思った。



だが、馬鹿にすることはあっても、馬鹿にされることは滅多になかった諒はその可能性を直ぐに消した。






「……さぁちゃん?」






―ふぅん。






名前を知った。それだけの事だったが、なんとなく嬉しさがこみ上げてきて。





「さぁ、かぁ。さぁちゃんかぁ。」






しつこく呼ぶと、彼女は面倒そうに頷く。



最初に感じた恐怖は吹っ飛んで。




―もうちょっと仲良くならないと駄目かな。





この冒険の、新しい仲間をゲットするチャンスを自分は掴んだのだと勝手に思い込んだ。






それが彼女との出逢い。




暖かい、秋の始まり。






赤く腫れた頬や腕なんかには、まだ気付くこともなく。




抱えた膝の痛みも、知らなかった。






ただ、能天気に、遊び場が増えたな、位に考えていた。




つまらない日常に光が当たった、と。





強気な女。




そう信じて疑わなかったのに。




次に見たのは、彼女の泣き顔だった。




誰からも見つからないように、裏の裏の隅っこで、声も出さずに泣いていた。





―なんで。




竹林の中、会えないかなと期待して歩いていた。



でもまさか、泣いている所に遭遇するなんて予想もしてなかった。




どうしていいかわからず。





何て声を掛ければいいのかもわからなくて。




落ち葉を踏みしめる音すら、気を遣って。




ただ、膝を抱いて肩を震わせる女の子の隣に座り込んだ。




目が合わないことを良いことに、諒は蹲(うずくま)る彼女を遠慮なく見つめる。




そして、気付く。




シャツから出た白い腕に赤い傷跡。





どうしたの。




なんて。




訊ねることすら、憚(はばか)られるような押し殺した泣き声に、普段は痛まない胸が痛んだ。





それでも、最初は楽観的で、きっと父親か母親に怒られたんだろうな、位にしか思わなかった。




秋の爽やかな風に吹かれながら、お互い無言で、暗くなるまで並んで座っていた。




「いつまでいんのよ。」




薄暗くなってきた頃。



さぁは不機嫌そうな顔を上げた。



そりゃないだろう!と思ってはいたが、頬についた擦り傷に、文句を飲み込んでしまった。




「それ、どうしたの?血、出てるけど。。。」




女なのに。


顔が傷付いたら俺のクラスの奴等、卒倒しそう。





「名誉の勲章」




さぁは涙の痕と一緒にそれを舐めて見せた。




「へ…?」




今まで泣いていた筈なのに、晴れ晴れとした顔をする彼女は、にかっと笑う。





「あんた、帰んなくていいの?」






言いながら不揃いな髪を揺らして、立ち上がる。






「んー。今日はまだちょっと。」





だって、さぁを仲間にしにきたのに。



諒が渋ると、さぁは不思議そうな顔をした。





「ふーん?私は帰るよ?」




「えっ」





なにそれ。



おかしいでしょ。



僕はさぁを待ってたのに。




「…何?」



「なっ!!!!」




「―な?」



怪訝な顔をして見下ろすさぁに、もう言ってしまえと諒は腹を括る。




「仲間にならない?」




「は?」




さぁの視線が痛い。





「ぼ、僕の仲間になると良い事が沢山あるよ。」




平静を取り繕って言ってみた。





「―例えば?」





興味を示したらしいさぁは食いついてくる。




―よし!あともう一息だ!




諒はこの交渉をなんとか上手くいかせる為に、自分の力を見せびらかせることにした。





「僕の家にはないものはたぶん、ないよ。さぁちゃんが欲しいものはなんでも揃ってる。ゲームも、もういらないのばっかだから、欲しかったらあげるよ!それに、学校じゃ僕はすごくモテモテなんだ。女を仲間にしてあげる、なんてこと自体すっごく光栄なことなんだぜ。」





えっへん、誇らしげに胸を張ってみせた諒に対し、さぁは無言で背を向ける。




「あっ!ちょっと、待ってよ!」




慌てて呼び止めるが、さぁはどんどん歩いて行ってしまう。




―おかしいな。




自分と付き合うことの利点を教えてあげたって言うのに、どうしてさぁは行ってしまうのか、諒には理解できなかった。




―ゲームじゃなかったか。女だったら甘いものとかの方が良かったのかな。



変な反省をしながら追い掛ける。





「何で行っちゃうんだよ!」




やっと追いついて、筋張った自分や楓のような感触ではなく、柔らかくて細いさぁの手首を掴むと、彼女は漸く立ち止まった。





そして、くるりと振り向いて―。





「あんたなんか、大っ嫌い。」




「―え?」





目を吊り上げて自分を睨みつけているさぁに、諒は一瞬何て言われたのかわからなかった。






「あんたみたいな奴、大っ嫌いって言ったのよ。」






薄暗い竹林。



繰り返された言葉はきつく響いた。






========================






「浮かない顔してるね?」





雨降る夜。




諒が孝一の会社に顔を出したのは、真夜中になってからだった。





「しかも濡れてるし。」





面白そうに観察結果をつらつら並べる孝一を、諒は無言で睨みつける。





「こんな夜中になんだよ?俺ももう帰る所だったんだけどな。」





孝一はわざとらしく溜め息を吐いて、椅子に座り直した。





「そういや、あの秘書どうしてるの?なんか大怪我したみたいだけど、大丈夫だったの?」





諒はふて腐ったように頷く。





「あ、その顔。悪かったなーって思ってる顔だね。全く諒は本当にわかり易いよね。」





あはは、と軽く笑い飛ばす孝一に、諒はここに来たことを若干後悔し始める。





「で、何だよ?早く言いなよ。」




「……ちょっと、訊きたいことがあって。。」




「ん?」




「お前のさ、女…平民だろ。」





歯切れ悪く呟く諒に、孝一は耳を欹(そばだ)てる。






「だからさ!お前の女って、確か平民だったろ!」




「うるさ…」




突然大声になった諒に、孝一の耳が痛んだ。





「人の婚約者を平民呼ばわりって…言い方悪いな。」




「そこが問題だから言ってんだよ。」




決まり悪そうに目を逸らした諒に、孝一は首を傾げた。




「まぁ、少なくとも千晶は社長令嬢でも財閥の娘でもないけど。それがどうかしたの?」





じっと床を見つめ、何かを考えているようだった諒は、ややあって顔を上げる。




「嫌がんなかったの?お前の女。」




諒の真剣な目つきと予想していなかった問いかけに、孝一はきょとんとした。





「―嫌がる?」





仕舞いこんだノートパソコンの上に肘を着きながら、訊き返す。





「そう、、なんか、その…偏見とか、なかったのかよ。」




諒が言いにくそうに呟けば、うーん、と孝一が顎に手を当てた。





「まぁ…好きではない、だろうけど。嫌がりはしなかったな。色々あったけどね。―何、諒、嫌がられてるの?」




「ばっ、そんなんじゃねぇよ!」




慌てて否定しても、図星にしか見えない。





「要は気持ちの問題じゃない?」





孝一が見上げると、その場に突っ立ったままの諒が説明を求めるように見返してきた。





「そんなのどうでも良くなるくらい、求め合えるのかどうか。」





諒は、そんなの分かっている、と思う。




でも。





「それ以前の問題なんだよな」




あの子は振り向いてくれない。





「あの秘書でしょ?」





項垂れる諒に、孝一はにやにやしながら訊ねる。





「―俺さ、昔も今も、大っ嫌いって言われてるんだよ。」




「はぁ?」






質問には答えずに、孝一の後ろに広がる夜景に目をやった。




あの頃も、今も。




自分は本当に、成長がない。



近づき方を間違えて。



折角掴まえたと思っても、するりと逃げられてしまう。



縮めたと思った距離は、実は少しも近づいていない。





「ひとつ訊くけど」





夜景から声の主にピントを合わせると、孝一がやけに真剣な顔で見つめていた。





「諒はその子の為に、全てを失う覚悟ってあるの?」




========================




眠れない。




眠れない。




あいつが初めて家に来るって知った夜も眠れなかった。




お陰であいつが迎えにきた時はすっかり眠り込んでしまって、派手に起こされたり、寝不足で最悪だった。




けど、反対に。




あいつがもう来ないと知った今も、また眠れない。





『辞める』




雨の中そう言い放った顔が、昔のあいつと重なった。





どうしたら良かった?




どうすれば手に入った?




どうしたら―




どんなに嫌いでも、俺は良いから。




だから、傍に居て欲しい。




でも、思い出して欲しい。




思い出すまで、傍に居たい。




思い出したら、そこからまたやり直したい。




あの時あのまま掻っ攫えるほどの力が自分にあったなら。




結果は、変わっていたんだろうか。




でも、今は、まだ諦めたくない。




いや、諦められない。





だって、やっと見つけたのに―。






午前5:00



冬至が近づいている今、辺りは月が見える程暗い。



そして、かなり冷え込んでいる。





「あらっ!?ご主人様…お早うございますね?」





メイドリーダーの中村が、着替えて階段を下りる諒を見て、幻かと己の目を疑った。






「ん。」





意に介さない様子で足早に玄関へ向かう諒の後を、中村が慌てて追う。





「もう、お出かけになられるのですか?朝食は―」



「要らない。今日は出る。」




厨房は既に準備にかかっているが、直ぐにキャンセルをかけにいかなくては、と中村は素早く頭を働かせた。





「いってらっしゃいませ!」




見送りには、人数が足りないが仕方ない。



中村は深々とお辞儀をして、振り返ることのない諒を見送った。




主はここの所、出勤時間がどんどん早くなっている。





「秋元様、どうなさったのかしら。」





小声で呟いたつもりの独り言だったが、案外大きく響いてしまったことに肩を竦ませてから、中村は厨房へと足を向けた。





朝の道路は空いていて、いつもより半分の時間で会社に着く。



自分の車を運転してきた諒は、ひっそりと静まり返っているフロアに入り、初めて沙耶がここに来た時のことを思い出していた。




―あの日もやっぱり珍しく早く目が覚めたんだよな…




つくづく自分はまだまだ子供なんだな、と思い、溜め息が出る。



沙耶と別れ、アメリカに行く事になって、飛び級でどんどん学業を修了させ、日本に帰国した時。



会いに行こうと思った時には遅かった。



タッチの差で、というのはこのことか。



秋元家から沙耶は居なくなっていた。



無論、どこへ消えたのかはわからない。



着の身着のまま追い出された沙耶達の行方を追うのは難しかった。



その上、まだ沙耶の本名を知らなかった。



何故なら秋元家から疎まれていた彼女の一家は、まさに隠されるようにして暮らしていたからだ。



竹林の持ち主は、秋元家であることはわかっていた。



だが、そこにいた女の子―自分の娘の子供以外―の存在については知らぬ存ぜぬだった。




じゃあ、あの子は?さぁは?



幻だったとでも言うのか。



怒りにも似た絶望が、自分自身を襲う。



更に父の事故が重なり、それどころではなくなった。





―でも。




社長就任のパーティーで、喧嘩を売ってきた女が居た。




なんて女だ、と思った。




諒の立場を分かっていないのか、バイトの女の分際で食って掛かる。



処分なんか造作ない。



直ぐに支配人にあの女が誰なのか問うと。




『秋元沙耶といって、うちの瀧澤の代わりで入っている単発です。』




秋元、沙耶。



その情報は直ぐに、もしかしたらに繋がった。




もしかしたら、『彼女』かもしれない。




調べさせてみれば、父親は他界していて、入院中の母親と高校生の弟の三人家族。



さぁに限りなく近いのはわかっていても、確信が持てなかった。



だから。



あの時の約束のように、硝子の靴の片方を履いてもらおうと思っていた。



そしたら、わかる筈だから。





なのに。






「簡単に否定しやがって―」





諒は、秘書不在のデスクにちらりと目をやって、苦々しげに呟く。



自分の中で大きかった約束は。



彼女にとってはそうでなかったというのか。




ブラインド越しの日の出が目に染みて、痛い。



できることなら、何処へもいけないように。



何処にもいかないように。



籠の中に閉じ込めておきたいのに。




そんなのは違うと自分の中で制止がかかる。





「どこにやったんだよ…」





どうして、彼女の記憶の中の自分は。




初めて出逢った時のままなんだろう。




大っ嫌いのままなんだろう。






その他の記憶はどこへ行ってしまったんだろう。






あの日の記憶を、彼女はもう持っていないのか。




コンコンとノックの音に続き、物思いに耽っていた諒ははっと我に返った。



返事を待たずに扉が開く。




「おはようございます。秘書がいなくても起きられるようになって感心ですね。」





定時よりやや早めに出社した楓の言葉が、皮肉に聞こえる。



沙耶との接触を持つ際に、楓には付き合ってもらったが。



楓へ心を許したような沙耶の態度は、癪に障った。



つまらない嫉妬も沢山、した。






「あ、そうだ。秋元さん、今日マンションを出るって言ってました。」





「―え?」





楓の挨拶を無視してデスクに向かっていた諒も、思わず顔を上げる。





「どういうことだ?」





問い返せば、楓は驚いたような顔をした。





「ご存知無いんですか?仕事を辞めたのだから当たり前だろうと仰ってましたけど。。」




「行き先は?」





咄嗟に問えば、楓は表情を曇らせる。





「それが…知りません。訊かないことを望んでらしたので。」






「っっ」






諒は慌ててコートだけを引っ掴んで、部屋を出た。






またか。





また、居なくなってしまう。






やるせなさにも似た焦燥感に、ただただ、駆られて。




「なんでまた坂月なんだよ」




車に乗った途端、今まで幾度も感じてきた思いが口を衝いて出る。





「ちくしょ…」





治まらない苛立ちを、ハンドルにぶつけた。




自分はいつも傷つけてばかり。


現実に怪我もさせて。




―あいつが一番大変な時には、いつも楓が隣に居る。




ガキだと言われようが、なんだろうが。




それが一番嫌だった。




反対に自分は、嫌い嫌いと言われ続けて、我慢できずに触れてしまってから。



沙耶は自分と距離を置くようになってしまって。




もう、どうしていいかわからずに、苦しんだ。





「は…これじゃ苛めっ子と変わらないか…」





苦々しげに呟き、急いでハンドルを回した。




外には灰色のアスファルトが、寒々しく広がっている。






「頼むから。まだ、居てくれよ―」






さぁだと確信したのは、最初の出勤日。





自分が疑心暗鬼に駆られるのは毎度の事で。




あの日もやっぱり沙耶の事を信じきれず、自分を狙う何かに怯え、疑った。





そんな諒に対して彼女は言ったのだ。





『……あんた、馬鹿?』





『私は誰にも媚びない。世界中があんたに跪こうとも、私だけは屈しない。だから、あんた以外の人間にだって同じよ。』






―知ってたか。その台詞―





出逢った頃にも言った事。





さぁは、本当に昔から変わってないんだな。



何にも穢されることなく、あのままで居たんだ。



そう、思った。




それなら。




俺はお前を信じるよ。




他の証拠や言葉がなくても、俺にとってはそれだけで、十分だったんだ。





―お前が俺を嫌いでも。




俺はお前が好きなんだよ。



お前が、良いんだよ。



それ以外なんて、あの時からなかったんだよ。



追いかけて。





単純な約束を追いかけてきたんだ。ずっと。




それだけを見てたんだ。




誰かが、そんな約束は成立しないと言ったって。



幼い頃の気の迷いと言ったって。



俺は、あの時の誓いを、忘れたりしない。




どんなに世界が俺に罠を仕掛けても。



周囲の人間が知らないうちに自分に敵対するようになっていっても。



人への疑いが身体に纏わりつくように感じても。




あの約束があったから、ここまで来れたんだ。




真っ暗な闇の中の一筋の光のような。



窓の外から零れて射し込む暖かい木漏れ日のような。




真っ直ぐでブレなくて、そのままで居てくれる。



間違っていることは間違っていると言ってくれる。



裏表のない彼女の存在は、嘘のない世界を教えてくれた。




なのにどうして、嘘を吐く。




今になってどうして。







誰かに助けてもらうという事を、彼女は凄く嫌がったけれど。







―俺だってお前に守られてたんだ。





魑魅魍魎の世界から。





マンションに着くと、フェラーリを放り出してエントランスに向かった。




―間に合ってくれよ。




携帯にかけても、切ってあるらしく通じない。



インターホンを鳴らそうとした矢先。






「あ、石垣様!」





諒の存在に気付いた管理人が、声を掛けてくる。






「ちょうど良かった。最上階に住まわれていた方が出て行かれて―」






言いながら管理人室からいそいそ出てきて、封筒に入った鍵を渡した。





「石垣様がいらっしゃったら点検をお願いするように言付かりました。」




「―点検…?」




眉間に皺を寄せた諒に、管理人が慌てる。




「あ、いやっ、勿論私の仕事なので、私がするって言ったんですけど、それとは別に石垣様とそういう約束をしていたのでと仰られて。出て行く前に私が見た時には綺麗に片付けられていましたし、何しろ住んでいた期間が短いので汚れもなくてですね―」





「わかった。」




長くなりそうな管理人の話を遮って、諒は中へと急いだ。




管理人の話は、沙耶達がもう居ないような口ぶりだった。



嫌な予感を振り払い、不可解な沙耶の言伝に首を捻る。





―そんな約束したか???




三ヶ月前、マンションに対して何か言った覚えは無かった。




―忘れてるだけか…?




エレベーターから降りて、足早に玄関ポーチまで向かい、鍵を取り出す。



逸る思いが、差込口に向かう鍵を震えさせ、邪魔をした。





―落ちつけ。




軽く舌打ちして短く息を吐くと、一度下ろした腕を再び持ち上げた。




今度はきちんと差し込まれ、直ぐに回すと転がるようにして中に入った。





「ちっくしょ…―」





直前まで抱いていた淡い期待は、ものの見事に砕け散った。





部屋は空っぽだった。





いつも。






あと少しで間に合わない。






彼女は行方を暗ましてしまう。





ガン、と壁に八つ当たっても、虚しさが跳ね返ってくる。




―じゃあ、何の点検だよ。





自分が居なくなったことを、諒に伝えてどうするつもりだったのか。




握りつぶしてしまわないようにそっと追いかけていた蝶が、寸での所で身を翻し逃げていくような感覚。





ヒラヒラヒラと高い空に舞う。




残るのは、虚無感。




仕方なく、力ない足取りで、リビングへと向かう。





「―?」





センターテーブルの上に、何かが置いてある。




不思議に思いながら近づくと。






開かれた手帳と、封筒に入った札束が置かれていた。






「!」





沙耶に振り込んだ三か月分の給料がそのままそっくりそこにある。






「くそ…ふざけるなっ」





封筒を鷲掴みにして壁に思い切り叩き付けると、中から飛び出だした壱万円札が宙に散った。






やるせなさが込み上げてきて、既に何度も追った文字を睨みつける。







「思い出したのかよ…?」






心が震えて、声も震える。





繋がりが消えるような気がして、返却を求めなかった黒皮の手帖。





今日の日付に記された一行足らずの走り書き。





これまでと同じ、沙耶の文字で記されていたのは、記憶を踏まえた上での、彼女の決定だった。











【シンデレラは、硝子の靴を、履かない。】






========================




母親の火葬を終えた後。




一人で、小高い山に登った。




大人からすればただの高台。




子供だった諒からしたら山。





その頂上には金木犀が咲いていて、秋の哀愁を漂わせるのに一役買っていた。





『あ。』




先客が居たのに驚いて諒は思わず声を上げる。





『さぁちゃん、こんなところで何やってるの?』





まさか、外で会うなんて思ってもみなかった。



さぁと会えるのはいつも竹林の中でだけだと決め付けていた。



それにしたって、よりによって、どうしてこんな日に―。





『あんたこそ、何してるのよ―』






さぁは今しがた手折ったばかりの金木犀の枝を手にしたまま、諒を見つめた。




諒は片手に百合の花。そしてもう片手にはシンデレラの絵本を抱えていた。





『お母さんが、死んじゃったから、お別れしたんだよ』





精一杯強がって笑ったのに。




一瞬の間の後。





『そうなんだ。じゃ、あんたも泣けば良いよ。』




さぁは諒にそう勧めた。



まるで簡単なことだ、とでも言うように。





―そんなの、できるわけない。




自分は石垣家の跡取りだ。



人前で泣くこと等、許されない。




首を横に大きく振った。





『駄目だよ。僕は男だから。それに泣いたって、何にもならない。何も戻らない。』





そう言って、意志を貫こうともう一度笑う。




さぁはそんな諒から目を逸らして、金木犀に向き直った。






『ここには誰も居ないから、泣いたって誰も見てないよ』





なんだよ。




なんなんだよ、この女。




人の事嫌いって言う癖に。





こないだなんか、再チャレンジして、仲間になって貰う為にやや脅迫めいた勧誘をしたら、馬鹿呼ばわりされて、『あんたなんかに屈しない』とまで言った癖に。





『っくっ』





駄目なんだよ。



弱さなんかつけ込まれるだけなんだよ。



食うか食われるかの世界で、生きていかなくちゃならないのに。




何かを沢山持っているっていうことは。



何かを同じくらい失っているってことなんだ。





心は警告を発しているのに。





身体は震えながらも我慢しようとしているのに。




金木犀の香りが、内奥を揺らして揺さぶって、あっためる。





だから。





『う―…』






百合の花を持ったままの右手で顔を隠して。





母親が亡くなってから初めて、泣いた。





さぁは、そんな諒に背を向けて、ひたすら金木犀の花を散らしていた。




ただ、黙って。






―いつもと…逆だな。




泣きながらそう思った。




傷だらけで泣くさぁのそれと、自分のこれは、全くの別物だということはわかっていたけれど。




さぁはいつも強いから。




自分なんかと違って強いから。




いつも泣き終わればすっきりと笑う。




内に秘めた強さは、密かな憧れを諒に抱かせた。





自分もああなりたい。



そしていつか、自分の手でこの子を守りたい、と。



夕焼けの朱に空が染まる頃。




涙が止まったのを確認すると、諒は気まずそうにさぁを見た。




いつの間にかさぁはしゃがみこんで、金木犀の枝を片手に地面をいじっていた。







『あの…』





なんとか声をかけてみるものの、恥ずかしさもあって何て続けて良いかわからない諒は言葉に詰まってしまう。






『シンデレラ』





『え?』




そんな空気を払拭するかのように、突然さぁが立ち上がった。





『シンデレラ、好きなの?』





そうして、諒が抱えている本に目をやる。





『あ、あぁ―好きって言うか…お母さんのだから。』





男の癖にと馬鹿にされてはたまらないと思って、諒は母の持ち物だということを強調した。






『あんたのお母さんは好きだったんだ、シンデレラ。』





さぁは諒の言葉を継いで、言った。






『わからない…どうだったんだろ。』






首を傾げた諒にさぁは呟く。






『私は嫌だな。シンデレラみたいにお城に行くの。』





『―え?』






俯いて草むらを足でつつくさぁの髪が茜色に染まる。






『それに、硝子の靴を履かないとわからないなんて嫌だな。』






言いながらさぁは靴を片方脱いで見せた。





中から少しの砂が落ちて、風に吹かれる。






『王子様はお姫様の顔、思い出せなかったのかな。』





『あ…、僕もそれ、思った。』





『ほんと?』





『うん』





頷くと、さぁは出逢ってから初めての笑顔を見せた。





ひとしきり笑い終えると、さぁはその場に足を投げ出して座る。





『シンデレラにしか履けない硝子の靴なんか必要だったのかな?』





諒もその隣に腰を下ろした。




『さぁちゃんもそう思う?』




『あんたも?』




頷くと、さぁは今度は悪戯っぽく笑った。





『あんたも相当ひねくれてるんだね。』





仲間に対するような言い方と笑みで、諒はこの時やっとさぁが心を許してくたような気がして、嬉しくなった。





『だってさ、どうして魔法が解けても硝子の靴は残ったんだろう。』





身を乗り出して諒が言うとさぁも頷く。





『うっかりしてたか…わざとか、よね。』





うーんと、小さな二人は頭を寄り合わせて答えを導き出そうとしたけれど。





『あ、しまった。僕、もう行かなくちゃ…』




きっと今頃大人たちが諒のことを総出で捜しているに違いない。






『これあげる』




『えっ…』





諒は慌てて立ち上がって、百合の花をさぁに残していく。






またね、の約束を落として。






金木犀と百合の香りが交じり合い、二人の間を風が駆け抜けていく。





坂道を駆け下りていく諒の顔は晴れ晴れとしていて、内に秘めていた悲しみは、減りはしないものの、増えることもなかった。








そして、あの日。





漠然とした願望が、決意に変化した日。






いつものように、さぁに会いに行こうと、穴の開いた塀に近づくと。





『…まじ?』





そこには目の細かい網が張ってあった。



恐らく持ち主が気付いて応急処置をとったのだろう。





『―これじゃ、入れない』




諒は高い塀を見上げて、よじ登れないかどうか考えてみる。





『やってみるか。』





幸い人目につかない場所だった為、堂々と登っても、派手にずり落ちても、咎められることはなかった。いやそれ以前に気付かれることが無かった。






『くっそー…』






回数は10を越えた所で数えるのを止めた。




べたつく汗を手の甲で拭って、諒はもう一度トライする。






『やたっ…』






着実にコツを掴んでいた諒は、漸く塀のてっぺんに手を届かせた。





あとは、腕の力で身体を持ち上げられれば良い。





『よっ…と。』





細身の諒は、軽々と塀に跨ると今度は反対側にゆっくりと回って、慎重に下りた。






『あれ、、さぁ、いないのかな…』





枯葉を踏みしめ、きょろきょろと見回してみるが、人影が見当たらない。





『さぁちゃん?さぁちゃん?』







名前を呼んでも反応はなく、諒はその場に立ち尽くす。






『家かな…』






掌がひりひりと痛んだ。




折角大変な思いまでしてここまで来たんだから、会わないで帰るなんて考えは毛頭ない。





『行ってみるか!』






諒は自分に気合を入れて、心臓をドキドキさせながら竹林の中を進んだ。





大人に見つかったらまずい。




けれど、さぁには会いたい。





気は逸るけれど、確実に一歩一歩を進める為、足取りには丁寧さが求められた。




広い竹林は、道もでこぼこしていてうっかりすると足を挫きかねない。




途中途中物音がする度、陰に身を隠す。




勿論竹の裏なんかに隠れても意味はないのだが。




―あれか。





そうやってどんどん奥へと入っていくと、見えてきた、日本家屋らしい漆喰の壁。どうも裏手のようだ。





ちらりとでもいい。



少しだけでいいから、見たい。






祈るような気持ちで、さぁが近くにいることを願い、竹林を出る一歩手前で、様子を窺う為に耳を澄ませる。




と。





『この泥棒女!』







突如、耳をつんざくような金切り声が辺りに響き渡った。





―びびった。





諒は見つからないようしゃがんで、肩を縮込ませる。





『でも…それは、、私のっ』





―さぁだ。





さぁの声に、諒は竹薮からそっと顔を覗かせる。





―!




見ると、中年の女が、ものすごい剣幕でさぁに食って掛かっている所だった。





小さいさぁは必死で首を横に振っている。





『あんたのものの訳ないでしょう!?こんな良い奴。家にあった里奈のを盗ったんだろう!?』





『違っ…』





バチンッと大きな音がして。




思わず諒は目を瞑ってしまう。






『汚い子。あのね、よく聞きなさい。この家にね、あんたのものなんかひとつもないの。まして、新しいものなんか与えるわけがない。うちの子達のお下がりは全部回してあげてるんだから感謝しなさいよ。』





『わっ』




女に突き飛ばされた沙耶は、そのまま勢い良く尻餅を付いてしまうが。






『ちょっと優しくしたらすぐにつけ上がるんだから。図々しい』






女は気にする事無く、ぶつぶつ呟きながら、裏庭から姿を消した。





手には、女の子用のかわいらしい、ぴかぴかの靴をぶら提げて。





今直ぐにでも飛び出したい思いに駆られたが、それよりも前にさぁが動いた。






静かにむくりと起き上がり、パンパン、と洋服から軽く土を払う。





それからゆっくりと諒の居る方に向かって歩き出した。





さぁは裸足で。




真っ白かっただろうスカートは、土に汚れてしまっていた。







『…さぁちゃん』





竹林に足を踏み入れたさぁに、諒が小声で声を掛けると。




死んだようだった彼女の目が驚きで開き、強張った表情が少しだけ柔らぐ。




でもそれはすぐにくしゃくしゃに歪んで。





『…っごめ…』





さぁは竹林の奥へと走り出した。



胸が張り裂けそうになって、諒もその後を追う。




さぁが向かった先は、奥の奥。




誰も来ない場所。



陽の当たる場所よりも、気温が少し低い場所。






『っっ…っくっ…っ―』






そこで、さぁは自分の手の甲を噛んで、声が出ないように大粒の涙を流した。






『―さぁちゃん…』





息を切らしながら、追いついた諒はさぁの名前を呼ぶ。





『僕、わかったよ…』




さぁの持つ、傷の大きさ。



涙の、温度。



『シンデレラの硝子の靴はわざと消えないようになってたんだよ。』





さぁの小さな背中が震えている。



実年齢よりも大人びて見える彼女の背負っているもの。



何かを願う前に諦めてしまって居るような、冷めた感情。



自分から出たものではなく、理不尽さの中から現れ出たもの。



それに巻き込まれ、苦しんで、泣く場所すらない彼女。






『王子様の目の前で、シンデレラが硝子の靴を履くのは―幸せになるのは、きっと、意地悪な継母達への罰でもあったんだ。』




人の幸せを祝福することのできない、私利私欲にまみれた人間への報復。





だから。




だらりと下がった方のさぁの手を、諒は力強く握って引いた。






『やっぱり硝子の靴は必要だったんだ。』





目にいっぱいの涙を溜めて、諒を見上げるさぁの片頬が、赤く腫れて熱を持っている。




それを諒は痛々しげに見つめ。




心に決めた。





『さぁちゃん。僕が君に硝子の靴をあげるから。』





君にしか履けない硝子の靴を。





『だから、絶対に忘れないで。今僕が言ったこと。』






今すぐには助けてあげられないけれど。






自分は幼すぎて無力だけれど。






必ず君を守ってみせる。



必ず。







僕等の硝子の靴は、お互いの持つ記憶。





履くか履かないかは、シンデレラが決める。






僕が迎えに行くその時に。



君がもしも僕のことを忘れていたら。



僕が持つ硝子の靴を、君に見せてあげる。





少しずつでも良い。



僕のことを思い出して。



自分が硝子の靴の片方を持っていることを思い出して。





シンデレラと過ごした時間を、僕は絶対に忘れたりなんかしないよ。



そして君とした約束を必ず果たすよ。





だからどうか、もう片方の硝子の靴を失くさないで。




大切に持っていて。




君がどこで何をしていても。




僕は絶対に見つけ出すから。




そして。




君の前に跪いて、硝子の靴を―。




========================





気がつけば、腕時計の針は正午を差していて、諒は自分が長いことそこにつっ立ったままだった事を知った。







「どうすればよかったんだよ…教えてくれよ…」







返って来ない問いかけは、虚しく部屋に反響する。





時間は経ちすぎてしまったのか。





焦ってはいけないと言い聞かせてきた。




だけど、実際はかなり焦っていた。




やっと目の前に現れたんだ。





こんな幸運、早く掴まないとまた逃げてしまうような気がして。





自分をコントロールしたくてもできない。




抑えようとすれば、傷つけてばかり。






本当、どうしようもない。






でも。





今、自分には守る力が在るのに。





それなのに。





沙耶は諒の世界は嫌だと言う。






お城嫌いのシンデレラは、どうしたら振り向いて笑ってくれたんだろう。








再会からまだ一度も、彼女の笑顔を見ていない。







ふー、と自身を宥めるように息を吐いて、諒は開かれたままでいた手帖を閉じた。







彼女にとって、あの約束はもう、必要ないのだろうか。

 




子供同士の実体のない約束なんだろうか。






他愛ない、ただの―。




諒は浮かんだ考えを振り払うように頭を振った。







「俺は、諦めない。」






例え彼女がもう自分に振り向かなくても。






心が離れてしまっても。






守り貫くと決めた。






せめて。






「お前が奪われたものは、俺が全部奪い返してやる。」






彼女に靴を返すまでは。








========================







場所は会議室。










「………で、満場一致ということでこの方向のまま進めさせていただきます。」









昼過ぎから始まった定期取締役会で、幾つかの決議を終えた所。





諒は用意された分厚い書類に目を通していた。





決議案は今のが最後だったようで、諒は散会しようと姿勢を正す。







「では、以上を持って今回の取締役会は―」






「―ちょっと待ってください。」






言いかけた途端、直ぐ傍から楓が声を上げて立ち上がった。





「?」





―なんだ?






見落とした案があったのかと、諒は再び書類に目を落とす。





が。






「これから、石垣代表取締役社長解任決議に入りたいと思います。」






―は?







見つめた先の文字へ向けた意識が一気に散らばった。






驚きの余り、諒が顔を上げると、楓の挑むような視線とぶつかる。






窓から射し込んでいた夕陽が急速に沈み始め、部屋を薄暗くさせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る