茜色の後の雨と、霞む空



チチチ、と小鳥が囀(さえず)る朝。




「おはようございます、秋元様」




毎日少しのズレもなく、全く同じ時刻に。




「おはようございます、中村さん。」




中村が玄関で沙耶を出迎える。





「そして、お邪魔します!」



「よろしくお願い致します。」




沙耶は慣れた足取りで屋敷の中へと入り、中村は一礼して道を譲る。





「あ、中村さん、いつもの貸してもらえますか?」



「ご用意しております、どうぞ。」



「ありがとう!」




この会話も、ここ一ヶ月、同じ。




沙耶は差し出されたブツを受け取ると、一段抜かしで階段を上る。



そして大股で石垣の眠る部屋の前まで行き、扉の隙間からそっと様子を伺った。




相変わらず、あの日―石垣の母の命日―以外は寝起きの良かった試しがない。



今だって爆睡している背中が見える。




カーテンが陽の光を隠してしまっている為に部屋の中は薄暗い。



紅茶の香りのする中、沙耶は抜き足差し足で、主のベッドの傍らへと近づいた。




そして、片手に例の物。



もう片手では携帯を操作する。



いつもの定位置に物を構え、沙耶が携帯のボタンを押し終わると―



~♪



どこからともなく、いや、石垣の眠る枕元から、スマホが軽快なメロディを奏で始めた。




その瞬間。




「…うるせぇ…」




いつもの様に目を瞑りながら顔を顰めた石垣が呟き、スマホに手を伸ばす。




―来る!



沙耶はこの瞬間、にやりといつも笑ってしまう。



ヒュッ


カン!


ゴン!



「うっ!!!」




「あははっ、、、おはようございます、社長!」





堪えきれずに沙耶は笑い声を上げた。





寝起きの悪い石垣の為に沙耶が編み出した方法。



一、フライパンを構えたら、石垣のスマホを鳴らす。


二、石垣が寝ぼけながら思い切りスマホを投げ飛ばす。


三、構えたフライパンにぶつかったスマホが跳ね返って石垣の体を直撃する。




以上である。



打ち所は毎回微妙にズレるが、頭か顔か肩か腕か。



まぁ、そこら辺である。




今朝は頬辺りだったらしく、痛みで目を覚ました本人は手でそこを抑えて恨めしそうに沙耶を見た。





「もっと良い起こし方できねぇのかよ?」



「今のが最善でございます。さぁ、早くご支度を!」





にっこりと笑って慣れてきた敬語を使ってやるのも中々面白い。



因みにこの厭味な感じは坂月の伝授による。





「どこか、最善なんだよ!」



「経費削減なので!環境に優しいです。」




なんて言ったってフライパンに跳ね返ったスマホは70パーセントの確率で大破せずに済むのだ。



会社用の送迎用ジャガーに石垣と乗り込んだ沙耶は、発車と同時に黒革の手帖を捲り、栞の挟んである部分に目を留める。





「本日の予定です。朝10時より上層部を集めての会議が行われます。レジュメはこちらにあります。」




ぴらりとファイルから取り出し、石垣に手渡す。




「予定時間は12時迄となっていますが、後は賛同が得られるかどうかなので、もう少し短くなるかとは思います。13時30分からは、鳥島建設の設楽さんが進行状況を報告しに本社にいらっしゃいます。15時から金融誌の取材が入っておりまして、14時40分から撮影機材の設置を第二会議室で行うそうなので一応知っておいて下さい。…ええと、それから決裁して頂く書類が山ほどありますので、合間を見計らって目を通して頂けると助かります。19時からは予定しておりました講演会に挨拶に顔を出すことになっています。以上です。」





「あ、どこかに、そうだな―取材から講演会までの間にちょっと時間が空くだろ。そこにカフェ部門の視察を入れてくれ。」





石垣の注文に沙耶はうーん、と手帖を見ながら悩む。





「そうですね、場所にもよりますけど、、でも、全部は無理です。どれかに絞らないと…行けても2店が最高じゃないですか。」





着任早々、雨の中を走り回った苦い思い出が沙耶の胸の内に甦る。





「わかった。じゃ、一番近いコクスィネルコリーヌの他に2店回る。」




「えっ!だから!今言ったでしょ!?3店は無理だって!取材だってかなり時間がかかるんだから18時まで食い込むかもしれないし!」




「無理じゃない。入れろ。それがお前の仕事だ。」




「ばっかじゃないの。」




「それはお前だ。」





賑やかな車内で、運転手は沙耶の仕事っぷりに密かに舌を巻いていた。



初日とは別人である。



それ程、この一ヶ月の沙耶の成長は著しかった。



「おはようございます、社長、秋元さん。」




会社に到着し、最上階に行くと坂月が笑顔で出迎えた。


坂月のフロアは一階下だが、石垣を起こす沙耶に代わって毎朝彼は先に出社し、空気の入れ替えや清掃のチェック等を行ってくれているのだ。



本当だったらクリーンスタッフによって全て行われているのだから、チェックなんて必要ないのだが。




―偏屈な上司を持つと部下は大変ね。




社長室に入っていった石垣の背中に、沙耶はこっそりと溜め息を吐く。




出社すれば、今度はまず朝の珈琲を石垣に淹れることになっていた。



間違えてならないのは珈琲の豆の種類で。



インスタントなど以ての外。


定期的に煎り立てを仕入れ、その都度ミルで挽く。



更に一日に同じ種類の珈琲を二度、なんて出そうものなら、石垣は飲まない。



朝は酸味が強く苦味の弱い豆。



夜になるに連れ、今度は苦味が強く酸味の弱い豆へ。


という具合に、変化を持たせて淹れなければならないのだ。



一度、酸味と苦味を逆にして出してしまった際の石垣の態度と言ったらひどかった。




そのせいで、紅茶も珈琲も種類が豊富に取り揃えてある給湯室。


なんなら、ここだけでも店が開けそうだ。



左腕にカップの載った盆を持ち、右手の中指の間接で。



コンコンコン



最初の頃怒られたノックの間隔は一定に。



そうすればとりあえずの返事らしき―うんだか、すんだか、おう、だか、そんな感じの―ものが中から聞こえるようになった。




「失礼します」




扉を開けると、石垣はいつも難しい顔をして、机に向かっている。


積み上げられた書類、中央にPC、脇には万年筆。


トントントンと右手中指で机を叩くのは、どうしようか思案している時の癖らしい。




沙耶はそんな石垣を余所に、デスクの上の空いている定位置に、ソーサーを置き、カップを置く。




「ん」




それを見ることもせずに、石垣は頷くと、手を伸ばしてカップを口に持っていく。




定位置だからできるわけで。


少しズラしておいたら、石垣は空を掴むんだろうな、と沙耶は毎日思いながら、実践できずにいる。




「失礼しました」




空になった盆を片手に、沙耶は一応お辞儀をして部屋を出て行く。



それが終われば、石垣に指示された資料の印刷を、10時から行われる会議に間に合わせなければならない。




「秋元さん、大分慣れましたね。」




出た所で、坂月が感慨深げに言うので、沙耶はそうですか?と訊き返す。




「そうですよ、なんか、馴染んでますし。」




「うーん…自分が何の為にここにいるのか、わからなくなってきたこの頃です。」




最初の頃はあれだけつっかかってきた石垣も、露骨な嫌がらせはほとんどしなくなってきたし、坂月の言う任務に関係しそうなことも、影を潜めていた。




沙耶は働くことが嫌いではない。むしろ好きな方だ。


秘書、という仕事も始めは全くわからなかったが、やりがいを見出すまでにそう時間はかからなかった。




だからこそ。



どうして自分が、罰というよりは、むしろ快適といっていい環境で、優遇されながらこうして働いているのか。



そしてこれはいつまで続くのか。



近頃、わからなくなってきてしまう。





「物事は複雑に絡み合っています。短期間で解けるものではないでしょう。…そうですね、、せめて半年。半年は、かかると思っていて下さい。」





坂月の言葉で、はっと我に返った沙耶は、はい、とだけ返事をして、印刷室へと向かった。




―貯金が出来るのは半年、か。うん、十分だ。




急に飛び出してきた制限時間を知った沙耶は、なんとなくほっとしたような、不安なような、そんな気持ちに駆られた。




セッティングを済ませ、会議が始まる。


沙耶は会議室の外で待とうと考えていたのだが、電話が掛かってくるかもしれない、という石垣の指示の下、一人寂しく秘書室のデスクに向かっていた。





―一体誰からの電話かしら。




不思議に思いながら、沙耶は既に暗記した業者のリストや、重要な取引先の顔写真のファイルを眺める。



先程自分のオフィスに戻っていった坂月が、沙耶の代わりに行ってくれていた電話の取次ぎを受け持つ迄に2週間とかからなかった。



―記憶力には自信があるんだけどなぁ。



石垣が名前を言わなかったことに、ひっかかりを感じる。




「あ、しまった。講演会の資料をまとめておかないと。あっ、その前に取材か…」




空いた時間を有効活用しようと、立ち上がった瞬間。



ツーツーツー



内線が鳴った。





「はい!秋元です。」





《受付石田です。嘉納様がいらっしゃっております。社長室の方へ通すよう指示を託っておりますので、対応の方お願い致します。》



―嘉納??




沙耶の頭の中が真っ白になる。




《…?大丈夫ですか?》



「へ!?あ、はい!」




心配そうな受付に、沙耶はかろうじて返事をして、とりあえず受話器を置いた。





石垣は電話が掛かってくるかもと言っていたのではなかったか。




「なんで来客?!」




沙耶は今しがた置いた受話器を直ぐ様取り上げ、耳に当てる。




《はい、井上―》




「坂月さん!?嘉納って男が今会社に来てるそうだけど何か聞いてますかっ!?」





間髪容れずに叫んだ沙耶。




一瞬の沈黙。




―しまった。




坂月も会議中なことを失念していた沙耶は唇を噛む。



《秋元さんですか?申し訳ありません、井上です。ご存知かとは思いますが、坂月専務は只今会議中でして…嘉納といいますと―??孝一様が?》




井上は坂月の秘書で、あちこちを勝手に飛び回る彼に手を焼いている。


そのせいか、中々一緒に行動している場所を見ることはない。




「こちらこそ、取り乱してしまい、申し訳ありませんでした。。仰る通り、嘉納孝一様だと思いますが…社長は会議中ですし…」




言いながら壁に掛かる時計に目をやる。



会議が始まってまだ一時間も経っていない。




《嘉納様の事は私も聞いておりません。しかし、いらっしゃってしまったものは仕方ありません。お通しして、秋元さん、暫くお相手していて下さい。》




「えっ、あっ……はい…」




《よろしくお願い致します》




静かになった部屋にカチャン、と空しく響く受話器の音。




―そうですよね。



沙耶は項垂れた。



まさか、一人きりの時に、あの失礼な男と顔を合わすことになろうとは。




「えっ、えとっ…出迎えか―」




慌て過ぎて蹴躓きそうになりながら、沙耶はエレベーターホールまで走る。




ちょうど、到着を知らせるエレベーターのランプが光って、扉が開く寸前に沙耶は待ち姿勢をかろうじて取っており。





「お、ぴったりだね。」




中から降りてきた柔らかく微笑む長身の男に、目を瞬かせる。




―どんな醜い顔の男かと思ったら。




色素が薄く、長めの髪。



茶色くて大きな瞳はさも優しそうで。



甘いマスク。




さぞかし世の中の女達からもてはやされているに違いない。




同じモデルのような顔立ちでも、石垣の目は挑戦的で、威圧感があり、切れ長。



どちらかと言えば、坂月の印象に近いものを感じる。




「先日は結構な挨拶をどうもありがとう。今日は挨拶はなしなのかな?」




完全な厭味を言われている筈なのに、厭味に感じない風貌。




「はっ!」




口を開けたまま、固まっていた沙耶は我に返る。




―いかんいかん!見惚れている場合じゃなかった!




「せ、先日は知らなかったとは言え、大変失礼致しました。初めまして、秘書の秋元と申します。本日も下まで出迎えに行かず、重ねてお詫び申し上げます!」



がばりと頭を下げると、そこにくすくすと笑い声が降りかかる。



「そんな堅苦しい挨拶しなくていいし、迎えに、なんて気遣わなくていいから。俺こそ、新米の秘書さん相手に悪戯が過ぎたしね。でもこれで正体がわかって安心したでしょう?」




―な、なんて良い人なんだ…



構えていた分、予想外の嘉納の物腰の柔らかさに、沙耶は自分が恥ずかしくなった。


「諒は会議中でしょう?少し待たせてもらってもいいかな。」



「あ、し、失礼しました。今ご案内致します!」




金持ちイコール悪だという方程式を念頭に置いている沙耶は、初めて会う部類に入るだろうこの男に出鼻を挫かれた思いだった。



攻撃されれば直ぐに反撃できる構えを取っていたのに、相手から醸し出されるラブアンドピースに戦意消失だ。



そのせいか調子が狂う。



「こちらで少々お待ち下さい。直ぐにお飲み物をお持ち致します。何かご希望はございますか?」




認証ゲートを通り、応接セットに案内し訊ねれば。




「あぁ、ありがとう。じゃお言葉に甘えて―珈琲をホットでいただけるかな。」




石垣の口から聞くことは一生ないのではないかという感謝のお言葉を頂戴する。




「はい、かしこまりました。」




笑顔で応じ、給湯室へ向かった沙耶。




―金持ちに、あんな人がいるもんだろうか。




独りになった途端、案の定疑心暗鬼に駆られる。




―ていうか、あの人本当にあの電話の男?!




悶々としながら、コーヒーメーカーに挽いてあった粉をセットする。




―なんか引っかかるなぁ。




『諒は会議中でしょう?』




沙耶の頭の中にはさっきの嘉納の言葉が繰り返されていた。



―そうだと知っていたなら、どうしてこの時間にわざわざ来たんだろう。



待つとわかっていながら。



「お待たせしました。」




ソファで待つ嘉納の姿勢は正しく、相変わらず穏やかな空気を纏っている。



―胡散臭いかなぁ。



沙耶は腑に落ちないような、落ち着かないような気持ちになりつつ、ローテーブルの上に、カップとソーサーを置いた。




「ありがとう。」




そんな沙耶ににこりと微笑みかける、王子のような男、嘉納。




「直ぐに温めたミルクとお砂糖お持ちしますね。」



「あ、いや、いいよ。どちらも要らない。これは―グァテマラ、だね」




首を振って、嘉納は湯気の立つ珈琲を一口啜ると、満足気に頷いた。




「わかるものなんですか?」




言い当てられた銘柄に驚くと、嘉納はうーん、と困ったような顔をする。




「分かる、と言えるほどのものじゃないけど…前に働いていた店で珈琲を淹れたことがあるから。俺はどちらかと言えば、紅茶の方が得意だったけど。」




沙耶は今度は違う意味で驚いた。




「お店で働いていたことがあるんですか?」



御曹司だと言うのに。



況(ま)して、今や嘉納コンツェルンの頂点に立つ人間だと言うのに、だ。




「…おかしい?」




一瞬寂しげに呟く嘉納に、沙耶は言葉に詰まる。




「あっ、、、いえ、、別におかしくは…」




「いや、いいんだ。おかしいと思うのが普通だよ。」




焦ってフォローしようとする沙耶を、嘉納は優しく制した。





「ま、それはいいとして、パーティーで諒にあれだけのことをやっていながら、どうして君は秘書なんかやってるの?」




―げ。



いつ切り替わったのか、と思う程、予想だにしていなかった振りに、沙耶は先程から二の句を継げないで、ただ目を瞬かせる。




心臓がドキリ、と鳴ったのは言うまでもない。




―この人、あそこに居たんだ。。そりゃそうよね、仲良いんだもんね。。




「いや、質問が違うかな。どうして諒は君に秘書をやってもらうことにしたんだろうね?」



内情を知っているらしい嘉納が、方向を転換してくれたおかげで、幾らか答え易くなった沙耶は、肩を竦めて見せる。




「―わかりません。仕返しの為、だそうですけど。」



「仕返し?」



「仕返しを考えるために、傍に置いておくって言ってました。」



黙りこんだ嘉納に、沙耶も口を噤む。


改めて考えてみても、おかしな話だと思ったからだ。




「それこそ、おかしい」



やがて、嘉納が首を振って呟いた。




「君は知らないだろうけど、あの一件がもしも世間に公になったとしたら大変な騒ぎになる所だった。それを諒が根回しして口止めさせたんだ。君の顔が割れないようにも配慮しないと、堂々と雇うことなんて出来なかった筈だ。それだけでも相当の金が飛ぶ。」



嘉納の視線が、目の前に置かれたカップから、ゆっくりと離れ、沙耶に注がれる。





「知りもしない人間に、そこまでする程諒は仏じゃない。むしろ逆だ。―君は本当に諒とは初対面なの?」



「ばっ、あんな金持ちの奴と私が接点なんかある訳ないじゃないですか!」



一瞬ばかやろうとここまで出そうになったが、なんとか引っ込めた。



沙耶の脳内には、目つきの悪いミニマム石垣が浮かんでいる。




―あんな胸糞悪い奴に会ってれば、嫌でも記憶に残ってるでしょうよ!




幸い気付かれなかったようで、嘉納は手を組んで、思案顔をしている。




「諒に訊いても教えてくれないだろうな。」




若干面白がっているように聞こえる言い方で、嘉納の視線はさらに天井へと延びていく。




「ま、その答えはお楽しみにとっておくとして。今日は君に忠告しに来たんだ。」



「―忠告?」




世間話の延長のような間延びした空気。


珈琲の香りが暖かい木漏れ日によく似合う。




沙耶は特に構えもせずに、反射的に訊き返していた。





「君のボスは、諒だからね。その他の人間を余り信用しない方がいい。」




「え?」




その場とその声に不釣合いな、穏やかじゃない内容に沙耶は思わず視線を上げた。





「たとえ、どんなに近しい人間でもね。」





気付けば、珈琲から湯気が消えていた。




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pm21:12




「つーかーれーたー…」




一ヶ月経ってもまだ慣れない我が家の玄関に、沙耶は倒れこむようにして帰宅した。



パンプスであちこち歩き回った脚はパンパンに浮腫んでいる。



黒のピカピカのフローリングに、確実に10歳は老けた自分が映る。





「姉ちゃんおかえりー!飯食った?」




待ってましたとばかりに廊下の先にあるドアの向こうから飛び出してきたのは駿だ。





「…まだなのー…」





「聞いて驚け!今日は炒飯にわかめスープ付き!」




エプロンを着け、手にしたお玉をびしっと天井に向けて決めポーズをする弟の姿に、沙耶は涙が出そうになる。




「冷凍で良いので餃子も付けて下さいっ」



「仕方ねぇなぁ!まぁ手洗ってこいや!」



「らじゃ!」




このマンションに越してきてから、沙耶の仕事は本格化し、定時に帰ることはまずなかった。



そのせいか、駿が先に帰宅した時は、下手なりに食事を準備してくれるようになった。



ほぼインスタントに頼っているのだが、そこらへんは文句は言わない。



あるだけ、ありがたいというものだ。




メゾネットな上に、ロフトもあるこのマンションは、当たり前だが沙耶たちには広すぎる。




家電も家具も備え付けで、全体的にモダンな雰囲気である。



お洒落なマガジンラックなんかもあるのだが、何せ、飾るものがない。



仕方ないので、とりあえず料理本と駿の漫画雑誌を並べてあるが、イマイチ空間に溶け込んでいない。




来た当初は、今時のテレビの薄さと大きさにも驚いたものだ。



アパートではテレビなんて無かったし、本家に居た頃はブラウン管のものを使用していたが、地デジ化と同時に見れなくなり、そのままだった。





「えぇー、アウトかよぉ!」




チンしてもらった餃子を口に頬張りながら、沙耶は大画面で野球観戦に白熱する駿を見つめる。




テレビがバスルームにもあったのを思い出して、眩暈を覚えた。




「なんて無駄だらけの家なの…」




ドラマに出てくるかのような洒落た部屋だが、今までとの余りのギャップに自分の定位置を掴むことができない。



あの不釣合いなマガジンラックと漫画のように、自分がこの家に馴染むことは一生ないのかもしれないとふと沙耶は思う。




何でも揃っているこの家は、何故か物足りなさを感じさせるのだ。




「…そういやさぁ…」




CMになった途端に、こちらを振り返った駿の箸が、餃子に突き刺さる。




「駿、行儀悪いよ。…何?」




軽く窘めると、駿がじっと沙耶の顔を見つめてくるので、自然と眉間に皺が寄った。




「姉ちゃんてさ、友達とかからなんて呼ばれてんの?」



「―はぁ??」




すっとぼけた質問に、構えてしまった分、沙耶はがくりとずっこけた。




「何を言い出すのかと思えば、何それ。」



「良いから。なんて呼ばれてる?」




駿が急かすように言うので、仕方なく記憶を辿る。




「最近は友達とも会ってないからなぁ…。高校時代は、、沙耶とか、さぁや、とか、あっきーとか、、、かなぁ。あと、沙耶ちゃんとか。」




「小さい頃も?」




「へぇ?小さい頃???うーん…やっぱり沙耶ちゃんとか、沙耶とか、さっちゃん、とか…あと…」




そこまで言った所で、言葉に詰まった。




「あと??」




正直余り言いたくはなかったが、仕方なく口を開く。



「…これはあんまり呼ばれたことないけど…さぁちゃんって、呼ぶ子も居たな。」





正確に言えばあんまり、どころじゃなく、そう呼んだのは、記憶に寄ると一人だけだったけれど。





「ふーん、なんだ、面白く無いじゃんね。」




「はぁ??何よ、人が折角答えたのに、その反応?」




駿が一瞬にしてつまらなそうな顔になり、何事もなかったかのように箸を動かすので、沙耶も膨れ面になった。




「いや…なんか、引越しの時に坂月さんが来た時あったじゃん?その時に訊かれたから。」




「―坂月さん?」




駿は既にCMが終わった画面に向きを変えており、沙耶の目には、ここ最近急に広くなった背中だけが映る。




「俺も姉ちゃんが昔なんて呼ばれてたかなんて覚えてないから、沙耶ちゃんとかじゃないですかねぇって適当に答えて、なんでですかって訊いたら、『面白いかと思って』って。だから、すっげぇ変なあだ名だったのかと思ったのに全然フツーじゃんね。」



これには沙耶も首を傾げた。




「坂月さん、なんでそんな変なこと訊いたんだろ…?」



ただの興味本位だろうか。余程引越しが暇だったのだろうか。




「知らねぇけどさぁ。。。姉ちゃんとあの人って最近知り合ったの?」




関心なさげに相槌を適当に打つ駿。




「最近も最近、超最近よ。一ヶ月前まで交わることのなかった赤の他人よ。」




恐らく、臨時のバイトの代替で行くことがなければ、一生縁の無かった部類の人間達だ。




「…だよなぁ。俺はてっきり、もっと昔っから知ってるのかと思ったぜ。」



「―それ、どういう―」



「お!いいねぇ!ナイスピッチング!」



ぽろり、駿の口からころがり落ちた言葉に、直ぐに問い返したにも関わらず、沙耶の声は届かなかったらしい。




「・・・」




沙耶は渋い顔をして駿の背中を睨んでから、汁を啜った。




突然の来客の言葉が、脳裏を掠めていったからだ。





―『君は本当に諒とは初対面なの?』




―『その他の人間を余り信用しない方がいい。』




―『たとえ、どんなに近しい人間でもね。』




あれは一体なんだったのか。



本当ならどういうことなのか、ちゃんと説明して欲しかったのだが、本人にその意思はないらしかったし、予定を繰り上げて終わった会議の為、石垣が戻って来てしまったのだ。




当たり前だが、ちゃんと石垣にも用があったようで、二人で社長室に籠もって昼には帰って行った。




沙耶の記憶には、石垣も坂月も居ないのに。



自分の知らない所で、何かが起きているのかもしれないと漠然と不安になった。




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髪を切られて泣いたあの日。



初めて、出逢った日。




栗色の髪の男の子に見つかって、沙耶は気まずい思いをした。



恐らく強張った表情をしていたことだろう。



笑うこそすれ、労わるような声をかけてくれるような親切な子供は、沙耶の周りにはあの時存在しなかった。




だから、余計に怖かった。




どうしていいかわからず、しゃがんだまま、彼を見上げる沙耶の目つきは険しかったと思う。




けれど彼は、そんな沙耶の態度をさして気にする風もなく、むしろ安心させるかのように優しく微笑みながら言ったのだ。




『ここには誰も居ないから、泣いても誰も見ていないよ』と。




魔法のようなその言葉に、沙耶は堰を切ったように泣きじゃくった。



小さく丸めた背中には、温かい手があやすように置かれて、人の気配が嫌だった筈なのに、安心できた。



小学校に入るか入らないかくらいの頃の話だ。



弟や親戚の子の手前強がっていても、沙耶だって、本当は心細かったのだ。




断片的にしか記憶は残っていないが、それから何回か、その男の子は竹林にやってきた。




元々元気がない時、人目に付きたくない時だけ行っていた沙耶の秘密の場所。




竹林の端まで行くと、古くて大きな樹が植わっており、洞(うろ)ができていた。



そこに身を寄せると、小さな身体はいとも簡単にすっぽりと隠れた。



二度目に彼に会ったのは、そこだった。



祖母の財布から金が無くなったことを、他の子の居る前で沙耶のせいにされた日だった。


沙耶自身は犯人がわかっていたし、今考えてみれば祖母もわかっていたに違いなかった。


実の娘の子のせいにするわけにはいかなかったのか、それともただ単に沙耶が嫌いだったのか。



理由は何にせよ、祖母に散々な罵声を浴びせられて、泣きはしないまでも、心中には嵐が吹き荒れていた。




『うわ。』




膝を抱えて、洞に身を寄せ、木々の隙間から零れる光を見上げていると、どこからともなく声がして、沙耶は口から心臓が飛び出すかと思った。



二度と会う事はないと勝手に決め付けていたからだ。




『なんでそんな所に座ってるの?』




驚きの声を上げた男の子も勿論目を丸くして沙耶のことを見下ろしている。





『―あんた、ふほうしんにゅうって知ってる?』




苛々が募っていたこともあり、つっけんどんな物言いに男の子は呆れたように笑った。




『別に不法に侵入したわけじゃないよ。道が続いてたんだよ。』





沙耶は疑わしげに彼を見上げたが、後になって、竹林を囲む塀が、老朽化の為に崩れて大きな穴ができており、外と繋がっていたという事実を知った。





『名前、なんて言うの?』




先日は訊かれなかったことを訊ねられ、沙耶は返答に窮する。


果たしてこの男を信用していいのかどうか。


毎日子供同士腹の探りあいをしていた沙耶は、警戒心がかなり強かった。




そこで―。



『…さぁ?』



咄嗟に出たのがこれだった。



あんたなんかに教えないよ、という意地悪のつもりだった。





『……さぁちゃん?』




それを相手が勝手に名前だと勘違いした。



実名にも近いその名前に、沙耶はしまった、と思ったが、相手は嬉しそうにもう一度呼ぶ。




『さぁ、かぁ。さぁちゃんかぁ。』



否定するのも面倒になって、沙耶は渋々頷いた。



だが、相手の名前を訊くことは確かしなかった。


それか、訊いたが忘れてしまったのかもしれない。




そういえば。




大したことではないのだが、名前に関しては、引っかかっている事がひとつだけ、ある。




それは、『さぁちゃん』と呼ばれるようになって、少しした頃のこと。




いつもと同じ場所で、彼に会った。




『そんな所に居たの。捜しちゃったよ。』




何言ってるの、とばかりに沙耶は彼を見つめる。





『あの…さぁ…』





そんな沙耶の呆れた視線に気付かない彼は、少し言い難そうに、恥ずかしそうに、目を泳がせた。





『君の、名前を教えてもらってもいい?』



『―え?』




最初は冗談かと思った。



しかし、彼は本気で忘れてしまっていたらしかった。


呼んで貰っていた名前を、今更変える気にもなれず、沙耶は仕方なく前と同じように名乗った。




『…さぁ。』




だから。



沙耶のことを『さぁちゃん』と呼んだ子は、ひとりだけ。


咄嗟にはぐらかした名前の意味を、知っているのは、沙耶だけなのだ。





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「浮かない顔してますね?どこか具合でも?」




翌朝出社し、沙耶がデスクに両肘を付きながら溜め息を吐いた所、接客用のローテーブルにパソコンを広げていた坂月と目が合ってしまった。




「…いえ別に。ちょっとリアルな昔の夢を見て、寝不足なだけです。」




そうなのだ。




ここ最近古い記憶がちょくちょく沙耶の眠りを妨げて不愉快この上ない。



身体はくたびれ果てているのに、寝ても休んだ気がしない。



偏頭痛持ちの沙耶には辛い悪循環なのだ。




「―昔、ですか。」




「そういえば、坂月さんって下の名前って何て言うんですか?」




「え…」





もう一ヶ月以上経つというのに、沙耶は坂月のフルネームを知らなかった。



役職が高いせいで、誰も坂月のことを下の名前で呼ばないし、唯一上司の石垣は坂月、と呼んでいる。




突然の問いに驚いたのか、無言で見つめ合うこと数秒。




「・・・楓(かえで)、です。」




少しの間の後、坂月が小さく答え、フイとパソコンに視線を逸らした。




「楓、、良い名前ですね!秋生まれですか?」




「―ええ、まぁ。」




上がった沙耶のテンションとは逆に、坂月の返事はそっけない。






「坂―」




いつもと違う坂月の態度を不思議に思い、名前を呼びかけた所で。




ガチャ。




扉の開いた音がして、沙耶は振り返った。




「おい、さっさと支度して、車用意してこい。」




見ると、石垣が外出の準備を整えて部屋から出てきた所だった。




「あ、はいっ!すみませんっ!」





沙耶はデスク上の置時計に目をやって、慌てて席を立つ。




今日は午前中から先月オープンさせた商業施設の視察に同行し、午後から同場所の最上階にあるホールでオープニングセレモニーに出席することになっていた。




といっても、石垣が出席するのは関係者やその家族だけを招待したもので、不特定多数の買い物客等を集めてのセレモニーは、施設外にある広場で別に行われるらしい。




人気キャラクターや、芸能人もお祝いに駆けつける(呼び寄せる)ことになっており、沙耶としてはどちらかといえばお偉いさんばかりのつまらない式よりも、一般向けの方に顔を出したいくらいだ。





「いってらっしゃい。」




コートと鞄をひったくって部屋を出て行く沙耶の後ろ姿に、坂月がにこやかに声を掛ける。





「あとよろしく頼む。」




「わかりました。楽しんできてくださいね。」




「どこをどうやったら楽しくなるのかこっちが訊きたいね。」





石垣は面倒そうな顔を隠すことなく、部屋を出て行く。







ぽつん、とひとり残った部屋は思いの外静かで。





パソコンを畳む音がやけに大きく響く。






「あーあ」






坂月はソファに深く座りこんで天井を見上げた。





一人の時に吐く溜め息の回数が、ここ最近増えた。



自覚症状は、ある。





「偶然、か。」





吐いた溜め息は、自分の中から力を奪って空気に吸い取られてしまうのに。




そんなこと、わかっているのに。





「なんで、見つかっちゃったんだ…」




思わずにはいられない。



考えずにはいられない。




どんなに目を凝らしても、天井に答えなんて書いていないのに。






「どうせなら―」







そして、願う。




どうせなら。



いっそのこと。







「…早く奪ってくれ。」






自分の気持ちの抑えが効かなくなる前に。








連れ去ってくれ。





お願いだから。









彼女が―。





自分に幻滅する前に。




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「こちらが20代女性向けのフロアとなっております。」




各フロアの説明をしてくれる、スーツを着た頭の薄い中年男性の後を、沙耶と石垣は付いていく。



勿論入っている店舗は把握しているし、オープン前にも石垣が何度か足を運んでいるらしいのだが、このように全店舗が開店している様子を見るのは初めてだという。




「―にしたってすごい人…」




買い物客でごった返す中、スーツ姿で歩く三人は完全に浮いている。




オープンしたばかりの大型複合商業施設、『Legame(レガメ)』。



テレビでも注目される程、敷地面積が広く、ショッピングモールのみならず、映画館やカフェ、レストラン、アトラクションも充実。


出店ブランドの中には、日本初上陸のものがいくつもある。



近年、この手の施設は次から次へと出来上がっているものの、生き残り争いは熾烈を窮めている。



実際、土日はやや混雑するが、平日は閑古鳥という店がほとんどではないだろうか。



その点、レガメは平日だというのに、この混み様だ。



まぁ、まだ開店したばかりだから、なんともいえないのだが。





「交通の便が良い、ということと、飽きのこさせない展開が実を結んだのでしょう。一日だけでは回りつくせない広さですけれど、年代別に各フロアを分けてあります。ですから、全て見なくとも、ここっていう所で自分のお気に入りの場所を見つけていただく。年を取るごとに趣向が変化しても、それに順応できる。」





「はぁ…そう、なんですね。。」




沙耶の呟きに対し、自信を持って語る案内の男に、曖昧に相槌を打った。





自分だったら、に置き換えてみると、どうもピンとこない。




所持金がなければ、こんなところに来たってどうしようもないし、ウィンドウショッピングは大の苦手なのだ。




「―そうしましたら、次は3、40代男性をターゲットにしたフロアにご案内致します。」





「…はぁ。」




ちゃきちゃきと歩いていく男の後を、げんなりした顔で付いていこうとする沙耶を、隣に立っていた石垣が横目で見る。





「お前さぁ、顔に出しすぎ。」




「だって、しょうがないじゃない、つまんないんだから!」





囁かれたお咎めに、むっとした沙耶は小声で言い返す。


小さいながらも、勢いで感嘆符も付ける。





「同じ20代の女達は皆目を輝かせてるって言うのに…枯れてんなぁ。」




「皆が皆そうなわけないでしょうよ!一緒にしないで。」




「じゃ、何だったら楽しい訳?」




石垣の問いに即答した。





「そりゃ勿論。安いスーパー!!!!」






―しまった。




熱が入る余り、ボリュームコントロールを間違えた。



「安い、、スーパー??」



大声で叫んだ沙耶の前でピタリと足を止め、振り返る案内の男。




ばーか、と口パクで意地悪く笑う石垣。




「ええ、ございますよ。後ほどご案内致しますから、もうしばらく、お待ちいただけますか。」




真顔で返されて、沙耶は顔から火が出る程恥ずかしかった。



視察を一通り終えた後は、セレモニーの方の準備に取り掛からなければならない。



と言っても、もう沙耶にできることはなく、お昼の心配をする程度なのだが、式の終わった後振舞われるという軽食まで我慢するべきか迷う。



しかも今見てきた限り、レストラン街も全体的に高い。


フードコートに行けば、幾らか安価なものが見つかるかもしれないが、使わなくていいのなら、極力お金は使いたくない。



会社では、近頃弁当持参で食べているのだが、今日は外出になっていた為、荷物になるだろうと持ってこなかった。




「昼、どうする?」





案内の男と話を終えた石垣が、部屋の外で待っていた沙耶に訊ねる。




「どうするって…」




「準備してくれてたらしいんだけど、断ったから」




「へっ!?」




狼狽する沙耶を置いて、石垣はスタスタと先に行ってしまう。




「ちょちょちょちょ、なんで断っちゃったのよーーー!!」




有り得ない、とこぼすと、石垣は露骨に顔を顰めた。




「よく知りもしない人間と堅苦しく飯食って何が良いんだよ。」




「そうはいっても、タダじゃない!仕事でご飯を食べれば良いだけ、なんてめちゃくちゃ良いじゃない!」




「お前は本当にそればっかりだな。別にお前に出させねーから。」




「そういうの嫌なのよ!借りを作った感じがして。」




現に、沙耶はあのフランス料理以来、石垣と食事に行くことはしていない。

石垣自身、多忙の余り、ほとんど食事をしない日も多かった。


秘書としてそこまでも面倒を見なければならないのか、と考えたりもしたが、何しろ石垣のことが嫌いな沙耶は、見ないフリを決め込むことにしていた。



だから。




「…それも仕事の内だ。それなら良いんだろ?」




「うっ…」




これを言われてしまうと、言葉に詰まる。




「母親の具合はどうだ?」




お絞りで丁寧に手を拭った後、更に持参のアルコールティッシュで念入りに仕上げる石垣が、おもむろに尋ねた。



レストラン街の視察、と石垣が名目を付けてくれて、入ったのは鰻屋。


松竹梅とランクがあって、石垣は迷わず一番高いのを注文した。



鰻重なんて、いつ食べたか思い出せない位で、沙耶は高揚する気持ちを抑えるのに必死だった。




「おかげさまで、変わりなく。社長のお父様こそ、大丈夫なんですか?」




病院を追い出されずに済んだ母の入院費も、先日出た初給料で余裕で賄うことができた。


病状は一進一退といった所だが、こないだ見舞いに行った際も、体調は悪化した風ではなかった。


むしろ、忙しくなってから中々顔を出せないでいる沙耶の身体を心配していた。




「相変わらず……意識さえ、戻ればな―。」




父親の業務が一手に圧し掛かって来た石垣自身も、ロクに時間が取れず、病院にいく時間があるのかどうかすら、沙耶も把握していなかった。




「つーか、なんだよ、今更敬語とか。」




向かいに座っている石垣が馬鹿にしたように鼻で笑う。




「業務中は敬語を使うように努めております。」




「さっきの視察は業務じゃなかったのか?」




スーパー発言を思い出させる石垣の言葉に、沙耶はむっとするが。




「あれは…私情を挟みました。」




ショッピングモールなんて、自分には縁の無い話だと感じていたのが、仇となった。



ついつい、石垣にいつもの調子で話しかけてしまった。



「私情ついでに、訊きたい事があるんだけど―」




届いた鰻重に石垣は手をつけないまま。




「時間がないので、食べながらでも良いですか?」




沙耶はといえば、ドキドキしながら蓋に手を掛ける。



お吸い物と湯呑みに入った濃い緑茶が、どうしてこんなに美しく鰻を際立たせるのか。



更に言えば、漆塗りの器がなんと良い味を出していることか。



食の芸術に心震わせながら、半分だけタッパーに容れて駿に持って帰ってやれないかなと考える。




―いよいよ鰻とご対面―




そう思った時。





「お前の家、昔竹林とかあった?」




カパン、という音と一緒に、鰻重の蓋が最初の位置に戻った。




「―え?」




気付けば、訊き返していた。




―今、なんて言った?




聞き間違いじゃなければ、竹林と言っただろうか。




顔を上げれば、石垣は相変わらず、沙耶を見つめていて。





「だから、昔住んでた所の話。近くに竹林とかあったかって訊いてんの。」





沙耶の胸がざわついた。



竹林であった思い出は、他にはない。



ひとつしかない。




それを今、どうしてこの男が知っているのだろう。



栗色の髪。


表情はよく思い出せないけれど、大体いつも笑ってた。



こんな、男じゃ絶対になかった筈だ。



「ありません。」



少し彷徨った記憶を振り払うようにして、きっぱりと否定すると、沙耶は今度こそ重箱の蓋を開ける。




「…そっか。」




それに対し石垣は短く答え、自分も漸く箸を手に取った。



平静を装いながら沙耶は黙々と鰻を口に運ぶが、正直味もよくわからない程動揺していた。




色々なことが、繋がりかけそうな。



そんな気がすると同時に。




自分の中での綺麗な思い出が、新しい未来を乗せることによって、変わってしまうんじゃないかという恐れ。



唯一穢されることのなかった、記憶が。


今まで何度と無く沙耶を支えてきたか。



それが今、一瞬にして崩れかけそうな。



まさか。という声が、さっきから何度も繰り返されている。





「トイレ休憩も兼ねて、少し一人で回ってきても良いですか?」




勢いで何とか食べ終わると、沙耶は石垣に提案を持ちかける。




「ん。安いスーパーでも行って来い。但し始まる前にはホールに戻れよ。」




いつもよりすんなりと快諾した石垣の態度が、沙耶の気持ちを揺らがせる。





「はい、ありがとうございます。」




やっとのことで、返事をすると、沙耶は逃げるように石垣の傍を離れた。





その後ろ姿を見ながら。





「忘れたのか?」




さっきは訊けなかった問いを。



石垣がぽつり呟く。



そうして遠退く沙耶をぼんやりと目で追った後、ポケットで震えるスマホに気付いて耳にあてた。





========================



ピカピカと輝くフロア。


タイムセールの文字が並び、レジには客が長蛇の列を成している。



そんな中。



お肉コーナーの前で、立ち尽くす沙耶。



じとーっとパックに入って並べられた鮮度の良い肉を見つめ。



―竹林。



頭の中だけトリップしていた。




もしかしたら、石垣があの少年だったのでは、という予想と。



絶対に違っていて欲しい、という願い。




どちらも、道を譲らない。



―なんか、駄目だ。安いのかとかも考えられないや。。ちょっとミント系のガムでも買って頭すっきりさせよ…



ふらふらとその場から離れて、お菓子売り場に向かう。




―もし…万が一、あいつがあの子だとしたら、、、




そこまで考えた所で、不審な動きをしている男が目の端に入った。




―いや、絶対あいつじゃない!絶対あいつじゃないから。信じないし!




むしゃくしゃする。


苛々する。




「そこのお兄ちゃん―ちょっと…」



沙耶は、確実にポケットに商品を入れた男の方をポン、と叩く。



「はぁ?!なんだよっ…」



明らかに過剰な反応と共に、沙耶を振り払おうと相手が上げた腕を掴み―





「万引きはっ…犯罪なんだよバカヤロウ!」




バァーン




「ぐっ」




背負い投げをかました。




「ちょっとそこの店員、見てないで店長呼んできな。万引きの現行犯だから。」



そのまま腕を後ろに捻り上げ、身体を床に押さえつけたまま、増えつつある野次馬の中の一人に声を掛ける。



慌ててバックヤードに飛んでいった店員は、直ぐに店長と警備員を連れて戻ってきた。




男を引き渡し、沙耶は拍手喝采の中、スーパーを後にした。



―すっきり、しない。



だが、苛々は募るばかりで、心の中に暗雲が漂う。




「君、困るよ!」




あてもなく歩いていると、ふと怒鳴り声がどこからか聞こえ、思わず立ち止まった。



「すみませんっ、、ですが…どうしても、、、連絡が来て…子供の熱が上がってしまったみたいなんです…帰らせていただけませんか…お願いします!」




見ると、フードコート内の中華料理店で何やら一悶着やっている。



どうやら、女の店員が男の店員に叱られているようだ。



気付いている客も数人おり、ちらちらと視線を送ってはひそひそと話し、見物を決め込んでいた。



「何言ってんの、許せるわけないでしょ。あーあ、だから子持ちは困るんだよなぁ。雇うのにデメリットが多過すぎるよなぁ。」



「すっ、、すみません…っ」



「黙れおっさん」




気付けば、沙耶は一段高くなっているカウンター脇の男を見上げ、声を発していた。




「?誰ですか??あなたに関係ないでしょう!?黙っててくれますか。」




根性が曲がっていそうな丸い中年の男は、興奮して唾を飛ばす。




「だったら聞こえないようにやれば?あんた子供が熱出してるんでしょ?早く帰りなよ。」



「えっ…」




当然、沙耶に帰れと言われた女は戸惑いを隠せない。



「ちょ、あんた何勝手なことやってるんだよっぐっ」



「よく聞きな、おっさん。」



沙耶は一段上がると、男の胸倉を掴み、顔を寄せる。



「人一人居なくなった位で仕事が回んなくなるってことは、それくらいその人が使えるのか、他ができないかのどっちかなんだよ。」



「はっ、なせっ…」



苦しげに顔を歪める男はまだ抵抗を続けている。



「その采配はパートじゃなくて店長の腕にかかってんだよ。ったく、お前みたいな奴が、働く女を駄目にすんだ。あんたもこんな奴に気なんか遣ってないで、とっとと帰りな。子供にとっての母親はあんた一人しかいないんだから。」



何も言い返せない程に締め上げたまま、沙耶は視線だけ女に向けて言う。



「はっ、、はい…」



女がその場を立ち去ると、漸く沙耶は男を解放した。



「げほっけほっ…け、警察!誰か警察呼んでくれ!」



半狂乱になって叫ぶ男を、沙耶は冷めた目をして見つめる。




「何が警察!よ。呼んだらこっちが訴えてやるっつーの。従業員をあんな風に怒鳴ったりして。少しは公衆の迷惑を考えなよ。」




「あんたに関係ないだろう!何様だと思ってるんだ!」




怒りで顔を真っ赤にした男は、被っていた白衣帽を床に叩きつけると、沙耶に飛びかかった。



「望むところよ」




へへ、と笑った沙耶がカモンと手招きした瞬間。




「―そこまで。」



ひょい、と沙耶の身体が脇に避けられ、勢い余った男がダストボックスに派手にぶつかった。


それまで固唾を呑んで見守っていた客達が、ざわつき始める。



「あ、、あれ?」



作っていたゲンコツの標的が無くなって、沙耶は掌をグーパーグーパーしながら首を傾げた。



「…時間なのに戻らないから、何やってるのかと思って捜しに来てみれば…お前って本当に…馬鹿野郎だな…」





呆れた声が上から降ってきて、沙耶は石垣に抱えられていることに気付く。



「げ。あんたっ!!」



今一番会いたくない、いや、見たくない顔ナンバー1の男の登場に、反射的に仰け反った。




「あんた、じゃない。社長、だ。」




じろりと見下ろす石垣の目は真剣だった。




「そして、お前はその秘書だ。時と場所と立場をわきまえろ。今そいつを殴ってたら大問題になる所だった。」




「だって!こいつ従業員を怒鳴ってて、、」




「だってもこうもない。それがルールだ。」




石垣はそう言い終えると、踵を返し、ダストボックス前で蹲っている男に近づく。




「うちのが迷惑かけたね。ただ、従業員の扱い方においては、君の上司に報告しておく。もう少し柔軟性を見せて欲しい。客の面前で恥をさらすようなことはしないでくれよ。」




石垣の顔は知っていたのだろう。


男は無言で頷くと、ぱたりと意識を失った。




「大した怪我じゃないが…救護を頼むか。」




石垣は近くに居た従業員を捕まえて、口早に用件を伝えると。




「急がないと、式典が始まる。」




さすがに項垂れていた沙耶の腕を取って、フードコートを後にした。



沙耶の後姿にはパラパラと、まばらだが拍手が贈られていた。




========================





「ねぇ、痛いって」



沙耶は声を上げるが、掴まれた腕の力は緩まない。



成人した女が、ホールまでの道のりを、行き交う人々に好奇の目でじろじろと見られながら引っ張っていかれる事の恥ずかしさといったら、表現の仕様がない。




「私がっ、悪かったですってば。もう別に歩けるし、大丈夫だから放してって!」




周囲には聞こえない程度の音量で、石垣に何度もお願いしているのだが、さっきから少しも聞く耳を持ってくれない。




「もう大人しくしてるからっ」




エレベーターホールに来てやっと立ち止まった石垣に、そう言った所で、タイミングよくチン、と到着の音が響き、また腕を引っ張られる。




家族連れやカートで混雑して、奥へと詰めていけば、腕を掴まれたまま、自然と横並びになり、仕方なく沙耶は口を噤んだ。



これだけ至近距離だと、ひそひそ訴えても周囲に聞こえてしまうだろうと思ったからだ。




しかし―。



最上階にはホールしかない。


通常の客は、ほとんどそこに向かわない。


特に沙耶たちと乗り合わせた人々の中には、セレモニーの参加者は一人も居ないようで、皆が皆、ラフな出で立ちだった。




予想は的中し、最上階になる前に、あっという間に沙耶たちだけとなった。



これで放してと言えるぞと、沙耶が意気込んだのも束の間。




バン!



という音だけが響き、背中に鈍い痛みを感じるまで、自分に何が起きたのかわからなかった。





「いった…」



「無鉄砲過ぎるんだよ、お前は。」



掴まれたままの左腕は、エレベーターの角の壁に、貼り付けられて。



石垣に目の前から睨まれる格好になっている。




「見つける前に、スーパーに行ったら、万引き犯をOL風の女が吹っ飛ばして捕まえたって聞くし…その後あんな所で一体何をやってるのかと思えば―」




ここで石垣ははぁ、と深い溜め息を吐く。




「いいか、ここは俺の息のかかった場所なんだよ。同時に責任があるんだ。好き勝手にやっていい場所じゃない。」




きっちりとセットされた栗色の髪が、沙耶の視界を過ぎる。




「大体捕まえるなら捕まえるだけでいいだろうが。それをなんで暴力を振るうんだ。さっきの男にしてもそうだ。注意するだけで良かった筈だ。」




―何よ。




沙耶の中で沈静化しつつあった苛々が再び燃え上がり始める。





「幾ら腕っ節があるからって、自分のボスがこれからセレモニーを開く直前にんなことするか?秘書としてどうなんだ?いや人としてどうなんだ?」





―何よ。




くどくどと詰め寄る石垣を前に、沙耶の空いている右手がぎゅっと固く握り締められる。





「そんなんじゃ午後からが思いやられ…「誰のせいだと思ってんだよっ!」」




「ぶっ」





―やってしまった。




そう思うのは、いつだって後なのだ。






========================




「えー、それでは、石垣グループ代表取締役石垣諒様からご挨拶をいただきたいと思います。よろしくお願い致します。」




何とか間に合った式典。



沙耶は席には座らずに、出口付近の壁に寄り添うようにして、立っていた。



無論、席はあったのだが、事情があって早く逃げられる場所が良い。





壇に上がった石垣を見て、少しだけ、会場がざわついた。



それと同時に沙耶の鉄の心も僅かに痛む。





「ねぇ、社長どうしたの?」



「誰にやられたのかしら?」



「午前中視察しているのをお見かけした際にはあんな風にはなっていなかったような…」




ひそひそと飛び交う会話の内容は、どの人も皆一様だった。





「ご紹介に預かりました石垣です―」




明らかに不機嫌。



愛想笑いが逆に怖い。



その左頬に貼られている湿布。




―今度こそ、殺される。



式の内容なんかぶっとんで、沙耶は迫る命の分かれ目に希望が持てずに天を仰ぐ。




―だって…仕方なかった。




そうして心の中だけで、言い訳を紡いでいく。




栗色の髪が。



竹林の思い出が過ぎって。



過剰なストレスを感じて。



苛々が募ったから。




石垣の最後の駄目だしで、それが爆発した。




だから、何もかもあいつのせいなのだ。



沙耶は。



自分は。



悪くない筈だ。





そう、言い聞かせた。









挨拶や祝辞云々が一通り終わり、関係者達が歓談する中。



沙耶だけ、そろりとその場を後にしよう、いや、ずらかろうと動いていた。



お腹は鰻のおかげでいっぱいだったし、タッパーは忘れたし、見つかれば確実に怒られるし、居て良い事は何一つなさそうだ。



不審な動きでそそくさと扉から出て―




「―おい。」



「げ。」



ホール外のフロアの柱に寄りかかって、腕組みをしながらこちらを見ている男、ひとり。




「げ、じゃねぇよ。そんなこったろうと思ってた。」




頬の湿布を厭味ったらしく擦り、石垣は固まる沙耶に近づいてくる。




「誰かさんのおかげで、とんだ恥かいたぜ。」




「あれは、、そのぉ、、正当防衛と言います。」




後退しながら訴えるも。




「何が正当防衛だ。ったく。早く来い。下のセレモニーにも顔出すことになってる。」




「ひっ」




がしり、手首を捕らわれて。



またしてもひきずられる格好になった。




「いいいいいいきますって、逃げませんから!だから、その、この、手を放していただけませんか!?」




「信用できねぇ」




懇願する沙耶を振り返ることすらせずに、石垣は言い捨てて、頬に貼った湿布を剥がした。



レガメは地下一階から四階までの一部分が吹き抜けのように繋がっており、横に長い。



階を繋ぐエスカレーターからは、上から吊ってある大きなオブジェが良く見えるようになっている。



撮影やイベントの為の広いスペースが一階にはあって、ガラス張りの窓からは広大なグリーンが見える。



そんな屋外には、ベンチや休憩する場所が多数設けられていて、都心だというのに、まるで公園に来ているかのような錯覚に陥る。



とにかく緑の多い造りなのだ。



次に行われるこっちのセレモニーは、雨天でなければ屋外決行と予定されており、ご当地キャラとレガメのニューキャラクターが始まる前からふらふらりと歩き回っていた。



そんな訳で、沙耶と石垣が、中央広場と名の付く場所に到着した時点で、既に相当な人数の客達が集まってきていた。




「お前そこで見てろよ。終わったら直ぐに帰るから車呼んどけ。」




直前でぱっと放された手首に、沙耶は無意識に肩に入っていた力を抜く。




「あぁ、逃げれなかった…」



職務中社長を置いて、いや、社長から逃げようとしていた秘書なんて、最早秘書とは呼べないという事を、沙耶は自覚していない。



ただ、逃げたい理由はひとつじゃない。



まず、嫌い。


次に、殴ったから報復がちょっと怖い。


そして。




もしかしたらの思い出が、甦るのが辛い。




式は淡々と進行していき、イベントが始まると、沙耶が知らない芸能人も特設ステージ上に登場する。



観客がわぁ、と声を上げている所を見ると、中々人気があるらしい。



サッカー選手達も参加したりして、小さい子たちも興奮を隠せない様子だ。



石垣はというと、ステージの脇で、関係者と難しい顔をしてなにやら話し込んでいる。



見ている客のことを一応意識しているのか、時折作り笑いをして、私もステージを見てますよアピールをする。




―バレバレだっつーの。




沙耶は、最初は客達に混じって正面から見ていたのだが、今はステージ裏で、自分のボスを観察していた。



いつものごとく、心の中で毒づきながら。




―直ぐ帰るって言ったのに。




ポケットから携帯を取り出し、時間を確認すると、結構良い時間になっていた。



陽も沈みかけている。




―そもそも、最初はこっちに出る予定じゃなかった筈なのに。



沙耶は首を傾げる。



組み込まれてなかった予定が急遽入った。



もとい、沙耶は把握していなかったと言うべきか。



―誰かに頼まれたのかなぁ。




そこまで考えた所で、ふと、嫌な予感が過ぎった。




咄嗟に周囲に目を走らせる。





「!」




ステージの脇、石垣のちょうど真上に不自然に何かが揺れている。




―危ない。




ぐらつくのは複数付けられているうちのひとつのライト。


位置が、少し高いか。


そんなに大きくはないが、落ちれば危険なのは一目瞭然だ。





「危ないっ!!」




偶然だろうか。



走り出しながら、沙耶は思考を巡らせていた。



ステージ上ではアイドル達によるミニコンサートが始まっていて、観客の声援が交じり、数メートル先に居る石垣に沙耶の声は届かない。




突然の顔出し。




このタイミング。



このイベントの進行。



あの位置。




偶然にしては、出来すぎている。





―私のせいだ。






狙われていると知っていたのに、気を緩めすぎた沙耶に非がある。




ヒートアップしている広場では、ぐらつくライトに気付く人は少ない。





そして―。




バーン!



豪快な音と共にステージスコールクラッカーが吐き出されたその時に。





「きゃぁー!!!」





本物の悲鳴も聞こえた。



それは落下したライトに漸く気付いた人の声だったのかもしれない。



兎にも角にも、沙耶は石垣を突き飛ばし―。





―しくった。




ガシャーン!!!




避けるのに、コンマ数秒足りずに。



五キロくらいの塊を、自分の身体に諸に直撃させてしまった。





―つーか、こんなんで狙うとか…




襲う痛みに、沙耶は呆れる。




狙ってるのは、命じゃないんだろうか。




「さぁ!!!」





直撃したのは肩だが、掠った頬から血が出ている。


思いの外強い痛みに沙耶の意識が若干揺らぎかけていたが。




-今、なんて…




呼ばれた名前に、曇っていた視界がやたらはっきりした。




さすがに直ぐに体制をたて直すことができず、倒れこんだ地面には、ライトの硝子の破片と黒い破片が散らばっている。




石垣は構わず沙耶に近づいて、抱き起こそうとした。




「大丈夫か?!」




初めて見る、表情は。



いつかの風景を、否が応でも思い出させる。






『さぁちゃん』




-駄目だ。




栗色の髪の毛。




-駄目だ、思い出しちゃ駄目だ。




優しく労わる、少しだけいつも悲しそうだった目。





「…痛いか…」





沈む陽によって、茜色に染め上げられた後。



ぽつ、ぽつり、と振り出したにわか雨。




掛けられた言葉に。



滲む空を睨んだ。






「…雨だよ、ばーか。こんなん擦り傷にもならないし。」







癪だが、声が掠れる。





「…元気そうで何よりだ。」





誰かが呼んだ、救急車のサイレンの音が、遠くで聞こえた。



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