雨に濡れた罠
小雨降る午後―。
でっぷりとした腹を擦りながら、佐伯は目の前に居るスーツ姿の男を見た。
「―それで、上手く行きそうなのか?」
「はい、順調に行っております。」
淡々とした口調で、姿勢を崩すことなく答えた男は、無表情でも笑っているように見える。
佐伯はそんな男の事をいつも薄気味悪く感じていた。
「…なら、いい。まぁ、アレはお前の事を少しも疑ってなんかおらんのだろう。当たり前だが…」
何を考えているのかわからない瞳から目を逸らし、湯呑みに手を伸ばすと、男の苦笑が聞こえる。
「―それは、どうでしょうか。」
「……まさか、感づかれて…」
「いえ、それはありません。今は別の事に気を取られているようですから。」
意外な情報に佐伯は顔を上げた。
「別の事?」
「ええ。珍しいでしょう?何があっても今まで隙がなかったものですから、却って好都合です。」
「父親のことではなく?」
「まさか。」
そんなことはわかっていたが、敢えて訊かずにはいられなかった。
母親の命日に呼んでやっても顔色を変えず、父親の危篤を聞いた時ですら眉一つ動かさなかったあの男が、一体何に気を取られるというのだ。
「まぁ、諒も人の子だってことでしょうか。では、失礼致します。」
言葉を濁した男は、そのまま立ち上がろうとした。
「ああ、楓」
「はい」
慌てて呼べば、穏やかに返事をし、居住まいを正す。
―本当に似てないな。
佐伯は毎度御馴染みの感想が頭に浮かんで、複雑な感情になった。
「百合の花を持っていきなさい。」
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助手席に、香りのきつい百合の花束を置くと、花粉がワイシャツの袖口に着いてしまったことの気付き、坂月は顔を顰めた。
「落ちないんだよな、これ…」
諦めの吐息と共にエンジンをかける。
さっきよりも強さを増した雨粒をワイパーが蹴散らしていく様子を見て、車内が暖まるのを待った。
静けさの中、突然スマホが鳴り出し、ちらりと目をやると。
「あ、駿くん…」
沙耶が入院中に、何度か様子を見にいってあげたことがきっかけで、急速に距離が縮まった。
まだ若い彼の目に、坂月は一体どんな風に映っているのだろう。
時々、心配になる。
頼りがいのある男に移っているとすれば、それは大間違いだからだ。
すっかり懐いてしまった彼を思うと、苦々しさが込み上げてくる。
それを振り払うように一度頭を大きく振ってから、画面をスライドして耳に当てた。
「―はい」
途端に駿の慌てた声が飛び込んでくる。
《あっ!坂月さん!?俺、駿ですけど!!姉ちゃん近くにいますか?!》
「いや、今は…どうかしましたか?」
《俺今病院なんですけど…姉ちゃんと連絡がつかなくて…母さんが危ないって…直ぐに病院に来るように、伝えてください!》
雨音と、百合の香りが、余計に煩わしく感じられた。
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一時間後。
坂月と一緒に病院に駆けつけた沙耶は、病室の前で肩を落とす駿を見つけた。
「お母さんは?!」
問う沙耶に駿はただ首を振る。
「…発作が起きたのと、、なんか、、、どっかが破裂したとかなんとかって…今集中治療室に入って処置してもらってる…」
「そんな―」
当たり前だが母がいつも横たわっているベットは空で、それだけで心細さが襲う。
―駄目だ。
沙耶は自分が脆くなっているのに気付き、気持ちでそれを振り払った。
「駿、大丈夫だよ!ここの先生達腕が良いもん。信じよう?それより、あんた授業中だったでしょう?私の代わりに病院に来てくれてありがとね。後は私がいるから、学校戻りなさい。」
「だって…」
「言ったでしょ?お母さんは大丈夫。何かあったらもう一回呼ぶから。あんたはただでさえ成績悪いんだから、ちゃんと授業出ないと。学校終わる頃また連絡するから。その頃にはきっと落ちついてるよ。」
「…うん…そっか。そうだよね。」
不安げだった駿の顔が、姉の言葉に安堵する。
「―さすが、お姉さん、ですね。。」
駿が僅かに明るさを取り戻して病院を後にするのを見送りつつ、坂月は感心したように、沙耶を振り返った。
「いえ。坂月さんも、ご迷惑お掛けしました。どうぞ、戻ってください。」
だが、沙耶の口調はいつもとは違い、どこか緊張を孕んでいて。
「私は構いませんし、心配なので、せめてお母様の容態が落ち着くまでは一緒に居ますよ。」
坂月が会社に戻った時、沙耶は石垣の取材中の様子を見守って居た所だった。携帯の電源を切っていたため、気付かなかったのだと言った。
その時の沙耶の慌てた様子からは想像もつかないほど、駿の前での沙耶は落ち着き払っていた。
「…いつになるか、わかりませんよ。死んじゃうかもしれないし。」
だから、次に彼女の口から零れた弱気な発言に、坂月は二度驚く。
「え、でも今―」
「駿にそう言って不安を煽った所で何にもならないでしょう。私達に頼る場所はないんです。あの子には一人でもしっかり立てるようになってもらわないと困ります。」
毅然とした振る舞いは、見せ掛けで。
「けど」
組んだ腕も、肩も、よく見たら細かく震えていた。
「母の死に目に会わせなかった事になったら、、、駿は私を恨むんだろうなぁ…」
力なくベンチに座り込んだ沙耶の隣に、坂月も静かに並ぶ。
「―頼れば良いじゃないですか…」
気付けば、口を開いていた。
「―え?」
沙耶の問い返しに、坂月ははっとして、自分の失言に気付く。
「あ、いえ…社長…に相談されてみてはいかがですか?もしかしたらもっと良い治療が受けられるかもしれませんし…」
取り繕うようにして石垣の名前を出せば、沙耶の表情に動揺の色が広がる。
「―最初はあいつにだけは屈したくないって思ってましたけど…今も、特にこのタイミングでは、、絶対に頼りたくないです。」
空気を察した坂月は、そういえば、と思い当たる。
最近の沙耶は、石垣と距離を開けているような気がする。
表面上は以前と同じように接しているように見えるのだが。
「社長と―」
気にしないように努めてはいたが、石垣と沙耶の間には『いつか』のことがある。
それがはっきりしたのかどうか。
実際はずっとひっかかっていた。
弱っている彼女にこのタイミングで訊ねることが、正解なのかどうかは判りかねるけれど。
既に言葉を発している最中から後悔の味が込み上げるが、もう戻れない。
「何かあったんですか?」
さっきは感じなかったアルコールの香りが鼻を刺激した。
ふらりと持ち上がった沙耶の視線が、一度坂月と絡んで、直ぐに下げられた。
「何か…かぁ…」
自嘲するかのように落ちる乾いた笑いが、何故か苦しい。
「誰にも頼ってないって…ずっと言いきかせてきたつもりだったのに…、気付いちゃったんですよ、私。自分が思い出に頼り切っていた事に…」
「思い出?」
小さく繰り返せば、沙耶は頷いて、どこか遠くを見るような目つきになった。
「父が亡くなって家を追い出されるまで、母も駿も私も、、祖母や叔母からすっごく嫌われてて…小さい頃から毎日苛め抜かれてて、、そんな時に、偶然出逢った男の子が居たんです。」
核心を衝いた事実に坂月の顔がどうしても強張る。
「ほとんど記憶には残ってないし、顔も名前も覚えてないですけど―、すっごい優しくて。その子になら、泣き言を言ってしまっても、自分が許せました。接した期間はすごく短くて、直ぐにいなくなっちゃったんですけど…約束してくれて。」
そこまで言うと、沙耶の顔が少しだけ綻んだ。
「迎えに来てくれるって。傍に居て守ってくれるって。」
おかしいでしょう?と沙耶は坂月を振り返った。
「小さい頃の結婚の約束とかなんてよくある話だし、私だって信じてた訳じゃない。けど、、辛い時に出てきて、思いの外支えてくれてたんです。あれがあったから頑張れた。」
夕方には少し早い病院内は、夜とは違う静けさに包まれて居て、沙耶の声がはっきりと坂月の耳に届く。
「少し前に坂月さんにもお話しした事がありましたけど…やっぱり石垣は、確実にその頃の私のことを知っています。たまに面影が重なる時もあって…」
「確認、したんですか?」
坂月の問いに、沙耶はふるふると首を横に振った。
「いえ。しようと思えばできたのかもしれないですけど、、、」
「―どうして…?」
「必要がありません。」
やけにきっぱりと言い切る沙耶に、坂月は目を見張る。
「もうあの頃の自分じゃないってことです。何より私は石垣のことが嫌いです。金持ちも嫌いです。今更のこのこと出て行って、どうこうしようなんて考えはこれっぽっちもありません。例えあいつは…そうじゃないとしても。」
「それは、、時間が経ちすぎたから、ということですか?」
坂月の言葉に、沙耶は人差し指で宙に線を引いた。
「違います。あいつと私の間には、大きな線がある。昔は知らなかっただけで最初からあった線が。それは絶対に交わらない。」
「―そうだとしても再会位はしても良いんじゃないですか?貴女は、社長に惹かれてはいないんですか?本当にその時の子だったとしても少しもそういう感情はないんですか?」
次の問いの答えは、暫く間が空く。
「もしも社長が貴女を捜していたのだとしたら?」
沈黙を割く為か、もしくは恐れているかのように、坂月が畳み掛ける。
「ずっと捜していてやっと見つけて、全ての不可解なことが、それに繋がっているとしたら―」
「―坂月さん?」
怪訝な顔をして、自分を見返す沙耶の声に、坂月ははっとした。
「あ…いや…」
「もう。どうして、坂月さんがそんな必死になるんですか。」
「そ、そうですよね…」
困ったように笑う沙耶に、坂月も調子を合わせる。
「―そうですよ。ほんっと御人好しなんだから。」
そこまで言って、沙耶はまた視線を前に戻した。
「―もし…そうだとしても…坂月さんが言うことが正しくて、あいつが私にそうだって言ってきたとしても…少しはぐらついちゃうかもしれないけど…シラを切り通します。」
そして、力なく笑う。
「それが、あいつにとったって、一番良い。身分違いがどれだけ辛い事なのかを、私は身をもって知ってる。」
初恋は叶わないってよく言うでしょう?と付け足すかのように呟いた。
「あの記憶だけで、ここまでやってこれた。もう十分守ってもらえたから。更新したら、それがなくなっちゃう。」
坂月が口を開こうとした瞬間。
「秋元さん!」
看護師が走って来るのが見えた。
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「じゃ、私はこれで。」
「色々、ありがとうございました。」
「坂月さん、サンキューでした!」
姉弟揃ってお辞儀した所で、沙耶が駿の頭を叩く。
「こら、駿!もっとちゃんとしなさいよ!」
「いってぇな!ちゃんとしてるだろうが!」
「まぁまぁ…では、何かあったらいつでも呼んでください。」
病院で姉弟喧嘩はまずい。
早くも、周囲の人間の視線を感知した坂月は、とりあえず怒る姉を宥めてから、小さく頭を下げ、早々に踵を返した。
「本当に、助かりました!」
背中に元気な声が掛かって、坂月は背を向けたまま、片手を上げて見せた。
いつもなら、振り返ってきちんと挨拶したいのだが、今は無理だ。
自分の信念に反するし、マナー違反だとは思うが、これ以上何事もなかったかのような表情を続けるのが難しかった。
『よ、よかった……』
二時間ほど前の沙耶の様子が、エレベーターに乗り込んだ坂月の脳裏に浮かぶ。
予断は許されないものの、容態は安定したと伝えられた沙耶は、その場にへたりこんだ。
ちょうど駿の学校が終わる頃で、そのまま沙耶は駿に連絡を入れ、泊まり込みに必要な荷物を持ってくるよう頼んだ。
峠は越したとはいえ、ICUから出ることは許されない母に、万が一のことがあった場合、直ぐに連絡が取れるよう、家族が院内で待機しなければならないからだ。
一人でも大丈夫なのだが、駿は病院から学校に通うからと沙耶を説得。二人で家族室に泊まることになって今に至る。
無論、坂月は家に帰る。
と、言いたいところだが、途中でほっぽりだしてきてしまった仕事が沢山ある。
「―会社に戻るか。」
病院の外に出ると、夜になった今でも、まだ雨が降っていることに気付く。
天気予報では、夕方には止むことになっていたのに。
スマホを取り出して確認すると、石垣からの着信が恐ろしい程にずらりと並んでいた。
取材中だった為に、石垣に告げることなく沙耶を連れ出してしまったからだ。
恐らく沙耶はそれ所じゃなかったろうから、連絡は未だしていないのかもしれない。
「…面倒くさ…」
沙耶と並んで話した後。の、今。
坂月の中に渦巻く感情が、石垣に向かって苦々しげにぶつけられ。
再びスマホの電源を落とした。
百合の花はもうないのに、車内には香りだけがまだ残っている。
病院に送る際、沙耶は助手席に座ると直ぐにそれに気付いた。
『坂月さんって…たまに百合の香りがしますね』
まるで気が動転している自分を宥めるかのように静かに口にする。
彼女は何の気もなしに言ったのだろうが、坂月にしてみれば、思ってもみなかったことだった。
今日はまだしも、『たまに』ということは、他の日にも気付いていたということだからだ。
―だから、百合の花は好きじゃないんだ。
香りがきつく残って、わかってしまうから。
まるで自分の気持ちみたいに。
そこにはないのに、あるかのような。
坂月は、ハンドルにもたれかかり、雨に打たれるままの景色を見つめた。
「…諒の奴、何やってんだよ……」
沙耶の気持ちはちっとも、諒へ向いていないじゃないか。
思い出してもらう、とか、好きになってもらう、とかよりも、以前の問題だ。
最初から線を引かれている。
「早くしろよ…俺にだって限界がある―」
一人きりで呟いた言葉は自分にかける呪文のようで。
以前から、じわじわと。
しかし確実に内側にあった感情が這い上がってくるのを、坂月は感じた。
「遅かったじゃねぇか。」
会社に戻ると、予想通り、と言うべきか。
石垣が腕組みをして、坂月の帰りを待っていた。
まぁ、帰るには早い時間帯とも言える。
実際、まだ残業している社員はかなり居る。
だから、社長が残っていたって別に何らおかしい点はない。
「―わざわざ、ここで待ってたんですか。」
坂月のデスクに座って待っているという事を除いては。
「何で連絡しなかった。」
「秋元さんのお母様の容態が急変したので、バタバタしてまして。報告が遅れて申し訳ありませんでした。」
冷ややかな石垣の声に対して、坂月は穏やかに答えることが出来るよう、精一杯努める。
のっぴきならない事情に、さすがに石垣の表情が崩れた。
「それで?大丈夫なのか?」
この氷のような男が、他者に対してこのような態度を取ることも珍しい。
大丈夫、という言葉がこんなに似合わない人間もそうはいない。
「とりあえず峠は越えたそうですが、ICUからは出られないので、今日は秋元さんも弟さんも泊り込みになりました。」
坂月の説明に、石垣はそうか、とだけ呟くと考えこむような仕草をして、視線を床に落とした。
納得のいく理由だったせいか、それ以上の追求を石垣はせず。
やがて立ち上がると。
「サンキュ。」
まるで自分の仕事を肩代わりしてもらったかのような態度で、礼なんていうから面食らった。
いや、ムカついた。
「―雨、降ってますよ。」
部屋を出て行こうとする石垣の背に、坂月は声を掛ける。
これから石垣がどこへ行こうとしているのかは、一目瞭然だった。
「知ってる。窓から見えた。」
石垣の言葉に、ふと視線を外へと向ければ、硝子に付いた滴が、照明に反射し、きらりと輝きながら流れていく。
次に目を戻した時には、既に遅く。
石垣は姿を消していた。
「俺…今、何を―」
後に残された坂月は、自分が言い掛けた言葉に。
石垣に投げつけたかった言葉に、気付き戸惑う。
「やばいな―」
服に付いてしまった香りに、咽(むせ)そうになった。
危うく滑り落ちてしまいそうだった感情をやっとのことで飲み込みながら、坂月は悟る。
限界はそう遠くないことを。
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沙耶が携帯の着信に気付いたのは、その日、夜遅くなってからだった。
「あ、やばい。そういえば、ちゃんと連絡しなかった…坂月さん伝えてくれたかな…」
駿に連絡した際は、病院の公衆電話を使った。
電源を落としてあった携帯は、鞄に容れっぱなしになっていた。
午後8時を過ぎた今、病院からコンビニに行く途中でそのことを思い出し、電源を入れてみたら石垣の着信がいくつかあって、さてどうしたものか、と道の途中で立ち止まる。
最後の着信は夕方で、ちょうどドタバタしていた頃だったからなぁ、と画面を見ながら思い返した。
―坂月さん、なんか、ちょっと変だったような…
坂月にとって、沙耶と石垣の関係は興味深いのかもしれないが、どうでも良いと言えば、どうでもよさそうな内容だと思う。
「あいつに、連絡取りにくいなぁ…」
画面にぽたり、止まない雨の粒が落ちた。
石垣のことを、避けてしまっている自分がいる。
いつも通り、普段通り、を、装おうとすればする程、固い動きになってしまう。
二粒目、三粒目が立て続けに画面にまた落ちた所で、手にしていた携帯が震えた。
「え、お、わっ。」
表示されたのは、まさに渦中の相手で、沙耶は慌てふためく。
「は、はい!秋元ですっ」
開口一番とりあえず元気に出ると、沈黙が漂う。
「え、え、えっと、今日は途中抜け出してすみませんでした!母の具合が悪くなったので連絡も遅くなりました!」
沈黙が怖い沙耶は、マシンガンのように立て続けに謝った。
「―道端で近所迷惑だっつーの」
「はい道端…へっ!?」
やっと返って来た応答は、やたら近くで聞こえて。
「うわ!!」
振り向けば、傘を差した石垣が、数歩先にぼやっと突っ立っていた。
ドクドク、と血が逆流するかのような錯覚に陥る。
―どうして。
「…な、なんで、ここに?」
「病院に行ったら、お前の弟に会って、訊いたらコンビニいったって言うから追って来た。」
病院から歩いていける距離にあるコンビニといったらひとつしかない。
立ち止まっていた沙耶に追いつくのは簡単だったかもしれない。
だが、問題はそこじゃない。
「わ、、わざわざ連絡ないことを怒りにここまで来たんですか?」
どうして、石垣がこの場に居るのかが問題なのだ。
「そうじゃない。どうしてるか、心配になって。」
しっとりと降る雨は、既に冬の冷たさを含んでいて、石垣と沙耶の間に落ちる。
少し空いた距離は、一向に縮まらない。
お互い離れたまま、相手の目を見つめた。
それぞれ、相手の真意を掴むために、必死に目を凝らす。
「な、に、それ…あ、しゃ、社長に関係ないじゃないですか。」
あんた、と言いそうになった言葉をぐっと飲み込み、目を逸らした。
逸らした先には、濡れたアスファルトが映る。
石垣に対する言葉遣いは、ここの所ずっと改めている。
ついついくだけてしまう自分の話し方は封印して、徹底的に距離を置こうと思った。
―なのに、なんで。
「嫌えば良いって言ったじゃないですか!?なのに、なんで心配とかするんですか?!別に構わないでしょ?放っておいてください!」
「俺がお前を嫌うとは言ってない。」
「!」
沙耶の中の何かが、音をたててぷっつりと切れる。
―構わないで。
「―わ、私はあんたが嫌いなの!!!大っ嫌いなの!!!!だから、あんたは苛めぬけば良いのよ!!!!私がどうなろうと知ったこっちゃないって態度でずっといてよ!!!!!!」
―私に、構わないで。
寒さのせいで口からは言葉と共に白い息も零れた。
―どこから。
沙耶の目の奥には外気とは反して、熱いものが込み上げて来る。
一体どこから歯車が狂ったのか。
最初はどうしたって自分が自分を守る為の手段だと思っていた。
石垣と闘っているんだと思っていた。
だったら有能な秘書になって仕事もボディガードもちゃんとやって、ある程度の成功をしてやろうと。
そうして相手を見返してやろうと考えていた。
なのに。
もしかしたら、自分は逆に守られているのではと。
犬に追い立てられるようにして安全な柵の中に入る羊のように。
知らず知らずの間に守ってもらっている立場になっているんじゃないかという思いが自分の中に湧いてくる。
それがもしも坂月の言うような『昔の出来事』から繋がっているものなのだとしたら。
それは沙耶の望む形じゃない。
「私は自分の足で立ちたいの!今までそうやって立ってきたの!!誰かに助けてもらってなんかきてないの!!!」
石垣と一緒に居ると、そして坂月と一緒に居ると、自分の足元がぐらつく。
誰かに頼って生きていけるならとっくにしていた。
けれど、誰も頼らせてくれない所か、奪い取られるばかりの生活だった。
なのに今更。
どうやって頼れと言うんだろう。
そんな心は、ずっと昔に置いて来た。
あの竹林に。
「お前が嫌いなのは、本当に俺なの?それとも、こっちの世界の人間か?」
暗闇と、沈黙の後に、静かに近づいた声は、沙耶に判断を任せた。
「何言って…」
何を訊かれたのかがわからず、沙耶は石垣を見上げた。
その視線は真っ直ぐ沙耶に注がれている。
「もしも俺が金持ちじゃなかったら?社長じゃなかったら?」
「どういう…」
「もしもあのパーティーで会っていなかったら。もしも再会した俺がフツウの人間だったらどうだったんだよ?」
再会、の言葉に沙耶は反応した。
「何の事言ってるんだか、全然わかんな…」
「ふざけんなよ」
「っ」
首を振って返答を拒む沙耶を、石垣がきつく抱き締める。
二人の持つ傘が、水溜りに落ちた。
「放してっ、くるし―」
沙耶が手で強く押し返してみても、石垣の身体はびくともしない。
「お前がされてきたことを、俺に重ねるな。」
低く囁かれた言葉は、沙耶の心を刺し通す。
金持ちなんか、大っ嫌い。
金に屈するのは、あいつらに屈するのと同じ。
金持ちは皆一緒。
だから、石垣も大っ嫌い。
坂月さんも同じ。
他人は信用ならない。
だって、誰も守ってくれなかった。
世界の不平等の天秤は、弱者に対して傾く。
「―同じじゃない…」
鼻を掠めるアールグレイの香りに、沙耶の心はざわざわと五月蝿い。
「あんただって、何も変わんない―」
言いながら、力の限り石垣を押し退けた。
「権力を振りかざす人間なんて皆同じよ!あんたが私に何を望んでいるのかは知らないけど―」
「俺はっ…」
睨みつけた先の石垣が、何かを言いかけるが。
「私はあんたの傍に居るのが苦痛で仕方ないの。」
続けられた沙耶の言葉に、虚を衝かれたようになった。
―三ヶ月か。
言ってしまった後の沙耶の頭は、思いの外すっきりとしていた。
「もう、辞める。」
降り続ける雨に、身体中湿って。
寒さで声は震えて。
けれどしっかりとした足取りで石垣に背を向ける。
落ちてしまった傘もきちんと拾って。
「―逃げんのか。」
間隔を空けて掛けられた声に、沙耶は濡れた靴先を見つめた。
「逃げてなんか、ない。」
しとしとしとしと。
雨の音が響く。
歩き始めた沙耶の耳に、聞こえる音は、もうなかった。
濡れた道路を傘も差さずに歩きながら。
辞める宣言をしたことで空になったココロと、さっきのやりとりでざわざわするココロとが半分半分になって沙耶の想いをぐちゃぐちゃにする。
当たり前だが、コンビニに行く気は失せてしまっていた。
『お前が嫌いなのは、本当に俺なの?それとも、こっちの世界の人間か?』
「…どっちもだっつーの…」
石垣に訊ねられた問いを、頭の中で反芻して、一人言ちた。
三ヶ月頑張った。
最初は無理だと思ったのに、ここまで頑張ったんだから良しとしたい。
「っ…くしゅん…えぃ…」
変なくしゃみが出て、自分が身体を冷やしすぎたことに気付いた。
「帰ろ…」
石垣だってとっくに帰っているだろう。
沙耶は方向転換する。
―でも、やっぱり遠回りしていこう。
万が一居た場合を考えると、さっきと同じ道は避けて通りたかった。
そこへ―。
ポケットに入れたままだった携帯が震えた。
「誰…」
一瞬嫌な予感がしたが、出てみると予感は外れた。
《―もしもし?夜分にすみません。今大丈夫ですか?あれ…外ですか?》
「さか、、つきさん…」
穏やかで優しい声に、沙耶は何故か安心を見出してしまう。
《?秋元さん???》
沙耶の異変に、坂月は気付く。
《―もしかして…泣いてるんですか?》
それには答えずに、沙耶は確かめるように尋ねる。
「私、、言いましたよね?限界だったら辞めますって…」
《―え?》
目の前の道路を、車が何台が通り過ぎて行く。
「もう…私…限界です。」
ぽつ、落とした言葉に。
《?!どうして…秋元さん今何処にいるんですか?迎えに行きます!》
電話の向こうで、坂月の声が慌てている。
「え…いや、あの。」
断ろうとしどろもどろになる沙耶に、坂月が焦(じれ)ったそうに小さく叫ぶ。
《早く答えて!》
「病院に一番近い、、、コンビニ、、、から帰る所の、、道路沿いを歩いています。」
《わかりました。とにかく今から私が行きますから。そこから動かないで待っていてください。絶対ですよ。話は、それからです。》
位置を確認した坂月に電話を切られ、沙耶は途方に暮れたようにガードレールに寄りかかった。
大分小降りになった雨が、それでも沙耶の体温を奪っていく。
「寒いし…」
言いながら、ふと気付く。
この所、雨が多いな、と。
いや、この所、じゃない。
石垣と出逢ってから、沙耶は何度かずぶ濡れになっている。
―いつも、そうだ。
昔から、沙耶の心が掻き乱される日は。
大体雨の日が多い。
それも。
冷たい雨が。
白のベンツが沙耶の前に現れたのは、それから数十分が経過してからのことだった。
沙耶を見つけ、慌てて車から降りてきた坂月は、彼女がすっかり雨に濡れてしまっていることに気付く。
「とりあえず乗ってください。暖房がかかってるので少しは違うと思います。そのまま、病院まで送りますから。」
沙耶は言われるままに、助手席に座る。
坂月の言う通り、車内に強めに掛かっている暖房のおかげで、濡れてしまっているにしても、幾分温かく。
「何があったんですか。」
坂月の心遣いも、じんわりと染みる。
「実は―」
沙耶が先程の出来事をかいつまんで説明している間、坂月は一度も遮ることなく、聴いてくれていた。
病院へ到着した後も、駐車場で暫く沙耶の話に耳を傾ける。
「だから…折角雇っていただきましたけど、、ボディガードとしてももう無理です。犯人探しも半ばで申し訳ないんですけど…」
「―わかりました。」
項垂れる沙耶に、坂月ははっきりと頷いた。
「残念ですが、仕方がありません。。最初から秋元さん嫌がってましたし…むしろそこまで無理をさせてしまって、申し訳ありません。」
百合の花の香りが、まだ車内に漂っている。
頭を下げる坂月に、鼻の奥がツンとしてきて、泣きそうになっている自分に気付く。
「坂月さんは悪くないですから…私の、我が儘ですよね…。でもちゃんと、、次の人が見つかるまでは働きますから。引継ぎもちゃんとやるし…」
坂月は顔を上げて、首を横に振った。
「いえ、もう良いですよ。そこまで貴女に甘える訳にはいきません。最初から無理を承知でお願いしてたんですから、そんなに気に病まないで下さい。そうそう、ほら!」
言いながら、傍にあった紙袋を沙耶に手渡す。
「―え、なんですか?これ。。。」
「開けてみてください。」
促されて、沙耶が紙袋の中に入っていた梱包された箱を開けると、中から父の形見のワンピースが出てきた。
勿論、ほつれや破れもわからない位、元通りになって。
「―これ…」
驚いて呟くと、坂月が優しく笑う。
「実はこれが出来たと連絡が入ったので、遅くなっても今日中に届けたくて。お母様の事もあって、元気がないだろうと思ったので電話したんです。時間がかかってしまって、申し訳ありませんでした。」
「さかつきさ…」
「うわ、なんで泣くんですか!?笑ってくれるかと思ったのに…」
「うー…」
冷たい。
外の空気は冷たいのに。
どうしてこの人はこんなに優しいんだろう。
我慢するのをやめた途端、涙がはらはらと落ちていく。
坂月が差し出してくれたハンカチを受け取って、更に気持ちに拍車がかかった。
「坂月さんは良い人過ぎます~…」
ふにゃふにゃと泣く沙耶に、坂月は困ったような顔をする。
「私は…そんな良い人じゃないですよ。」
「いえ!ちょっと抜けてる所もありますけど!超がつく御人好しです!だから、あんな石垣ともやってけるんですよ!」
涙で顔を濡らしながら、沙耶は力説した。
「―本当に、違うんです。」
坂月の頭の中には警告音が響いていた。
このままじゃ、まずい、と。
「なんか、坂月さんの前だと私もリラックスして話が出来るんです。っていうか、思い返すといつも迷惑ばっかりかけて泣き顔ばっかり見せてる気がします…」
沙耶の無邪気な発言に、坂月の顔は苦痛で歪む。
「違う…」
限界は、とうの昔に越えていた。
ただ、杭を打ち込んで止めてただけで。
そこにないのにあるかのように。
いや、実際あるのにないかのように振舞っていただけ。
幾度も隙間から零れ落ちてしまっていた。
あんなに気をつけていたけれど。
「…坂月さん???」
坂月の異変に気付いた沙耶が、彼の顔を覗き込む。
涙もぴたりと止んだ。
「どうした…「私は良い人間でも、御人好しでもないんです。」」
―触れたい、と願うけれど。
―衝動で動ける程、自分は器用じゃない。
坂月は沙耶に伸ばしかけた手を、強く握り締めた。
「秋元さん、、以前―言いましたよね?石垣に対する情報が不足し過ぎている、と。」
沙耶は頷く。
その記憶は、大いに残っている。
お陰で沙耶は色々面倒な目にあった。
「それに対して、私は悪気があるわけじゃない、と答えました。まして天然でもない。要するにあれは―意図的でした。」
「―?」
坂月の言わんとすることが掴めずに、沙耶は首を傾げる。
「石垣は、硝子の靴を、貴女に履かせていっていた筈です。ひとつ、ひとつ。」
ドクンドクンと沙耶の心臓が大きく鳴り出す。
坂月は一体何を言おうとしているのか。
硝子の靴は、約束に欠かせないキーワードだった。
それを何故坂月が知っているのか、益々頭の中は混乱していく。
「それに対して、私は逆の方法を取っていた。間違ってもこっちを選んだりしないように。言うなれば、靴を―隠していました。貴女の記憶が諒だけを思い出せれば良いとそう望んで。」
「意味がよく―」
「私が気付いた時には遅かった。でも知りたかった。貴女が本当にあの時のあの女の子なのかどうか―だからつい弟さんに尋ねてしまったんです。昔呼ばれていた名前を―」
坂月と視線はずっと絡んでいるのに、気持ちが見えない、通じない。
「あの、意味がわかりません…」
沙耶の声が震えているのを感じ、坂月ははっと我に返る。
続いて自身を落ち着ける為、ゆっくりと息を吐いた。
「これはきっと私だけが知ってる事実ですが…」
沈黙の後、坂月は呟くように話し出した。
言ってしまっていいものかどうか、迷う思いすら、もう持ち合わせていなかった。
「硝子の靴は、二つ在るということです。」
「え―?」
時間が止まったような気がした。
「こう考えたことはないですか?」
いや、空気の流れが固まったような。
「あの時貴女が出逢っていた少年は、一人じゃなくて二人だった、と。」
折角温まった身体が、真ん中から冷えていく。
坂月の目が真っ直ぐに沙耶を捕らえる。
切なそうな、どこか痛むような顔で。
それは、いつかの石垣と重なった。
あの頃、石垣にも坂月にも会っていた―?
「嘘…」
沙耶は狼狽える。
「言うつもりは、なかったんですけどね…」
暗い表情のまま、坂月が溜め息を吐いた。
「どうして、今更そんなこと…」
「それは―」
坂月は、さっき諦めた手を、もう一度伸ばした。
「貴女が」
「っ」
今度は迷うことなく、沙耶の手首を掴む。
「諒を選ばなかったから。」
引き寄せた相手のほっそりとした身体に、今まで抑圧していた想いが溢れ出た。
「坂月さ…」
「どうして―諒と一緒になってくれなかったんですか…」
こんなに。
こんなに抑えて我慢してきたのに。
思いのままに抱き締めたら、壊れてしまいそうな沙耶を、坂月は優しく包む。
だが、沙耶からは坂月の表情は見えない。
「本当はずっと言いたかった。諒じゃなく、俺を頼ってくれって。」
「!」
ストレートな告白は。
「貴女がどう思ってるかはわからないけど、少なくとも俺は貴女と同じ側の人間だと思っています。」
沙耶に寄り添うように、紡がれていく。
「俺は諒の味方じゃない。」
雨の音が、遠くで聞こえる。
「もう少ししたら―、俺は諒と敵同士になるでしょう。」
その中で、坂月の声は、はっきりと沙耶に届く。
『私』から『俺』へと、口調を変えた彼の。
「そしたら、俺はもう一度貴女に言います。」
決意表明。
「俺が貴女を守ってみせる。」
沙耶の背中に、遠慮がちに回されていた手に、力が籠もった。
「貴女が言う、線は、俺との間には最初からないから。」
だから。
「俺を選んでって。」
「そんな…」
「答えは、今は訊きません。」
突然の事に思考が全く回らない沙耶に、坂月が優しく言った。
「でも…」
言いかけたと同時に沙耶の携帯が震えて。
「行ってあげてください。きっと、駿くんが心配してるんでしょう。引き止めてすいませんでした。」
解放されたカラダ。
漸く合わせた坂月の表情は、いつもの笑顔になっている。
「行って。」
逡巡する沙耶に、坂月はもう一度促した。
「ありがとうございました…」
渋々ドアを開けた沙耶の背中に、坂月の声が掛かる。
「なかったことにしないで下さいね。」
ヒュッと吹いた風に、髪を弄ばれながら沙耶は振り返った。
「・・・」
数秒、目が合っても、坂月はいつもの表情を崩さない。
だが。
「俺は本気ですから。あの頃も、今も。」
寒暖差故に、身震いした沙耶の耳に届く坂月の声は真剣そのもので。
あの頃の少年と確かに重なるようになってしまった今。
沙耶の心を激しく揺さぶる。
「っ…」
結局何も言うことができずに、沙耶の方から目を逸らしてしまう。
それを隠すように思いっきりドアを閉めたけれど、坂月は気付いているに違いなかった。
それどころか。
「雨にまた濡れてしまうので、入ってください。それを見届けたら帰りますから。」
車の窓を開けて、いつもの調子で沙耶を気遣った。
「―はい…」
一度離れてしまえば、暗い車内は見えない。
夜間受付入り口に足を掛けた所で振り向き、もう見えない相手に頭を下げてから、中に入った。
「―大丈夫ですか?」
中に入った途端、その場にへなへなと座り込んでしまった沙耶に、守衛が声を掛ける。
「ちょっと…腰が抜けちゃって…」
気丈に振舞っていたつもりだが、今日一日、なんだかとても疲れた、と沙耶は思った。
「立てますか?」
「あ、すいません…」
守衛の力を借りながら、とりあえず廊下のベンチに座らせてもらう。
「雨、そんなにひどいんですか?」
湿った洋服に気付いたのか、守衛が気遣うように訊ねた。
「雨…」
暗かった外に比べ、明るい蛍光灯が照らす病院は眩しく感じる。
沙耶の思考が一瞬彷徨い。
「ひどかったです…」
漸く質問に答える。
患者さんですか、の問いには首を振って、家族室に向かうことを伝えた。
すると、守衛は姿を消し、少しの間、一人になった。
―こんなことってあるのかな。
石垣と坂月の顔、そしてはっきりとは思い出せないけど少年のはにかんだような笑顔の輪郭。
それが沙耶の頭の中に浮かぶ。
―硝子の靴って、なんだったっけ。
自分の脳のいい加減さに、苛々した。
―どうしてこんなに思い出せないんだろう。
眉間に皺を寄せて考え込んでいると。
「姉ちゃん!」
守衛が気を利かせて呼んでくれたのか、駿が慌てた様子で走ってきた。
「駿…」
「どうしたんだよ、遅いから俺何度も携帯にかけたんだぜ?全然でないから心配しちゃったよ。げ、濡れてんじゃん。」
高校生と言えど、心細かったのだろう。
駿は冴えない表情をしていた。
「ごめん。なんかちょっと、転んじゃって…」
「マジかよ?こんな時に勘弁してくれよなぁ。気をつけろよ。ほら」
駿は、沙耶の下手な嘘を素直に信じ、支えるように肩を貸す。
「あ、ありがと。」
頭の中を整理している途中だった沙耶は、正直な所、弟を気遣う余裕などなかった。
ひっかかることは沢山あり過ぎて、思い出を頼るしかない。
けれど、もう一つ。
もうひとつだけ、心に重く圧し掛かっていることがある。
『俺は諒の味方じゃない。』
『もう少ししたら―、俺は諒と敵同士になるでしょう。』
坂月のあの言葉は何だったのか。
三ヶ月前の石垣の言葉がフラッシュバックする。
『なぁ、なんで急に俺の秘書やる気になったの?』
『あんなに嫌がってたのに。もしかして、誰かに買収された?』
『―坂月?』
「まさか…」
「―姉ちゃん?」
廊下の途中で、急に立ち止まった沙耶に、駿が訝しげな顔をする。
坂月はどんな意図があって、沙耶にあんなことを言ったのか。
「ごめん、なんでもない。。。」
「なんだよぉ、やめてくれよ、そういうの。よくわかんねぇけどビビる。」
駿はがっくりと脱力して、また歩き始めた。
沙耶もそれに倣う。
渦巻くのは、振り払いたい思考。
ぐちゃぐちゃでこんがらがって、解こうとすればするほど絡みついてくる糸なのに。
その中で何故か、妙にはっきりと浮き上がってくる、いつかの忠告。
『君のボスは、諒だからね。その他の人間を余り信用しない方がいい。』
『たとえ、どんなに近しい人間でもね。』
―いやいや、もう関係ないから!
沙耶は実際に首を強く振って、考えることを止めた。
止みそうで止まない雨は、まだ降る。
影でひっそりと用意周到に張り巡らされていた、罠。
予想外の雨に打たれたせいで、水を含んでぽたりと落ちた。
それは静かに土に浸(し)みて―。
やがて毒を孕(はら)む。
敵も味方も、
全てを巻き込んで。
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