男心と秋の空


ジリジリジリジリジリジリジリ





「…んー…」





容赦ない目覚まし時計の音に、沙耶は目を瞑ったまま、頭上にあるだろう本体を手で探る。



固いブリキの感触がしたのを確認すると、アラームを止めた。






今朝はうっすらと、寒い。




沙耶は、レースだけのカーテンは春と秋だけは良いが、これから冬になるにつれて、冷気が防げなくなるのではと、寝ぼけた頭で不安になった。





そして、はたと思い当たる。




そういえば、ここに住むのも、もうあと少しなのだ、と。






「!」






勢い良く起き上がった沙耶は、襖の前に並べてある紙袋達に目をやった。







「…ある…」





急に冴え始めた目は、しっかりと事実を確認した。





「……姉ちゃん…朝からうるせぇ…」





起こしてしまったようで、隣で、時計の音では決して目を覚まさない弟、駿が、ふぁぁと気だるそうな欠伸をしながら呟く。





「~~~~!!」





バキ、という音と共に、駿の声なき悲鳴が上がった。




―夢じゃなかったのか。




掌をグーにしたまま、沙耶はまだ、行儀良く並ぶ紙袋から視線を放さなかった。



包丁でまな板を叩く音。



お湯の沸いた音。



換気している窓の外から聞こえる車のクラクション。



ゴウンゴウンと洗濯機が外で回っている音。





朝から聞こえる日常の音は、忙しない。






「あ、そうだ。私今日から仕事早くなったから、先に出るからね。戸締りお願い。」





「おう。」






育ち盛りにふさわしい大きな弁当箱に具材を詰め込みながら、沙耶が声を掛けると、洗面所から駿が返事する。





「初出勤?…つーか、今度の仕事どうしちゃったわけ?セレブ?」





タオルで顔を拭きつつ、駿が襖の前の紙袋を指差した。





「そんなんじゃないわよ…そうだ、仕事の関係で明日引っ越しだから、学校の物とかまとめておいてね。」





「引越し!?まじかよ。急過ぎんだろ…俺テストあるんだけどー」





「ぶつくさ言わない!」





沙耶は出来上がった朝食を卓袱台の上に並べ、ずらっと並んだ紙袋の中のひとつを取る。





中には高そうなスーツが入っていて、エプロンを外した沙耶は、暗い気持ちでそれに着替えた。





「おぉー、すげぇ!姉ちゃん、貧乏人に見えない。」




「ばか」




にやにやする弟を一蹴し、バッグをひっつかんで、沙耶は家を出る。




金木犀の香りは、まだ、季節の移り変わりを許していない。




「げ。」




直ぐ。



いつか見たでかいロールスロイスのお出迎えに気付き、沙耶は軽い眩暈に襲われた。





「おはようございます、秋元さん。」





秋らしいベージュのトレンチを羽織った坂月が、階段下でにこやかに挨拶する。






「……送迎、要らないって言いましたよね…?」







沙耶はそんな坂月をげんなりした顔で見つめた。






昨日、沙耶は石垣の秘書になることに決めた。



その後の坂月の俊敏な動きといったら。




直ぐに一週間分の沙耶のサイズに合わせたスーツとヒールを持ってこさせて、その中には、秋物用のコートも3着くらい混ざっていた。





―読めない人。




外面は良い人そうなのだが、坂月の考えていることはイマイチ、わからない。



秘書の件に関しても、沙耶が嫌がるとはいえ、最後には渋々承諾することを、坂月はわかっていたのではないか。



そういう風に、考えてしまう。






「記念すべき初出勤なんですから、遠慮なさらず。」






階段を下りたところで、笑みを絶やす事の無い坂月がしゃあしゃあと言うので、沙耶はぎっと睨みつけた。






「記念も何も…不幸更新記念ですか?」





「秋元さん、スーツ良く似合ってます。」



「・・・」





やはり策士だと思う沙耶だった。






数歩先では、運転手が後部座席のドアを開けて待っている。






「…本当に乗らなくちゃいけないんですか?」




―すごい、嫌だ。




悪足掻きとわかっていても、もう一度訊ねずにはいられなかった。





「だって、秋元さん、石垣の家、知らないでしょう?」






―そりゃそうだけど!





目立ち過ぎる車体を前に、沙耶は羞恥心と葛藤する。



まだ時間帯が早い為、人通りが少ないのが唯一の救いだ。




人生で二回もこんな車に乗るなんて、誰が予想できただろう。







「私も、石垣の家まで行ったら、自分の車に乗り換えて社に向かいますので。」





「そんなこと訊いてません!」





なんでもないことかのように言う坂月が憎たらしくて仕方ない沙耶。





―そりゃぁ、あんたは乗り慣れてるんだろうけど!私にとったら恥でしかないよ!






「あ、もしかして、助手席の方が良かったですか?仕方ないですねぇ、特別に前にしてあげますね。」





坂月はそう言って、助手席のドアを開けた。





―お門違い過ぎる上に、前の方が余計目立つ!





「いいえっ、何でもありませんっ、後ろでお願いしますっ!!!」





沙耶は苛々しながら、坂月を睨みつけ、さっさと後部座席に乗り込んだ。






「え、そうですか?ん?なんですか?」






後ろのドアを閉めた運転手に、じとっとした視線を送られた坂月は、首を傾げるが。





「あ、と、いけない。急がなくては。」





腕時計の時間に気付くと、慌てて助手席に乗り込んだ。




悲しいかな。



一度走り出すと、このロールスロイスは、実に座り心地が良い車で。




そう、まるでベットのよう。




安定性も素晴らしく、伊達に高いわけではないと沙耶は思った。



時間は6時を過ぎた所で、眠気を催すにはぴったり。





「早い時間でしたけど、食事は済ませられましたか?」





前からは坂月の問いかけ。





「…う、あ、はい。」





電車内でぐらぐらする人間のように、沙耶は眠気と必死に闘う。





「なら、良かったです。あれ、そういえばこれからの仕事内容、伝えてましたっけ?」





「え?あー…流れ、は…」





坂月の今更なとぼけっぷりにも、ツッこむ余裕なし。


朦朧とした意識の中、沙耶は必死で昨日の記憶を手繰り寄せる。





―確か、朝6時半に石垣の家に迎えに行ってから、出社するというのは聞いた気がする。




あとの詳細は会社で、直接石垣から指示をもらえば良いとのことだった。





「すみません。一個重要なの、伝え忘れていました。」




―いつもこのパターンだな。




沙耶はうつらうつらしながら、落ちるのをなんとか堪える。





「秘書として、朝行う一番最初の仕事は、石垣を起こすことです。」





「……へぇ…そうなんですか……」





―さっき、駿を起こしてきたように、石垣のことも…





「っっはあぁぁぁぁぁっっっ!?!?!?」






あっけらかんという坂月の爆弾発言に、沙耶の眠気も、二億光年先まで吹っ飛んだ。





「あ、ほら。ここなんですよ。石垣家は。」




声を引っ繰り返して叫んだ沙耶の事など何処吹く風で、坂月は飄々と外に目をやった。




「っ、」




言われて、沙耶も思わず窓に目を向けるが、大きなゲート、と呼ぶに相応しい門があるだけで、家に相当する建物など何処にもない。




両端に警備員が二人立っており、運転手が窓を開けると、「お疲れ様です」と声を掛けてきた。




運転手も同じように挨拶を返す。





暫くして、自動でゲートが開き、ロールスロイスは悠々とその大きな車体を中に進ませた。






しかし、続くのはただ、長い道路。



大きな木が行儀良く立ち並び、沙耶たちを見下ろしているように見える。



今坂月に食ってかかりたかった問題も吹っ飛んで、家は一体何処にあるのだろうと、沙耶はきょろきょろと周囲を見回した。





やがて、家、ではなく、城らしき建物の上部が、前方に見えてくると、さらにもうひとつ、さっきよりはやや小さめの門が出てきた。




ここでも警備員が配置されていて、運転手は先程と同じようなやりとりをした。






―こんな豪邸、日本に存在したのか。





悶々としながら、開いた門の先に目をやった。




そして。





「―あ」





見覚えのある風景に、驚きの声が漏れた。





―あの夜、走り回った庭だ。




オールドローズの咲き誇る、広大な庭。




これだけのスケールなのだから、、沙耶が外に出ることなど不可能に近かったのだと悟る。




同時に。




―坂月さんに、、私何処まで運んでもらったんだろう。





自分が今見る所のどこらへんに居たのかは知らないが、坂月は相当な距離、沙耶を抱いて歩いたに違いない。





「あの…その節は、、重たいのに運んでいただき、申し訳ありませんでした…」





小さくなって謝った沙耶の頭の中は、昨日と一昨日の記憶がないまぜになっている。




夜中のあの時間帯に、坂月に会えて居なかったなら、今頃沙耶はどうなっていただろう。



こんな広大な敷地内を彷徨って居る間に、不審者として警備員に捕獲されて、独房行きだったかもしれない。



それが、あんな良いホテルのスィートルームで目を覚ますことになろうとは。




その上、ホテルの部屋は二つ、取ってあったようで。




部屋を後にする際、坂月がルームキーをふたつ持っていたのを沙耶は知っていた。



別段、確認した訳ではないのだが、坂月のそうした紳士的な振る舞いは、彼が策士だと踏まえた上でも、なんとなく好感が持てた。





―勿体無いとは思うけれど。





「秋元さんは、全然重たく無かったですよ。心配になる位です。」





坂月は振り返ることなく答えたが、その表情は笑っているに違いなかった。




同時に車が停まった事に気付いた沙耶は、坂月の方へ向けた目を、窓の外に戻した。




―個人宅だっていうのに、ロータリーがある。




呆れが上乗せになった所で、ドアが開いた。






「あ、どうもです。」





沙耶が降りるのを待ってくれている運転手に、軽く頭を下げ。





―また、ここに来ちゃった訳ね。




つい二日前に、自分が飛び出した大きな扉を複雑な思いで見上げた。






「じゃ、また後で」




―へっ?!




横から聞こえた軽い約束に、沙耶はがばっと首を回す。




見ると、助手席から降りた坂月が、ひらひら手を振っている。




その先には、白いベンツが飼い慣らされた猫のように停車していた。






「え?!ちょっと!一緒に来るんじゃないんですか?!」





焦った沙耶が必死に訴えるも、坂月はきょとんとした顔をして。





「いえ?私は一足先に社に向かいます。」




「いや、あのっ、、じゃ、、、アレを起こすのは…」




「アレって、やだなぁ、秋元さん。一応私達のボスですよ?物みたいな言い方して。」






―そこじゃない。問題は、そこじゃ、ない。





くすくす笑う坂月を前に、沙耶は愕然とした。







「そうじゃなくてですね…その、、私一人で???」






「私はこのままこれに乗り換えて行きますね。そろそろメイドが出てくるでしょう。では、健闘をお祈りしています。」






「まっ……」






噛みあわない、会話。





伸ばした手は、届かない。






悠々と車に乗り込む坂月の姿に、首を傾げずにはいられない沙耶だった。







―紳士なのか、鬼畜なのか。







やがて綺麗なエンジン音を響かせ、車が走り去ると同時に。






「おはようございます。秋元様。」






かわいい顔したメイドが、大きな扉の前に現れた。







朝早くに見る豪邸は、やはり見紛うことなく、豪邸で。



夜中に見た時と同じ。



いや、それ以上に磨きぬかれた床が光っている。





「先日は、大切なお洋服が、私のせいであんなことになってしまい、大変申し訳ありませんでした。」




開け放たれたドアの向こうを放心状態で見つめる沙耶に、メイドが謝罪の言葉を述べた。





「え?」




見るとかわいいメイドが眉を八の字に下げて、申し訳なさそうな顔をしている。





―あの時の、人か。




ようやっと、沙耶はこのメイドの存在を思い出し、首を横に振った。






「いいえ、あなたのせいじゃありませんから。却って気を遣わせてしまって、すみません。」





「そんな…本当に、ごめんなさい…あの後、大丈夫でしたか?直ぐ捜しに出たのですが、見つからなくて…」




恐縮している様子からすれば、本当に心配してくれたのだろうが。



あんな姿で出て行った沙耶を、さぞかしトチ狂った人間だと思ったに違いない。




―あの男さえ、、いなければ…。




沙耶は恥ずかしさから、石垣に関わる記憶全ての抹消を願った。




「秋元様?」





気遣うようなメイドの呼びかけに、はっと我に返った沙耶は、無意識に握っていた拳から目を放す。





「…えっと、、大丈夫でした。坂月さんが、見つけてくれたので…洋服も直してくださるそうですし。。。。だから、、気にしないで下さい。」






漸く返答すると、メイドはほっと安堵したかのように表情を和らげた。





「それを聞いて安心致しました。では、改めまして…」




そこまで言うと、メイドはスッと姿勢を正し―





「私、石垣邸のメイドリーダーの中村、と申します。秋元様は今日付けでご主人様の秘書になられましたので、これから何かと顔を合わせることも多くなると思います。至らない点多々あるかと存じますが、どうぞ宜しくお願い致します。」





深々とお辞儀した。





「そ、そんなそんなっ。こちらこそ、よろしくお願いしますっ!」




沙耶も慌てて頭を下げる。





「坂月様からお聞きかとは思いますが、秘書の方の仕事は、ご主人様を起こす所から始まります。そろそろ時間が迫っているので、お部屋までご案内させていただきながら、ご説明致します。どうぞ、こちらへ。」





中村は一度腕時計を確認すると、テキパキとした動きで、沙耶に階段を上るよう、促した。





―聞いたのは今さっきだけどね!




と沙耶は心の中で言い返す。




「情報としてひとつ、お伝えしておかなければならないのが、恐らく坂月様が仰られているとは存じますけれど…ご主人様は寝起きが、とても悪くいらっしゃいます。」




どこの王室かと聞きたくなるくらいの階段の中腹で。





―聞いてないよっ!?




っていうか、良い年して自分で起きろよっ。




と、叫びたいのを、沙耶は必死で堪えた。





「こちらの屋敷に移った頃は、ご主人様を起こすのは私達メイドの仕事でした。ですが、朝のご機嫌が余りにひどくいらっしゃるので、次々にメイドが辞めていってしまうのです。」




「え!?」




中村の口調は穏やかで静かでゆったりしているのだが、内容が内容だけに、ついに沙耶の口から言葉が出てしまう。





「それからは、ご主人様を起こすのは、秘書の方の仕事になったのです。」





「な、なんでですか?」



沙耶の問いに、階段を上りきった所で中村が振り返る。



「下手をすると、怪我をしかねませんので…」



はぁ?!




「ですから、ご主人様の秘書はずっと男性の方でしたのに…」





首を傾げているが、傾げたいのはこっちだと沙耶は呆れた。




―どうしよう。




長い、永遠に続きそうな廊下を歩きながら、沙耶は不安な思いを抱えていた。




何故なら、今聞いた情報プラス、先日の記憶がまざまざと甦ってきたからだ。




―あんたなんか、大っ嫌いと啖呵を切った気がする。



ただでさえ寝起きが悪いと言うのに、沙耶の顔を見たら余計胸糞悪くなるのではないか。




しかも、殴ったこともあった気がする。



ここぞとばかりに仕返しされるかもしれない。






「こちらでございます。」






中村の声に、ドキリとして立ち止まれば、大きな二枚扉が無言でこちらを見下ろしている。




途中途中部屋はあったが、他とは別格な大きさと造りだった。



「あの…た、盾になりそうなもの、ありますか?」



扉を指し示している中村に訊くと。



「盾…ですか…」



中村が途方に暮れたような顔をする。



「じゃ、じゃぁ、コツ、とかありますか…?」


「…コツ…」



これにも、中村はパッとしない反応を示す。


「今までの方たちはどうやって起こしてたんですか??」



じれったくなった沙耶は、早口で訊ねた。


「そうですね…一番最近ですと窓の外から近づいて、拡声器で起こしていらっしゃいましたね。でも、材質にソノグラスを使用していますので、音は中に届かないのでは、と思いました。」



―さ、参考にならない…



「もう、いいです、、わかりました、、、ありがとうございます…」



半ば自棄になった沙耶は、情報収集を断念し、今一度大きな扉と対峙した。



―ほんと、ふざけるなよ、、お坊ちゃんが!




ノックをした方が良いのかと迷い、手を宙に浮かせた所で、中村に目をやると、首を振っている。



「…まず、静かに中に入って、状況を確認なさった方が良いかと思います。」




中村はひそひそ声でそう言うと、深くお辞儀をして。



「それでは、ご健闘をお祈りしております。」



扉から数メートル離れた所で、待ちの姿勢になった。



「・・・・」



沙耶はそれをなんとも言えない気持ちで見つめてから、再び扉の取っ手に手を掛けた。



慎重に開けた為なのか、油がよく挿さっているのか、物音ひとつたたずに扉が動く。



―何、ここ。


30㎝ほど開いて、恐る恐る先を覗くと、途方も無く大きな部屋に、何サイズかすらもわからない広いベットがぽつん、とあるのが見えた。



遮光式のカーテンなのか、陽はもう出ているというのに、室内は薄暗い。


仄かな暖色系のランプが微かにシルエットをなぞっている程度だ。



―羨ましいな、遮光式。



自分の家のカーテンと比べて、沙耶は思わず苦々しい気持ちになる。



―…じゃない、そうじゃ、なかった…起こさなきゃ。



気を取り直し、足を前に踏み出した。


と。


―あ。



中に入ると、途端にふわりと鼻を掠める香りに沙耶は立ち止まった。



―アールグレイ?



紅茶の香りが、する。



それ以外は、何もない、がらんとした殺風景な部屋だった。



―なんだ、金持ちだからもっとじゃらんじゃらんしてるのかと思ってた。



沙耶は拍子抜けしたような気持ちで、ゆっくりと大きなベットに近づく。



床暖房なのか、下から暖気が上がってきて温かい。



10m程歩いた所で。



ベットの端に辿り着く。


その、真ん中に奴は居た。


ベットに乗らなければ、完全に手は届かない。


―こんな顔、してたっけ。


沙耶は端から、仰向けになって寝ている石垣の横顔を見つめた。



出逢った時は嘘くさい上に気持ちの悪い笑顔を貼り付けていた。



それ以降は大体眉間に皺が寄っている石垣しか沙耶は知らないが。



今目の前で無防備に眠る彼は、そのどちらでもない。



と。



携帯の着信だろうか。



自分のものではない電子音が響く。



「…うるせぇ…」



直後に呟かれた、これまた自分のものではない声に、沙耶は固まった。


瞬間。


ヒュッ、ゴッ、ガン!!!



枕元に置いてあったらしい、『何か』が。


目を瞑ったままの石垣の手から飛び出したと思ったら、沙耶の目の前で勢い良く壁にぶつかって、砕けて散った。


しかも沙耶の髪を掠っていった。



―たぶん、、スマホ、よね?



沙耶は砕け散った破片から、また眠りに入った石垣へと視線を移した。



―勿体無いじゃない…



流行の最先端に居る、花の高校生である筈の駿にだって買ってあげられていないものを。


もしかしたら、この男は、スマホが鳴れば壊すっていう生活を毎日送っているのではないだろうか。



沙耶の貧乏精神は、時折やる気に繋がる。



―なんか、ムカついてきた。こうなったら徹底的に起こしてやるわ。



沙耶は意を決して、窓側に行き、カーテンの裾を引っ張った。



シャッ、と小気味良い音と共に。



秋らしい金色の光が、視界を明るく照らした。



眩しい光に目を細めつつ。



こんな大きなカーテンを引いたのは、小学生の時の体育館でやったお遊戯会以来だな、とどうでも良いことを考えた。



その時。



ベッドで眠っていた石垣が、むっくりと身を起こす。




「・・・・」




普段立てている栗色の髪が、サラ、と揺れた。




相変わらず目は開いていない。



沙耶は腰に手を当て、石垣の次の出方を、じっと見守る。



ベッド以外は、何もない、だだっ広い部屋なのに。



何をどうすれば、怪我に繋がるというのか。





恐らくは―


ヒュッ




予想通りの、空を切るような音に沙耶は直ぐに反応する。



眩しさからか、苛立った様子の石垣の拳は、今さっきまで沙耶の顔があった位置に到達していたが、どこにもヒットしないまま宙を彷徨った。



「……あれ…」



結構な速さで動いた石垣は、そこで漸く薄く目を開く。




―確かに、気配だけでピンポイントに入り込めるなんて、相当護身術叩き込まれてるわね。



数歩横に身をかわした沙耶は、感心して思わずヒュウと口笛を鳴らした。



それによって。



「そこか」



石垣の虚ろな目が、沙耶を捕らえる。




―でも。



「うるせぇ目覚まし。」



狙いを定めた石垣が、再び沙耶に飛びかかろうとしたそれよりも数コンマ前に高く上げた沙耶の踵が。



「女に手を上げるなんて最低なんだよっ!!」




「うっ」



石垣の肩に落とされる。



―スパッツ履いてて正解だったわ。



崩れ落ちるようにしてしゃがみこんだ石垣を見つめながら、どうせなら坂月にパンツスーツを買ってもらえば良かった、と沙耶は歯噛みした。



「いってぇー…、、、って、、、あれ?」



痛む右肩を擦りながら、石垣がやっと眠りから目を覚ます。


そして焦点の合った目で、はた、と沙耶を見上げた。



「………」




ややあって。




「お前、、、俺の寝込みを襲うなんて、、、卑怯だな。」



「はあ?」




開口一番吐かれた石垣の言葉に、沙耶は憤然とした。




「あんたが起きないからでしょうが!本当だったら、あんたの脳天直撃させても良かった所を、肩トントンで済ましてあげたのに。」



もっと言うなら、力だって加減した。




「…トントン、じゃねぇだろ、これ…」




石垣は顔を顰めて俯く。




「そうでもしないと、私がやられる所だったんだから。つーか、大人なんだから自分で起きなさいよ。出勤は9時だそうですけど?!」



言いながら、携帯で時刻を確認すると、7時半になる所だった。




「うるせー。寝不足だったんだよ。もっと寝かせろ…」




肩に手を置いたまま、ふらーと立ち上がった石垣はうんざりしたように呟いて、ベットに戻ろうと脚を掛ける。




「あっ!こらっ」



そんな彼の黒いシャツを、沙耶は慌てて後ろからぐいっと引っ張った。



「………」



一瞬の沈黙。




それから直ぐに、石垣が振り返り。



「え!?うわっ」


目が合ったと思った途端。


空いていた方の手を掴まれ。


気付いたら、天井が見えた。



「ちょっと!何すん…」



ベットの上に仰向けになった沙耶は、掴まれたままの左手と、掴んでいる手の持ち主に抗議しようと睨みつけるが。





「悪かったな。」



予想していなかった言葉と。



予想していなかった石垣の表情。



それから、下ろした栗色の髪に。



不覚にも、言葉に詰まった。



瞬きするのも忘れる位に。



主語のない、突然の謝罪。



何が?と問い詰めてやりたい気もした。



けれど。




「シャワー浴びてくる。」




絡んだ手も直ぐに外されて。



呆然としたままの沙耶を置いて、何事もなかったかのように、石垣は部屋を出て行った。





「………何???」




残された沙耶は、起き上がることもせず。



ぽつりと呟く。



広い部屋には、それすらも反響する。




―大嫌いな最低野郎。




それは今も、この先もきっと変わらない不動の事実だろう。




「鬼の目にも涙って奴かしら。」




―いや、あいつは鬼以上に異常だから、そんなわけないか。




何か目的があって、あんな言葉を吐いたに違いない。



邪鬼が、普通の人間らしい発言をすると、実は普通の人間なんじゃないかと勘違いしてしまう。



パーティーの時の、人の良さそうなフリをする石垣の顔と、裏の顔を沙耶は知っている。



血も涙もない人間だと、知っている。




だが。




さっきの彼の憂いを帯びた目が。





―調子狂う。





いや、栗色の髪色が。





「何回謝られたって、私は騙されないんだから。」



沙耶の記憶を少しだけ、撫でたから。



だから戸惑ったのだと、自分に言い聞かせ、沙耶も部屋を後にした。



「秋元様、素晴らしいです!」




部屋を出た所で声を掛けられ、沙耶は驚いて立ち止まった。



「中村、さん。」




見ると、部屋の中に入る前と変わらない待ちの姿勢で、中村が忠犬のように脇に立っていた。





「どのような手段を使われたのでしょう!?ご主人様はいつになく上機嫌で部屋を出て行かれました!」




興奮を隠せない様子の中村はどんどんと沙耶との距離を縮めてくる。





―ち、近い。





「かっ…」





キラキラの眼差しをぶつけてくる中村に、踵落としをしたと言ったら、卒倒するかもしれない。





「肩を、トントンって、しただけです…」





―嘘じゃ、ない。





「まぁ!マッサージですね!?早速ご主人様の起こし方マニュアルを作成致しますわ!」



たとえ、その情報で、誤りが伝えられようとも。



「え?!あ、、、え、えっと…その…私、これからあいつに付き添わなくちゃならないんで…とりあえず、、下に降りますね?!」



受け取った人間の解釈が、ちょっとズレただけだ。



沙耶は中村から逃げるように、そろそろと後ずさる。




「ああ!そうでしたわ!お時間が余りないようですものね!ご主人様はいつも朝食はこちらではお召し上がりになられないので、お召し替えが終わり次第、ロビーの方へいらっしゃるかと思います。今そちらにご案内致します。」





「はぁ…」





召し上がるのか召し替えるのか、頭がこんがらがる沙耶だったがとりあえず頷いた。






―朝から、疲れる。





早くもげっそりしながら、沙耶は結局中村の後ろを付いて行く。





「では、こちらで少々お待ち下さいませ。」




朝入ってきた扉の前に来ると、中村は一礼して姿を消す。




沙耶も軽く頭を下げて、自分の居る場所を見回した。




吹き抜けになっているロビーの天井には、大きなシャンデリア。




床はつるつるの白い大理石。




今下りて来た階段の脇にはプラントスタンドがあって、花瓶に生けられた花々が、この広いスペースに文字通り花を添えていた。




外に続く扉の両脇には、サングラスをかけたスーツ姿の男が無言で突っ立っている。




恐らく警備の人間なのだろう。





中村以外のメイド達は、といえば、忙しなく―とはいえ優雅な動きで―それぞれ仕事をしているようだが。




先日会った老紳士、もとい執事が顔を出すと、みるみるうちに階段脇に集まり始める。





最後に中村がやってきて、整列したメイド達の前に自分も立った。





そこへ。




誰かが、階段を下りてくる足音がして。





沙耶が振り返ると、スーツに着替えた石垣が、ワイシャツのカフスボタンを留めながらこちらに来る所だった。




上着は肩に掛けられている。




髪もきちんとセットされている。




―いつも通りの、嫌な感じの奴。




これから、この男と毎日こんな感じで朝会わなければならないのか。





そう考えるとほとほと嫌気が差してくる。




ちょうど、石垣が階段を下り切った所で。




「おはようございます!」




整列したメイド、執事が彼に向かって挨拶した。





「―お前は?」





石垣はそんな執事達には目もくれず、沙耶に視線を投げかけてくる。






「は?」





いつの間にか眉間に皺が寄っていたらしい沙耶が、さらに眉を潜めると、石垣はにやりと笑った。





「お前から、朝の挨拶はねぇの?秘書だろ?」




「あるわけないでしょ、そんなもん。」




何言ってんの?と呆れ顔をして睨むと、石垣が沙耶の耳に口を近づけ囁く。




「おいおい、そんなんじゃ、あいつらに示しがつかないだろ?秘書はあいつらの後に俺に挨拶すんのが日課になってんだよ。」




聞きながら、メイド達を見ると、成程、彼女達は何かを待っているような気がする。





「…チッ、はよ。」





石垣を押しのけ、耳を叩きながら、渋々沙耶が呟けば、それが合図だったかのようにメイド達からの「いってらっしゃいませ!!!」の声が響いた。




「お前なぁ…」





石垣が呆れたように天を仰いで、何か言いかけたが。





「急がないと、仕事に遅れます。」





沙耶は身を翻して、開かれた扉に向かった。




「そんな時だけ敬語かよ…」




石垣がぼそっと何か呟いたようだが、沙耶は無視して、外に出る。





「あんた、何で行くの?」




ロータリー脇に停車しているロールスロイスを一瞥して、まさかこれにまた乗る羽目になるのではと、沙耶は不安になって振り返った。




「車。」




石垣が短く答え、その後ろに鞄を抱えたメイドが付き添っている。





「まさか、それじゃないでしょうね?」





言いながら沙耶はロールスロイスを指差した。





「馬鹿か?あんなんで行くわけねーだろ、目立つ。」





石垣は馬鹿にしたように言った所で、シルバーのセダンがタイミングを合わせたかのように、ロータリーに入ってくる。





―良かった、普通…





沙耶がほっとしたのも束の間。




―じゃ、ない。




沙耶は車に詳しくはないが、目の前にあるそれが、普通じゃないこと位はわかる。



ロールスロイスよりはまだ目立たないかもしれないが、何しろ大きい。



恐らく排気量はかなりあるに違いない。




唖然とする沙耶を余所に、ロールスロイスとは別の運転手が降りてきて、後部座席のドアを開ける。






―一台に付き、一人!?




呆れを通り越して、うんざりする。




石垣は立ち尽くす沙耶に構わず、慣れた動作で中に乗り込んだ。






「あ、いい。そいつも、こっちで。」






運転手が助手席のドアに手を掛けようとすると、石垣がそれを止める。





「突っ立ってないで早く、乗れよ。」




「えっ!?あんたと隣なんてやだ。助手席に座る。」




無理無理と首を振る沙耶に、ドアを開けている運転手がおろおろし始める。




「……お前さ…」




先に中に乗り込んだ石垣が苛々したような溜め息を吐いたと同時に、その腕がにゅっと伸びてきて。




「えっっ、やだ、きゃっ!」





掴まれたかと思ったら、車の中に引きずり込まれて、たまらず沙耶はつんのめった。





直ぐにバタン、とドアが閉まる音。





思わず着いた手の平には、革の感触。





もう片手は。





「ちょっと、何するのよ!?」





石垣に引っ張られたままだ。





「…訊くけど」





勢い良く見上げた先の石垣は、冷めた目をしていた。





「お前さ、俺の何なわけ?何様のつもりなの?」




「は?!」




石垣の言葉の意味を汲み取ることが出来ない沙耶からは素っ頓狂な声が上がる。






「秘書、だよな?」





掴まれた手首がぐっと絞まって、痛み始める。



思わず顔を顰めた沙耶だが、声は出さなかった。





「お前自分の立場が全然わかってないみたいだからここではっきりしておくけど―」





石垣の視線と、沙耶の目線が、重なり合う。






「秘書は俺に絶対服従。」






この時、母と駿の顔が浮かんでなかったら―。





沙耶は迷うことなく、石垣の鼻っ柱を折っていたに違いない。









ブランドショップが立ち並ぶ街並み。


その全てが沙耶の中では価値がない。



手が届くものなど何一つない上に、必要だと思えるものだって、何もないからだ。




つまらない景色など見ていたくはないが、腹の虫が騒ぎ立つ相手よりはマシだという理由で、仕方なく沙耶は窓の外に目を向けている。



自分自身をガードするようにがっちりと腕組みをして。




ドアにへばりつくようにして。



そんな沙耶を余所に、石垣も反対の窓に頬杖を付き、どっかりと座っている。




広い車内で、二人の間にはやけにスペースがあった。




嫌な静けさが漂っている。



そんな様子をバックミラーで運転手はチラチラと不安げに見守っていた。




勿論、万が一でも気分屋の主人の機嫌を損ねることがないよう、細心の注意を払い、さりげなさを装う。







「―で?」





やがて沈黙を切り裂くかのような、低い声が響き、運転手は肩を縮ませた。




この若い社長の声は、いつだって寒気がする程冷たい。



かと言って、逆に温かい声で話しかけられても、それはそれで、いつもに増して恐怖なのだが。





「でって、なんですかっ、でって」





沙耶は相変わらずぶっきらぼうな態度で―かろうじて敬語を使用してはいるが―窓に目を向けたまま訊ねる。





「今日のスケジュールはどうなってる?」




「ぅえ?!」





―今日の、スケジュール…?!





なんだ、それ。




「なんだよ、坂月から教えてもらわなかったのかよ?」





驚いた沙耶が振り返ると、石垣は頬杖を付いたまま、眉間に皺を寄せて、こちらを見ている。




―坂月ぃ!!




沙耶は心の中で、坂月を呪うが、時既に遅し。





「俺時間ないから、いつもスケジュールの確認は車内でやってるんだけど。」





石垣の呆れ声に続き、車が停まる。




「まぁ、いいわ。とりあえず、今日は自分で確認する。明日からはちゃんとやれよ。」





運転手がドアを開け、石垣が車を降りるので、沙耶もそれに続いた。





―なんだ、もっとどつかれるかと思ったけど、意外にあっさりなんだ。つーか、自分で出来るなら、自分で確認しろよ!





最早、自分の職業の存在意義自体に疑問を呈しながら、石垣に続き、いつかの超高層ビルの入り口に入ろうと足を速める―




「ぶっ!?」





が。




いつかも来た、警備員が両端に立つゲート前で、突然石垣が立ち止まるので、沙耶はその背中に顔面を強打した。






「!いったぁー!ちょっと!!突然とまんないでよ!」





思わず悪態を吐く沙耶に、石垣はにっこりと笑って振り返る。





「!!!」



―気持ち悪っ!!!!怖っ!!!!




キラキラした石垣に、沙耶は仰け反った。



全身に鳥肌が立っている。





「秋元さん。私ね、朝食がまだなんだ。」




表情と同様、先程までとは打って変わった石垣の口調に、沙耶の警戒心がマックスになる。




「それで、朝食を買いに行ってもらえると有り難いのだが。」




石垣の隣では運転手から、会社の役員だろう人間が荷物を受け取っている。




「え?あ、はい。」




何を言われるのかと構えていたのに、なんだそんなことか、と沙耶は拍子抜けした。




「一度だけしか言わないからよく覚えておきなさい。」




若干、引っかかるような言い回しだが、沙耶は頷く。




その瞬間、石垣の笑みが真っ黒になった、気がした。





「まずボンヌ・ボヌールのポン・デ・ケイジョ、アウトゥンノのカルツォーネ、ブリーズのパンツァネッラ、それから、コクスィネルコリーヌのマンデリン、何もつけずにホットで。」





―は?!





念仏のような石垣の注文に、沙耶は自分の耳を疑う。





目が点になった沙耶に気付かないのか、気付かないフリをしているのか。




石垣は自分の腕時計に目をやると、再び沙耶に笑い掛けた。






「9:30までに、お願いできるかな。」





どこまでも晴れやかな笑顔でそう言い渡し、石垣は沙耶に背を向ける。





―く、じ、、、半???




呆然と立ち尽くす沙耶はかろうじて、ポケットから自分の携帯を取り出した。





時刻は、8時50分。




店はどこにあるのか知らない。



行き帰り、待ち時間全ての時間を合わせてタイムリミットは。




正味、40分、ない。



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「おはようございます。」





認証ゲートを通って来た石垣に、先に着いていた坂月が腰を上げ挨拶する。





「おはよう。」




いつになく上機嫌な石垣に違和感を覚えつつ、続いて入ってくるだろう人物にも坂月は視線を向け―




「……あれ…」





石垣が一人だけで来た事実を知った。




「秋元さん、、どうされたんですか?今日からの筈ですけど、、もしかして怪我させたりとかしてないですよね?」





固まった坂月等気にも留めずに、石垣は鼻唄を歌っている始末。





「まさかとは思いますけど、もう見放されたんですか。難航する交渉をやっと成功させたっていうのに…」





はぁ、とこれ見よがしに盛大な溜め息を吐いた坂月。



ネクタイを緩める石垣の手がピタリと止まる。






「人聞きの悪いこと言うんじゃねーよ。あいつは今初任務中なんだ。」





にやっと笑う石垣の視線が、壁に掛けられた時計に向けられる。






「さーて。何時間掛かるかな?」





含みのある、石垣の物言いに、付き合いの長い坂月は直ぐにピンと来る。





「あっ、またっ、何か企んでるでしょう?そういうことして、次逃げられても私は知りませんよ?自分でどうにかしてくださいよ?」





心底呆れ顔の坂月は、そう言いながら、広げていたパソコンのキーボードを叩いた。





石垣は何も言わずに、社長室に向かう。





その後ろ姿をチラリと盗み見てから、坂月は、他の建物が見えない程高いこの場所の窓から、外に目をやった。







「ひと雨きそうだな。」






あんなに晴れていた筈の空が、灰色がかり始めていた。



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―くっそぉ。




苦手なブランド街を、肩で息しながら走りつつ、沙耶は唇を噛み締めていた。





煌くこの街を疾走する人間は、そう居ない。




しかもこんな午前中から。




―こんなことになるんだったら、あいつが投げた瞬間のスマホを奪い取っておけば良かった。




スマホを一度持つと、何を調べるのにもとても便利だから手放せないと、あゆみから聞いたことがある。



そんな魔法が使えたなら、どれだけ楽だったろうか。




沙耶が今使える方法は聞き込みしかない。





のだが。




中々どうして、生粋の地元人が少ないようで。




道行く人は、ここらを知らない人間ばかりなのだ。






「コンビニ入ったら、わかるかな。」





無数の人々が行き交う中で、邪魔にならないよう沙耶は道の端に寄って、作戦を練る。




しかしその肝心なコンビニが、見当たらない。



先程の自分の記憶力が正しいかも怪しい。




―にしたって。






―あの馬鹿男、何考えてんだ。








おかしいとは思っていた。


知らなかったとはいえ、スケジュールについてのお咎めがなかったから。



絶対嫌がらせだ。




最後の石垣の真っ黒な笑顔が脳裏に張り付いて胸やけがする。




ついでに言うなら、石垣の注文したものが、本当に食べ物なのかどうかも怪しい所だ。





―あ、そうだ。




突然閃いた沙耶は、携帯を取り出して、耳に当てた。




コールの回数は、長い。




けれど、頼みの綱は他にない。





「あ、あゆみ!?」




《何よー…こっちは遅番で帰ってきて寝たばっかだっていうのに…》




やっとのこと出た相手の声は、不機嫌だ。



だけど、構ってはいられない。




携帯の画面の隅に表示されている時刻は、既に9時を廻っていた。




「ごめんごめん!ちょっと聞きたいことがあって!教えてもらいたいんだけど!」




言いながら沙耶は自分の掌にボールペンで書き殴ったメモを読み上げる。





《何、それ。全部話題沸騰中の所ばっかりじゃん…よく沙耶知ってたね。》





あゆみが面食らったかのような反応を示した。





「それはおいといて。今言った店、何処にあるか全部教えて!」





《はぁ!?》








沙耶は昔から負けず嫌いだ。




一度売られた喧嘩はちゃんと買う。






《全部教えてっつったって…沙耶は今どこに居るのよ?》




「えぇと…どこだっけ…ブランドの店がいっぱいある所!」





沙耶は元気よく答える。





《えぇ!メインストリートじゃない。なんだってそんな所に…今聞いた店は、申し訳ないけどてんでばらばらな位置よ!?》




「いいの!予想はしてた!」





《???》



石垣が考えることだ。



沙耶にとって簡単な内容にする訳がない。




「ごめん!色々あって、急いでるんだわ。あゆみのそのスマホとやらを駆使してなんとか最短ルートを出してくれない?!」





あゆみが混乱しているのはわかっていたが、説明している暇は残されていない。





《はぁー???最短ルートっつったってねぇ…、どこの店もかなり並ぶと思うよー?》





あゆみが困惑を露わにするが。





「人助けだと思ってお願いねっ!5分でよろしく!メールで簡潔に送ってくれるとありがたい!」





沙耶は早口でそう捲し立てると、返事を待たずして、通話を終わらせた。






「はぁー」





溜め息を吐き出して、沙耶は空を見上げた。





都会の空は狭い。




その上、今は厚い雲に覆われて、重圧感たっぷりになっている。




沙耶の心に圧し掛かってくるようで、息苦しく感じる程だ。






―どうしてこんなことになったんだろう。






いくら考えても、沙耶には答えが見出せない。






ポタリ。






「あ。」





冷たい雫が、沙耶の頬に落ちる。




右手でそれを拭うと同時に、携帯が鳴った。




「ツイてない。」




少しずつ強さを増していく雨に舌打ちしながら、沙耶は待ち人からのメールを確認する。





「なんじゃこりゃ…」




開けてみて思わず呆れが零れ落ちた。




あゆみから受け取った最短ルートなるものは、成程確かに最短なのだろう。



しかし、ボンヌ・ボヌールは隣の隣の隣の駅。



アウトゥンノは隣の隣の駅。



ブリーズが隣の駅。



コクスィネルコリーヌが、沙耶が今居る場所から一番近くにある。





なんとも、上手く考えたというかなんというか。





「しかも、ほぼパン屋かよ…」






コクスィネルコリーヌを除いて三つが、パン屋。


コクスィネルコリーヌだけはカフェ、というか珈琲専門店らしい。



本当にものの5分でここまでまとめあげたあゆみには脱帽するが。





「パンなら一つの店で済ませろよ!」





石垣への沙耶の怒りのボルテージは増すばかり。




我慢できずに叫べば、道行くマダムが、驚いてこちらを振り返る。




けれど、仕方ない。



雨足も強まってきた。




沙耶はとりあえず、一番遠い所から攻めていくことに決めて、ヒールなどお構いなしに、駅まで走った。






石垣の悪知恵というか、なんというか。




意地悪さもここまで極めると、天才と言えなくもない。



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びしょ。



びしょ。





ぽた、ぽた。






時刻は13時を過ぎている。




沙耶は最後の砦、もとい、コクスィネルコリーヌで、マンデリンのホットをテイクアウトして、あの憎い高層ビルへと向かっていた。




道ですれ違う人々が、ぎょっとした顔をして、沙耶のことを指差して隣とひそひそするか、見えないふりをする。




「ママー!あの人、傘忘れちゃったのかなぁ!?!」





「しっ!!」





裕福そうな親子。



悪気の全くないキラキラ坊やが、沙耶を心配そうに見つめるけれど、母親は血相を変えて、その子の腕を引っ張った。





「・・・」





沙耶の黒くて長い髪は水分を存分に含んで、ずっしりと重たい。




坂月チョイスのスーツも既に二重に黒く見える。



下着までとは言わないが、ほぼ、パーフェクトに濡れている。





パン屋はそれぞれ1時間待ちか30分待ち。



しかも珈琲屋は開店が10時だった。



電車の移動時間だけでも、40分じゃ到底無理な注文だ。




どこでもドアでもない限り、不可能。



いや、タイム風呂敷もないと、駄目だ。





―あんにゃろう…




沙耶は両手に袋を抱え、片手には珈琲を持ち、汗だくで今日何度目かわからない殺意を覚えていた。





―濡れ鼠…





歩きながら、沙耶はファミレスで働いていた時のことを思い出していた。




店の裏口にはいくつかペールが置いてあって、その中にゴミをまとめた袋を入れておくのだが。




いつだったか、底を鼠がかじって穴を開け、中に入り込んでいたことがあった。



雨の日、だった。



蓋を開けた瞬間飛び出してきた黒い影に一度は驚いたものの、地面に下りたった鼠は放心状態で、ずぶ濡れになっていた。





沙耶は思わずそれを今の自分と重ねた。




決してかわいいとは言い難い、溝鼠(どぶねずみ)。



人間という存在に住む場所と食料を奪われ、生きていく為に命を掛ける。





―自分は、あの時の濡れ鼠だ。





でも絶対に諦めない。




どんなに蹴落とされようとも、気高く、地を這ってやるんだから。







「秋元さん!?」






歯をぐっと食いしばった所で、前方から沙耶を呼ぶ声がした。





雨の雫が睫毛からも滴って、視界をぼやけさせるから、一瞬誰かわからなかった。






「坂月…」





瞬きして、それを掃(はら)って見ると、会社のゲートから、坂月がこちらに走り寄ってくる所だった。






「ずぶ濡れじゃないですか!?携帯何度も鳴らしたのに、どうして出なかったんですか!?」




外で待っていてくれたらしく、傘を差した彼の表情は心配を通り越して青ざめている。





「どいてください。」



「!?」




沙耶は、そんな坂月をかわして、警備員が立っているゲートへと向かう。





「なんだ?君は!?」




二人の警備員がびしょぬれの沙耶を見て、露骨に嫌な顔をし、通せんぼしようとする。




が。





「いや、新しい社長の秘書ですから!」





沙耶の後を追ってきた坂月の言葉に、驚きの色が広がった。





「ええ!?」




「しっ、失礼しました!!」





途端に、態度を翻らせた中年の警備員二人は敬礼までして、沙耶を通らせるが、沙耶の視界にはそんなもの映っては居ない。




無反応でずかずかと、円柱型になっている自動ドアを抜ける。




前に来た時とは打って変わって、中には社員が多く居て、突然の沙耶の登場に水を打ったようになった。




警備員らしき人間も、受付嬢も、見る人全てが、場違いなこの女にぎょっとするも。




直ぐ後ろに付いてきている坂月に気付くと、立ち止まってそれぞれ礼をする。




誰もが、謎のびしょ濡れ女を不審に思ったが、坂月の手前、何も言うことができない。





全員が固唾を呑んで見守る中、二人はエレベーターホールへと―一人は床に転々と水滴を落としながら―消えた。




途端にあちこちで、あの女は何なんだという問題が提起され、様々な憶測が飛び交うこととなった。





「秋元さん…度々申し訳ありません…今日は、仕事の引継ぎを行う筈だったのに…」





迷う事無く最上階ボタンを肘で押した沙耶に、後からエレベーターに乗り込んで来た坂月が頭を下げる。





「大丈夫です。坂月さんが、悪いわけじゃないから。」




冷たいを通り越して、じんじんしてきたつま先も、今の沙耶の怒りを静めてはくれない。





「いや、でも…早く着替えて乾かした方がいいですよ。あの、秘書室には、ちゃんと仮眠室もあって、バスルームも用意されていますから。」





坂月が言った途端、沙耶がくしゃみをして、背の高い彼は益々身を縮めた。





「あいつの秘書になるって、こういう嫌がらせを毎日受けるってことですか?」





ややあって、沙耶が呟くように訊ねると、坂月はうーんと首を捻って、沙耶が持っている袋に目を走らせた。





「嫌がらせって言ったら、そうなんでしょうけど、その店って―」




言い掛けた所で、エレベーターが停止し、目的地に着いたことを知らせる。




残りの言葉を待たずして、沙耶は先に降りると、認証が必要なゲート前で坂月を振り返った。





「あ、秋元さん。登録しておきましょう。」





坂月はそう言って、首からぶらさげたカードキーをモニターの下の部分に差し込んだ。




その後ボタン操作を幾つかして、沙耶に掌を翳すよう促す。





ここまで坂月は何度も荷物を持つよう申し出てくれているのだが、沙耶は頑なにそれを断って、荷物を手首に滑らせると、空いた手を翳した。





青い光が、沙耶の掌をゆっくりとなぞって、読み取っていく。






「よし、完了です。もうこれで、秋元さんが翳せば開きますよ。」





ピーっと長い電子音が鳴り終えると、元の画面が表示され、坂月が沙耶を振り返った。




言われるままに、沙耶はもう一度、手を翳してみる。




すると、ピピピっという小気味良い音と共に、画面に『認証成功』の文字が表示され、ゲートが開いた。




その向こうにある自動ドアを抜ければ、今日もまた、磨きぬかれた大理石の床が、宝石のように光っている。




不在の秘書机も、応接のフロアも、変わらずにそこにあった。






「あ、えーと、説明…しま…せんね…」





坂月が沙耶の背中を追うようにして、声を掛けるが、沙耶は一直線に奥へと突き進んで行ってしまう。






「じゃ、私は、、えっと…」





これから起きる『何か』が、怖い坂月は、本能的に安全を探そうと試みる。





「ここで、待ってようっと…」





所在無さげにうろうろして、仕方なく応接セットのソファに腰掛けた。





そんな坂月の動向などどうでもいい沙耶は、後ろを振り返ることなく、一心不乱に両開きの大きな扉に向かった。





バァーン!




沙耶は、両手が塞がっていることを良い事に、重たい扉を思い切り蹴り飛ばした。








「ノックくらい、常識だろ?秘書として失格だな。」







途端に、冷ややかな声が聞こえてくる。






「どうも!遅くなって申し訳ありませんでしたっ!!」





机の上に足を投げ出し、書類に目を通していた石垣に、沙耶は喧嘩を売っているようにしか思えない口調で詰め寄った。





「ご注文の品はこれで間違いないでしょうか!?」





叩きつける様にして、広いデスクにパンとパンと―もうそれぞれの名前は覚えていない―、パンの入ったサラダと、珈琲を並べる沙耶。





石垣は、普段掛けていない眼鏡を無言で外し―





「間違いないけど、冷めてるから。コレ以外は要らない。」




「なっ!!?」




珈琲を片手に持つと、あろうことか、それ以外を蹴り落とした。





「時間も大幅にオーバー。最低ランク。」





はーぁ、と大袈裟な溜め息を吐いて、石垣はまた書類の束を手に取った。





「明日はもう少しマシな秘書になってるといいんだけどねぇ。」





あんぐりと口を開けて、床に落ちたパン達を見つめる沙耶に、石垣は追い討ちをかける。





「あ、それ、棄てといて。勿体無かったら食えば?」





馬鹿にしたようにククッと嘲笑って、回転椅子がぐるりと回る。






期待などしていなかったが。



ずぶ濡れの自分を見て、何か一言、なんて、それこそかすりも思ってなかったが。




俯いた先。



沙耶の長い髪から雫が滴る先。



ぐしょぐしょになった靴先。




そこに、あれほど苦労してゲットしたパン達が転がっている。




ただのパンならそれほど、無残ではない。


けれど、焼いたパンの入ったサラダはぐっしゃりという効果音を付けるのが正解だろうと思う。






沙耶はそれを見つめ―。





―勿体無い。





なんとも言えない気持ちで、しゃがんで拾い集めた。




石垣に対しては、怒りを通り越して呆れていた。




それでも、沙耶の中にはむくむくと、生来の負けん気の強さが膨らんでいっていた。





―その内、コイツにひとっことも文句言われないようになってやるわ。





黙々とできるだけ拾い終えると、持ってきた袋に仕舞い、書類に目を落とす石垣を一瞥し、「失礼します。」とだけ言って、部屋を出て行った。




返事はなかった、と思う。




出た所で、坂月がソファの影から恐る恐るこちらの様子を伺っているのが目に入る。





「…何やってんですか…」





沙耶は呆れた顔でそんな坂月を見て、テーブルの上に持っていた袋を置いた。




「いや、何か、一波乱あるかと…」





「………期待外れでしたか?」





「…いえ…」




坂月の返答までに、少しだけ間があったのは気になるが。






「それ…どうしたんですか?」




坂月の視線が、置かれた袋に集中している。




「聞こえてたんじゃないですか?」




直ぐに沙耶が訊ね返す。



意地悪いかもしれないが、ドアは開いていたのだから、聞こえていたに違いないのだ。





「秋元さんの声はよく聞こえたんですが…社長の声まではちょっと…」




坂月がへらりと笑う。





「蹴落とされたんです。冷めたから要らないって。」




「!」





事実を即答した沙耶に、坂月の表情が強張った。





「で、棄てろって言われたんで、もらってきました。勿体無いので、私食べます。」





考えてみれば、今まで沙耶は奔走していて昼ご飯がまだだった。



言いながら沙耶は坂月の隣に腰掛けると、袋をがさがさとあさって、やや型崩れしたパンをかじる。





「ほんと、私にするならまだいいですけど、パンたちには罪は無いのに…」




沙耶は文句と共に、パンをどんどん口に詰め込んでいく。





「あー…と、、服、まず着替えた方がいいんじゃないですか?」





ソファにも滲んでくるほどの沙耶の水気に、坂月が提案するが、沙耶は涼しい顔で口をもぐもぐ動かしている。



「とにかくこれ食べるからあとでいいです。坂月さんも良かったらどうぞ?」




沙耶は坂月にも勧める。




食べてみると、これがまた冷めていても美味しいものばかりで。


さっきまでの苛々も和らぐほどなのだ。



貧乏人だとは思うが、やはり食べ物は良い。



食事の時間は至福の時間だ。



さすが、高いパンだ。




「秋元さん、、それ、幾らだったかわかります?」




浸っている所で急に坂月に話を振られ、沙耶は言葉に詰まった。




「あ?えー…と。」





―確かに高い表示価格ではあったのだが。




「なんか、石垣様の所なら良いですって…」




沙耶の財布は空に近い。切符代だけでいっぱいいっぱいというものだ。






案の定パン屋に行っても、どうすれば良いのかわからなかった。




が、長蛇の列に並んだ末、店員に事情を話そうと近づくと、『ああ!新しい秘書の方ですね』と何故か相手が知っていた。




そして、注文したものを受け取ると、『石垣様によろしくお伝えください』と伝言を承った。



どこの店でも、金銭の要求はなかった。





「おかしいと思いませんでしたか?」




気遣うように訊ねる坂月に、沙耶は首を振った。




「金持ちってこういうもんなのかな、って。」




市場に権利があるバイヤーが、買い付けの時に直に金銭のやりとりをしないのと同じように、金持ちの顔パスで、こうした請求は後から纏めてくることになっているのかと、何も不思議に思わなかったのだ。




「それぞれの店はどのような印象を持たれましたか?」




「え?ええっと…」




訊かれて、沙耶は視線を天井に向けて記憶を手繰り寄せる。



正直言うと、急いでいたために、ほとんど思い出せない。






「実は―」




坂月はそう言って、テーブルの上に広げてあった袋の内のひとつを手に取った。




「秋元さんが今日回った店は、どれも、石垣グループのカフェ部門発足に伴って試験的に展開されている所ばかりなんです。」




「え?」





驚く沙耶を横目に、坂月は頷く。





「だから、まぁ、、、ある意味…視察のようなもの、と言えるかと思います。」





―何それ。





沙耶はぽっかりと口を開けて固まった。





「次回行った時には、店の様子等覚えておくといいかもしれません。」





―最初からそう言えば良くない?全然見てないし!






途端に沙耶の中で、苛々が再びひょっこりと顔を出す。





しかし。






「では、着替え次第、改めて仕事内容の詳細を説明致しますので。とりあえず、このフロアにある仮眠室へとご案内します。そこに代えの服もドライヤーもあります。あ、シャワーを浴びたかったらそれもありますから、遠慮なく言ってくださいね。」





沙耶の反応等どこ吹く風で、坂月は何食わぬ顔で立ち上がった。




========================




沙耶を仮眠室まで案内して、着替え終わるのを待っている間、坂月はテーブルの上にパソコンを広げ、作業を進めていた。




そこへ。




「ちょっと、出てくる。」





ジャケットを羽織りながら、石垣が部屋から出てきたので、坂月は顔を上げた。





「あ、秋元さん、今着替えてるので、もう少しかかりそうですけど。」





「別にあいつは要らない。暫くは使い物にならないだろ。」






言いつつ、石垣の視線は、脇に寄せてある袋に向けられる。



それに気付いた坂月は、困ったように笑った。




「視察なら視察と素直に言えば良かったんじゃないですか?」




「視察?」




石垣が意外そうに訊き返すので、坂月は首を傾げて見せた。




「違うんですか?」





「まさか。あいつにそんなのできるわけねーだろ。」




あっさり否定されて、坂月は拍子抜けする。




「え、じゃなんで―」




「ああでもしないと、あいつ食わないから。じゃ、夕方には戻る。」





短く答えたかと思えば、石垣は既に自動ドアを抜けて姿を消していた。





「…あ、しまった。」




一瞬の後、坂月は慌てて石垣の身辺の警備を手配する為内線を鳴らした。




受話器を耳に当てながら、先程つい、言葉を失ってしまった自分を叱咤する。




要は沙耶の為に用意した朝食だったということか。





「回りくどいというか、なんというか…」





コール音をBGMに、複雑な気持ちが、坂月に独り言を呟かせた。



それから数分後。




自動ドアが開いた音がして、坂月が再びパソコンの画面から顔を上げると。




「ありがとうございました。」





雨に濡れていた沙耶が、着替えを済ませて、中に入ってくる所だった。





「ドライヤーも、お借りしてしまいました。」




すみません、と恐縮しながら謝る沙耶を見て、坂月はとんでもないと首を振る。





「社長は人使いが荒いので、秘書の方に何があっても解決できるよう、色々用意してあるんです。むしろ、好きに使っていただいて良いんです。」





新しいスーツに身を纏う沙耶を前に、同じものをあと5着は用意させておいた方が良いかもしれないと、坂月は思った。




「では、早速仕事内容の説明をさせていただきます。」






坂月が、沙耶に伝えることは大きく分けて、4つ。




1つは、フロアの設備の説明。





「もうご存知かとは思いますが、このフロア全体は、社長と幹部の者、秘書しか入ることができないゲートがあり、応接セットも、大事な来客用のもののみとなっております。」




例えば親族とか、親しい友人などがその部類だと坂月が補足する。





「秋元さんは、大体このデスクに着いて、勤務していただくことになります。」





秘書の机などがある部屋は、社長室、つまり石垣がいつも居座る大きな部屋に繋がっている。




反対側には給湯室が設けてあり、冷蔵庫や電子レンジ、ありとあらゆる種類の茶葉や珈琲等が、ぴっちりと棚にストックしてあった。




そして、その部屋を出て、エレベーターホールを抜けた先に、今しがた沙耶が着替えに行ってきた仮眠室、がある。




洗濯機、乾燥機、バスルーム、全てが完備されており、白を基調としただだっ広い空間には、シンプルなクイーンサイズのベッドがある。






つまりは、ここだけで十分生活していくことができる。




現在の沙耶の家よりよっぽど家らしい。






「そして、今度はスケジュール管理の話ですが、社長のスケジュールは分単位で入ってるんです。」





坂月の説明すべきことの、二つ目の点は、手帖。




設備の取り扱い説明を一通り終えると、坂月と沙耶は再び秘書室に戻ってくる。




坂月は沙耶に椅子に座るよう促した。




「ですから、代々秘書はこの手帖を見て、毎日のスケジュールを書き込み、社長を迎えに行った朝、車内で確認することになっています。」





立ったままの坂月が指差した先、それこそ、黒革の太い手帖が、かなりの威圧感を放ちながら秘書机の上に置かれていた。






「移動の時間は常に同行し、中々取れない打ち合わせの時間に充てて下さい。それから―」





坂月から話しておくべき事の3つ目。





「絶対に覚えて頂きたい点として、社長はペニシリン系の薬品の点滴を受け、過去にアナフィラキシーショックを起こしたことがあります。それ以来ペニシリン系とセフェム系は避け、処方される薬は常にマクロライド系にしてもらっています。大抵は専属の医師が居るので大丈夫だとは思いますが、万が一何かあった時には、エピペンを使用し救急車を呼んでください。」





沙耶の前にまたひとつ、アイテムが置かれていく。







そして、4つ目。





「社長は極度の潔癖です。これがまたひどくて、デスクの上に置かれたあらゆる物に対する自分の角度が決まっていて、少しでもズレていると気分を害します。ですのでうっかりでも社長のテリトリーに置かれている物に触れることがないよう、細心の注意を払ってください。その他にも寝起きの機嫌がものすごく悪いとか、朝食は食べないとか、色々見つかってくることはあると思いますが、追々慣れていっていただけると助かります。」






色々遅い情報を、何食わぬ顔して述べる坂月が憎たらしい沙耶。






「…もっと早く教えていただけると助かります。」




坂月の口調を真似て皮肉る。



「おっと、こんな時間だ。最初はまだ慣れないかと思いますから、しっかりサポートします。電話も秋元さんが取引先の顔と名前が一致するまでは、私が取り次ぐので、安心してくださいね。あ、その棚にリストは入ってますから時間がある時に目を通して暗記してください。」





白々しい仕草で、坂月は腕時計に目をやって、テーブルの上に開きっぱなしになっていたパソコンを抱えた。




「社員との接触もこれからあると思いますが、時々ですので、それも追々で。社長の秘書はコロコロ代わるので、一同免疫はついていると思いますが、何しろ女性は初めてなのでそれなりに噂になるかもしれません。まぁ気楽に構えていてください。」





「・・・・」




「えっと、何か用があったら内線にかけてきてください。…階はひとつ下になります。…じゃ、私はこれで。」




じとーっとした責めるような沙耶の視線から逃れるように、坂月はそそくさと部屋を出る。




「あ、そうでした!明日の引越し、業者頼んでおきましたので、ご心配なさらず!任せっぱなしでOKです。」





一度は出たのに、数歩戻ってそう叫ぶと、今度は確実に部屋を後にした。




一人残された沙耶は、チッと舌打ちしてから、改めて部屋を見渡した。



リクライニング付きの回転椅子は、腹立つ位に座り心地が抜群だ。



背もたれに背中を押し当てても、ギィとすら言わない。




何を置いたら埋まるんだろうというくらいの大きすぎる秘書机。



今見えるスペースだけをとっても、何畳あるかを考えるだけで、半日はかかりそうだ。




観葉植物もハイセンスな位置に取り揃えられていて、掃除の行き届いている感じも、専属スタッフの存在を伺わせる。




塵ひとつ、落ちていない。






「目、通しておくか―」





急に手持ち無沙汰になった沙耶は、目の前に置かれていた黒革の手帖を手に取った。




ぴったり元旦から始まっている手帖なので、勿論その頃からの予定が書き込まれている。




ぱら、ぱらと捲って見てみると、字体が何度か変化している。



書き込まれ過ぎて白い紙は真っ黒だった。




社長として就任する前も、バリバリ働いていた様子をうかがい知ることができるが、その間辞めさせられた、または辞めた秘書は一体何人になるのだろう。




そして。




日付は段々と今日に近くなってくる。




社長就任のパーティーのあった日―つまり沙耶が石垣にワインをぶっかけた日―も、きちんと予定として記入されていた。




が、その近辺から、字体がまたがらりと変わっている。




前から決まっていたような予定の字は変わらないが、付け足されたような文の字が違う。




「皆、字、綺麗だなぁ…」




男の字が汚いと決め付けているわけではないが、秘書は全員男だという事実に、驚きが口を衝いて出てしまう。



沙耶の方がよっぽど汚い気がする。




「で、今日は―、と。」




漸く今日の欄まで辿り着いたかと思えば、何の事はない、栞の紐がちゃんと挟まれていた。





「うぉ、みっちり。」




午前中は比較的空いているかと思いきや、会議、会議、会議と3連チャン。




タイムスケジュールを人差し指でなぞり、細かい指示を確認していく。






「えーと、今は、と。」






一度部屋の時計を確認し、再び手帖に向ける。





時計の針は、既に16時を回っている。





「げ。なんかよくわかんないけど、まる鶴って何だろ。」





15時に丸の中に漢字で鶴と書いてあって、取引、となっている。





「っていうか、大丈夫なのかな?あいつ、いるよね?!」





やばいっと小さく叫んで、沙耶は勢いよく席を立つと、奥の部屋へと向かった。





小走りに扉の前に立ち、まず、深呼吸。




コンコン、とノックをして、沙耶は中からの反応を待つ。





が。



うんともすんとも返事が返ってこない。





「ん?」





沙耶はもう一度、少し強めに扉を叩く。




しかし、自分以外の物音がしない。




「もーしもーし??!!聞こえてますー!?ノックしてますよー!!!」




最終的には、ガンガンとめいっぱい扉を叩きながら、呼びかけた。




それでも相変わらず何も聞こえてこないので。





「寝てんのー!?入りますよー!!!!」




一応断りの文句を混ぜて、沙耶は取っ手に手を掛けた。





「あ、れ?」




控え目に開いた扉の隙間から中を覗くと。





予想していた人物は、そこには居らず、間の抜けた声だけが響く。




偉そうなデスクは空っぽだった。





「何よー?いついなくなったのよー。」






言いながら、沙耶は遠慮なく扉を全開にして中に入った。




―つーか、坂月さん、絶対知ってたでしょ。ほんと使えないわね。




肝心なことを毎回伝えないのは、わざとなのだろうか。




憮然としながら、沙耶は部屋を見回した。




秘書室よりも更に広い社長室は、閉鎖的な空間だった。




大きな図書室のように、難しそうな本がみっちりと壁沿いの本棚に詰められている。



近代的ではなく、むしろアンティークの家具が多くあって、ここだけ隔離されている別世界のようだ。



窓もない。




「こんなところにいて、よく息詰まらないわねー」




感想が、思ったまま零れ出る。



難しそうな書類は数多くデスクに載っているけれど、きちんと整理されて並べられているのがわかる。



それを視界の隅に捉えながら、沙耶はどうしてこんなことになったんだろう?と今一度自問していた。





―格闘技じみた朝を迎えて、パン買いに走って、雨に打たれて、置いてけぼりって…秘書って言えんのかな。





静かな場所に一人でいるせいか、急に疲れを感じ始める沙耶。




―石垣が一体何を考えているのか分からない。坂月さんも、身辺警護みたいなこと言ってたくせに、これじゃ私意味ないし。




ぷぅ、と無意識に片頬を膨らませ、とりあえずこれからのスケジュールを把握しておくか、と、踵を返した。



―のだが。




「うわ?!」




慣れないヒールが、部屋に敷かれている絨毯に引っかかり、バランスを崩し―




「っとと…」




思わず、すぐ後ろにあったデスクの上に手を着いた。




「あっ…」




まずいと思った時には、遅かった。



順序良く並べられていた書類がずれて、沙耶の手も滑ったが、踏ん張ったせいでくしゃりと歪み、しかも数枚は床に落ちた。





―やばい。。




沙耶の脳裏に、さっき坂月から与えられた忠告が浮かぶ。




―社長は極度の潔癖です。




背筋に冷たいものが走る。



―うっかりでも社長のテリトリーに置かれている物に触れることがないよう、細心の注意を払ってください。


―やばい。



咄嗟に背後を振り返るが、開いたままの扉の向こうにはまだ誰も居ない。





「…多分、こんな感じ…」




さっきの角度なんて詳しいことは覚えていないが、なんとなく揃えて、拾った紙を載せて、皺になった書類を手でのばす。



潔癖、というものがどんなものなのか、沙耶はよくわからないが、多分このくらいなら大丈夫だろうと思った。



「よし。」




一通り整え終えると、沙耶は今度こそ、慎重に踵を返し、社長室を出た。




「そうだ、珈琲…」




一息吐きたい気持ちにかられ、さっき坂月から教わった給湯室にあるコーヒーメーカーを使って珈琲を淹れてみようと思い立つ。




7畳程の給湯室には、冷蔵庫もIHコンロもキッチンも、オーブンもレンジも揃っている。これで包丁とまな板などの器具があれば、本格的に食事も作れるし、お菓子だって焼ける。




「んーと、なんだっけな。」



吊り戸棚の中に入っている缶の中から、珈琲豆なるものを見つけ、取り出そうと沙耶は手を掛ける。




少し高いそれに、沙耶は爪先立ちになって―





バン!




「うわ。」




給湯室のドアが突然開いた音がしたと同時に、沙耶はバランスを崩し、届きかけた缶も戸棚から転がり落ちた。




バサー、と転んだ沙耶の頭に珈琲の粉が見事にぶちまけられる。






「うわっぷ…」





吸い込まないように思わず口を結んだ。




そこへ。




「お前さ、俺の机いじった?」





冷ややかな声も、落ちてくる。




空になった缶の、カラカランという軽快な音が、場の雰囲気に似合わない。



粉を被ったとはいえ、沙耶の目にはちゃんと高い背の持ち主が見えている。



けれど、口を開いた瞬間、確実に粉が入ってくる。





「…もう一回訊くけど。俺の机、触った?」




入り口に寄りかかる、黒のトレンチボーイ。




その顔はやたら険しい。



いつにも増して、不機嫌丸出し。




首を横に振れば語弊がある。



しかし、縦に振るには危険な気がする。





「・・・・・・・」




迷った末、沙耶は無言のまま、首を傾げて見せた。



腕組みをして、見つめる石垣の表情は益々険しくなる。




「ふざけてんの?」




断じて違うと言いたい。



だが、言えない。




この際苦さを覚悟して口を開こうか。




でも嫌だ。




沙耶の中で葛藤が始まる。




ただ、石垣の表情が殺意を孕んでいるようにしか見えない。





「何やった?」



「―?」




続く石垣の言葉に、沙耶は不意を突かれる。




意味がわからずに、目を瞬かせていると、石垣はゆっくりと沙耶に近づき、しゃがみこんだ。



尻餅をついた格好の沙耶と、石垣の視線の高さが等しくなる。




「主が居ない間に、何をやったんだよ?」





「!」






そこまで言われて沙耶はやっと気付く。




自分は疑われているのだと。




信じられないものでも見るかのような目つきで、沙耶は石垣を見た。




―何も、やってない。





「なぁ、なんで急に俺の秘書やる気になったの?」





石垣が距離を縮めるので、必然的に沙耶もじりじりと後ろに下がる。





「あんなに嫌がってたのに。もしかして、誰かに買収された?」





トン、と背中に固い物が当たり、沙耶はキッチンの下の戸棚に当たったのだと理解した。




つまり、もう下がれない。




石垣は沙耶の頭を挟み込むように、シンクの縁に両手を置いて、逃げ道を塞ぐ。




―何言ってんの、こいつ。





「―坂月?」




次に落ちてきた言葉に、沙耶は目を見開く。




「……あんた、馬鹿?」




口を開いた瞬間、予想以上の苦さが舌に広がった。




「どれだけ、人を信用してないのよ。」




けれど、それ以上の苦さが、沙耶の心に痺れをもたらしていた。




「私を疑うのはまだいい。けど、坂月さんはあんたの直属の部下でしょうよ。」




言いながら沙耶は、石垣を睨みつける。




「あとね、確かに私はあんたを呼びにあんたの部屋に入ったけど、つまづいて転びそうになった時に手を机の上に着いちゃっただけで、残念ながら何にもしてませんよ!ついでに言えば、何の書類かもわからないし読む余裕もなかったわよ!」



「うっ…」




同時に思い切り石垣に頭突きした。



珈琲の粉が散り、石垣がひるんだ所で手を払いのけ、沙耶は勢いよく立ち上がった。




「ちなみに秘書っていうのは秘密を扱う人間でしょうよ!それなのにあんた、私を選んだのよ!?あんたにワインぶっかけるような女に!自業自得でしょ??」




パンパンと自身の頭から粉を払い落としながら、沙耶は額に手を当てたまま、動かない石垣に怒鳴りつける。




「それから、知りたいなら教えてあげるけど!私が今回この仕事を受けたのは、他でもない、生活してくためよ!命かかってるから仕方なく!その上あんたは絶対服従って言うけど―」




大体払い落とせたかなという所で、沙耶は改めて石垣を見つめた。



当の本人はまだ頭を抱えている。




「私は誰にも媚びない。世界中があんたに跪こうとも、私だけは屈しない。だから、あんた以外の人間にだって同じよ。それが嫌ならさっさと首にすることね!」




でも仕事はきちんとできるように、なんとかするわよ、と付け足した。



金が絡むと、というか。



権力が絡むとというべきか。



その二つによって、人間はあっという間に豹変する。



沙耶はそれを間近で見てきた。



だから金持ちは嫌いだ。



金に、欲にまみれ、狂った人間ばっかりだから。



塵を舐めるようにして、命の火を灯すことを、嘲笑う人々。



目の前のこの男のように、信じれる人をも失くしてしまう。



ひとしきり言うと少しすっきりした。



「ちょっと…掃除用具かなんか探してきます。」




交わらない視線に沙耶は小さく溜め息を吐き、ドアノブに手を掛ける。




「―お前は」




「へ?」





後ろからかかった声に、振り返ると石垣が顔を上げてこちらを見ていた。




「お前は、昔っから、そんななの?」




突拍子もない質問は、さっきからだが、今回のはもっと難解だった。




「昔って?」




訊き返す沙耶に、




「ガキの頃のこと」




石垣は即答した。




―は?子供の時????




沙耶はなんでそんなこと、と思いながら、必死で幼い頃の記憶を辿る。




と。





「うん、まぁ…昔っから…かな。」





負けん気の強い自分しか思い出せない。


あれから自分はちっとも変わっていない。




頷きながら答えれば、石垣はふぅん、と小さく呟いた。





「じゃぁ…」




石垣も立ち上がって、沙耶の傍まで来ると、少しだけ屈み―




「信じるわ。」




耳元で小さく囁いた。




「は?」




話聞いてました?と問いかけたくなるような言葉に、沙耶は思わず仰け反った。






「掃除はクリーンサービス頼んで。俺の部屋以外全部。」





本人は沙耶を余所に、颯爽と給湯室を出て行った。





「…なんなわけ…」





その背中をなんとも言えない気持ちで沙耶は見つめ。




―男心と秋の空、とは言うけれど。。。




石垣のコロコロ変わる態度に、正直もうついていけないと感じていた。




部屋中に漂う珈琲の香りと、沙耶自身の髪についたアールグレイの香りが交じり合って、その混乱に拍車を掛けているような錯覚。






初日から、前途多難の兆し。



疲労感、半端なし。




黒革の手帖に、その一文を書き込もうと心に決めた沙耶だった。




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