悪の巣窟入ります

もう少しでアパートに着く頃。



沙耶は携帯を耳に当てながら歩いていた。




―時間帯が悪いかな。出ないかな。




沙耶が失敗したかと考えていると、呼び出し音が止んだ。




「っ、もしもしっあゆみ!?」




思わず叫ぶと、あゆみが苦笑したのがわかる。





≪どうしたの?超うるさいんだけどー。≫




いつもと変わらないあゆみの様子にほっとした。




「あ、あのさ…」





≪そうだ、こないだは私の代わりに出てくれて、本当にありがとね!電話しなくちゃと思ってたんだけど中々できなくってねー!≫




さっき起きたばかりのことを、どうやって伝えようか、もしかしたらあゆみはとっくにクビを切られているかもしれない、と考えていた沙耶は拍子抜けする。





「え…いや、あの…何か、聞いてない?」






≪え?何が?≫





「その、、、えっと、、仕事、できてなかった、とか…」




―言いづらい。




沙耶は軽く冷や汗をかいていた。






≪私明日から出勤だから、さっき連絡したけど…沙耶のことすっごく褒めてたよ?≫




「え?!」




≪何驚いてるのよ。私も沙耶はイチオシですから!って鼻高かったわ

ー≫




あゆみの言っている事が信じられず、沙耶は激しく動揺する。



「そんな、わけない…だって…そう、、坂月さんも知ってる筈…」





≪坂月さん?≫




誰も見ていないのはわかっているのに、沙耶はぶんぶんと首を縦に振った。




≪何?沙耶、坂月さんに会ったの!?≫




あゆみの声のボリュームが急に大きくなって、沙耶は思わず携帯を耳から放す。





「そんなに驚く?だってあの人ただのボーイでしょ…?」





≪はぁ?ばっかじゃないの!?坂月さんは石垣社長の右腕じゃない!≫





「は?」




呆れたようなあゆみに、沙耶の目が点になった。


同時に、ロールスロイスが脳裏に浮かぶ。




≪石垣グループのナンバー2だよ!視察を兼ねて、たまにホテルにふらっと来るのよね。いいなぁ、会えるなんて。すごい格好良いよね、優しそうだし!!!≫




沙耶の思考回路はとっくに途絶えているというのに、あゆみは興奮気味にまくしたてた。





≪もしかして、話したの!?私も話したかった!っていうか、石垣の御曹司はどうだった?!新社長になって一皮むけた感じ!?あの人もまた格好良すぎるよねぇ。私雑誌でしか見たことないんだけどやっぱり優しいのかなぁ。洗練されてる感じ…≫




石垣の御曹司というワードに沙耶はぴくりと反応する。





「…優しい???」



先程までの光景がまざまざと思い出され、沙耶のむかつきは再上陸する。




「あんな最低男!すこっしも、つめの垢ほども優しさなんてないろくでなし男よ!」





≪さ、沙耶?≫




突然怒りを露わにした沙耶に、あゆみは当惑する。





「あんなのが地球に居たら人類滅亡よ!」




≪なに、どうしたの?何かあったの?≫




困惑したような声で、あゆみに訊ねられ、沙耶ははっとした。




「ご、ごめん。ちょっとね、いいの、こっちの話。とにかく、あゆみ。もしも何かあったら連絡ちょうだいね。」




≪何かって?≫




「!えっと、何かって言ったら何かよ!じゃ、また連絡するね!」




あゆみは戸惑いを隠せないようだったが、沙耶は気づかない振りを決め込んで、半ば強引に会話を終了させた。





―どういうことだろう。




沙耶は暗くなった待ち受けを見つめながら、首を傾げる。





あの場が社長就任パーティーで。



あの諒っていう男が主役だったとしたら。




確かマスコミもきてたはずだし。



私があんなことしたら、とっくに世間に広まっていてもおかしくないはずなのに。




あゆみすら、知らないなんて。




つまり、従業員達でも口裏を合わせていることになる。





―一体何の為に?




体裁だろうか。仮にも次代を継ぐ若き社長があんなことされたなんて、大きな会社なら許せないだろう。


残念ながら沙耶は石垣グループがどれくらいのポジションなのか、知らないけれど。



でもその分報復はきっとたっぷり―。




そこまで考えて沙耶は首をぶんぶんと横に振る。




「とにかく!あゆみがクビになってないだけマシだし!私は日々の生活が苦しいんだから、バイト探さないと!」




気持ちを切り替えて、沙耶は家路を急いだ。




直ぐに馴染み深いアパートが見えてきた所で、大家が外に出ているのに気付いた沙耶は挨拶をしながら近付く。





「おはようございます」





「おはよう、秋元さん…」





パンチパーマのおばさんの、少しおどおどした様子に、沙耶は首を傾げる。





「具合でも悪いんですか?」




「いえ、、違うの…あのね、、秋元さん…!」





大家は迷っているようだったが、意を決したようにがばっと顔を上げた。





「今週中に、家を出てって欲しいの。」




「-え?」





余りに衝撃的過ぎて、沙耶は言葉を飲み込めない。





「ごめんなさいね。日にちさえ教えてもらえれば、家賃は日割り計算しておくから。それじゃ…」




唖然とする沙耶を置いて、大家はそそくさと家に入ってしまう。





―今週中に、家を出て行く。





クラリと眩暈がして、沙耶はよろめいた。







「……やってくれたな、あんにゃろう…」




今日の今日で、ここまで手を回すなんて。




―一発殴っただけじゃ、すまないわね。





流石に悔しくて、沙耶はぐっと唇を噛んだ。





母と弟を支えていけるのは、もう自分しか居ない。




行く当てなんか、最初からない。



誰も居ない部屋に入ると、沙耶は畳みの上にぺたんと座り込んだ。




ただでさえ、何もない家だ。



荷造りは簡単。




母の入院する病院から近い上、家賃3万という好条件に惹かれて決めた場所だが、幸い、追い出されることには慣れている。





「うん、大丈夫。なんとかなる。」




沙耶は敢えて口に出して言い聞かせ、萎えそうな自分を奮い立たせた。





そして、洗濯や掃除を一通り済ませると、母親の着替え等を揃え、病院に向かった。





道中フリーペーパーをもらって、新しい仕事を物色しながら半額惣菜パンをかじる。





「うーん、、どれも時給が安いなぁ。」





ペラペラと捲りながら、どれも月々の支出に合わずがっかりした。





「フロアレディとかだとやっぱり値段良いよね。」




身体だけは売りたくないと思っても、ついつい目がいってしまう。




そうこうしている間に病院に到着し、フリーペーパーを鞄に仕舞った。




1年近く通えばもう慣れたもので、沙耶は直ぐにエレベーターに乗り、本館とは別棟(べつむね)へ向かう。



「こんにちは」



いつものようにナースステーションに挨拶すると、看護師達が寄り集まって何か話している所だった。



「あっ、秋元さん…」




看護師の一人が気付き、上擦ったような声で沙耶を見る。




「?母の顔、見てきても良いですか?」




「…勿論」




明らかに看護師達の様子がおかしかったけれど、構う事無く紗苗(さなえ)の病室へと向かった。




コンコン。





「はーい」




軽いノックをすれば、紗苗の間延びしたような声が聞こえる。




大部屋がちょうど空いていなかった為、ラッキーなことに紗苗は個室だった。




「気分はどう?」





肩まである髪を、一つに結わえて横から垂らしている紗苗に、沙耶は開口一番訊ねた。




紗苗は水色のカーディガンを羽織って、ふわりと微笑む。





「今日は良いわ。着替え持ってきてくれたのね、ありがとう。」




天気が良く、風も穏やかなので、窓が少しだけ開いていた。




沙耶は持ってきた荷物を傍にあった棚に置くと、先に置かれていたらしい花束に気付く。




「何、コレ。誰か来たの?」




紗苗のお見舞いにくる人間など居ただろうか。


現にこの1年、ここに花が置かれていたことなどほとんどない。


あったとしても沙耶が公園などで摘んでくる程度だ。




「ああそれ。そうそう、たった今さっき。。沙耶の知り合いなんでしょう?ええと、どなただったかしら。男の方で、名前は忘れてしまったけど…綺麗な栗色の髪の…」





「栗色?」





紗苗のとぼけた声に、沙耶は無意識に視線が鋭くなる。





「前髪上げてた?下ろしてた?」




「えぇ?ちょっとわからないけどねぇ…」





元々おっとりした性格の紗苗は、沙耶の変化になど気付かない。




「まぁ、いいわ。何の用だったの?」



「うーん、と。純粋に私のこと心配してきてくれてたみたいだけど…。沙耶によろしくって…」




沙耶の眉間の皺がますます深くなった。




―おかしい。どっちにしたって、あいつらがそんな事の為だけに来るわけない。まして、お母さんのことなんて知りもしないのに。





「―そっか。お花、花瓶に生けてくるね。」





沙耶は取り繕うように笑顔を作って、病室を出た。












「秋元さん。」




ちょうど、花瓶に水を張って出た所で、看護師に名前を呼ばれ、沙耶ははっとした。





「あ、いつも、母がお世話になっています。」





小さくお辞儀すると、看護師も恐縮したように首を振って頭を下げた。





「少し、時間いいですか?」





「え?」





困ったような顔をする看護師に、沙耶は首を傾げた。





「お話しておきたいことが、あります。そんなに、お時間取らせませんから。」






呆けた顔をしていた沙耶も慌てて頷く。




看護師達の様子が最初からおかしかったことや、石垣等が母を訪ねてきたという事実が頭を掠める。





嫌な予感がした。



待合い室には、沙耶達の他には誰も居なかった。




看護師はそれを確認すると、端っこの席に座るようにと手で合図をし、自分も対面に座った。





「少し、、言いにくいことなのですが…、その…滞納している医療費のこと、なんですが…」





おもむろに口を開いた看護師から出てきた内容は、今の沙耶にとってはいつにも増して重い。





「あの、それは、、ちゃんと、お支払いしますから。。。」





このことで、沙耶は頭が上がらない。



毎月支払ってはいるのだが、いつも少し遅れてしまう。



本当だったら追い出されても仕方ないのに、病院側の厚意で、猶予されていた。





「いえ、そうじゃなくて…その…先程いらっしゃった方が―我が病院ともその、、縁の深い方らしく―その滞納の話をどこからか知って…」






だが看護師は歯切れ悪くそう言うと、言葉に詰まってしまう。





「何ですか?何て言われたんですか?」





逸る思いで、沙耶は先を促した。





恐らくは―。









「び、貧乏人は追い出せ、と。」





看護師の口から出た予想通りの言葉に、沙耶はふっと短い溜め息を吐く。






「本当は直々に院長が伺う所なのでしょうが、、今日は不在だったので上にはまだ上げておりません。。。石垣様もそれで良いと仰られていました。」





「?どういうことですか?」





ここに来たのが石垣本人だったのか、石垣グループと名乗った坂月だったのかは置いといて、何故わざわざ保留じみた真似をするのか。




「そうして欲しくなければ、条件がある、そうです。」




看護師は自分で言いながら、首を傾げる。




「…条件?」




「はい。それ以外は仰られていませんでした。それだけ貴女が来たらお伝えするように命じられましたので。」





中身を言わずして、条件とは。




それは、つまり―。





「…なるほど、とんだエゴイストだわ。」





沙耶はそう言い捨てると、呆気に取られている看護師を置いて席を立った。




「あ、秋元さん、、花瓶!」




テーブルの上に置きっぱなしの花瓶を見て、看護師が後ろから声を掛けるが、走り出した沙耶の耳には届かない。






―つまり。お前から会いに来いって言ってんのね。





憤りでエレベーターのボタンを連打しながら、沙耶は舌打ちする。





―だったら。





沙耶はフリーペーパーを広げて、再びバイト情報を物色し始めた。





―死んでも、私から会いになんか行かないわ。貧乏に暇なしよ。





翌日、沙耶は飲食店でのアルバイトの面接に行き、見事合格する。



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―おかしい、とは思っていた。




沙耶は煙ったい店内を見上げながら、失望していた。





ただの夜の高級飲食店のバイト、くらいに思っていた。



でも、時給がそれにしちゃかなり高いな、とも思っていた。




面接が古びた事務所みたいな所だったのも、腑に落ちない。




何の免許も持たない自分が、一発合格だったのも謎だった。




ちなみに言うなら、強面のスキンヘッドが面接官だったのも、変だった。






疑う、べきだった。






「沙耶ちゃーん!ほらほら、あのテーブル空いてるから行ってー!」





「…はーい…」






沙耶は洗面所から帰って来た所で、気持ちのこもらない返事を返す。





店内には至る所に、金持ち、やくざ、金持ち、やくざがごろごろしている。





勿論、仕切りはきちんとしてあって(というかほぼ個室に近い状態になっていて)、煌びやかに着飾った豊満なボディの大人のお姉さん達が金持ち相手ににこやかに談笑している。




―空気、悪。




淀んだ空気が室内に充満し、さっきから沙耶は気分が悪かった。





恐らく沙耶が察するに、この店は、金持ち相手に会社側がよいしょしようとする場所(それ以外に言葉が思いつかない)で、その道具として沙耶達は雇われているようだった。


隠れ家的な、接待会場。




沙耶の知識をフル稼働して、わかるのはこれ位だが、決断を下すには十分だった。





―失敗した。辞めよ。




沙耶はがっくり項垂れ、催促を受けたテーブルに向かう。






「おぅガリ!!」





つるっぱげた酔っ払いのおっさんが、沙耶に気付き、手招くのにカチンと来る。






確かに、隣に居るお姉さんと比べりゃ、ガリですが。





沙耶はシンプルな紺のワンピース姿で、仕方なくおっさんの隣に座る。






「おぅ、まだ足りんのかー!飲め飲めぇ!!」





このつるつるおっさんは、女を酔い潰してどうにかしようって魂胆らしいのだが、沙耶は酒に滅法強いので、どんなに一気をしようが、シラけていく一方だった。





しかし。





「ひっひひ…あらら~?この子はもう駄目かなぁ??」





沙耶の反対側に座る、一応同期採用の女がうつらうつらし始めている。





―あれだけ飲ませれば、当たり前でしょうが。




沙耶の眉間に皺が寄る。




「ぬひひひひ、じゃぁ…」





薄汚く笑うおっさんが、さらに汚い手を近づけた―





その時。





「ぎゃぁ?!」





おっさんの腕が反対側に反り返る。






「酔っ払うのも大概にしな、ハゲ。」




「くっ、はな、、せ…この…」






沙耶は片手で、おっさんの腕を捻りあげていた。






「く、組長に何をする!?」





ガタガタと一斉に柄の悪い連中が席を立ち、飛びかかろうとするが。





「正当防衛だよ、ばーか」





言いながら、沙耶は暴れまくる組長の腕を捻り上げたまま、背後に回って首をガッチリホールドオン。





ガキッ





「?!?!?!?!」






変な音がしたと思うと、おっさんは床に力なく転がった。





「く、組長!?」




「何しやがったこの女ぁ!!!」




「沙耶ちゃん!!?何やってんの!?」






騒ぎを聞きつけて、おねぇちっくな店長が血相を変え飛び出してきたが、時既に遅し。







「捕まえろっ!」



「うぉぉぉぉっ」








沙耶の逃亡劇が始まる。



全部が全部、おっさんの仲間ではないが、数が多い。





―広いフロアじゃ無理ね。一対一になれる通路が良い。




そこまでおびき寄せれば、勝算は十分にある。


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時は同じくして。





「あー、疲れた。なんでこんな所に呼び出されなきゃなんねぇんだ?」






男子トイレの鏡を前に、心底気怠い声で、石垣が呟いた。





「仕方ないですよ。先方が決めたことですから。きっと、喜ぶと思ったんだと思いますよ?」






隣に立つ、坂月は飄々と言ってのけるが、石垣は頭を振った。






「気持ち悪ぃんだよ、知らない女はべらして契約とか。」





イライラをぶつけるかのように、石垣は拳を壁に叩き付けた。






「でも、私達にとっても、悪い契約ではありませんし。いつもなら淡々とやってのけるでしょう。…もしかして、苛々しているのは、この事とは別件なのでは?」






「…どーいう意味だよ。」






相変わらず腹の立つ坂月を睨みつけた所で、バタバタと何かが近づいてくる物音がして、石垣は顔を出口に向けた。





「なんだぁ?」





「なんでしょう?」






石垣の言葉に、坂月も首を傾げる。



石垣が慎重にドアを開けた。



「…!!!」




出た所で、固まる。





「?どうしたんで…」





動こうとしない石垣の後ろから坂月も覗き込み、言葉を失った。




真紅の絨毯が敷かれている廊下を、秋元沙耶が全力疾走しながら、こちらに向かってくる。



しかも。





「待てこるぁ!!!このアマぁ!??」





強面の屈強な男たちが、血相を変えてその後に続いている。





「…なんで、、アイツが…?」





信じられないものでも見るかのように、石垣がぽろりと呟く。





「そんなこと、、言ってる場合じゃないんじゃないですか…?」




坂月が、呆れた声を出すが、流石に笑顔が引き攣っていた。





「つーか、、こっちに来るよな?あれ」




「…間違いなく。」





トイレから出てしまった手前、引っ込むわけにもいかず、石垣達は逃げの体勢で、反対方向に向きを変えるが。





「ここで、いっか。」





あろうことか、キキキッとブレーキ音が聞こえそうな程急に、沙耶がピタリと二人の目の前で立ち止まった。





そして、石垣を一瞥して一瞬驚いた顔をするが。





「なんであんたが…」




心底忌々しげに舌打ちしたかと思うと、素早く背後を振り返った。





「この女っただじゃおかねぇっ!!」




一般から見ても比較的狭い通路は、がたいの良い男たちには更に狭く、追いかけてきた男たちは強制的に沙耶に一対一を挑む形になる。


「おい、お前ちょっと…」




飛び掛ってくる頬に傷のある男に、石垣も坂月も制止しようと動く―




が。






ドガッバキッ




それよりも更に早く、衝撃音と何かが折れるがした。






「―え」




石垣と坂月は目の前の光景に、自分の目を疑う。




「うう…」




一瞬前まで沙耶に殴りかかっていた男が、絨毯の上に転がって居たからだ。




沙耶はと言えば、後から後からわいてくる男たちを、次から次へとなぎ倒して行っている。





ベキッ



ドゴッ



バキッ



ペキンッ





「スカートなのに…」





坂月は思わず口に手を当てた。



沙耶はひらひら舞うワンピースの裾を煩わしそうにしながら、前方から来る相手を尖ったヒールで蹴飛ばし、背後からふらふらと立ち上がって襲い掛かる男を右肘で弾く。





「おい、あいつ今回し蹴りしたぞ…」




石垣も二の句を継げない。





型も形式もなく、思い思いに飛び掛ってくる屈強な男たちが、ざっと30人は居ただろうか。




それが、今全て、意識を完全に失っているか、動くことができなくなっていた。





坂月はふと、腕時計に目をやって。




思わず、二度見してしまう。





この全てが沙耶が通路に立ち止まってから、たった二分間の出来事だったからだ。



軽く肩で息をする沙耶の背中を、二人は呆然と見つめた。





やがてくるっとこちらを向いた目つきの鋭さに、うっと息を呑みこむ。






「…不本意ながら、会うことになっちゃったけど…」





むちゃくちゃになった真紅の絨毯の下から、剥きだしになった床に、カツカツとヒールを当てながら、沙耶が近づいてくる。




あの踵でよくもあんなに動けたものだと感心した。




そして―。





「石垣ぃ!!」





沙耶は名前を呼んだと同時に、石垣のネクタイをぐぃっとひっぱり顔を寄せた。





「あんたよくも色々やってくれたわねぇ!」





「っ…放せよ、酒くせぇ」





息がかかるほどの距離で、石垣はふぃと顔を背ける。





「まぁ、あんたが何しようと?私は痛くもかゆくもないですけど?姑息な真似やめてくれる?どうせならここでわかりやすく決着つけてもいいけど?」





沙耶は啖呵を切った。




そこに。




「まぁまぁ、ちょっとそんなこと言わずに。」





坂月の落ち着いた声に、沙耶が反応した時には遅かった。




背後からトスンと沙耶の首に落とされた衝撃。







「ここじゃ、落ち着きませんから。話はゆっくりと、別の場所でしませんか。」






―しまった。油断、した。








直ぐに目の前が真っ暗になり、沙耶は意識を強制的に手放すことになった。




その中で沙耶はチッと舌打ちした。




―酒さえあんなに飲んでなければ気付けたのに、と。







真っ暗な中で。





誰かが、土を踏みしめ、近づいてくる音がする。




―誰か、来る。




その場にしゃがみこんでいたらしい沙耶は、俯いていた顔を隠すように、長い髪の毛を手繰り寄せた。掴んだ毛束はいつもより少なくなってしまっている。






秋元の本家の裏には、立派な竹林が広がっていて。




どうしても、辛くなった時、沙耶はそこで一人で泣いていた。




沙耶のことをヒーローだと思っている弟の前で泣く訳にもいかず、叔母や親戚の子供の前で涙を見せるくらいなら死んだほうがマシだと考えていた。







―初めて、泣いた日。





気に入って、長く伸ばした髪の毛を、鋏で一掬い、切られた。





沙耶は唇を噛み締め、竹林の中ほどまで入っていき、そこで蹲(うずくま)って声を出さずに泣いた。




誰も来ない場所の筈だった。




なのに。






どんどんこちらに近づいてくる軽い足音に、親戚の子供だったらどうしようと沙耶は身を固くする。





そして。






『…誰?』





聞き覚えのない、声に。





沙耶は反射的に顔を上げた。





涙で湿った頬に、バラバラの髪の毛が張り付いたまま。





―綺麗な、髪の色。




場違いなことを思ったのを、覚えている。







『誰かに、髪、切られたの?』







そう言って、見知らぬ男の子はしゃがみこんで、沙耶の顔を心配そうに覗き込み、頬にある髪にそっと触れた。








『女の子にとって、髪は、宝物なのにね。』




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―薔薇の、匂いが、する。





ぼんやりとしてはいるが、意識を取り戻した沙耶は、鼻腔をくすぐる香りに心地よさを覚える。





―夢の続きだろうか。







沙耶の現実は、薄い布団と畳み。






ふかふかのベットのような感触や、薔薇の匂いなんか、感じたことが無い。







―もう少し、夢を見ていたい。





沙耶は目を閉じたまま、深く息を吸い込んだ。





と、同時に。




首筋に小さな痛みが走った。





―そうだった。





先ほどまでの記憶が一気に甦り、沙耶はぱちっと瞼を開く。






「?!」





視界に広がる天井の高さとあれが俗に言うシャンデリアか!?みたいな照明に驚き、がばっと身を起こした。


但し、光は小さくされており、室内は薄暗い。







「ど、こ…、ここ…」






沙耶の家の30倍はあるだろう、部屋。




白い床はピカピカと輝く。




贅沢な調度品がセンス良く並べられ、細かな彫刻が施されているアロマポッドらしきものからは、薔薇の香りが流れてきており、沙耶自身はというと、キングサイズの天蓋付きベットに一人、横たわらされていた。





ついでに言えば、テーブルの上にある花瓶にはオールドローズが飾られている。




道理で薔薇の香りがする筈だ、と沙耶は納得した。


「あー、酒臭…」




自分と、自分の服に纏わりついた酒と煙草の匂いに沙耶は顔を顰める。




「一張羅だったのに…」




沙耶にとって女の子らしい服は、この紺のワンピース、だけしかない。



大学の入学式の時に着るといいと、父が買ってくれたもので。



スーツの方がいいよ、と沙耶は憎まれ口を叩いた。




結局それが、父が沙耶に買ってくれた最後のものとなり、追い出された際も、これだけは、となんとか守り通した。




今回のバイトでは、スカートを着てくるように指示されていたから。



仕方なく沙耶はこのワンピースに袖を通したのだったが。




まさか、あんな店だとは知らなかった。




諦めの溜め息を吐いて、沙耶はとりあえずベットから降りる。





そこに。



コンコン、とノックの音が響いた。





「秋元様、お目覚めでしょうか?」





見知らぬ女の声に、沙耶は首を傾げる。




「―失礼致します。」




返事をしない沙耶を余所に、ばかでかい金のドアノブがカチャと控えめに回される。





「あぁ、起きてらっしゃったのですね。」





そぉっとドアの隙間から顔を覗かせた女は安心したように中に入ってきた。






―メイド?




沙耶は目を瞬かせながら、グレーの制服に白いエプロンを身に着けた女を見つめて思う。





「ご主人様がお待ちですので、お召し替え願います。つきましてはこちらへ。」




「-へっ?」





メイドは素っ頓狂な声を出す沙耶を、かわいい顔に似合わない力でぐいっと引っ張った。


そして。



あろうことか、ワンピースのファスナーに手を掛けたのだ。




「あの、あのあのあの?!」




訳も分からず沙耶は抵抗するも。




部屋に入ってくるメイドの数はどんどん増えていき、とうとう沙耶は全部脱がされてしまった。



真っ赤な顔をしてどこを隠したらいいのか混乱する沙耶を、メイドたちは奥の部屋へと連れて行く。




―ひぇ、これって…風呂?!





沙耶は連れて行かれた先、目の前に広がるガラス張りのバスルームに目を剥いた。





でかすぎる。




これは、銭湯か、温泉。




あっちにジャグジー、こっちに猫足バスタブ、そこには薔薇の花びらが浮かべられた円状のお風呂。





―眩暈がする。





一瞬気が遠くなった沙耶だったが、メイドたちが沙耶の身体を洗おうと、自身の制服をたくし上げたのを見て我に返る。





「じじっ、自分で洗えます!!!!」





沙耶はバスルームに入ろうとするメイドたちを何とか外に追い返して、ドアを閉じると、鍵を閉めた。





ふー、と落ち着かない程広い風呂で、なんとか心を落ち着けるために息を吐く。





「なんで、風呂に入らなきゃ駄目なのよ?」





大体今何時なんだろう?



店にいたのが20時過ぎ位だったか。





「帰りたい…げっ…」




ちらっとガラス張りの向こうを見ると、湯気でぼやけているものの、メイドたちが待ちの姿勢を保っているのがわかる。




沙耶は観念して、仕方なく身体を洗うことにした。



どうせ、アパートには風呂がない。




銭湯代が浮くと思えば、ラッキーだし、逆にこんなお風呂に浸かることができるなんてこれから先一生ないだろう。




開き直った沙耶は、いい匂いのする高そうな洗剤をばしばし使い、シャワーをじゃんじゃん流して、金持ちの風呂を堪能した。






―で、ご主人って誰だ?





さっきメイドが言っていたことが、ふと引っかかったけれど、ぶくぶくと肌を刺激する泡に気をとられて、すっかり失念してしまった。





良い気分でバスルームを出ると、待ってましたとばかりにメイド達が動き出して、あっという間に沙耶を取り囲む。





「うわ、うわわわ」





あれよあれよという間に、沙耶はタオルに包まれ、新しい下着を着けられた。




「いや、あの、もう、いいですからっ…」




なんとかメイドを押し留めようとするも、反対にドレッサーの前に半ば無理やり座らされ、動かないようにと数人に押さえられる。





―もう!なんだってんだよー。




ドライヤーで髪を乾かされ、軽くカットされ、メイクされ―



もうどうにでもなれとうんざりする沙耶。



更に薄いピンクのシルクワンピースに着替えさせられ、ヒールも同じ色に合わせた新品を履かされる。





そして、沙耶が自分の意思を失いかけた頃。





「すっかり、お綺麗ですよ。さ、それではご主人様の元へどうぞ。」





メイドは全員が達成感に溢れていた。





「ご、ご主人様?」




―そうだった。



沙耶は再び思い出す。




―まさか。



さっきからの記憶を辿ると、嫌な予感しかしない。




その上、沙耶の着ていたワンピースと違って、ざっくりしたカットのワンピースが落ち着かない。




「ささ、こちらへ。」




そんな沙耶の様子などに気付くこともなく、メイドは部屋の二枚扉を開け放ち、沙耶が来るのを待っている。




まるで有名旅館のお見送りみたいだ、と思った。




―出口は、どこだろう。




逃げるタイミングを見計らいながら、沙耶は仕方なく部屋を出る。




そして、出た所の廊下の広さにぎょっとした。




息を呑んで立ち尽くす沙耶に、メイド達は列になって深々とお辞儀をしている。




最初に部屋に入ってきたメイドだけは、案内してくれるようで、先で振り返って沙耶が来るのを待っている。





―これは、ちょっと難しいわね。




数メートル先にある大きな窓からは、木の葉が見えている。



ということは、少なくともここは2階以上ということになる。





沙耶は直ぐの脱出を諦めて、素直にメイドの後を付いていくことにした。




廊下には要所要所に高そうな骨董品が飾られており、時折花も生けられている。




これだけ照明が煌々としているにも関わらず、塵ひとつ見当たらないことに、沙耶は驚いていた。



「あの、、これから、どちらに?」




シンデレラかよと思う程の大きな階段に出た所で、沙耶は思い切ってメイドに訊ねる。




「お夜食をご用意致しておりますので、食堂へ向かっております。」




かわいい顔をしたメイドは、振り返って小さく微笑んで見せた。




―食堂…夜食…




そう聞いて沙耶のお腹がくぅと鳴った。




よく考えて見れば、お昼から何も食べていない。



すきっ腹に、酒だけしか、飲んでいない。





脱出の決意を揺らがせる誘惑。




沙耶は悩むが、足が勝手に動いてしまう。



見てみると、階段を下り切った辺りに、玄関らしきものがあった。




―あそこを突っ切れば、外に出れる。



沙耶はうーん、と考え込むが。




―いいや、腹ごなししてからでも。




腹が減っては戦はできぬ、とはよく言ったものだ。



自分自身に言い訳しながら、沙耶は階段を下り始める。




―それに。




「あの…さっき私が着てた服なんですけど…返していただけますよね?」




父親からもらった紺のワンピースの所在が、気になっていた。



メイドはああ、と頷く。




「クリーニングするところでございます。」





「!いや、いいので、直ぐ返してもらえますか?」





そんなことしてたら、明日の朝まで脱出できなくなってしまう。



「良いのですか?…わかりました、それではご案内した後で、食堂にお届けしますね。」




最後の一段を下りた所で、必死の形相で頼み込む沙耶に、メイドは親切に提案した。



大きな階段を下りて直ぐ脇に続いている廊下をずっと進んでいくと、存在感たっぷりの扉の前で、眼鏡を掛けた老紳士が一人、立っていた。





「さ、こちらでございます。」





メイドはその前で恭しく沙耶にお辞儀をし、老紳士が扉を開いた。





―あれは、執事かな。




開かれた扉の向こうから漂う美味しそうな匂いに誘われながら、沙耶はメイドと執事を一度に見ることができたという変な達成感を感じていた。





が。





「おっせーな。」





一歩中に足を踏み入れた途端、現実は直ぐにやってくる。





さっき居た部屋同様、少し落とされている照明。




映画でしか見たことのない、金持ち特有の長いテーブルには等間隔でキャンドルに火が灯されていて。




その上には見たことのない料理たちが、湯気を上げて並んでいる。




壁には金の額縁に入った高そうな風景画が掛かっていて。






そして。





奥に座する、紛れもない、石垣諒。





「お前も、それくらいするとちょっとは見栄えするもんなんだな。」





偉そうに、ふんぞり返る、にっくき敵を前にして。





「やっぱり…あんた、、、よね。」





沙耶は、がっくりと項垂れる。




「なんだよ、それ。」





石垣は怪訝な顔をして、立ったままの沙耶を見上げる。




沙耶は入り口に居て、石垣は一番奥にいる為、長いテーブルの端と端になっている二人の距離は、少し遠い。





―気を失う前の記憶はどうか夢であってくれと願ってたのに。





沙耶は舌打ちした。





やっぱりここはこいつの家だったのか、と。






同時にあんなにあった食欲が一気に失せていく。




―こいつと二人きりで食事なんて、冗談じゃないわ。





「すっごく悔しいけど、あんたの望みどおり来てやったわよ。用件を早く言ってくれる?」





沙耶はその場で腕組みしながら、石垣を睨み据えた。




目の端では、さっきの執事が椅子を引いて待っててくれているのが見えている。





グラスもきちんと二つ並べられている。



ほんの少し前までは、食べるつもりだった。




『ご主人様』が一体誰なのか、薄々感づいてもいた。






けれど、実際に石垣と対面した今、奴と同じ空気を吸うことが、沙耶にはやはり我慢ならなかった。







「どーせ、腹減ってんだろ?とにかく座れよ。」





「あんたと同じもの食べる位なら餓死した方がマシよ。」






吐き捨てるように言えば、石垣の眉間に皺が寄る。






「…へえ?随分と言うじゃねぇか。お前今自分がどんな状況にあるか分かってんの?」





テーブルの上に足を投げ出し、肘掛に頬杖を付く石垣の様子に、沙耶は苛々が増していくように感じた。





「これ以上俺に逆らったら、お前の母親も、友達も、どうなっても知らねーぞ。」





「だから!用件を言えっつってんのよ!」





一歩も退かない沙耶の態度に、石垣ははぁ、と溜め息を吐いて、額に手を当てる。





「だから―、とにかく、、、飯食えって。」




「だからっあんたと同じものは―」




だから、が三回続いた所で、石垣が沙耶を遮った。





「俺は、食わないって。」




石垣の言葉に、沙耶は虚を突かれたようになる。





「…は?」





「元々俺は食事は済ましてきたし、深夜は食わない。ワインだけ嗜んでただけだ。」





ということは。




目の前に整えられた食卓は、沙耶の為だけに用意されたことになる。





「まさか、毒が…」





信じられずに呟けば。





「んなわけねーだろ。」





直ぐ様呆れたように石垣が返した。






「お前はあそこで仕事してたんだから、食ってないだろ。」





ぶっきらぼうだが、気遣うように言われた言葉に、沙耶は疑心暗鬼に襲われる。






―なんだろう。なんだっていうんだろう。





キレイなワンピース。




履いたことのない高いヒールの、かわいい靴。




一流のメイク。



一流のヘアメイク。




そして、高級そうな食事に心ときめく。





女の子、らしいこと。





全て、沙耶が小さい頃、諦めたものばかり。





それをどうして、今ここで経験しているんだろう。





この憎き相手は、一体何を企んでいるんだろう。





「…じゃぁ、お邪魔します。」





けれど、一つ分かるのは、沙耶が座って食事をしなければ、石垣から話は聞けそうに無いと言う事だ。





同じ空間に居るのは嫌だが、仕方ない。




沙耶は、渋々執事が引いた椅子に腰を下ろした。




「何を飲まれますか?」




給仕に訊かれ、酒はもううんざりなので、水をお願いする。




「…いただきます。」




まだ湯気が上るスープに恐る恐る口を付けると、五臓六腑に染み渡るとはこのことだと感じた。




「美味しい…」




無意識に呟いた沙耶を見て、石垣は満足そうに頷き、自分もグラスに口を付けた。




暫く黙々と食事を続け、石垣もそんな沙耶を黙って見つめていた。




石垣と沙耶の位置は、近くはないが、遠過ぎもしない。




テーブルは大きいとは言え、座っているのは二人で、執事や給仕は立っている。





よって、石垣からの視線に、沙耶は気付いていた。





―た、食べにくい。。





耐え切れず、チラッと石垣の方を見ると、ばっちりと目が合う。





「!!」





思わず逸らすも、居心地が悪い。






「…お前さぁ…」




「う、な、何よっ」





その上、突然話しかけられ、ひどく動揺した。






「何か習ってた?」




「へ?」





何について問われたのかわからず、眉間に皺が寄った。





「さっきんとこで、回し蹴り、とかしてたろ。」






そこまで言われて漸く合点がいった。






「習ってないわよ、そんなもの。」





ふかふかと美味しいリゾットを見つめたまま、沙耶は答えた。





「へぇ。じゃ、自己流か。」





少し驚いたような口調で石垣が呟いた。




沙耶としては、乱闘シーンを目撃されて、かなり恥ずかしかった。




さぞかし何か嫌味ったらしいことを言われるのだろうと構えていたが、予想に反して石垣はそのまま黙り込んでしまった。





彼が次に口を開いた時は、沙耶が食事を済ませた時だった。






「…そろそろ、話すか。」





暖かいミルクティーが目の前に置かれ、気持ちがほっこりする場面で。




ふいに落とされた石垣の声に、沙耶の身体に緊張が走った。





「就任パーティーの時の失態の代償はかなり高くつく。石垣グループとしては、お前をこのまま放って置くのは面子に関わる。」





手を顔の前で組んで、まるで裁判官のように言う石垣に、沙耶は軽く憤りを覚える。






―元はと言えば、あんたが悪いんでしょ。





それでも、心の中で悪態を吐くだけに留めた。





「まぁ、分かっているだろうが、お前ごときの人間一人、捻り潰す位訳ない。」





石垣が何を言いたいのがさっぱり見当がつかず、だから何が言いたいんだと頭の中で何度も叫ぶ。






「それに、俺はそんなんじゃ許せない。つーことで。お前を暫く手元に置いて、それ相応のことをしてもらうことにする。」






「―は?!」





訳が分からず、結局声を上げてしまった。



当然、眉間にも皺が寄る。





「ほら、俺こんなんだから、秘書が次々と辞めていくし?とりあえずお前をそのポジションに入れてやるから、せいぜい罪を償え。その間にお前に何をしてもらうか、俺も考える。それでチャラにしてやる。」





―なんだ、それ。





怒りを通り越してどうにかなりそうだ。




わなわなと身体が震えた。






「…絶対、嫌!!!!」






勢い良くその場を立ち上がると、私は大声で叫ぶ。






「お前に、決定権はねーよ?」







しれっと言い切る石垣をぎっと睨みつけた。








「あんたと毎日顔を合わせるくらいなら、死んだほうがマシよ!」




「お前なぁ…」





ちょうどそこまで言った所で、コンコン、と小さくドアを叩く音がした。





執事がどうしたら良いか、主人に視線を向ける。





「開けろ」





「…失礼致します」





石垣が短く許可すると、ドアが開かれ、恐縮しきったメイドが、頭を下げて中に入った。





先刻、沙耶をここまで案内してくれたメイドで、その腕には紙袋が抱えられている。



「あ、ありが―」




「なんだ、それ」





メイドと目が合った沙耶が感謝を述べようと口を開いた瞬間、石垣が不機嫌そうに呟いた。





「あ、あの…」




「持って来い」





メイドの答えも待たずに、石垣が指示を出す。


彼女はちらりと沙耶を見たが、申し訳なさそうにして、主人の下へと歩いて行った。





「ちょっと!!あんたにはそれ関係ないし!」




沙耶の静止も聞かずに、石垣は紙袋を受け取り、中を取り出した。





「あぁ、なんだ、この安い服か」




石垣は嘲笑うようにそう言うと、沙耶を見る。





「俺の秘書になれば、もうちょっとマシな服が買えるくらいの給料は払ってやるぜ?」





ただでさえ、自分は短気だ。




そんなことはわかっている。




けれど、今回の石垣の言動は、今までの何よりも許せなかった。





一気に頭に血が上ったような感覚だった。






「あんたは人間のクズよ!最低よ!もう一秒だって同じ空気を吸ってたくないわ!反吐がでる!」






言いながら、石垣の持つ濃紺のワンピースをひったくって帰ろうと思った。






その時、だった。







「…へぇ?」






冷たくて、低い声と。



絹を裂くような音が。






沙耶から、言葉を奪った。




暖かい筈の、その場の空気が凍りついたように感じた。




口を開こうにも、沙耶には声が出せない。





テーブルの上に並べられたカトラリーの中のナイフが、沙耶の濃紺のワンピースに突き立てられ、裂かれている。





きれいな切り口に、余程切れ味の良いナイフなのだな、とぼんやり思った。






「お前、何か勘違いしてない?お前が俺に指図する権利なんてないだろーが。」







石垣の持つワンピースに手を伸ばしたまま、呆然と立ち尽くす沙耶を、石垣は鼻で笑う。






「ほら、返してやるよ。」






そして、切り裂いたそれを、沙耶に向かって投げつけた。





布切れと化したワンピースは、ふわり舞って、沙耶の手を掠め、はらりと床に落ちる。







「っ…」






それを目で追いながら、沙耶は唇を血が出るほど強く噛み締めた。






―泣かない。絶対にこの男の前じゃ、泣かない。






そのままかがんで、ワンピースを拾う。






「なんだよ、文句あるのかよ。そんな奴より、今着てる方が何倍も高いんだぜ?感謝しろよ。」





腰を上げた時、しっかりと睨んだ先にいる石垣が発した言葉に、怒りは頂点に達した。



まず、履いていた靴を脱ぎ捨てた。




「!?」





周囲から息を呑むような音が聞こえたが、そんなこと、構わない。





そして、左手に濃紺の布切れを握り締め、裸足のまま、勢い良く石垣に詰め寄ると、その手からナイフを奪い取る。







「!!おやめくださいっ!」







執事が静止するのも聞かずに、沙耶はそれを自分に突き立てた。





音はほとんどしなかった。





ピンク色のワンピースは、おもしろいほどにすっぱりと、真ん中から、切れた。






「お前…何、してんの?」






石垣も、止めに入った執事も、給仕も、それぞれ目を丸くして固まっている。





沙耶が切り裂いたワンピースを乱暴に肩から外すと、膝丈までのスリップが露わになった。






「こんな服、要らない。」





沙耶はそれだけ言うと、踵を返し、食堂の扉を開ける。





「は?ちょ、待てよ!」





暫く放心状態だった石垣は、それを見て我に返り、慌てて沙耶の後を追った。




まだ秋とは言え、深夜の豪邸の廊下は、裸足で歩くのには冷たすぎる。




その上沙耶は下着姿だ。





けれど、そんなことも気にならない程、沙耶は怒りでいっぱいになっていた。






更にその怒りのボルテージを上げるのが、ぺたぺたぺたという自分の足音の後に続く、ツカツカツカという足音。






「おいっ」





自分を呼んでいるらしいけれど、沙耶は気付かないフリをして、振り返らずにさっきチェックしておいた玄関口を目指す。





幸い、大きな玄関に人は居らず、沙耶はすんなりと金色のノブに手を掛けた。





そこに―





「待てよっ」





追いついた石垣が、露わになった沙耶の肩を掴んで振り向かせた。




瞬間ダイレクトに感じた熱に、沙耶は嫌悪感を隠せなかった。





「触んな!」





咄嗟に振り下ろした腕を、石垣が掴む。





少しの間、二人の視線が絡み合った。






石垣の瞳は揺らいでいるが、何を考えているのかは、わからない。




しかし、沙耶の目は相手を見上げ、きつく睨んでいた。





そして、ほんのりと、濡れていた。






「…なぁ「…らい…」」





「え?」






口を開きかけた所で、沙耶が何かを呟いたので、石垣は口を噤む。







「あんたなんか、大っ嫌い」






沙耶はありったけの憎しみを籠めてそう言い捨てると、自分を掴むその手を振り解き、石垣に背を向けて再びドアノブに手を掛けた。






大きな扉だが、すんなりと開いたことに安堵した。






沙耶は後ろを振り返る事無く、屋敷を出て行く。








「だんな様、どうかなさいましたか?」






ガチャンと金具の音が響き、それを聞きつけたメイドが駆けつけてきても。





石垣は黙ったまま、その場に立ち尽くし―





ただ、自分の掌を、見つめていた。






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―嫌い嫌い嫌い嫌い、大っ嫌い。





屋敷の外に出た所で、既に沙耶の口からは嗚咽が漏れていた。




目からは熱いものがボロリボロリと零れ落ちて、最初こそ拭ってはいたが、直ぐにそんな行為は無意味だと悟った。





裸足に、夜露に濡れた芝生が当たる。




剥きだしの肩も腕も、外の空気に触れて鳥肌が立った。




屋敷を出てから、時間がどれ位経ったのかはわからないけれど。





無我夢中で、どこを目指すでもなく歩く自分にはたと気付き、それくらい頭がパニックに陥っていたのだと、知った。




余りに、ショックだったのだと。




片手に握り締めた布切れを、改めて見つめる。






「・・・ごめん、お父さん・・・」





―形見だったのに、守りきれなくて。





呟けば、一際大きい粒の涙が頬を滑り落ちる。





小さい頃から、何でも自分の力で守らなければ、何ひとつ手元に残らなかった。





沙耶は膝を抱えるようにして、しゃがみこむ。




そして、父からのワンピースをぎゅっと抱き締めた。





―大きくなった今も、自分はあの頃のままだ。




自分が守れなかったものは、二度と取り返すことが出来ない。




そんなこと、わかっていたのに。





ひとしきり泣いた後、沙耶は周囲を見回した。




オールドローズが咲き誇る、広大な庭園。




仄かな明かりは要所要所に配置されているが、何しろ広すぎて全体像がわからない。



まず、外壁さえも見当たらない。






そして。






「寒い…」






沙耶は今の自分が置かれている状況をやっと把握し始める。




涙が流れた跡も冷たい。





「ワンピース、破れてても羽織れるかな…?」





身体を覆うものも必要だというのに。





最悪、朝までこのままか。




石垣に見つからないように、身を潜めていなければならないのか。




途方に暮れ始めたその時。





背後から、ガサ、と草を踏みしめる音がした。




「!」




予期していなかった事に驚いて、身を硬くするので精一杯だった。





「…秋元さん?」




やがて静かに降ってきた声に、沙耶は弾かれたように振り返る。





「さ、坂月…さん?」





見ると、オレンジの灯りに照らされたスーツ姿の坂月さんが、驚いた顔をしてこちらを見下ろしていた。





「なんで、こんな所に―」






坂月はしゃがみこむと、沙耶の様子を見てぎょっとする。




坂月の質問に、それはこっちの台詞だと言ってやろうかと沙耶は思ったが、寒さのせいで声が上手く出なかった。



そこで初めて、沙耶は自分が震えていることに気付く。




「なんて格好してるんですか?!風邪ひいてしまいますよ!」





坂月は慌てて自分の着ていたジャケットを脱ぐと、座り込んでいる沙耶の肩に掛けた。そのまま、立たせようとしたが、沙耶の足に力が入らない。





「仕方ない、ちょっと我慢しててください。」





坂月はそう言うと、沙耶を抱き上げた。




「とにかく、中に入って身体を温めないと―」




くるりと身体を反転させた所で、坂月はネクタイに違和感を感じ、抱えた沙耶に目をやる。




見ると、沙耶がネクタイを引っ張って、首を小さく振っていた。





「…や、、です…」





沙耶の顔をまじまじと見つめた坂月の表情はすぐに歪んだ。





「泣いたんですか?」





沙耶はそれには何も答えずに、ただ坂月に向けていた目を伏せる。





「…わかりました。ここから離れます。ただ、この格好で家に返すわけにはいきません。弟さんが驚かれるでしょう。別の場所で、身体を温めて着替える、それから話を聞きます。」




いいですね?と坂月が確認を取るので、沙耶はコクリと頷いた。





とにかく、この敷地から一刻も早く、出たかった。




羽織らされたジャケットの温もり。



沙耶を抱く坂月から伝わる体温。




それだけでも、冷えた身体には心地良く感じられた。




ゆっくりと壊れ物を扱うようにして、慎重に、そして控えめに回されている腕から、坂月の緊張が滲んでいるのだが、沙耶は気付かない。




むしろ、静かに踏みしめられる一歩一歩のテンポも、睡眠を誘う。




月明かりの下、坂月が石垣邸の門まで辿り着いた時には、もう沙耶の意識はなく。





驚いて近づく門番に、坂月は人差し指を口にあてて合図する。




そして、門のすぐ脇に停めてあった自分の車―いつかのロールスロイスではなく、白のベンツ―の助手席にそっと沙耶を下ろすが、彼女は未だにネクタイをぎゅっと掴んで放さない。





坂月は弱ったなぁ、とそのままの姿勢で思案する。




自分の車は二人しか乗れない上に、シートが倒れない。




横たわらせてあげることもできず、ネクタイも放してもらえないのでは、どうしようもない。





「あ、そうか。」





良い案が浮かんで、坂月は片手で自分の首からネクタイを外す。




シュル、と衣擦れの音がすると同時に、沙耶の手も自然とだらりと落ちた。



完全に放れた沙耶に、坂月はもう一度丁寧にジャケットをかけなおすと、気持ちシートを調節し、運転席に回った。



その間も沙耶はすぅすぅと気持ち良さそうに眠りこけていて、ピクリともしなかった。





エンジンをかけて、暖められ始めた車内で、坂月はハンドルにもたれかかり、暫くそんな沙耶の無防備な寝顔を見つめる。




そこには、数時間前、大男達をなぎ倒した、男顔負けの破天荒な強い女の顔はなく。




片手にネクタイ、そしてもう片手にしっかりと紺のワンピースを握り締めた、どこかしら、心細い表情をした幼い女の子が眠っていた。






頬には、涙の痕が幾筋も残っていて。




紺のワンピースからほつれが出ていた。





―破れている?





坂月は、その事実に気付いて、はっとする。




沙耶の身に何が起こったのかを、察したからだ。









「女の子にとって、服は、宝物なのにね。」








ぽつり、呟くと。





そっと、沙耶の前髪に触れ。




直ぐに、引っ込めた。






そしてゆっくりと、車は走り出す。





赤や黄色に色づいた、落ち葉を散らして。





========================







沙耶が目を覚ますと、隣には誰も居なかった。



一人には広過ぎるベット。その向こうにまた、同じようなベットが並んでいる。


でも、それには皺一つ、できていない。




―まだ、夢見てるのかな。





いつもと違うのは、背中に当たる薄くない布団の柔らかさ。



重くない掛け布団。




そして。





覚えの無い、広い、部屋。





つまり、全部違う。



ここは―。





「ホテル??」




しかも。


ソファやテーブルなどの華やかな家具が並べられて。




「スイートルーム?!」





一繋ぎの部屋に驚いてがばっと起き上がると、露わになった自分の姿に昨晩の記憶がまざまざと甦る。




少し痛む節々と。



両手にそれぞれ持っている父の形見と、誰かのネクタイ。





途中で眠ってしまった所まで記憶にある。


そこからどうやってここまで来たのか。





「…まさか、坂月さんに運ばれて…?」





そうだとしたら、色々申し訳なさ過ぎる。




自己嫌悪に陥っていると。




ガチャリ。




ドアが開いた音がして、ワイシャツ姿の坂月が姿を現した。




「起きたんですね。おはようございます。」





坂月はあんぐりと口を開けたままの沙耶に気が付いて、にこりと微笑んだ。



今まさに考えていた人の登場だった為、沙耶は慌てて頭を下げる。





「さっ、昨晩は、ご迷惑をお掛けしてっ…」




「とんでもない。」




沙耶のお詫びの言葉を遮って、坂月は首を振る。




「お詫びするのは、こちらの方です。社長が貴女にひどい事をしたようで、申し訳ありませんでした。あの方はこう、ちょっと性格に難があるといいますか、人間に必要な感情が欠落してるといいますか…」




「それはもう、その通りだと思うので、否定はしませんね。」





困ったもんだ、と呟く坂月に、沙耶も真剣な顔で頷いた。




だが。





「ふっ…くっ…」




「え?」





何故か突然笑い出した坂月に、沙耶は首を傾げる。





「いや、、本当に秋元さんって、面白い方ですね。」




「えっ、なんでですかっ?」





釈然としない沙耶は、益々首を傾けるが。



質問には答えないまま。




「…とりあえず、お腹空きませんか?ルームサービスでも取りましょうか。その前にシャワーを浴びて着替えた方が良いですね。」




ベットの上、掛け布団にくるまれたままの沙耶に、坂月が提案を持ちかける。





そういえば。





言われて沙耶ははたと気付く。




結局眠りこんでしまった為に、沙耶の格好は昨晩のままだ。




冷えた身体はもう十分に温まっているが、このまま坂月の前に出て行くのは忍びない。




明るい場所で露わになった自分の姿は、昨晩のそれよりもかなりひどいからだ。





挙句に、沙耶の身体は出汁を濾しとられた鶏がらのようで、布団を掴む手の力も無意識に強くなる。






「私は外に出ていますね。洋服はそこに並べられている紙袋の中に入っていますから、どれでも好みに合うものを選んでください。一時間位したら、ドアをノックしますから、準備が整っていたら開けて頂いても良いですか?」





「あ…はい…」





沙耶の返事に、坂月は満足気に頷くと、流れるような無駄のない動作で、部屋を出て行った。







昨晩もこの先二度と味わえないのではないかと思うほど立派なお風呂に入った。






余り良い状況下ではないことは理解しつつも、二日連続で高級と名の付くにふさわしい場所で、熱いお風呂を一人で堪能できることに、沙耶は恐怖すら感じていた。





広すぎる浴室にそわそわしながら、早々にシャワーを浴びて、ソファに並べられていた10種類の紙袋の内の一つに着替える。





どの紙袋にも有名ブランドのロゴが入っていて、そのほとんどは沙耶が知らないものばかりだったが、恐ろしい程にサイズはぴったりだった。





沙耶が選んだのは、一番地味そうで、比較的安そうだと感じたもの。




コットンツイードのリトルブラックジャケットと、ビスチェドレス。






「それでもやっぱり、、派手…」





鏡に映る自分の姿に、心の声が口をついて出た。





―どうして一般的な、Tシャツにデニム、とか、ないんだろう。






金持ちには金持ちなりの一般的な服装があって、それがこれなのだろうか。




どこのパーティーに行くわけでもないのに。







どう考えても自分には不釣合いな、その服に沙耶は深い溜め息を吐かずにはいられなかった。





そこにコンコン、と軽いノックの音が聞こえる。




気が抜けたのも束の間、沙耶は「は、はい!」と緊張した声で返事をしながら、慌ててドアに駆け寄った。




ガチャ…




ドアの隙間からそろっと様子を伺うと、きょとんとした顔でこちらを見つめる坂月の顔が当然ながらあった。





「支度は終わりましたか?」




「…はい」




「じゃ、食事をしましょう。中に、入っても?」




「…う、あ、いえ…」




「………」





しどろもどろになる沙耶を前に、坂月の表情に困惑の色が現れる。





「何処か、具合でも?」




「いや、そうじゃ、ないんですけど…」




直ぐに否定する沙耶に、坂月は益々混乱した。




「じゃ、中に―」




「ふ、ふ、服…!」




坂月は首を傾げて、沙耶を見つめる。




沙耶は頬が赤くなるのを隠すために、やや俯き加減に続けた。





「ふつうの、、ないですか…」




「普通・・・?」




沙耶の呟きを坂月は繰り返し、漸く理解に達したようで、ああ、と声を上げた。






「落ち着かないですか?」





「…はい…」





坂月の問いに、沙耶は素直に頷いた。





「申し訳ないのですが、早急に準備できるものがあれしかなくて。我慢していただけると助かるのですが。」






坂月は眉を八の字にして、困ったような顔で笑う。






「それは、、その、、いいんですけど・・・わ・・・」





「わ?」






そこまで言うと、沙耶は続きを促す坂月を見上げた。






「笑わないで、くださいね…」






不相応なので。と小声で付け足して、中に引っ込む。






「え…?」






軽くなったドアを前に、坂月は再び、狐につままれたような顔をしていた。






相手の緊張が伝わり、何故だか自分まで畏まってしまう。






「……あ、じゃ、…入ります。」





とりあえず、軽く咳払いをして、己を取り戻すと坂月は何故かノックからやり直した上で、中に入った。



だが。




部屋のソファの上で、沙耶は膝を抱え込んで座っていて、坂月はその様子に思わず吹いてしまう。





「あっ、笑った…」





沙耶は坂月の反応を見て、傷ついたように頬を膨らませた。





「ちが、、違いますよ。貴女が小さい子がするみたいに座ってるのでおかしかっただけで…」




慌てて坂月は否定して、改めて沙耶を見つめる。





「すごい似合ってるじゃないですか。」





お世辞抜きに言ったつもりなのだが、沙耶の膨らんだ頬は元に戻らない。





気まずい沈黙の合間に、頼んでおいたルームサービスが届くが、沙耶は終始無言だった。





「ほら、お腹空いてるでしょう?なんでも召し上がってください。」




テーブルの上にはカットフルーツや、フレッシュジュース、グラノーラや温められたクロワッサン、デニッシュ、湯気の立つチキンや、グリルトマト、オムレツなどの朝食が所狭しと並べられているが、沙耶は手を出さない。




坂月は取り分けた皿を沙耶の前に差し出してみる。





「・・・・」





沙耶はそれを無言で見つめるが、受け取らない。






坂月が弱っていると、どこからともなく、くぅ、と犬の鳴き声のようなものが聞こえた。





坂月が目を瞬(しばたた)かせながら、沙耶を見ると、その白い肌がみるみるうちに紅くなっていく。




またへそを曲げられては困るので、坂月は笑いが込み上げてくるのをなんとか噛み殺し、努めて平静を装う。





「…ほら、食べてください。」





恥ずかしさで観念したのか、坂月が再び勧めた皿を、沙耶は今度こそ、受け取った。





「あ、そうでした・・・」




アプリコットティーの香りが、部屋を満たし、沙耶の食事も進んできた所で、自分は食べずにその様子を見ていた坂月は、思い出したように声をあげた。





「大体、わかるのですが、確認だけさせていただきたいのです。昨晩、石垣と何があったんですか?」





沙耶は食事の手を休めることなく。





「…秘書になれって言われたんで、絶対嫌だって断ったら、私の服をナイフで切られました。」




淡々とした口調で答えた。






「あの馬鹿…」





坂月は思わず頭を抱えて呟くが、沙耶の耳には届かない。




「それで、あんな格好に???」




続く坂月の質問に沙耶は首を振る。




「いえ。なんか目を覚ましたら新しい服に着替えさせられてお洒落させてもらったんで、私は別の服を着てたんですけど…。あいつがあの服を価値の無いモノみたいな言い方したんで、腹立って、自分で切って同じように返してやったから、ああなったんです…」





「え?自分で??」





坂月は、驚いて思わず訊き返す。





「……はい…」




言いながら、沙耶も自業自得だと思ったのか、小さくなっている。





「貴女って人は…」





坂月はついに両手で顔を覆って、溜め息と共に俯いた。





しかしそれも少しで、直ぐに坂月は顔を上げて、沙耶に謝る。






「とりあえず、状況はよく分かりました。何にせよ、石垣が悪いことをしました。申し訳ありません。洋服の方は弁償させていただきます。」





「あ、いえ…あれは…」





そこまで言って、沙耶はこの話をするべきなのか、一瞬迷ったが。





「父の…形見なので…、あれじゃないと、、、意味がないんです。」




結局、正直に話した。






予想していなかった事実に、坂月ははっとした表情をし、狼狽える。





「いや、、、本当に、、言葉が見つかりません…。それは、、申し訳ないことを…」





「そんな、坂月さんが気にすることじゃありません。諸悪の根源はなんて言ったってアイツなんですから!」





沙耶は慌てて手を振って、何度も頭を下げようとする坂月を止(とど)めた。






「いや、私の責任です。…そうだ、腕の良い職人を知っていますから、そこに頼めば、きっとキレイに直してくれる筈です。」





「え、本当ですか?」





坂月の提案に、諦めかけていた沙耶の表情に灯りが点る。





「ええ。ただ…」




そこまでいうと、坂月は複雑な顔をして、言い淀んだ。





「?何ですか?」





沙耶が首を傾げる。




だが、坂月は沈黙して、床と睨み合いながら、何かを逡巡している。





仕方なく沙耶はデザートに手を伸ばし、限りなく満腹中枢を満たしていく。





その美味しさと使用されている食材の質にうっとりしながら、弟の駿にも、母にも食べさせたいなと考えた。




駿には昨晩一応メールを打っている。




今朝も、さっき「帰れない」旨をメールにしたためたから、恐らく残り物か、クビになる前にコンビニの廃棄処分の中から厳選した、期限切れの菓子パンか何かに手をつけていることだろう。






―育ち盛りだから、もっと沢山タンパク質を取らせて上げなくちゃいけないのに。





気がつくと、考えることはいつも同じ場所。




職なし、家なしの事実に、頭を悩ませる。





―これから、どうしよう。





夢の様な食卓を前にして、沙耶はナーバスになった。








「大変、、おこがましいこととは、重々承知の上で、発言させていただきますが―」





「はいっ!?」





坂月の声で、沙耶のぶっとんでいた思考が、今に戻った。





見ると、坂月が畏まっている。





「ですから、、おこがましいことだとはわかっている上で、お願いがあるのです。」





「―え?」





口の端にガトーショコラの食べかすを付けたまま、沙耶はきょとんとして、目を瞬(しばたた)かせた。






「その、、、お父様の形見をですね、、直す代わりに…」






ごにょごにょと言うので、沙耶は聞こえづらく、思わず耳を近づける。





と、坂月は急に意を決したようにはっきりと。






「石垣のっ、秘書になっていただけないでしょうか!?」





沙耶の耳の鼓膜が、破れるかと思う位。





大きな声で言い切って、勢い良く、頭を下げた。





キンキンする耳を暫く押さえて。




沙耶は坂月の言ったことを反芻する。






―今、この人、なんて言った?







「こんなことする…あんな男の、傍にいろって、、言うんですか?」





信じられないものでも見る目つきで、沙耶は坂月を見つめる。




坂月が恐縮しきっているのはわかるのだが、石垣と居る時の嫌悪感が、沙耶を宥めてくれない。






「それなら、のたれ死んだ方が、マシなんですけど。それに、、あんなことした私なんかより別の人の方がよっぽど良いんじゃないですか?」





どうして、ここまでして、沙耶にこだわるのかが、理解できなかった。





「秋元さんが仰ることはよく分かります。ですが、こちらとしても、秋元さんが適役だと考えております。いやむしろ、秋元さん以外居ないといっても過言ではないんです。」





「…それ、どういうことですか?」






坂月の真剣な表情が、彼が冗談を言っているわけではないことを裏付けているような気がした。







「まず、石垣があんな性格なので、秘書が長続きしないという点があります。それで、何を言われてもめげない方が良かった。それから―」





坂月の瞳に、力が籠もる。





「石垣を危険から守れる人間を探していました。」







「それって―?」





沙耶の言葉を受けて、坂月が頷く。






「実は、根拠などは申し上げられないのですが、石垣は何者かに命を狙われています。調査はとっくに始めていますが、犯人が特定できないでいます。何しろ敵が多過ぎる…早過ぎる就任を良く思っていない人間も多く居ますし、幹部の中でも派閥があります。範囲は外部も加えると無限大なんです。」





沙耶が無意識に口の周りを舐めると、チョコの甘みが広がった。





「…貴女の腕は、その点で素晴らしい。できれば、敵の目を欺くことができる方が良いのです。その間私は調査に力を入れたい。」





「ていうことは、つまり―、秘書って言うよりも…」






沙耶は懸命に頭を働かせる。







「ボディガード???」








沙耶の指摘に坂月は再び頷く。






「もちろん、普段もちゃんと働いて頂きます。秘書として。」





沙耶はぽかんと口を開けたまま。







―何それ。





男を女が守るの?






「なんか、、、それ、かっこ悪くないですか???」





頭に浮かんだ言葉をはっきりと声に出した。





「一応石垣もそれなりに護身術は習っていますから、何にも出来ないわけではありません。ただ―」






坂月が言い難そうに、顔を顰める。





「もう四の五の言っている暇がないんです。恐らく敵は…身内かと思いますので。。。」






沙耶自身、実の祖母に散々やられてきたので、身内、という言葉の意味をなんとなく理解できた。





「そう言われても…」





沙耶は返答に窮してしまう。



一度困ったように俯いてから、顔を上げ。





「なんでこんなに私に執着するのかわかりません。だって、私あいつと初対面でワインぶっかけたんですよ?しかも、あーいう奴なら恨みの一つや二つ買ってたって、おかしくないし。もし殺されても、自業自得ってやつですよ。」





自分で自分の言った事にうんうんと頷く沙耶。





「実はそれが一番の理由なんです。」





「へ?」





坂月が腕組みをして、視線を天井らへんに向け、考える風な仕草をした。






「石垣は、プライドが高い人間です。秋元さんがしたことだって、普段なら即東京湾に沈められてもおかしくない。」





ムカ、とした心を沙耶はなんとか抑える。




沈められる前に私が沈めてやるわよ、と思いながら。





「それなのに、ホテルの人間も、秋元さんの友人に対してもお咎めなし。何もなかったかのようになっている。マスコミもねじふせられていて、話は外に出ていない。」





沙耶はまるで名探偵のように推理している坂月を見つめ、ハテナを頭に浮かべた。





「そして、貴女を八方塞にして、自分の手元に置こうとする…秋元さん、石垣の弱味でも握ったんですか?」





「まさか、そんなわけないですよ。」




沙耶は思わず苦笑いして返す。





「だとしても、石垣は恐らく貴女には手を出さない。石垣は優秀ですが、人を物として扱う悪い癖がある。これでは、身内から敵をあぶりだすどころか、外部の敵が増えてしまいます。」




そこまで言った所で坂月の視線が下りてきて、沙耶のそれと合った。





「貴女はそれを食い止めることができると思います。つまり、守りながら、お目付役もできる。よって適役と言えます。」





「ちょ、ちょっと待ってください…」





職なし沙耶は狼狽える。





「もしもOKなようでしたら、今日はこれで解散で、明日から勤務していただきます。住む場所は、都内のマンションが社宅として与えられますし、給料は月百万でいかがでしょう?安いならまだ上乗せもできますが。」






―まずい。。。





沙耶はごくりと生唾を飲み込む。





「もし駄目だとしたら、再びこれから石垣に呼ばれておりますので、行かなくてはなりません。」





畳み掛けるような坂月の顔が、沙耶にとって最早福沢諭吉にしか見えない。



しかもちょっと意地の悪い。





「・・・・」






金なんかに負けたくないし、むしろあんな男と一緒に仕事なんてすごく嫌だ。





しかし、権力というものは沙耶の職を潰すだけの力があるわけで。




脳裏に、母の顔と弟の顔が浮かぶ。





今の所沙耶の未来はノープラン。




何も見えない。








「お願いします!人助けだと思って、ここは、引き受けていただけないでしょうか?」






目の前では、坂月が再び頭を下げている。





多分、沙耶がうんと言わない限り、こうしたやりとりはエンドレスなのではないかと思う。





大嫌いな金持ちの下で働くなんて、反吐が出そうだけど。







「―げ、限界だったら、直ぐに辞めますよ…」






「!はい!」







眉間に皺を寄せて呟けば、壱万円札、ではなく、坂月の勢い良く上げた顔が明るくなった。




反対に沙耶は深い溜め息を吐く。




―仕方が無い。




背に腹は変えられない。




とりあえず、当面の生活のために、あいつと向き合うか。




そして、沙耶が適役ではないことさえわかれば、解放される日も近いのではないか。






「分かりました。刺し違える覚悟で、やってみます…」





「え?!」







沙耶の苦渋に満ちた表情と、殺伐とした言葉に、坂月が驚く声が部屋に響いた。




秋元沙耶、二十歳。




無職。



非常に不本意ではありますが。



明日から、悪の巣窟入ります。



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