記憶が引き連れてくる香り

金木犀の香り。



風がそよぐと、やってくる。




なんとなしに初めて歩いた道も。



その香りに励まされて。



いや、誘われるようにして。




目的地まで辿り着いた。





甘い、匂い。





手を伸ばして触れると、小さい橙色の花は愛らしく震えた。




お気に入りの曲を口ずさみながら、沙耶はポキンと、その枝を折る。




同時にどこからか、金木犀のそれとは違う香りが、空気に漂い、沙耶は思わず辺りを見渡した。



すると。



『あ。』



いつも竹林で会う男の子が、驚いた様子で、沙耶を見ていた。




『さぁちゃん、こんなところで何やってるの?』




それになんて答えたか、どうしても思い出せない。



だけど、男の子からした甘い匂いは、記憶の片隅に残っている。



あの場所は、一体どこだったんだろう。




今となってはそれすらも、よく覚えていない。




橙色の花が咲く場所で。



いつもと違う、外の世界で。



あの男の子と、一度だけ、会った。



それは、思ってるよりずっと、沙耶を支えてくれた出来事だったような気がする。




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「なぁ、本当に大丈夫なの?」




不安げに駿がそう言うと同時に、沙耶はカーテンのレースを取り外す。




「大丈夫って言ったでしょ。」




振り返らずに沙耶が答えると、駿は弱ったように頭を掻いた。




「だってさ、今のご時勢、ありえねぇよ。秘書、とか言ってたけど本当は姉ちゃん、やばい仕事に手出してんじゃないの?騙されてるとか。」




「駿が心配になるのは尤もだけど、まぁ信頼できるのよ。色々あって、ね。それに、無一文の私を騙したところで何の得もないじゃない。」





手にしたレースを丁寧に畳むと、開いていたダンボールに入れてガムテープを貼る。




引越し先の事を、駿に伝えたのは昨日。



初の仕事を終えて、石垣を自宅まで送り届け、ロールスロイスを断って家まで歩いて帰った後。




駿が怪しむのも仕方ないとは予想していたが、言葉に出して説明していく内、沙耶自身も首を傾げる始末。




何故なら沙耶たちに宛がわれた家は、一等地にあるマンションの最上階で、勿論駅近。



今の場所とは比べ物にならないほど広い、らしい。



沙耶も実際には見ていないのだが、メゾネットタイプだと聞いている。




秘書とはいえ、こんなに優遇されるものなのか。



「でもさ、そんな金持ちの下で姉ちゃんが働くってどういう風の吹き回し?嫌いなんじゃなかったの?金持ち。」




駿も、自分が手に持っていく荷物を愛用のショルダーバッグに詰めながら、疑心暗鬼に駆られている。




「最初は断ったんだけど…ほぼ強制的に、ね。ま、喧嘩の腕を買われたって所かしら。」




安心させるようにおどけて見せると、駿は納得したように頷いた。




「あー、それはあるね。姉ちゃん味方に付けたら怖いもんないもんな。」




―敵だけどね。




頭の中に石垣の顔が浮かんで、沙耶は内心あかんべをしてやった。



駿に言うつもりはないが、それがなくても、石垣は沙耶を雇うつもりだったらしいということが、沙耶の中でずっと引っかかっている。




沙耶の腕っ節の強さを見る前から、石垣は沙耶と接触を持とうとしていたからだ。



しかもワインをぶっかけた復讐をする為だとすれば、沙耶の待遇を良くしてくれなくてもいいわけで。



それどころか、昨日の夕方の出来事のように、『信じる』なんていう信頼関係等、無いに等しいはずなのに。





―それに。





坂月の言ったように、石垣を狙う人物が特定できて、石垣の気が済んだら、沙耶はきっと解放される。




そしたら、生活は元に戻る筈だ。



未定の将来に不安は募るけれど、別に今に始まったことではない。




―今の内に貯金いっぱいしておこうっと。




なるべく楽観的に捉えようと言い聞かせながら、沙耶は最後のダンボールにテープを貼った。


それから沙耶は、傍に置いてある自分の鞄を手に取り、玄関に向かう。




秘書に週休二日制は存在するのか、と考えていたら、普段、土日は休みでOKだと坂月が教えてくれた。




のだが。





「あとは業者が来るから!よろしくね!」





今週は例外らしい。





「おう。任せとけ。」




駿が頼もしく答え。




「次会うのは、新宅だね。」




と、嬉しそうに笑った。



沙耶は時間を確認しながら、そんな弟に小さく頷く。





「いってきます。」



「いってらっしゃい。」





今朝は外に出ても、ロールスロイスは停まっていない。




―断れて良かった。




沙耶は満足げにそれを確認すると、置いてあった自転車の籠に鞄を入れた。




ペダルを漕げば、風に乗って秋の香りが漂ってくる。




―珍しい夢を見たな。




金木犀の香りに、沙耶は朝方見た夢を思い出していた。




いつも見るのは決まって、男の子との指切りの時と決まっていた。




なのに、自分も忘れていた出来事がまさか出てくるなんて。





―何処だったっけな。なんて話したんだろう。




切り取られた部分は、夢でも出てこなかった。





―ま、いいか、そんなこと。




特に大したことではないか、と、沙耶は首を振って、ペダルを漕ぐ足に力を入れた。








「っはぁっ…はぁっ…遠っ…無駄…」





自転車で石垣邸は無謀だったかと、途中で思い始めてきた沙耶。




それもその筈、敷地面積が広すぎるのだ。





アパートからだって、近くない。




やっとのこと着いたとしても、ゲート1、守衛1をクリアした時点で、ばててしまいそうだ。




確か、もっと先に、大きな門がある筈だ。




まだ屋敷の庭にすら到達していないという事実に、頬がこけてしまいそうになる。





新しいマンションに引っ越せば、今よりずっと近くになるが。




―これじゃ、引っ越して近くなっても変わらないな。




沙耶はそんなことを思いながら、軽い息切れに二十歳越えの体力を呪う。




―最近筋トレしてないもんなぁ。




忙しさに託(かこつ)けて怠っていた。





自転車の後輪が、掃いても落ちてくる枯れ葉を巻き込んでカラカラと鳴った。






「秋元様ですね。はい、身分証の提示と社員証の提示をお願いします。」






ゲート2、守衛2まで辿り着くと、さっきと同じことを言われて、沙耶も首からぶら提げていたパスケースを再び差し出す。





「はい、確かに。お返しします……、あの…自転車…疲れませんか?」




気遣いの言葉も、笑いを堪えているような表情も、さっきと同じ。



恐らくこの邸宅に、チャリで乗り込む人間は沙耶が初めてなのではないか。




「全っっ然!」




完全な強がりでにかっと笑うが、走り出すと同時に、我慢していた酸素を思い切り吐き出す。




息が上がっているのが悔しい。




それがあの守衛にバレるのはもっと嫌だった。





広い庭園を抜けて、昨日も見たロータリーに着くと、沙耶は自転車を隅に停めた。




―迷わず着けて良かった。




沙耶の記憶力は良い方だ。だから、一度通った道はなんとなく覚えている。


だが、石垣邸は桁違いに広すぎるので、正直不安だった。






「おはようございます、秋元様」





携帯を取り出して、時間を確認した所で、中村が中から顔を出して沙耶に一礼した。



昨日とぴったり同刻。




「おはようございます。」




心の中で、遅刻しなかった自分にこっそり安堵しながら、沙耶も挨拶を返す。




「初勤務を終えて、体調はいかがですか?慣れないことばかりでさぞかしお疲れになったでしょう。」



労わりの言葉をかけながら、中村は沙耶を中へと案内する。




「はぁ…まぁ、、、あ、あのっ」




曖昧に返事をし、中村が階段に足を掛けた所で、引き止めた。




「?なんでしょう?」




直ぐに中村が振り返る。




「昨日、行ったから、場所、わかります。もし良かったら私一人で行けますけど…」




「まあ!」




沙耶の申し出に中村が驚いたように両手を口に当てた。




「なんて良い方なのでしょう!ええ!ええ!結構です。よろしくお願い致します!」




「あ、、いえ。気にしないで下さい。」





予想を上回る過剰なリアクションに、沙耶は思わず後ずさりながら、作り笑いをして、階段を上った。




「ご健闘をお祈りしております!何かありましたら、なんなりとお申し付けくださいませ!」




中村のはきはきとした声と、角度しっかりの礼に気圧されつつ、沙耶は石垣の部屋へと向かう。



昨日は緊張しながら歩いた道を、沙耶は少しの余裕を弄びながら行く。




一直線とは言え、遠すぎる。





石垣のベットルームに着くまでに、実に5つもの部屋が、間に挟まれている。





―今日はどんなふうにして起こそうか。




昨日の光景がリプレイされ、沙耶はうーんと頭を捻った。




―ま、考えても仕方ないか。





漸く着いた、大きな扉の前で、沙耶は静かにノアノブを回し、隙間から中の様子を伺う。




と。




「覗いてんじゃねーよ。」



「うわ。」




ドアノブが反対側から引かれ、直ぐに落ちてきた不機嫌そうな声に少しだけ驚いた。




途端にアールグレイの香りが鼻腔を刺激する。




「お、起きてる…」




姿勢がやや前のめりになったまま、目の前の人物を見上げて沙耶は呟いた。





「何物珍しそうに見てんだよ。」





スーツを纏い、前髪だけ垂れている石垣が、眉間に皺を寄せている。





「一人で起きることはないのかと…」




思ったままを口に出せば、石垣は馬鹿にしたように笑った。




「たかが出勤二日で知った風な口を利くなよ。」




「なっ!」




相変わらずカチンとくる物言いに、むっとするが。




「下に行く」




石垣は体勢を崩した沙耶をぐいっと押しやって、スタスタと歩いて行ってしまう。




すれ違い様に、紅茶の香りを残して。


沙耶も慌てて後を追う。




足が長い分、石垣の一歩は大きく、小走りに追いかけるが。





「うわぁぅ」





磨かれた床に足が滑った。




前を歩く石垣の背中にぶつかりそうになって、やばい、と思った瞬間。



ビタンッ!





「・・・った…ぃ」




顔面を床に強打。



がばりと顔を上げ、沙耶はスタスタと歩き続ける石垣の背中を睨みつけた。





「ちょっと!なんで避けたのよ!!!」




そうなのだ。




沙耶が転ぶ直前、石垣はあろうことか、ひょいと身をかわしたのだ。





「自己防衛だよ。お前にぶつかられたら俺のかよわい身体が壊れちまう。」




気遣うことも、ましてや振り返ることもせずに答える石垣。





「っとに…」




―ムカつく。




確実に赤くなっているだろう鼻の頭を押さえつつ、沙耶は悔しさを噛み殺す。





長い階段を下りれば、メイド達が石垣を出迎え、沙耶を置いてどこかへ消えた。




―ちょっと待ってて、とかさ。




「何か一言くらい言えよっ」




雑な扱いに悪態をついて、その背中にあかんべをした。




「…もっと仲良くしてくださいね。」




朝の静けさの中、りんと響く、困ったような、笑いを噛み殺したような、声。




はっとして振り返れば、坂月が予想通りの表情を浮かべながら、正面玄関からホールに入ってきた所だった。




「…!さ、坂月さ…」




べろべろべーと出していた舌を咄嗟にしまうも、沙耶は恥ずかしさで縮こまる。





「おはようございます、秋元さん。風邪ひかなかったですか?」




さして気にした風も無く、坂月はにこにこと沙耶に笑いかける。




「…おかげさまで、大丈夫です。」




小さく頭を下げれば、坂月は良かった、と息を吐いた。




「今日も本来ならお休みなのに、出てきてもらうことになってすみませんでした。引越しもあったのに。」




「あっ、いえ…弟が居ますし、それに業者の方まで手配していただいてますから全然。。。こちらこそ、却ってお手数おかけしました。」




「いやいや、色々無理をお願いしているので、それ位当然のことです。あれ―ちょっと失礼。」





ぺこぺこ交互に頭を下げあった所で、坂月が視線をずらし。




「―え?」




瞬きする沙耶の方へとスッと細長い手を差し出した。





掠めた、耳と髪。





微かに香る、甘い匂いに。






一瞬何かを思い出しそうになったが。





「取れました。」




坂月の声と遠退いた香りに、漂いかけた意識が戻る。




見ると、坂月の指と指の間に、小さな小さな葉っぱが挟まれていた。





「あ、ありがとうございます。自転車漕いでる途中に付いたんですね、きっと。気付きませんでした。」




「いえいえ、中に入り込んでいたので。…それより、本当に自転車で来たんですね。車停めた時にも見ましたけど、一瞬自分の目を疑いました。」



この笑みは、本日三回目。



沙耶は恨みがましい目つきで坂月を見た。




「えっ!?なっ、なんですか??」





当然、坂月の表情には、動揺の色が広がる。




「…そうやって、、守衛1と2にも馬鹿にされました。」



「守衛1と2って…それに別に馬鹿にしたつもりは…」




首と手をぶんぶん振る坂月を前に、沙耶の頬は膨れていく。




「どーせ、チャリで来る人なんか、ここには居ないんでしょうけど、私から言わせてもらえば、この敷地無駄に広すぎます!」





「あ、やっぱり疲れました?」




「!!!つ、疲れてなんか…」





図星を突かれて、今度は沙耶が動揺する。




「会社に行く時に使っているジャガーなら、目立たないんじゃないですか?それに、今日から新居ですし、あのマンションは、ロータリーも広いですよ。どうですか?運転手に送迎を頼んでみては。」




確かに坂月の案は悪くない。



むしろ助かる。




だが。




「い…いいいぃえっ!!チャリで十分です!」




ここで引き下がると、負けな気がする沙耶。




咄嗟に首を横に振った。





「―そうですか??まぁ、いつでもできるので、寒くなったりしてきたら、また考えてみてください。」




会話がちょうど一区切りついた所で。




執事とメイド達がぞろぞろと見送りのポジションに着き始めた。






「これはこれは。おはようございます、坂月様。いらっしゃっていたのに、お出迎え出来ず申し訳ございません。」




執事が直ぐに坂月に気付き、丁寧に挨拶する。



それに続くようにしてメイドが口々に挨拶し出すと、坂月も会釈を返す。




「気にしないで下さい、佐武(さたけ)さん。私は普段なら中まで入らないし、忙しい時間帯だということも承知していますから。」




「恐縮でございます。ところで今日はどんな御用件で―?」




佐武、と呼ばれた執事は、そこまで言ってから、はっと懐中時計を取り出した。




「話中大変申し訳ないのですが、そろそろご主人様が外出なされますので、配置に着かせていただきます。」





坂月は気にしないでと言葉を掛けて。





「そうでした、ここにきた目的を忘れる所でした。秋元さん、ちょっと耳を貸してください。」




「え、なんですか。」




脇に居た沙耶を振り返って、内緒話をするかのような仕草をする。





「今日は、実は仕事じゃないんです。」




「―え?」




囁かれた言葉に、どういうことだ、と沙耶の目が丸くなった。




「石垣の叔父に当たる人間に呼び出しを受けていて、その家に出向くことになってるんです。これが中々の曲者でして、私のリストの中にも載ってる位要注意人物なのですが、この間に探りたいことがあるので今回私は同行致しません。ですがこちら側が勘繰っていることを先方に知られては困ります。それで、秋元さんに一緒に行っていただくことにしたんです。」




「えぇっ!!」





ボディガード、初任務、という所だろうか。



そこへ―。




「おはようございます!」




昨日とは違って、一階の廊下側から出てきた石垣に、執事やメイド一同が揃って挨拶する声が響く。




「坂月、なんでお前いんの?」




「おはようございます、社長。」




石垣の髪はセットされているが、前髪は下ろしたままだ。



不機嫌丸出しの声にもたじろぐことなく、坂月は沙耶からパッと離れてにこにこと笑った。




「挨拶なんかきいてねぇよ。なんの用?」




「社長に用があったわけではありません。秋元さんに用があったので寄っただけのこと。何か癇に障ることでも?」




―何で、怒ってるんだろう。




沙耶は、石垣の機嫌悪スイッチがいつ入ったのかわからず、二人の会話を聞きながら、首を傾げる。





「じゃ、そいつに何の用があったわけ?」




「答えなければいけませんか?」




坂月もいつになく挑戦的な物言いだった。




「そいつは俺のなんだよ。知る権利があるだろうが。」




「―後悔しても知りませんよ。」




坂月は不敵に笑うと、いつの間に手にしていたのか、さっきまでは気付かなかった紙袋を沙耶に差し出す。




「秋元さん、うちの社長が切り裂いてしまった洋服ですが、無事綺麗に直りましたので、お届けに上がりました。」




「えっ?」




急に差し出された物と言葉と状況に、沙耶は目を瞬かせた。






「さ、待たせてしまって申し訳ありませんでした。受け取って下さい。」




坂月は横目で石垣をちらりと見る。




「いかがですか?満足しましたか?」




言いながら、にっこりと笑顔を送る坂月を前に、沙耶は石垣の方に目をやることができなかった。



だから、石垣が一体今どんな表情をしているのか、知ることは出来ない。



恐らく、してやったり的な態度の坂月を睨みつけているのではないだろうか。





―さっきは、そんなこと一言もいってなかったのに…





沙耶は坂月が何を考えているのかやっぱりわからない、と思った。




本来の用件はさっきの話だった筈だ。



石垣本人の耳に入るのは賢明ではないとの考えなのだろうか。





「チッ。もういい。」




短く舌打ちの音がして、漸く沙耶がそちらに顔を向けると、石垣はこっちに歩いてくる所だった。




表情は勿論、不機嫌そのもの。




「いってらっしゃいませ!」




割って入るかのようにして、執事、メイド等が口を揃える。



だが、それを気持ち良いほどに無視して、石垣は沙耶に向かってくる。




「え?え?え?ちょ、何、うわ…」




目の前まで迫ってきたことに、たじろいだ瞬間、腕をがしりと掴まれ。




「は?え?いや、は?」




そのまま、石垣は沙耶を引っ張って屋敷を出る。




身体が追いつかずに、沙耶は後ろ向きのまま、何故か坂月に手を振られて。





「いってらっしゃい」




―石垣といい、坂月といい…





完璧な営業スマイルに見送られながら、沙耶は唇を噛んだ。





―ほんっっっとに、訳わかんない奴らばっかり!





「ねぇっ!そんな引っ張らなくても、私歩けるってばっ!放してよっ」




立ち止まりたいけれど、反対側に引っ張られているので、靴の踵ではブレーキを上手くかけられない。



抗議するも、石垣は完全に無視している。




「うぁとととと…」




数段の階段を危なげに下りきると。





「乗れ。」




「はぁあ?」





やっと解放されて、振り向けば。




ロータリーに待っていたのは出勤用の車、ではなくて―。





「・・・・・・」




これは。




―知ってる。



車とかブランドに疎い沙耶ですら、知っている。



石垣は慣れた動作で運転席に回る。





沙耶は助手席のドアの前で立ち尽くしたまま、車高の低い車―そのエンブレムに描かれた馬を見つめる。





―駿が居たら、きっと興奮して卒倒するだろうな…




「フェラーリ…」




―これだから金持ちなんか、大嫌いだ。




毎日唱えていると言っても過言ではない思いを、沙耶は心の中で呟く。




―車なんか一台あれば十分なのに。いくつもあっても無駄なだけなのに。





「何してんだよ、早く乗れって。」




既に運転席に乗り込んだ石垣が、助手席の窓を開けて沙耶に促す。



未だ眉間には皺が刻まれたままだ。




「・・・・・」




同じくらい沙耶も眉を寄せて、無言で助手席に乗り込むと、乱暴にドアを閉める。




座席に腰を下ろす途中で気付く。



黒の外装とは違い、中のシートは赤皮。



派手過ぎる。





が、そんなことに動揺している場合ではないようで。





「シートベルト締めないと危ねぇぞ。」



「―えっ?」




聴く人が聴けば、美しいエンジン音がしたかと思うと。




「うわぁぁぁぁぁぁぁっ」




この世のものとは思えない程の乱暴な加速が始まった。





「こんのぉぉクソ男~~~~~」




結局、公道に出るまで沙耶はシートベルトを握り締めるのが精一杯で。





「うぷ」




勿論、完全な車酔い。




げっそりした沙耶は、ちらりと隣の憎い男を見やる。




「なっ…んで…っきょ、、今日に限って…運転手さん、、、居ないの…」




「…一応今日はプライベートだから俺の車。」




反して、視線を交わらせることのない、機嫌最悪度MAXの男。





「あんた…運転、、辞めた方が、いーよ…」





最低限の忠告だけしてから、沙耶は窓の外に目をやった。



一般道を行き交う普通車が何故か懐かしい。



けれど、自分の乗っている車が好奇の目で見られていることにもなんとなく気付き、居心地が悪い。





「さっきあいつと、何話してた?」




人通りが少なくなってきた頃。



ふいに、石垣が口を開いた。




「あいつって?」




大分気分は落ち着いてきたものの、ピリピリとした空気はそのままで、変な緊張感が漂う中、沙耶は訊き返す。




「坂月に決まってんだろ。」



「まだそんなこと言ってんの?ただの挨拶よ。」




出発してから、かれこれ30分は経過していると思うのに、まだその話かと呆れた。




同時に、渡された紙袋の存在を思い出し、そっと中を見る。





―待たせてしまって…なんて…。たかだか二日三日位しか経ってないんだし、あんな風に謝ることなかったのに。むしろかなり早くてびっくりなんだけど。





ワンピースはまるで新品の何かのように、立派な箱に入れられていて、今開けて確認する気は起きないが、嬉しくない訳がなかった。





心がほっこりして、沙耶の口元が緩む。




が。





「……今度から、坂月の半径1m以内に入るなよ。」




「は?!」





突如、出された命令に、沙耶は目を剥く。




「ばっ、ばっかじゃないの?!まだ仕事だって教えてもらわなきゃならないことが沢山あるし、絶対関わるのに、そんなの無理に決まってるじゃない。そもそもそれに何のメリットがあるのよ?」




「五月蝿い。お前にとってのメリットなんか関係ねぇよ。とにかく近づくんじゃねぇ。」





「~~~!!!じゃ、何?糸電話かなんかしろってこと?!」




「お前頭悪過ぎ。」




「ふっ、ざけないでよっ!じゃどーしろって言うのよ??」



「大きな声で話せば良い」



「そんなの、ハタからみたらバカみたいじゃない!」




「いいだろ、本当のことなんだから。」



「!」




一方的で不毛なやりとりに沙耶は黙り込む。





―マジで訳わかんない。




石垣からしてみれば、報復の為に、沙耶を捕まえてどう調理しようかとただ思案して居るに過ぎないのだろうが。



坂月からすれば、石垣を守る為に沙耶を雇ったのだ。



この二人の目的の違いが、どうも亀裂を生じさせているように思う。




―なんで、私が二人の用途別に動かなくちゃいけないのよ。




解析して突き当たった事実に、沙耶はげんなりした。




車内は再び静かになり、景色はやがて見慣れたものに変化していく。





―げ。




本能的に嫌な場所。




そこに、近い。





―この近くじゃありませんように。もう倍くらい遠い場所でありますように。





咄嗟に念じるが、その願い空しく、車は大きな屋敷の敷地に入って行く。


着物姿の使用人らしき男性が石垣のことを確認すると、駐車スペースへと誘導した。







「降りろ。」





「・・・」





さっさとエンジンを切り、ジャケットを羽織る石垣を横目に、沙耶は大きく溜め息を吐いた。





「何だよ?」




それに気付いた石垣が、訝しげにこちらを見返したので、沙耶はなんでもない、とだけ言って、降りようとした。





「あ、ちょっと待て。」




ドアに手を掛けた所で、石垣に呼び止められた。




「何よ、降りろって言ったり待てって言ったり…」




「―それ、持ってかなくていいだろ?」




沙耶がぶつぶつ言いながら振り返ると、石垣が沙耶の手の部分を指差す。




「だ、駄目駄目!何かあったら困る!」




沙耶は首を振りながら慌てて手にしたものを、背中に隠した。




「そんな安い服、誰も盗りゃしねぇよ、置いてけって。」




「わかんないじゃない!」




「警備員が居るし、大丈夫だって。」




石垣が珍しくやんわりと沙耶に言い聞かせるも。




「絶対嫌!そもそもあんたが一番信用できないのよ!」




坂月から受け取った紙袋。




沙耶はそれをぐっと握り締める。





「チッ。仕方ねぇな…。」




石垣は腕時計で時間を確認すると、渋い顔で呟く。




そして。





「―いいか。俺が良いって言う時以外は、この敷地内で絶対に口を開くなよ。」




「え?」





気になり過ぎる命令を残して、先に車を降りた。




しかし、そんなことよりも沙耶にとって気がかりなのは。







「…つーか、よりによってここかよぉ~」





降りる寸前、誰も居ない車内に沙耶の独り言が響く。




―まぁ、近くってだけだし、あのばばぁと会う訳ないし、大丈夫よね。





車内に留守番していたいのを堪え、自分に言い聞かせた。






ドアを開けた瞬間、どこからか香る秋の香り。








まさか、秋元家の本家の近所に、石垣の叔父の家があろうとは。





偶然とは、時として酷だ。




「諒様、お待ちしておりました。今日はご足労いただき感謝しております。」





誘導した男が、沙耶達が降りるのを待って挨拶をする。




「どうも。」




石垣はそれに対して小さく会釈を返すが、男は不思議そうな顔をして、彼の背後に居る沙耶を見た。




「―?失礼ですが、そちらの方は?」



「あぁ…新しく雇った秘書です。この後も仕事がありますので、今日は一緒でも良いですか。」





石垣の説明に、沙耶は午後も仕事があるのかと小さく肩を落とした。




「そうでしたか。勿論大丈夫です。むしろお忙しい所、無理を言って申し訳ありません。さ、どうぞ、こちらへ。旦那様がお待ちでいらっしゃいます。」




美しい日本庭園を横目に、男は玄関へと歩き出す。



それに石垣が続き、沙耶が続く。




―名前を訊かれなくて良かった。




なんとなく、沙耶はそのことに安堵していた。




こんな大きな屋敷に住む人間が、たかだか中流階級の秋元家を知っているなんてことはないだろうが、万が一のことがあったら色々と面倒だからだ。





「ようこそ、お出でくださいました。」





案の定広すぎる玄関に着けば、今度は女性達が出迎え、中へと招き入れる。



その間、会話はほとんどない。





―なんか、嫌な感じ。ここ。





使用人はどれも気が利いてるし、テキパキと動くのだが、どうしてか見張られているような感触が拭えない。




沙耶は見えない何かに気持ち悪ささえ感じていた。



それは、本家で幼い頃からずっと味わってきた感覚に近いものがあって、久しぶりに足を踏み入れた土地が、沙耶をナーバスにさせている可能性も否めない。




長い廊下を突き進んでいくと、案内人が襖の前で足を止める。





「旦那様、諒様がご到着されました。」





中から、短い返事がして、女が床に膝を着いて襖を開くと。





「いやぁ、急に呼び出してすまなかったね。」




低い声が、した。



藺草の匂いと、手入れの行き届いた庭が見える和室。



その真ん中に存在感を放つ桐の机。




腕組みをしてふんぞり返っている、白髪交じりの、恰幅の良い男。




それこそが、石垣の叔父に当たる人物なのだと直ぐに分かった。





―貫録のあるデブだ!





沙耶の第一印象もばっちり決まる。





「…いえ。」




「座りなさい。」




「失礼します。」




短いやりとりと共に、石垣が机を挟んだ向かいの席に腰を下ろしたので、沙耶もぺこりと頭を下げ、それに続こうとした。




が。





「見ない顔だね?」





少しの警戒を含んだような、緊張を仄かに感じる声が、掛かった。






「あ「新しく雇った秘書です。」」





口を開きかけた沙耶に被せるように石垣が答える。





―あ、やば。




危うく言いつけを破ってしまう所だった、と冷や冷やしながら石垣を盗み見ると、彼は真っ直ぐ叔父を見つめていた。





「ほぉ、そうかそうか。…私の家まで同行させるとは随分とお気に入りのようだねぇ。」





「たまたま仕事があったので、同行していますが、他意はありません。もし邪魔なようであれば、外で待機させますが。」





「構わないよ。さ、座りなさい。」





沙耶は表面上穏やかな叔父の言葉の端々に棘々しさを感じ、石垣のピンと伸びた背筋に緊張の色を見て取った。



時刻は午前の9時を過ぎた頃。


目の前には一点ものの椀に濃い緑茶が注がれ、湯気と共に青い薫りを運んでくる。


それぞれの前には、和菓子が、それも生菓子が置かれていて、各々色鮮やかで美しい。



だが、誰一人、それに手を付ける者はいなかった。


勿論沙耶は食べたかったのだが、他の二人の空気がそれを許さないのだ。




仕方がないので、先程からじっと正座をして、無言で会話に耳を傾ける。




「どうだね、経営の方は?」




低く、太い声が訊ねれば。




「気に掛けていただき、ありがとうございます。やらなければならない事に追われ、日々忙殺されていますが、やり甲斐があります。」




石垣が、まるで用意されていたかのようにスラスラと淀みなく答える。




「困ったことがあったら、私にも相談してくれて構わないんだよ。」




「恐縮です。」




ただの、挨拶のようなものかと、沙耶は思っていた。


社交辞令とかそんなもので、呼び出された本題はもっと別な話かと考え、早く先に進めばとっとと帰れるのに、と。



だが。




「まぁよくやっているようだが……嘉納の息子と懇意にするのはどうかと思うがね。」





「そこまで親しい間柄ではありません。ただの幼馴染なだけです。」






「ほぉ?そうかね?新しい事業に嘉納が関わったと風の噂で聞いたが、あれは事実ではないのかな。」




沙耶は直ぐに自分の考えに軌道修正を施さなければならなくなる。


なぜなら。






「関わると言う程の事はしてもらっていません。参考にした部分があっただけです。」




本題にはとっくに入っていたからだ。




恐らくオブラートを外した状態にするならば。




『お前、ワシに相談もなしに何勝手なことやってんじゃボケ!』




『あんさんにいちいち相談せなあかん義理なんかあらしまへん』





ということなのではないか、と沙耶は勝手に解釈した。




「ふん、、、まぁ、いい。ところで、こないだの無礼者にはそれなりにきちんと返報してやったんだろうね?」





面白くない、と顔に書いてある叔父は、話題を別物に変える。




「はい。」




「全く。お前が自分で全部どうにかするっていうから何も手出ししなかったが―、私なら即刻この国から追いだしてやったものを。身元はわかったんだろう?」





―何の話だろう。





沙耶はまたしても中身の見えない話に歯痒さを感じた。





「はい。」




今度も、石垣は大した受け答えをせずに、のらりくらりとかわしている。





「どこのどいつだった?ああいうことする奴はロクなもんじゃないだろう。」





「…忘れました。もう、用もありませんので。」





「ほほぉ、亡き者にしてやったのか?それか相応のことか?はっは、いいぞ。」





石垣の答え方が気に入ったのか、叔父はその膨れた腹をゆすって愉快そうに笑った。



沙耶も和んだように見える雰囲気にほっとして、やっとのこと湯呑みに手を伸ばす。




が。





「ワインをぶっかけられた上に暴言を吐かれるなんて石垣家始まって以来の恥だが、あんな女一人消すことなど、赤子の手を捻るよりも簡単だわい。暇つぶしにもならんな。」




叔父の笑いは止まらないが、その台詞に沙耶の動きは完璧に止まる。




―それってまさか―。





「―そうですね。では、そろそろ時間ですので、失礼させていただきます。」





隣で石垣は淡々とした口調で腕時計をちらりと見やった。





「おぉ、そうか…まぁ、呼び出してすまなかったな…。」





「行くぞ。」




石垣は小さく沙耶にだけ聞こえる声で呟くと立ち上がる。




「あ…はい…」




慌てて沙耶も席を立った瞬間。





「ん?…んー、、、やっぱり…どこかで見たような気がしないでもないな。」





叔父が感づき始めているのか、ぶつぶつ呟きながら沙耶の顔をじろじろと見始めた。





―あー、やばい、かも。





沙耶はできるだけ視線を合わさないように、不自然にならない程度に顎を引く。




「こんなありきたりな顔、どこにでもいますよ。では。」





そこに投下された、誹謗中傷。




―!?!?




ではなく、恐らくフォロー。





「そうか。そうだな。」




心中は複雑だが、叔父は納得しているし、窮地は脱したようだ。



沙耶はぺこりとお辞儀だけして、石垣の後に続く。





「諒、、、」







石垣が部屋の敷居をまたぐ寸前。




再び背後から声が掛かる。






「父親の様子はどうだ?」






石垣の背筋が、またピンと伸びたのを、沙耶は真後ろで見つめ。






聞こえていた筈なのに、答えないまま、部屋を出た彼に。





叔父が今日一番訊きたかったことは、そして石垣が一番答えたくないことは、これだったのかもしれないと思った。





「あら、もうお帰りですか?」



玄関に向かって歩く石垣達に気付いた使用人が慌てたように廊下に出てきた。




「見送りは結構です。」




石垣はそれを片手で制すと、使用人を足早に追い越した。




―石垣の様子がおかしい。




それは、この家に着いた時から。



いや、もっと前。



寝起きの悪い彼が、起こす前から起きていた時からか。




―親戚の家だから猫被ってるのとばっかり思ってたけど、それにしたって余裕がないような…




石垣の背中を追いかけながら、沙耶は軽い胸騒ぎのようなものを覚えていた。







「お帰りですか?」




外に出れば、着物姿の男が、先程と同じことを訊ねるが、石垣は頷くだけで、車の停めた方角に一心に向かって行く。





「あっ、見送りはいらないです!お邪魔しました!」





小走りになりながら、沙耶は付いて来ようとする男に振り返って叫んだ。



男はその場に立ち止まって、何か返したようだが、突然の風のせいでよく聞き取れず、かろうじてお気をつけて、の言葉だけ拾った。





フェラーリの前まで来ると漸く石垣が立ち止まり、沙耶は息切れしながら恨めしげにその背中を見上げた。歩幅の広い彼の早歩き―ここまでくると競歩と言っても過言ではない―に付いて行くのに必死だった。




「はっ、はやすぎっ…」





文句のひとつでも言ってやろうと、口を開くが。





「お前運転して。」





石垣の信じられない言葉に、沙耶はぎょっとする。





「はぁ?むむ、無理に決まってんでしょ、こんな車ぁー!」




「大丈夫だって。俺助手席に乗るから、ドア開けて。」




沙耶の訴え空しく、石垣は助手席の前に当たり前のように立っている。




「なっ、なんであんた運転しないのよぉー、つーかそれくらい自分で開けなさいよっ」




「うるせぇ。早くしろ。」




「っっ!!」





いつもの俺様かと思いきや、石垣の様子はやはり何かがおかしい。




沙耶は仕方なく助手席を開け―





「死んでも恨まないでよね。私は死なないけど。」





石垣にそう言い捨てて、ドアを閉めた。





―なんで、急に…




色んな事がありすぎて、沙耶の情報処理能力は著しく機能が低下している。




―つーか、フェラーリ!よりによってフェラーリとか!




運転免許は、父に勧められ、18になって直ぐにとったから、あるにはある。



しかし、直後に父が急逝。


車なんて持つ余裕もなく、当たり前の如く沙耶はペーパードライバーとなった。




つまり教習所を出てから、一度も乗っていない。





―ほんと!知らないから!





沙耶は自棄になって頭をぐしゃぐしゃぐしゃと掻き毟ってから、運転席に乗り込んだ。



―なんじゃこれ!




席に座ってとりあえずハンドルを握ってみるものの。





「こ、これって、マニュアル???」




オートマ限定の沙耶は動揺を隠せない。




「マニュアルって言ったらマニュアルだけど、オートマって言ったらオートマ。」




隣で訳わからない事を呟く男。





「どっちなのよ!」





―くっそー、、もうどうにでもなっちまえ!




沙耶は頭の中で教習所で習った事を必死で思い出す。



しかし。




「な、ないない。。これ、こ、こ、こういうのが付いてない??」




ある筈のものが見当たらずに、沙耶はジェスチャーで隣の男に伝える。





「ない。」




「ええええ?!あるでしょうよ!なんだっけ、、えっと。。。ブ、ブレーキ…そうだ!サイドブレーキとか、、足元にあるやつとか!!」




完全にパニックになった沙耶を石垣は怪訝な顔をして見つめた。




「自動だから、ない。」




「………」





意味がわからず、言葉を失う沙耶に、石垣がハンカチに包んだ鍵を差し出す。





「エンジン、かけろ。」





何故素手で鍵に触れないのか、一瞬疑問に思ったが、今はそれどころではない。



受け取った鍵を真っ白になった頭で差込むが、何度やっても上手くいかずに石垣に切れられる。



すったもんだの上、最終的に石垣がハンカチで鍵をつまんだまま、エンジンをかけてくれたので、やっとのことフェラーリが発車した。




うるさいエンジン音とは反して、沙耶の気分は沈んでいくばかり。



更に行き先に会社を指定され、益々落ちていく。




「フェラーリの癖に低速とか、まじ恥だわ。」




途中石垣の吐く暴言に噛み付きたくても、扱いにくすぎる車に集中力を使っていて、言葉が出なかった。



一時間半後。



やっとのこと会社の前の道路に到着。




道は空いていたのだが、沙耶の運転に難有りで、行きよりも倍の時間がかかった。





「つ…着いた…」




沙耶は車を路肩に気持ち寄せて、安堵の息を吐く。




緊張のせいでへなへなと力が抜けて、背もたれに寄りかかった。





「あんた、もっと別の車にしなよ…国産が良いよ…」




ぶつぶつ呟きながら、沙耶はちらと横を見る。




が。





「…って、、え?!」





ガチャ、とドアを開け、さっさと降りるお隣さん。





「ちょちょちょっと。この車どーするのよ?!」





驚きながら訊ねても、相手はすでに外。




沙耶は坂月からもらった紙袋をひっつかみ、慌てて石垣の後を追った。






「ねぇってば!」





途中途中声を掛けても、無人の会社の中へと石垣は立ち止まることなく進んで行ってしまう。







エレベーターホールまで行って、漸く追いつき、一緒に乗り込んだ。




が、息が整わない。




必然的に無言で石垣を見ることになるのだが。



何故か石垣も沙耶の事を睨んでいる。




―?私が睨むならわかるけど、なんでこいつに睨まれてるの?



戸惑って数秒経過した後、沙耶は異変に気付く。




「え?何でこれ動かないの?」




エレベーターが動いていない。



「ボタンを押してないからだろう。そんなこともわかんねぇのか、使えねぇ秘書。早く押せ。」





呆れたように天を仰ぐ石垣に、沙耶は怒りを露わにした。




「いや、なんであんたが押さないのよ?!普通先に乗った人間が行き先階ボタンを押すでしょう?!」




文句を言いながらも、沙耶は最上階のボタンを押す。




「エンジンをかけた時と、さっき車から降りる際に、ハンカチの使用範囲を全て使い果たしたから無理。そもそも扉の開閉とかそういう類は秘書の仕事だろ。」




「はぁぁ?!」




意味のわからない理屈を、当たり前のように言い切る石垣。




「ハンカチの使えない範囲って何よ?!それにねぇっ、扉の開け閉めぐらい自分でしなさいよっ」




上昇するエレベーターの中。



沙耶はひとりでぶつくさと文句を呟き、石垣は知らん顔で黙っていた。



最上階に着くと、案の定石垣は急ぎ足で箱から出て、センサーを解除し、中に入っていく。




「さっきから何をそんな急いで…」




沙耶の言葉をほとんど無視している彼が気がかりで、首を傾げながら、後を追い掛けた。




何の事はない、向かった先は給湯室で。




―喉渇いてたのかな―?いやだったら、さっき出されたの飲んでも良い訳だし…





疑問は解決しないまま、むしろ膨らんでいくばかりだ。




沙耶は入り口のドアにもたれかかって、石垣がシンクの前に立ったのを眺める。





「おい。」




と。




「早く、出せ。」





石垣が振り返って、沙耶に催促、いや命令する。




「え?自分で出来るでしょ?本気で使えないわけ?」




「良いから早く出せ」




「何よ、その言い方。はいはい、わかりましたよーだ。」





石垣の余裕のない口調に、不貞腐れながらも、蛇口を開けた。




途端に石垣が手を洗い始める。




―え、なんだ…手を洗いたかったの…??




それを沙耶は驚きながら見つめた。




「あ。」





腕をまくることすらしなかった為、袖口を濡らしてしまっていることに気付き。




「袖まくろうか…?」




問いかけた沙耶に、石垣は直ぐ首を横に振った。





「でも、濡れてるよ?やっぱり…」




「触るな。」





思わず近づくと、厳しい口調で石垣が拒否する。





―何よ…




沙耶はむっとして石垣から離れ、部屋のドアにまた背中を預けた。




秋とはいえ、水温は下がってきている。


つまり、長いこと洗っていれば、手は赤くなってくる。



沙耶は壁に掛かっている時計に目をやって、首を傾げた。



石垣が手を洗い始めてから、優に五分は経過している。



白くて、重たいものを何一つ持たされたなかったのではないかと思うほど綺麗な長い指が、薄桃色に染まっていた。




―いつまで洗ってるんだろう。そんなに汚れたりしてない筈なんだけど…




さっきから、何度も何度も洗剤をつけて念入りに洗う。



その上、袖口はびしょ濡れ。





―潔癖、と何か関係があるのかなぁ。





思考回路がそこまで行き着いた所で、水の音が止まった。



見ると、石垣が手をペーパータオルで拭っている。





「あ、えーと…別に覗いていたわけでは…」




振り向いた石垣とばっちり目が合って、沙耶は罰が悪いような気分になり、目を泳がせた。




が、石垣はそんな沙耶の脇をすり抜けて、今度は部屋から出て行き―




「え、あれ?……ちょ、ちょっと、今度はどこへ…」




仮眠室のある方へと消えた。


「…ていうかフェラーリどうしよう。」




さすがに沙耶も、石垣を追い掛けることなく、秘書室に戻って来客用のソファに腰掛けた。




石垣に訊ねたいことは沢山、ある。



ただ、その全てが、訊いていいことなのかどうか、迷う。


果たして石垣は教えてくれるだろうか。


秘書として知っておいたほうが良いことなのだろうか。





「うーん…」




悩みだした途端、きゅるる…とお腹が鳴った。





「そろそろお昼、かぁ。」





基本沙耶は朝ごはんをほとんど食べない。



時間がない、というのが主な理由だが、育ち盛りの弟に、限られた食材で多く食べさせるとなると我慢しなければならないこともある。



だから、実は昨日石垣が蹴り飛ばしたパンたちは沙耶にとって救世主だった。




「引越し終わったかなぁ…」




誰も居ないがらんとしたフロアで沙耶はぶつぶつと呟く。



―石垣は午後も仕事があると言っていたが、自分はここにいた方がいいのか、帰ってもいいのか。




手持ち無沙汰になった沙耶は、手帖を取り出してペラペラと捲る。




今日の予定は、沙耶が書き足した叔父の突然のアポ以外は書いていない。




珍しく、何もないようだった。



それが、逆におかしくも思えた。




―いつもほぼいっぱいなのにな…




日曜日でさえ、会食とか取材とかやたら書きこまれているというのに、だ。





そこへ。



RRRRRRRRRR



「うわ。」



突然の電話のコール音に、沙耶はびくりと肩を震わせた。




「え、出た方が良いのかな。何の電話だろ。」




会社は休みになっている筈だというのに、なぜだろう。



勿論内線のコール音ではない。



外線は基本下で取るので、ここで鳴ることは滅多にない。



直接ここの電話番号を知っている外部の人間がいるのだろうか。





「はい、石垣グループ本社秘書室社長秘書秋元でございます。」





肩書きを噛まずに言えた事に、軽い達成感を覚えつつ、沙耶は相手の声に耳を傾ける。






《―また新しい秘書か、あいつも困った奴だな。そこに諒はいる?》





かけてきたのはどうやら若い男のようだが。





「―失礼ですが、どちら様でしょうか。」




《諒に代わればわかるから別に良い。居るなら代わって。》




横柄な物言いに、沙耶のこめかみがピクリと動く。



石垣の知り合いならば、大方偉い人間なのかもしれないが。





「……失礼ですが、耳は聞こえてらっしゃいますか?お名前をお伺いしているのですが。」





礼儀とかマナーには金持ちも貧乏もないと沙耶は思っている。



《あんたこそ、耳大丈夫?諒の携帯にかけたけど繋がらないから仕方なくこっちにしてんの。急ぎの用なんだから早く代われって。》





「どちらにかけたのかわかってらっしゃるのでしたら、こちらが私用のものではないことをご存知の筈ですが。」




沙耶が至極真っ当と思われる意見を言うと、相手から深い溜め息が漏れる。



―こいつ、ムカつく。もしかしたら石垣レベルに近いかもしれない。




《あんたは新しいからわからないのかもしれないけど、前の諒の秘書は俺の声で直ぐにわかったぜ。》




「前の秘書は前の秘書です。残念ながら私はあんたのことはっ…」




言葉遣いもへったくれもなくなりかけたその時。



耳に当てた受話器が、自分の力とは反対方向へと引っ張られた。





「あ…」




「―誰?」




ふわり。



ハーブの香りが鼻を掠める。



横には眉間に皺を寄せて、今しがた沙耶から取り上げた受話器に耳を当てる、石垣。



髪は乾かしたてらしく、ふわふわとしていて。



ストライプのワイシャツにノーネクタイ。



恐らくハーブの香りの正体はシャンプーか。





―嘘、お風呂入ってたの?なんで?!




「孝一…お前か…」




沙耶が呆気にとられていると、石垣が呆れたような声を出した。




「ああ…うん。わかった。そう、、、うん。」





なにやら相槌を打っているのを見ると、どうやら、電話の相手は知っている人間のようだ。





―だからって、、だからって名前もなしにどこの常識外れが電話繋ぐのよ、ばか!




沙耶は唇をきゅっと結んだ。





「行かない。行く必要もない。つーか、あれには今日会ってきた。呼び出し受けて、、けどそんな話一切なかった。それどころかお前との事に口出ししてきた。」




相手がわかったことで、石垣の警戒心は取れたようだが、眉間の皺はなくならない。



沙耶はさっきの叔父の話なのだと頭の中で解釈したが、これ以上聞いてはいけない様な気がして、その場から離れようとした。



が。




―ん?




電話している石垣が、何の躊躇いもなく、沙耶の手首を掴んだのだ。




「ちょっ…」




何事かと石垣の顔を見るが、彼は視線を落としたまま、会話に集中している。





―なんだ、この手。




さっきは触るなとか言っておきながら。



―しかも私は嫌だっ!はーなーせー!!!



風呂上がりのせいなのか、伝わる石垣の体温が、少し熱い。





沙耶は無言でブンブン腕を振った。




しかし石垣は放さないし、かといって視線も交わっていない。



「ん、サンキュ。じゃーな。」




結局捕らわれたまま、電話は終了となった。




「はなせっ!」




石垣が受話器を置いた瞬間に、沙耶はここぞとばかりに激しく腕を振り払ったのだが。




「いっ!!!」




予想外に石垣があっさりと腕を解放した為に、沙耶は思いきり尻餅をついた。





「あっ、あんたねぇっ!!!!」





無表情のまま、石垣が沙耶を見下ろす。





「飯、付き合え。」




「?!はぁ!?誰があんたなんかと…」





半切れの沙耶に構うことなく、石垣はスタスタと出て行ってしまう。




「ちょっと!!!待ちなさいよっ!」




―もぅ、あったま来た!




怒りに身を任せて、大股で後を追うと、エレベーターホールで追いつく。




「あんたっ…」



「あ、そうだ。今日着てたスーツ、クリーニング出しといて。」



「うぁいっ!?」




エレベーターが開き、石垣は悠々と乗り込む。


沙耶も後に続き、石垣を睨む―




「あれ…」




そこで沙耶はあることに、気付く。



当然のように、エレベーターが下降していくからだ。






「あんた…ボタンなんで押した…」




「あぁ、お前の仕事だったよな。」





ついさっきまでは、どこかに触れることすらも、しなかったのに。




―お風呂に入ったから?





「…そんなに…叔父さんの家って汚いの?綺麗に見えたけど…」





さっきから感じている疑問を口に出せば。





「は?」




石垣は心底馬鹿にしたような顔を作って沙耶を見た。


「だって、手だってあんな洗ってるし、お風呂だって入ったんでしょ?服だって新しいのに着替えてるし…」




叔父の家から出た途端、石垣はどこにも触れなくなった。




「………」




だが、沙耶の指摘は確実に耳に届いているはずなのに、石垣は返事をしない。




―何よ何よ。無視かよっ。




沙耶が気難しいボスに再び苛立っている内に、エレベーターは一階へと到着した。





「―汚れてんのはあそこの空気だ。」



「―え?」





降りる瞬間、石垣が微かにそう呟き、沙耶を追い越した。





―空気?どういうこと?





石垣をまたしても追い掛ける格好になり、面白くない気持ちでホールを駆けると警備員が数人揃って一礼している。



沙耶はそれに自分も小さく頭を下げた。






「何か食いたいもん、ある?」





さっさと先に行ってしまった石垣は、迷うことなく停めてあったフェラーリの運転席に乗り込み、追いついた沙耶に訊ねた。




それは沙耶が口を開く―つまり何かを訊ねる―前に敢えて被せた防衛線のようだった。





―やけに親切な…





本当なら石垣と顔を合わせてご飯を食べるなんて御免被りたかったが、空腹が沙耶のプライドをねじ伏せてしまう。




その証拠に、抵抗なく助手席に座った自分自身に驚いている。





「何でも良いけど…そうだなぁ、あの国道沿いにあるファミレスの…」




一度食べてみたかったハンバーグプレート、と頭に図が浮かんだ所で。






「却下」





―じゃぁ、訊くなよっ。




思わずツッこみたくなるほどの即答。





「そういう、庶民の味はアレルギーだから、無理。」





じんましんがでると、真顔で呟く石垣。





「何それ。私は庶民の味しか知らないっつーの!」





カチンときた沙耶が喚くと、石垣がうーんと顎に手を当てて考える仕草をした。





「じゃー…フレンチ。」






「嫌がらせかっ!」





「ばーか、近いからだ。」






わぁわぁと騒がしい喚き声を乗せて、フェラーリが発車する。





石垣の言葉通り、ものの数分で着いた店は、コンビニでバイトしている時に並べた雑誌にもよく載っていた有名店。



沙耶には縁のない話なので、別段気にしていなかったのだが、人気で三ヶ月先まで予約がいっぱいになっている、と書いてあったのを、相方が読んで教えてくれたから、記憶に残っていた。



無論、駐車場も混雑している。



見回してみても、停められる場所はありそうにない。





「そんな急に思い立って来れる場所じゃないのよ、ここは。予約がい~っぱいで取れないんだから!」




情報を知っていた沙耶が偉そうに先輩風を吹かせるが、案の定石垣は完全無視を決め込み、車を店の前に横付けする。




「ちょっと!こんなんじゃお店に迷惑じゃない!怒られるわよっ!あ、こらっ!」




窘める沙耶を置いて、石垣は車から降りて、店の階段を上る。




―あんにゃろう。。。これだから周りが見えないボンボンは困るわね。どーせ、店の人に追い返されるわよ。




沙耶も外に出て、石垣がどやされるのを見てやろうとほくそ笑んだ。



しかし。





「これはこれは!石垣様!」




石垣が店に入るより先に、ドアが開いて、店員、、いやそれよりももっと立場の高い―恐らくオーナーらしき人物が出迎えた。




―は?!




その光景に沙耶は目を剥く。





「突然で申し訳ないんだが、食事できるかな?」




「はい、喜んで!今すぐご用意致します!」






満面の笑みを貼り付け、元気に返事をしたオーナーを見て、沙耶は苦虫を噛み潰したような顔になる。




―居酒屋かよっ。




若い店員が直ぐ出て来て、石垣から車の鍵を預かると、沙耶の居る方へ意気揚々と近づいてくる。



憧れのフェラーリ、駐車させるだけでも嬉しいという感情が駄々漏れの笑顔だった。





「さ、こちらへどうぞ。」





先立って案内するオーナーの後ろに続いている石垣が、ちらり、沙耶を振り返る。





「~~~~~~!!!」





勝ち誇ったようなその顔を見て、沙耶は言葉を失った。




―く、悔しい…





悲しいかな、それでも食欲はなくならない。




―お金があれば、なんでも優先されるのかしら。




本家に近い場所まで行ったせいか、心がいつもよりもナーバスになっていた。



暗い気持ちを振り払うように、首を横に振る。





―こんなんじゃいけない。。。よーし!こうなったら、とことん食べてやるわ。





沙耶は開き直って、とっくに姿を消した石垣の後を追った。





―うわぉ。





店内の上品な造りに沙耶は目を奪われる。




白を基調としている家具で揃えられており、そのどれもが満席だ。



昼の光のせいか、室内はとても明るく見える。



きょろきょろと見回すと、ずっと奥の方へ入っていく石垣の背中が見えた。





―あんな奥にも席があるのかぁ。




首を傾げながら自分も同じ方へと向かう。






「お。」





角を曲がると明らかに他から隔離された個室を匂わせるドアがあって。





「中へどうぞ。」





開いた傍にはさっきのオーナーが立っていて、沙耶に笑いかける。





「あ、、ありがとうございます。」




勧められるまま、沙耶は中へと入り、二度驚いた。





「ひ、広い。。何ここ…」





外から見た時の想像をはるかに越えて、個室は広かった。




こういうのをいわゆるVIPルーム、と呼ぶのだろうか。




テーブルと椅子は勿論、食事中にどう寛ぐというのか、別個にソファもある。




家具のひとつひとつ、掛けられている絵も、通ってきた場所とはワンランク上のものが置かれているような気がした。





「さ、どうぞ。」




立ち尽くす沙耶に、オーナーが席に座るよう促し、椅子を引いてくれる。




「あっ、す、すいませんっ。」




沙耶ははっとして、慌てて言われた通りにした。




「適当に持ってきて。」




既に席に座っていた石垣が、メニューも見ずにオーダーすると、オーナーは笑みを絶やすことなく、元気に返事をして姿を消した。




まるで予約してあったかのようなテーブルセッティング。



予想はしていたが、覚悟はしていなかった、石垣との向かい合わせ席。





「………金持ちは良い気なもんね…」




暫くの沈黙の後、結局沙耶の口からは厭味しか出てこなかった。





「金で動く人間も人間じゃねぇ?」




「え?」




予想外のひねた返答に、沙耶は驚く。



石垣のことだから、『たりめーだろ』とか『羨ましいか』とか言うのではと勝手に決め付けていたからだ。





「世の中がそうできてんだ。仕方ねぇよ。」




何かを諦めたかのような、石垣らしくない答え。



そして、その答えは、沙耶の考えとも一致する。




「あんたにしては出来た答えね。。」



「は?ふざけんなよ。」




沙耶は戸惑っていた。




知り合って間もないが、今日一日、どうも石垣の様子は変だ。



原因は、あの家しかない。





「………ねぇ、一つ訊いても良い?」




訊いて良い事なのかどうか、迷っていたが。




「なんだよ?」






途端に石垣の眉間に皺が寄る。






―予想通りのリアクション…でもやっぱ気になるから訊いちゃえ!






沙耶はごくりと唾を飲み込み。






「あんた、叔父さんのこと、嫌いなの?」







コンコン。




訊いたと同時にノックの音が聞こえ。





「失礼致します。」





料理を抱えたウェイターと、先程のオーナーが顔を出した。






「食前酒とアミューズブーシュをお持ち致しました。」





「すまない、今日は代行は頼まない。俺のはサン・ジェロンで頼む。」





「失礼致しました。直ぐに持って参ります。」





―タイミング悪。




オーナーと石垣のやりとりを前に、沙耶はこっそりチッと舌打ちする。




この二日というもの、石垣は沙耶に必要最低限のことしか話さない。



秘書としては非常にやりにくいのだが、かといって干渉する気もなかった。



だが、今日の事だけはどうしても引っかかる。



石垣の父親のことさえ、沙耶は知らない。



悩んだ末、かなり訊き難い相手にそれなりに腹を括って訊ねたのだ。



舌打ちもしたくなるというものだ。




「食わねーの?」




石垣に問われ、物思いに耽っていた沙耶ははっとした。




見ると、目の前の硝子の四角いプレートの上に、ちょこちょことしたかわいらしい食べ物達が載せられている。




「うわ…」




鬱な気分も吹っ飛び、沙耶は料理に見入った。



並べられている内の一つ、蓋付のカップには蟹身と茸のスープ。



ミニの食べ物達は、右下からブリオッシュ、右上から左下に続く斜線上にアミューズスプーンに乗せられたサーモンのマリネ、キャビア乗せカナッペ、それからテリーヌ。




シュワシュワと泡を弾けさせている、グラスの中の液体。



もとい、シャンパーニュ。




全てがキラキラと、宝石のように輝いている。





「いただきまーす!」





待っていた甲斐があった、とばかりに沙耶はテーブルマナーも何もなく、手元に近いカトラリーを掴み、目の前の料理にがっついた。




その後も、前菜、真鯛のポワレ、ジビエのロースト等々がどんどん続く。




石垣は自ら頼んだ炭酸水をちびちびやり、食事も淡々と続けていて、さっきの会話を続ける気は微塵も感じさせない。




―もういいか。




フランス料理らしからぬスピードで皿を空にしていきながら、沙耶は半ば諦めていた。




叔父と石垣の間に何かがあることは確実だ。



そして、それは、良いものではない、ということも。






店を出る頃には、時刻は14時を回っていた。



来た時と同じように、店員が横付けしてくれたフェラーリに乗り込み、見送るオーナーに会釈する。






「お金、幾らだった?」





暫く走った後、信号待ちになった所で、沙耶が石垣に訊ねる。





「は?」




「だから、さっきの。私の分、幾らだった?」




会計はカードでスマートに終わらされてしまったから、口を挟めなかったのだ。





「…いい。」




石垣が、さも迷惑そうな顔をして、アクセルを踏んだ。




「嫌よ、あんたに奢られるの。」



「別にそんなつもりはない。」



「借りを作るのは嫌なの。」




一歩も引かない沙耶の態度に石垣が溜め息を吐く。




「そもそもお前が払える額じゃない。」



「ぶ、分割払いで…それか給料から引いてもらって…」




確かにあれだけのコース、幾らかかるかわからない。




「お前は俺の秘書で、仕事として俺に付き添っただけ。だから、要らない。」




石垣も態度を変えることなく、きっぱりと言い放った。




「でもっ…」




―ほとんど食べてなかったじゃない。




本当にお腹が空いていたのか、疑問に思うほど石垣の食は細かった。



だが、沙耶はそれについては触れるのを躊躇い。




「…ご馳走様でした…」



それだけ言うに止(とど)めた。


「今日はもう良いから、そのまま新居に帰るか?」




「え、いいの?」





もう仕事がない、こと、家に送ってくれる、こと。



この二つの事実に沙耶は一瞬喜ぶが。





「あ、ダメだ…あんたん家にチャリ置いたままになってる。」




「置いとけばいいんじゃねぇの?」




「だ、ダメ!あれがないと通えないっ」




「うちから送迎を出せば良い話だろ。」




「ダメダメ、ガソリンが勿体無い。」





真顔でそう言えば。





「……もういいわ、わかった。家に行く。」





石垣が呆れたように目をぐるりと回した。



秋の金色の陽射しが、街路樹も、道路でさえも、暖かく照らす。



そのなんでもない風景を眺めながら、沙耶はやっぱり今日の石垣は変だ、と思っていた。




音楽がかかっている訳でもなく、かといって会話もなく、車内は静かだった。




沙耶は沙耶で、本家の近くに行った事で、気分がやや塞いでいたせいもあって、フェラーリの加速に文句を言うこともなかった。



窓の外を見つめ、ぼんやりと、引越し先へと思いを馳せていた。




このまま、石垣の家に着けば、それで今日のお役は御免だ、と心の隅で思っていた。




だが。




もう少しで、石垣邸の敷地内に入るか、という頃。





「…叔父は、母親の兄に当たるんだ。」




石垣が急に口を開いた。



驚いた沙耶は、窓から視線を隣の石垣に向けるが、当然ながら石垣は前を向いている。




その横顔からは何の感情も読み取ることが出来ない。




「経営には直接関わっては居ないが、重要なポジションには置かれていて、常に動向をチェックし、たまに口を出してくる。今日は嘉納―かかってきた電話の相手だけど―あいつとの付き合いに関しても苦言を呈していたな。」




石垣の喉がクッと鳴った。



恐らく笑ったのだろうが、どこかしら嘲(あざけ)りのような要素が含まれている。





「あとは、お前の始末のこと。あれは相当お冠だったもんなぁ。俺が黙ってろって言った意味、わかったろ?」




「…最初から教えておいてくれれば良いのに。お陰でひやりとしたわよ。」




「とりあえず、国外追放されなくて良かっただろ。俺もまさか、罰を今考え中です、なんて言えないしなぁ。」




茶化すように石垣が言った。




「早く考えて国外追放でもなんでもやんなさいよ。そしたら逆に清々するわ。」




沙耶が言うと。




「それじゃつまんないだろ。」




さらりと石垣が答えるので、鬼畜だと言い返してやった。





一瞬の沈黙の後。






「―私、知らなかったんだけど、、お父さん、具合悪いの?」




やはり引っかかっていたことを、沙耶は石垣に伝える。





「え?」





「あの人、最後に訊いたことが一番知りたそうだった。」





あの人、とは、石垣の叔父のことだ。




ついでに言えば、石垣はこの質問に対し、聞こえなかったフリをした。






―『父親の様子はどうだ?』




探るような叔父の口調に、石垣の父親の具合が悪いのかなと勝手に思い込んでいた。





「お前は本当に呆れた奴だな。新聞とか読まねぇのかよ?」




ややあって、石垣が溜め息を吐いた。




「なっ…!だって新聞なんかうち取ってないし!」




「じゃ、ニュースとかも?」




「悪かったわね、テレビもラジオもないのよ!」





本当に知らなかったのかよ、と石垣が呆れ声を出すので、なんだか責められているような気分だった。




「俺が異例の若さで石垣グループを継いだ理由を知らなかったのか…つーか、坂月の奴、お前に何も言わなかったのかよ。」




背景はとうとう、石垣邸の敷地内になり、主人は顔パスなのか、降りることも許可を願うこともなく、自動的に門は開かれる。




「だから、何なのよ。勿体ぶらないでさっさと言いなさいよ。」




腕組みをしながら、沙耶が運転席の石垣を睨みつけると。





「―俺の父親は…事故で頭を打って、今も入院してるんだ。」




「え?」




相変わらず視線の交わらない石垣の口から、衝撃的な事実が落とされ、沙耶は驚きを隠せなかった。





「商業施設の建設現場を視察した際、稼動していなかった筈のクレーンから鉄材が落ちてきて―一命は取り留めたものの、目を覚まさない。」





しかも、そのクレーン車は無人だったのだという。






「警察は事故で片付けているが―俺は意図的なものだと思っている。このまま真実を闇に葬るつもりはない。」





心なしか、石垣の目つきが険しくなった。





========================





「すげぇ…」




自転車から降りて、沙耶の口から零れ落ちた驚き。



15階建てのデザイナーズマンションを、ぽかんと見上げた。



さっきから何度も周辺をぐるぐると回っていたが、まさかこれだったとは。




「自転車置き場ってどこだよ…」





沙耶は頭を振り振り、とりあえずそこらへんに停めて、中へ入ろうとした。



24時間セキュリティーだというこのマンションには、管理人が常在しているらしいので、訊ねてみようと考えたのだ。




だが。




「地下にありますけど、玄関に置いておいても良いと思いますよ。」





第三者の介入により、問題は速攻で片付いた。




「坂月、さん…なんでここに…」




「やぁっと来たか!姉ちゃん、マジここすげぇよ!」





神出鬼没の坂月が、駿と一緒にエントランスから出てきた所だった。





「おかえりなさい。時間外のお仕事お疲れ様でした。」





狼狽える沙耶に坂月が飄々と頭を下げた。







陽も落ちて、辺りは薄暗くなっている。



その為、マンションから漏れる光がやけにはっきりと見えた。




「俺達の荷物なんかちょーっとしかねぇじゃん?だから引越しなんかあっという間に終わっちゃって。広すぎて居場所もねぇし暇してたらこの人が手土産もって来てくれたんだよ。」




新居が余程気に入ったのだ。



このマンションがどれだけ良いものなのか、駿のはしゃぎっぷりを見れば、一目瞭然だった。






「…ありがとうございます。」




「いえ。ちょうど今帰る所だったんです。」





坂月が薄い笑みを湛え、沙耶に言った。





「じゃーね、坂月さん!姉ちゃん、とにかく中入ってみろよ!」




「ちょっと、駿。じゃーね、じゃないでしょう!」





お調子者の弟を窘めれば、隣で坂月が「構いませんよ」と宥める。





「でも、駿さん。お姉さんに用事があるのですが、少しだけお借りしても?」




「え?」




沙耶が駿の首根っこを掴んだまま、坂月を振り返る。





「どうぞどうぞ!こんな凶暴女で良かったら、少しと言わずいつまでも!」




「っこのっ!」




「ぐぇっ」





沙耶の代わりに快諾した駿の首をさらに絞め上げ。





「じょ、、冗談です、、お姉さま…」



「ったく、調子乗ってんじゃないわよ!」





反省したかのような駿に一喝し、放してやった。





「鬼」



ぼそっと呟かれた負け犬の遠吠えは聞き流してやることにした。






「すいません」




駿が走り去った方角を見つめながら、坂月が申し訳なさそうに謝る。





「…いえ。私も訊きたいことがありましたから。」





予想していたのか、沙耶の返答に対し、坂月は意外そうな顔はしなかった。





「…そうですね…、とりあえず、駐車場に車が停めてあるので、その中でお話しても良いですか?」




沙耶にしても、道端でするような話ではないと思っていたので、素直に頷く。




途中、駐輪場の位置を教えてもらい、沙耶はそこに自分の自転車を停めた。




地下の駐車場には、厭味な程に高級車ばかりがずらりと並んでいて、その中のひとつに、見覚えのある白のベンツが主の帰りを待っていた。





「どうぞ。」





助手席のドアを開いてくれる坂月に、沙耶は小さく頭を下げて乗り込む。



それを見届けると、バタンとドアが閉められ、坂月が運転席に乗り込んできた。





「どっちが先にしますか?」




ハンドルに肘を着いた坂月の問いに、沙耶は一瞬首を傾げ。




「私が先に話した方が良いですか?それとも、秋元さんから先にしますか?」





そこまで言われて漸く合点がいった。





「あ…あぁ…えっと、じゃぁ、、私からで。沢山あるんですよ。」




訊ねたいことは山ほどあった。



リストアップしても良いくらいだと思っている。



いや実際リストに書き上げた。



会社から持ち帰って来た黒革の手帖を、沙耶は鞄から取り出す。


「ええと…まず、、叔父さんの所から帰ったあいつの様子がおかしいんだけど、どうしたのかってことと…、会社に電話をかけてきた失礼な男―嘉納って言ったかな。。そいつは何者なのかってことと、あいつのお父さんの事故のことと、今日のスケジュールが空っぽなのはなんかあるのかってこと…」




「―ストップ。」




「あ、今のでとりあえず全部です。」




遮るように坂月が止めたが、沙耶は全部言い切ったことに満足する。




「…まぁ、私が話そうとしていたことと、それなりに一致するので、一緒に話しましょう。私がお訊きしたかったのは今日行った石垣の叔父―つまり佐伯家で何を訊かれたか、という事なんですが。。。」





言いながら坂月は沙耶が手にしていた紙袋に視線を落とした。





「それ、返してもらってもいいですか?」



「は!?え、嫌です!」




折角今日一日肌身離さず持っていた形見を、見る前にどうして坂月にリバースしなければならないのか。




沙耶は頑なに拒否して、紙袋をぎゅっと胸に抱き締めた。





「―きちんと一日持っていてくださったようで…ありがとうございました。本当に感謝しています。実は、、謝らなければならないことがあります。」





沙耶の様子を見ながら、坂月は真剣な顔をして頭を下げた。





「この通りです。許してください。」





「え、なんですか、え?」




意味のわからない坂月の行動に沙耶は狼狽える。




「中、開けてみましたか?」





少しだけ頭を上げた坂月が、上目遣いに訊ねたので、沙耶は首を横に振った。




そして、はっとして紙袋の中に手を突っ込んで取り出し、がさがさと箱の包装を開けていく。






「これ…」





出てきたのは―。




ICレコーダーというモノだろうか。


小さな機械が箱の中に固定され、沙耶を見つめていた。





「申し訳ありません。本当は最初に打ち明けるつもりだったのですが、社長にバレますと色々と面倒なので、内密にする為、秋元さんには悪いが咄嗟に嘘を吐きました。」




坂月は薄い唇をきゅっと結んで、項垂れる。




「期待させて本当に申し訳ありませんでした。秋元さんの服は修理中ですが、縫い目を目立たなくさせる為に、もう少し時間が掛かるそうです。」





箱の中を見つめたままで、顔を上げない沙耶に、坂月が益々不安げな表情になる。




「秋元さん…?そうですよね、、、折角のお父様との思い出をこんな風に利用されたら誰だって怒りますよね…。取り返しのつかないことを…本当にどう謝っていいのやら…」




段々としどろもどろになる坂月。




「もしあれなら、、そう!一発殴ってください、それで少しでも気分が晴れるなら―」




ありがちな坂月の提案に沙耶は顔をぱっと上げ。




ガンっ




「いっ!!」




瞬時にその頭に鉄拳を落とした。





「あははっ、別に怒ってませんって。やけに早いなって思ってた位ですから」




痛みに悶える坂月を見て沙耶は豪快に笑う。




「……そ、そうですか…」




絶対に怒っているに違いないと坂月は確信していたが、これ以上の衝突は避けたほうが身の為だということも重々承知していた。




「さ、じゃ、坂月さんの話とやらと、私の疑問をさっさと解決してくれません?駿がお腹を空かせて待ってますから!」




うふふと笑う沙耶が、今しがた駐車場に入ってきた車のライトによって照らされ、凄みが増すように感じる坂月。



何故なら、沙耶は普段ほとんど笑っていないのだ。



いや、ほとんどではない。


会ってから今まで、楽しそうに笑ったことなど一度としてあっただろうか。




「えっと…じゃ、そうですね…ちょっと、中身を今聞かせて頂いても?」




「どうぞどうぞ!」





明る過ぎる助手席に恐怖を感じながら、坂月はレコーダーにイヤホンを付けて耳に当てる。




最初は早送りにしていたが、佐伯の家に着いた辺りから再生し、注意深く会話に聞き入った。




沙耶はそんな坂月を横目に、石垣と最後に交わした会話を思い返していた。



彼を取り巻く、決して白くない環境を、垣間見た気がした。








「…うーん、、一体何からお話したら良いか…」





数分後、イヤホンを耳から外した坂月が悩ましげに溜め息を吐く。





「順を追って説明しないと、ごちゃごちゃになってしまいそうで…」




上手く話せるかな、と坂月は一人言ちた。






「まず、、他と関連性がない所から行きますか。…嘉納という男の正体ですが、下の名前を孝一と仰います。社長の幼馴染みで、日本で一、二を争う財閥です。ちなみに一と二は嘉納と志井名ですが、志井名の孫でもあって、嘉納の息子でもあるという非常に微妙な立場でいらっしゃいます。ちょっと前にスキャンダルもありましたし、中々の苦労人です。」




「よくわかんないですけど…すっごいふてぶてしくて何回訊ねても名前を言わない失礼な人でしたよ?」





沙耶の訴えに坂月は不思議そうな顔をする。




「?そうでしたか?孝一様は穏やかで、決してそんな方では―もしかしたら、新しい秘書だと知って警戒してわざとそんな態度をとられたのかもしれませんね…」




コロコロ変わる秘書に対して、嘉納は良い印象を抱いていないのだと言う。




「やはり秘書とは信頼関係が何より大事ですので。社長のように何度も代えていればそれだけ危険も大きい。それを察してのことだと思います。」





「ええぇ?あいつがぁ?あんな態度の奴がぁ?石垣と大体同レベルだと思いましたけど。」




かなり印象が悪かった為、沙耶の口から自然と出た格付けに坂月が苦笑した。




「少なくとも、社長とは比べ物にならない程出来たお方です。少し年上ですしね。」




坂月にとっては、かなり高評価の人間らしい。



「あの社長の数少ないご友人でいらっしゃることからも、お察しできると思いますが?」




「た、確かに…」




言われてみて沙耶は成程、と納得する。


毎日顔を合わせる直属の部下まで信じられない程、疑心暗鬼に陥っている石垣のことだ。



友達付き合い等以ての外だと感じていても、おかしくない。



それなのに、あの嘉納とかいう男と接点が多い。



現に電話の応対も、お互いかなり気を許した間柄なのか、砕けた口調だったことに気づく。




「?でも、それなら却ってメリットなんじゃないですか?超良い所のお坊ちゃんなんでしょう?繋がりはあるに越したことないですよね。どうして叔父さんは、嫌な顔するんでしょう?」




当然ながら感じた疑問を口にした途端、それまで柔らかかった空気が一転し、坂月の表情が険しくなる。





「…それだけが、というよりも、佐伯様は社長の行動全てが気に食わないんだと思いますよ。」





そこまで言うと、坂月はスッと息を吸い、揺らしていた視線を沙耶に向ける。





「そもそも石垣グループのトップに就任するとすら、考えてなかったかもしれません。」





沙耶は虚を突かれたように、目をぱちくりさせた。





「―え?どういうことですか?」



―石垣が、社長になるという考えすらなかったってこと?



いつの時代も、『跡継ぎ』と言えば、大方息子がなるもの、と考えるのではないのだろうか。




「―良いですか、これから言うことは他言無用でお願いします。また、あくまでも仮定の話だと言う事を忘れないでいただきたい。」





坂月の声のトーンがさらに落とされる。




「もしもあの日の事故が単なる事故ではなく、故意に寄るもの、とした場合…狙われていたのは巌(いわお)様―つまり石垣のお父上のことですが―ではなかったのではないかと思われます。本来狙われていたのは―」




沙耶は、無意識に呑んだ空気が、ひやりと背筋を冷やしたような、そんな錯覚に襲われた。





「諒様だったのかもしれません。」



ごくり、と沙耶が唾を飲んだ音が、できた束の間の沈黙に響く。





「何故なら巌様は、現在はニューヨークを拠点としていますので、日本にはほとんどいらっしゃらない。勿論ご自身が建設現場の視察をするなんてこともありません。あの日だって、そのプロジェクトの責任者だった諒様が出向くことになっていました。」




なのに―、と坂月が憂いを帯びた目を伏せた。





「他の契約でたまたま帰国していらしゃった巌様が、何を思ったのか急に視察すると言い出しまして―。」





そこでアクシデントに見舞われたのだと言う。




元々正義感の強い沙耶は、知らず知らず眉間に皺を寄せ、歯噛みしていた。




―それがもしも石垣の叔父のせいなのだとしたら。




「…なんでそんなことを、、する必要があるんですか?」





理由がわからなかった。



仮にも、自分の妹の子ではないか。




坂月は同意するように頷いた。


沙耶の疑問は最もだと言っている様でもあった。




「…これも定かではありませんが、何かしら巌様と佐伯様の間に確執があったからではないかと考えております。表面化してなかったので、大っぴらにはなっていませんが―」





坂月が手にしていたレコーダーにコードをくるくると巻きつける。






「恐らく奥様が亡くなられたことと何か関係しているのでは、と。」





「へっ!?」





「あれ、言ってませんでしたっけ?」





二度びっくり、どころではない。



さっきから、いや、出逢った頃から、この目の前の男は、こうした言い忘れで沙耶を何度困らせてきただろうか。





「お母さんも亡くなってるんですか?!」




「もって…まだ巌様は亡くなっておりません。それに、大分前ですよ。それこそ社長が小学校入るか入らないか位の頃じゃないですか。」




義理の母親だって居るし、と坂月がけろりと言い放つのを見て。




「さ~か~つ~き~さ~ん???あんたって人はっ!本当にっ!情報不足過ぎるのよ!業務連絡くらいちゃんとしなさいよ!仕事する上でホウレンソウは基本でしょう!?」





沙耶の怒りのパワーが両手にわきわきと行き渡り、坂月に詰め寄ろうと構えた。




「いや、ダメですって!社長に1m以内は近寄ってはいけないと言われているじゃないですかっ!」




「げっ、聴いたの!?本当に抜け目のない人ですね!!自分ばっかり!」





その肩を掴んでガクガクと揺すれば、坂月が許してくださいと懇願し始める。





「ちょっっ、、まっ、、、」




その瞬間。



「おあっ」




沙耶がバランスを崩し、坂月の胸に飛び込んだ格好になる。




「っとに…貴女って人は…」




直ぐに呆れたような声が振ってきて。




「わぁ!?すみませんっ、いっ!」




慌てて飛び退こうとしたが、髪の毛が坂月のスーツのボタンに絡まり、その痛みに沙耶は顔をしかめる。





「もう少し落ち着いて行動してくださいね。」




坂月が小さく笑んで、少し我慢してくださいと呟く。



薄暗い車内。


至近距離で、お互いを繋ぐのは一掬いの撓(たわ)んだ髪。



沙耶は罠に引っかかったうさぎよろしく、しょんぼりと坂月の大きな手がそれをほどいていくのを見つめた。



―なんか、変な距離感。



坂月はいつでもどこでも、常に沙耶と一定の距離を保っているように感じる。




そのせいか、ここまで近づいたのは、石垣邸の庭で助けてもらったあの夜以来だ、とぼんやり思った。




「…私が情報を小出しにしているのは、別に悪気があるわけじゃないんです。」






囁くように言う坂月は、今、自分のボタンと絡まった髪とに目を落としている。





「天然には見えませんけど。。」






恨めしげに言い返すと、坂月は声を立てて笑う。




「はは、天然でもないですけど…まぁ、許してくださると嬉しいです。はい、外れました。」




自由になった髪が、重力ではらりと落ちた。




「あ、ありがとうございます。」




沙耶も元の位置に戻って、ドアに背中を預ける。



「―さっきの話に戻りますが。。。あの事故の一件から社長の命が狙われているようだ、と確信して、調査に入っているんです。佐伯様は限りなく黒に近いかと思うんですが、中々尻尾を出さないので、まだ詰めるには甘いんですよね。」




沙耶の頭の中で情報はまだ処理し切れていないが、なんとなくなら把握したような気分になった。




「…大体わかりました。あ、あとひとつだけ。どうして、今日のスケジュールが空いていたのか、の質問にまだ答えてもらっていません。」





訊ねると、坂月があぁ、と頷く。




「そう、それも、さっきまでしていた話と関係があるんです。」




彼が再び口を開く前に、どこからか黒電話のベルのけたたましい音がして、沙耶ははっとした。





「すみません、私のですっ」





わたわたして鞄の中の携帯を漁ると、駿からの着信だった。



―限界か。



時間にしてみれば、坂月と話していたのは、30分ないし40分。



恐らく空腹が、駿に電話をかけさせたのだ。




「あ、じゃあ私弟が居るので、今日はこれで失礼します!坂月さん、先に出ていいですよ!」




慌てて沙耶は鞄を持ち、ドアを開け外に出る。




すると、勧めた通りに動く坂月の車の助手席側の窓が開き。





「スケジュールが空いているのは、今日が社長の母親の命日だからです。それでは、お疲れ様でした。」





また小さな謎を残し、白のベンツは颯爽と闇夜に消えた。



誰も居なくなった駐車場から、エレベーターホールまでの道のりを一人歩きながら。






「百合…?」






沙耶の記憶が、遠い香りを引き連れて、何もない今夜の空気を染める。






あの日金木犀とは別に香った、甘い香り。





―『さぁちゃん、こんなところで何やってるの?』





驚いて訊ねる男の子の手に握られた、百合の花。





―『あんたこそ、何してるのよ―』





ぶっきらぼうに訊き返した沙耶に、男の子は泣きそうに笑った。





―『お母さんが、死んじゃったから、お別れしたんだよ』





黒いスーツは、小さいのによく出来ていて、白い百合の花を映えさせた。






―『そうなんだ。じゃ、あんたも泣けば良いよ。』






当然のように勧めた沙耶に、男の子は首を大きく振った。





―『駄目だよ。僕は男だから。それに泣いたって、何にもならない。何も戻らない。』





悲しげなのに、男の子が無理して笑うから。




苦しくて、辛そうなのに、涙を堪えるから。






だから。




だから、沙耶は言ったのだ。





確か。





―『ここには誰も居ないから、泣いたって誰も見てないよ』





と。





それは、いつもそうしてくれている彼に対する、沙耶なりの恩返しだった。




―あぁそうか。



遠い思い出が甦った所で。



今朝、坂月から香った、記憶を引き出すような香りは、百合の香りだった、と沙耶は理解する。






「あの子、今頃どうしてるんだろうなぁ…」





空っぽのエレベーターに乗り込んで、壁にもたれ掛かると、独り、呟いた。



気疲れなのか、慣れない仕事に身体的に疲れているのか。



体が重かった。




目を閉じるとぼやっと思い出されるのは。




石垣の強い眼差し。




―石垣も叔父さんを疑ってるのかなぁ…




だからこそ、きっと叔父の父親の様子を探るような問いかけに答えなかったのだろう。





火のない所に煙はたたない。




鍵は石垣の母親の死、か。





―早く解放されないかな。




勤続二日目にして、沙耶は既にそう思っていた。



金のことで、散々嫌な目に遭ってきた沙耶にとって、石垣のそれが他人事には思えない。



だからこそ、面倒さも、痛みも掬い取ってしまう。



できるなら、あんな思いは二度としたくないし、巻き込まれるのも御免だ。








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