シンデレラは硝子の靴を

@lahai_roi

堕ちる所まで堕ちてやる




栗色の色素の薄い髪は、いつもサラサラと風に揺らされて。






ビー玉みたいな瞳は澄んでいた。






「約束だよ。」





小さな私の小指に、少しだけ大きい小指が絡み合う。




はにかむように笑うと、男の子は決まって優しく私の名前を呼ぶ。







「さぁちゃん。」






暖かな木漏れ日。






秋が深まる頃。





少しひんやりとした風が、頬を撫でていく。







カラカラと枯れ葉が道を転がっていく音が聞こえる。













「大きくなったら、僕のお嫁さんになって。」







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白いレースだけのカーテンを通して透ける陽の光が、朝を告げる。





真夏には、ケチらずにどうして遮光式のカーテンを、いや遮光式じゃなくとも、外側の部分を買わなかったかと悔やんだが、冬が近づくに連れて、段々とどうでもよくなった。




畳み4畳半の部屋の中。



敷かれた布団の中で、沙耶(さや)は目を覚ます。




隣では弟の駿(しゅん)が、布団から飛び出したままいびきをかいている。




がらんとした隣の部屋には、卓袱台が一つ、ぽつんとあるだけだった。






―また、あの夢か。






時計を確認すると、まだ早い時間に沙耶は起き上がることもせずに、天井を見つめた。







秋が深まると、毎年必ず見る夢。





いや、昔の記憶というべきか。





かなり古いので、少し美化されている部分もあるだろう。





けれど、確かに、誰かが沙耶の手を引いてくれた。




沙耶にとって、あの時が人生で一番良かった時期かもしれない。




沙耶たちがこのボロい木造二階建てアパートに越してきたのは、1年前のことだ。




本家に居た沙耶達が、祖母や叔母から疎まれていたのは事実だが、間を取り持つようにしていた父が他界したと同時に、文字通り追い出されるとは思っても見なかった。



半分とはいえ、血は通っているのだ。




なのに、僅かな遺産も奪われ、ほぼ無一文で家を出された。




同時に元々病弱だった母の体調も悪化し、今は近くの病院で入院生活を送っている。





現在は高校生の弟と二人暮らしだ。





あどけない顔をしてよだれを垂らす愚弟は17歳になったばかりで、あと1年は養っていかないといけない。



大学に行きたいというのであれば、自分のように我慢させたくはない。






母の医療費と、弟の学費、それから、日々の生活。




それだけで、沙耶の毎日は手一杯だった。





―今日の予定は、っと。





気持ちを切り替えるようにして、沙耶は頭の中で今日のスケジュールを組み立てる。






現在沙耶はバイトを4つ、掛け持ちしている。




本屋、コンビニ、ファミレス、薬局…




でも、今日はその全部を休んで、単発の仕事を入れていた。





かなり時給が高いうえに、一日限りだったので、一も二もなく飛びついたのだ。


なんでも今夜、三ツ星ホテルで催されるパーティーがあるらしいのだが、そこで働く高校の頃の友達が、急用でどうしても休みを取らなければならない状況になったらしい。




大きな催事に、ウェイトレスの人数が足りないと困るホテル側は、代わりを探して来い!と友達に詰め寄った。




その流れで、大学に行っていない沙耶に白羽の矢が立ったというわけだ。




申し分ない程の給料だったので、沙耶も快諾した。





仕事内容も酒や飲み物の注文を取ったり、空になった皿を片したり、食事を出したりする程度の簡単なものだと聞いている。





壁に掛かる、友達から借りた黒のスーツを眺めながら、確か髪は結い上げるんだったな、と思い出した。








―もう少し、眠るか。







眠たくて、徐々に瞼が下がっていっていた沙耶は、直ぐにまどろみ始める。





今日は、土曜日だから、駿の弁当を作らなくて良い。





バイトも夜以外はない。





いつもなら夜中コンビニに行って、朝帰宅。駿の弁当を作り、その足で本屋か薬局でバイト。





だからこんなにゆったりとした気分で居られるのが、小さいけれど、プチ贅沢のようで、折角だから楽しもうと、沙耶は布団の中にもぐりこんだ。


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「うわ…」




時刻は16時。




都内有数の三ツ星ホテル、ミュールアンピエール、略してミュアンホテルを見上げ、沙耶は感歎の溜め息を吐いていた。




建物の正面から見ると、真ん中部分がざっくりとV字になっていて、その下に凹凸に切り取られた玄関がある。




上品に輝く照明がその中から計算し尽くされた角度で外側に漏れており、その前で降車する、明らかに富裕層の客が、続々と吸い込まれていく。



黒塗りの車が多く、ボーイ達が忙しそうに走り回っていた。






―場違い。




初めて来た場所に、沙耶は思わず自分の服装を振り返る。




上はロンTに薄手のカーデ。



下は七部のパンツ。



その上に秋物コートを羽織っている。




従業員は裏口から入る上、現場では着替える為、ラフで構わないと友達は確かに言っていた。




けれど、世間一般で言うラフと、自分のラフとはズレがあるのかもしれない。




―っていうか、他にないんだから、仕方ないし。





18時から始まるパーティーだから、本来は17時前にホテルに着けば良いのだが、何しろわからないことだらけなので、早目に来れば少し場に慣れることができるだろうと考えてきた。





―こんなとこ、今後一生足を踏み入れないし、慣れることも一生ないわね。





クスと、自分自身を笑って、沙耶は正面玄関に背を向け、裏口に回った。




駐車場側にある裏口は、正面から比べればやや見劣りするが、それでも立派な作りになっていて、本当に裏口なのだろうかと訝しく思うほどだ。



自動ドアの脇に、認証システムの機械が取り付けられており、カードの差込口に、沙耶は友達から借りた社員証を入れた。




が。




「おかしいなぁ。。。」





何度通してみても、ビーという電子音とエラー表示が出てしまう。





「カードの向きが反対なんじゃないですか?」





首を傾げている所に、突然背後から声をかけられて、内心驚いた沙耶は直ぐに振り返る。




見ると、そこに制服姿の男が立っていた。




さっき、正面玄関で見かけたボーイの中の一人だろう。




年は沙耶よりも少し上だろうか。






「あ、す、すいません…」





慌てて沙耶は社員証の向きを変えて、機械に差し込む。





今度はピピッと小気味良い音がして、自動ドアが開いた。





「あ、開きました。ありがとうございます。」




沙耶はほっとしながら、もう一度振り返って男に御礼を言う。




名札がちらりと見え、『坂月』と書いてあった。





「いいえ。」




坂月はにこやかに首を振って、今度は自分のカードを通す。




自然と並んで自動ドアに入ることになった。





「見ない顔ですけど、新しく雇われたんですか?」





守衛に軽く会釈しながら、坂月は沙耶に尋ねる。





「いえ。今日だけ、単発、です。」





それだけ言うと、坂月は納得したように、あぁ、と手を打った。




「今日は石垣財閥の催事があるからか。人手が足りないって言ってたから。」





「…ええ、たぶん…そうです。。。」





友人から頼まれたことを大っぴらにしていいのかどうかわからなかった為、曖昧に言葉を濁して、沙耶は守衛に場所を訊こうと立ち止まる。





「それじゃ、頑張ってください。」





坂月もそれに気付いたのか、帽子を脱いで沙耶に挨拶して立ち去った。






―あ、栗色。





帽子の下から現れた髪に、僅かに反応する。





―いやいや、いっぱいいるし。





そんな甘い記憶を振り払うようにして、沙耶は怪訝な顔をしている守衛に向き直った。






「こんにちは。あの、秋元沙耶と言います。今日は瀧澤あゆみの代わりに一日だけお世話になります。」






皆まで言わずとも、守衛に話は通っているとあゆみからは聞いている。案の上、社員証を見せるだけで、守衛は頷く。





「その通路を真っ直ぐ行って、突き当りを左に曲がるとドアがあって、中に入ると従業員用のエレベーターがある。3階の大宴会場が今日の現場だよ。更衣室は突き当りを右にいけばあるから。」





「ありがとうございます。」





沙耶は、守衛の言葉を頭の中で反芻しながら頭を下げた。





「更衣室に行けば、誰かいると思うから、そしたら仕事を教えてもらえばいい。」





付け足された情報に、何て適当なんだと唇を噛んだ。



―誰かって、誰だよ!



教えてもらった通りに、真っ直ぐ廊下を進んで行き、突き当りを右に曲がるとプレートに女子更衣室と男子更衣室と書かれた扉が、それぞれ間隔を空けてあった。




「失礼しまーす…」




控えめにノックした後、沙耶はそろっとドアを開ける。






「!」





ちょうど、沙耶があゆみから借りたスーツと同じデザインのものに着替え終わったらしい中年の女性が、ジロっとこちらを見ていた。




―うっ。




沙耶はその貫禄ある巨体と眼差しに一瞬たじろぐ。





が。




「あら!?もしかして瀧澤さんのお友達かしら?」





怖かった視線は直ぐに和らぎ、中年女性は屈託なく笑った。






「はい!秋元沙耶と言います!よろしくお願いします!」





言いながら、沙耶は勢い良く頭を下げる。






「はいはい、話は聞いてるわよ。急にで悪いけど、今日は宜しくね!私の名前は今井よ。」





今井はそう言って、胸に着けたバッジを見せてくれる。






「あ、よろしくお願いします」






沙耶は上げかけた頭を、再びぺこりと下げた。






「瀧澤さんから、働き者とは聞いてたけど、こんなに早く来るとは感心だわ。」





―なんだ、怖い人じゃなかったんだ。。




今井の温かい言葉に、沙耶はほっと胸を撫で下ろし、パーティーが始まる時刻迄に、一通りの仕事の流れを教わることに成功した。




開始時刻の20分前。




沙耶は自分の位置について、他の従業員達とパーティーが始まるのを待っていた。




肩に掛かるくらいの髪は纏めてアップにして、ミュアンホテルのロゴの刺繍が入った黒のパンツスーツに装う。




3階の大宴会場は圧巻の広さだった。





今回はビュッフェ形式らしく、収容人数は1500名。





大きなシャンデリアが12個あって、眩い光を放ち、キラキラしている。




下には気品溢れる臙脂の絨毯が広がり、真っ白なテーブルクロスの上には、色とりどりの料理が並べられていた。






―美味しそう。あんなの見たことないよ。





さっき、並べられる時にメニューをチラリと見たけれど。




黒毛和牛のローストビーフ。



イベリコ豚の生ハム。




フォアグラ。



チョコレートファウンテンなど。





―残ったら持って帰れないかな。駿が喜びそう。




沙耶は空腹で腹の虫がきゅるると鳴くのを、悲観めいた気持ちで抑えた。







―それにしたって。





目立たないように目だけで会場を端から端まで見回せば、超がつくセレブ達がわんさか集っている。




詳しくは無いが、大御所の芸能人達も居るようだ。





最終的に、でかでかと掲げられた吊り看板に目をやった。




そこには、『石垣グループ社長就任披露宴』と書かれている。






―どんだけ偉いんだ、石垣。無駄遣い、石垣。ノンエコ、石垣。





心の中で、好きなだけ悪態を吐いた。



最初はそんな余裕もあったのだが、始まると俄(にわ)かに忙しくなった。



照明が薄暗くされたり、お堅そうな司会によってパーティーが進むに連れ、乾杯の準備や瓶ビールの設置などに奔走する。



正直な所、一度も壇上で話している人を見なかったし、話も聞いていなかった。




ただただ、運んだり下げたり拭いたり、目まぐるしく動いていた。





―20時か。




段々と客も落ち着き始め、ふと腕時計に目をやれば、宴もたけなわだと悟る。




―後片付けが終われば、22時には家に帰れるだろうか。





テーブルの上の空になった皿を片付けながら、そんなことを考えていた所だった。






「もう一度!チャンスを下さいっ!!」





歓談中の人々とは異なる、男の必死な声が沙耶の直ぐ後ろから聞こえた。





「・・・」





驚いたものの、沙耶は振り向く事無く、黙々とテーブルの上を片付ける。





「困りますね、大伴さん。こんな所でそんな話を持ち出されては。」






続いて聞こえた声は、最初の声よりも幾分若いが、冷ややかだった。





「こうでもしないと、会ってくれないじゃありませんか…お願いです!今切られてしまったらウチは―」





「我が社には関係のないことです。」





「そんなっ―」





「それとも―」





冷ややかな方の男の声は、淡々とした口調のまま。





「今この場で、土下座でもしてみますか?」




恐らく耳を欹(そばだ)ててなければ。




沙耶くらい近くにいなければ聞こえ無いほど。




囁くようにそう言った。



「!」




必死な方の男は、声を失ったようだったが。




あれだけがやがやとしていた会場の声が、段々と潜んでいったことに気付き、沙耶は思わず振り返った。






モデルのような容姿の、スーツを着た若い男。





その足元に、額を絨毯にくっつけて土下座する、中年の男。




二人を、円を描くように取り巻き、固唾を呑んで見守るセレブ達。





沙耶の振り返った先には、そんな光景が広がっていた。






「大伴さん、何やってるんですか!!」





若い男は、急に顔色を変え、肩を震わせながら土下座する男に駆け寄る。





「そんな風に自分を低めないで。大丈夫ですよ!大伴さんならやっていける!」





そう言って、大袈裟に肩をぽんぽんと叩いた。





「!それじゃ―」




大伴と呼ばれた男は、弾かれたように頭を上げるが―





「残念ですが、我が社がお手伝いできることはありませんが。」





「!!!!そんな!!!」





若い男は人の良さそうな顔をして、綺麗に整えられた眉をハの字にした。




瞬間、沙耶の全身が粟立つ。




それが寒さや恐怖からじゃないことは、沙耶が一番よく分かっていた。





「いや、申し訳ない。」





若い男はきっぱりとそう言って、立ち上がる気力をなくした男の肩をもう一度叩く。





「それでは、私はそろそろ―」




「待ちなさいよ…!」





パシャッ





気付けば、口も手も動いていた。




赤い滴が、今しがた立ち上がろうとした若い男の髪の毛から滴る。




心なしか、場内の静まりは先程よりも深くなった気がした。




臆せず、沙耶は男の顔を上から睨みつける。






「ふざけたことやってんじゃないわよ!あんたがその人に土下座させたんじゃない!」





沙耶の手には空になったワイングラスが握られ、怒りで震えていた。





「君!何やってる!!!!」





途端にバタバタバタとホテルの人間が数人やってきて、沙耶を取り押さえる。





「も、申し訳ございませんっ!!!大変、申し訳ございません!!!私どもの教育の不行き届きでございますっ!!!!!」






何の抵抗もしていないのに、沙耶は三人がかりで押さえつけられ、恐らく支配人らしき人間が、それこそ土下座せんばかりに若い男に謝っている。





「何言ってんですかっ!!悪いことしてたのはそっちなのにっ!!!」




「黙れっ!!」





抑える男たちに口を塞がれ、沙耶は放せー!と暴れた。






「…へぇ。」





暫く黙っていた男は、顔に滴る紅の滴を拭い、そのままぺろりと舐めた。





そして、ゆっくりと立ち上がる。




白いワイシャツにも、紫の染みがみるみる広がっていっていた。





「私には、彼女の言っている事がさっぱりわからないのですが。これだけのことをここでするっていうことは、それなりの覚悟があるってことですよね?」






男の目は冷めていて、射抜くように真っ直ぐ沙耶を捕らえていた。




「私が誰か、わかっててやってるのかな?」




やってしまった。



と少しも思わなかったと言えば、嘘になる。




あと少しで勤務終了だったのに、高い時給がチャラになるなんて、がっかりだ。



これだったら、他のバイトしていた方がマシだった。




まぁ、久々にゆっくり眠れたし、それで良しとしよう。





単発で良かったと思った。





力が緩んだ男達の手を乱暴に振りほどき、自由になった所で沙耶は口を開く。





「貴方がどこの誰だろうが知ったこっちゃありません!どうぞお構いなく!あんたみたいなの相手にする仕事なんて、こっちから願い下げですから!!!」






ふんっと鼻で笑ってから、沙耶は唖然とする会場客を掻き分けて―というか、向こうから避けられ自然と道が出来ていたが―そのまま大宴会場を後にした。





―あー!!胸糞悪い!!





大股で歩きながら、沙耶は髪留めを外し、髪をほどく。





階段で1階に下りて、更衣室に戻り、荷物だけひったくるように掴んで、そのまま裏口に向かった。






「うわっ」





曲がり角で、人とぶつかりそうになり、はっと顔を上げると、数時間前に会った坂月が目を丸くしている。





「あ、すいません。」




沙耶はそれだけ告げて、そそくさと坂月の横を通り過ぎようとするが。





「待って。」





急に腕を掴まれ、沙耶はぎょっとした。





「何か、あったんですか?」





まだ勤務の終わる時間ではないし、着替えもせずにスーツのまま急ぎ足の沙耶はどう見ても様子がおかしい。




心配そうな坂月の目に、沙耶は自嘲気味に笑った。





「なんでもないんです。ただ、ちょっと失敗しちゃっただけです。」



坂月の目がパチクリと瞬いた。




「失敗…って、、大丈夫なんですか。」





坂月は益々心配そうに、沙耶を見つめる。



なんとなく気恥ずかしくなった沙耶は、掴まれた腕に目を落とした。





「大丈夫です。どうせ、私は日雇いですから。」




安心させるようにそう言って、坂月の手をやんわりと払う。





「多分、会うことはもうないと思いますけど、ちょっとだけ、お世話になりました。さよなら。」





沙耶は小さくお辞儀して、今度は駆け足で自動ドアから出て行った。




守衛に声を掛けることも無く。




坂月はそれを呆然とした顔をして見送る。







「一体、何があったんだ?」









秋が深まる、少し肌寒い夜。




沙耶はただ家に向かって走った。





―世の中にはあんな奴が居るんだ。




数分前の出来事を思い返しながら、沙耶は反吐が出そうだ、と思った。





―あんな奴、大っ嫌い。ああいう人間が一番最低。





自分とは天と地ほどに差がある相手なのだろうけれど。



だから、関係ないけれど。



あんな奴がのうのうと生きているんだから、世も末だ。







金木犀の香りがどこかから漂ってくる。




月が半分、欠けていた。




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月曜日。





「なんだよ、姉ちゃん、今日の朝飯。」





卓袱台の上に並べられた朝ごはんに、駿が不服そうに口を尖らせた。





「何よ、何か文句でもあんの?」




沙耶は台所で駿の弁当を詰めながら、ジロリと睨む。





「文句大アリだよ。成長期の俺にもやし炒めと納豆ってどうなんだよ。」





「五月蝿いわね!十分でしょうが。味噌汁もあるんだから!」





「具が入ってねーし!目玉焼き位あってもいいと思う!」





沙耶の菜箸を持つ手がピタリと止まる。





「わかった。じゃあ、お弁当から卵焼きが無くなってもいいのね?」





「!!!!」





「卵焼きの代わりに、納豆が入っても、いいのね?」






不敵に微笑む姉に、駿は背筋が凍るように感じた。





高校で、弁当の蓋を開けたら納豆。



有り得ない。



想像しただけでもわかる。



クラスからハブられる。





「や、、ごめんなさい。。何でもないです。」




姉から視線を外し、くるりと彷徨わせた後、駿は小さくなって箸を動かした。





「ったく。」





そんな弟を見て、沙耶はフンと鼻を鳴らして、再び菜箸を手に取った。




「そーいやさぁ…」





口をもごもご動かしながら、駿が思い出したように沙耶を振り返る。





「単発のバイト、どうだったの?何か、結構早く帰って来たよね?」




「どうもこうもなかったよ。普通。」





沙耶も菜箸を止めることなく答えた。





「ふーん。ミュアンホテル、どうだった?やっぱりすごかった?」




「うん、綺麗だったよ。」




「パーティは?有名人とか、居た?」





「うん、居た。」




「金持ちばっかりだよなぁ。いいなぁ。お近づきになりてーなぁ。」





「やめなよ」





駿の脳内花畑な発言に、思わず強い口調になってしまう。





「なんでよ、いいじゃん。なんか、お金とかくれそうじゃん。いっぱい奢ってくれるだろうし。」




それに気付かない駿は、へらへらと笑った。





「金持ちなんて、ロクでもない人間ばっかよ。あんた叔母さん達の事、忘れたの?」





そこまで言われて、駿はやっと、この会話が姉にとってタブーだったということを思い出す。







「……冗談だよ。」






駿はそれだけ言って、味噌汁を啜った。





この日の予定は、駿を送り出した後薬局で午前中いっぱい働く。




午後は13時から17時まで本屋でバイト。



19時から22時までファミレス。



23時から翌6時までコンビニ。





我ながら10秒チャージで生きていくしかないな、という程の過密スケジュールだった。





しかも、午前中の薬局は、患者が残っていれば昼休みは遠くなる。



今日は休み明けだし、病院は混むだろう。




―13時の本屋に間に合うように出れればいいけど。




沙耶は頭の中で逆算しながら、退勤しなければならないギリギリの時間の目安を立てた。





だが―。






「秋元さん。」





午前11時。




まだまだ混雑が続く薬局で受付をしていた沙耶は、薬局長に呼ばれて振り返る。





「少し、話があるんだけど。」




「-え?」





この時間帯に、予想外の言葉を掛けられて、沙耶は面食らった。





忙しさの渦中にあるというのに、話、だなんて。





「今、ですか?」




「そう。」




薬局長の有無を言わせない口調に、沙耶は戸惑いながらも席を立った。




それを確認すると、薬局長は白衣を翻して、事務所へ入って行く。




事務所のドアがパタンと音を立てて閉まると同時に、薬局長が沙耶に向き直った。



ブラインドの隙間から、秋の陽射しが差し込んでいる。




そのせいか、薬局長の顔が影になってしまう為、沙耶は目を細めた。






「あのね、、、突然のことでホントに申し訳ないと思うの。」






薬局長は眉を下げて、躊躇うように口を開く。





「何ですか…?」





言いようの無い不安が沙耶に押し寄せてきて、思わず眉を顰めた。





「秋元さんがよくやってくれてるのを私も皆もわかってる。できるならずっとここで働いて欲しいって思ってたんだけど…」





ドクン、と心臓が大きく音を立てた。





―薬局長は一体何を言おうとしてるんだろう。





先程から濁らせているその先が、予想できるだけに怖かった。





薬局長は困ったように俯き、沙耶と視線を合わせることなく宣告する。






「今日付けで、ここを辞めてもらうことになったの。」




「?!どういうことですか!?」





反射的に、問い返していた。




薬局のバイトは他と比べて特に時給が良い。



今この仕事を失うことは、かなり痛手だ。




その上、自分のここでの働きは、悪いものではなかった筈だ。





なのに、何故。




こんな突然。




沙耶の怒りは最もだし、不当解雇だと訴えられても仕方ない。



けれど、所詮はパート・アルバイトの括りだ。




「…申し訳ないと、思ってる。でも、、、私の力ではどうにも…」





薬局長の苦渋に満ちた表情を見て、沙耶ははっとする。



彼女自身の決定ではないようだったからだ。





「何か、クレームでもありましたか?私、、お客さんに何か取り返しのつかないミスでも?」




沙耶の問いに、薬局長はただただ、首を振るばかりだった。




「…じゃ、どうして…」





「ごめんなさい。本当にごめんなさい。」





何度も繰り返し謝って頭を下げる上司に、沙耶は言葉を失ってしまう。




「理由は、私にもわからないの、、」




かすれた声で呟くように言いながら、薬局長は頭を上げなかった。




―どうして?




上から出された指示であることは明白だった。




問い質す矛先を失った沙耶は、ただ、そこに立ち尽くす。




頭の中では、家計簿が広がっていて、今月のやり繰りにマイナスが記入された。





―もっと、節約しなくちゃ駄目か。




沙耶は無意識に歯を食いしばっていた。




無情な決定に耐えるかのように。





だが、この日はそれだけでは終わらなかった。




本屋も、ファミレスも、コンビニも。




行く先々で、契約が打ち切られ、沙耶はあっという間に無職になった。




共通するのは、どれも理由が不透明であること。





さすがに最後のコンビニでは店長に掴みかかんばかりの勢いで、お願いだから雇って欲しいと懇願したが、その努力も虚しく散った。




どの店も、働くのは今日で最後だった。





翌朝6時。




「お疲れ様でした…」




入れ替わりの馴染みのおばさんと顔を合わせて、タイムカードを切ると、沙耶はふらふらとバックヤードに向かう。




「沙耶ちゃん、どうかしたの?」




その元気の無さに、おばさんが心配そうに振り返った。





「いえ。。別にどうもしてないです。。。大丈夫です。」





沙耶は精一杯笑って、軽く頭を下げ、バックヤードに引っ込んだ。







今ここで、自分の気持ちを打ち明けたところで何になると言うのだろう。



言わなくても良い事を、きっと言ってしまう。






相方の学生も気遣うように沙耶を見つめたが、沙耶は居たたまれない気持ちで、着替えも早々にコンビニを出た。





―どうしよう。この先、どうしよう。





色々、散々だった。



気が乱れるというよりは、愕然としてしまう。







一体自分が何をしたと言うので、神様はこんな仕打ちを赦されるのか。





自転車のカゴに乱暴に荷物を突っ込み走り出すと、完全に昇った陽が、寝不足の目に眩しい。





―駿に何て言ったらいい?母に何て伝える?




「新しいバイト、探すか…」




やがて、沙耶は諦めたように呟いた。




元々順風満帆の人生等、秋元家には存在しなかった。



本家に嫁いだ母も、その子供も、同じ敷地に住む祖母と叔母達に散々苛め抜かれた。




幼少時代、沙耶は叔母の子供に棒の切れ端で叩かれたり露骨な嫌がらせを受けながら、自分よりも小さい弟を必死で守った。



それでも、優しい父が生きていた頃はマシだった。




―なのに。




突然の父の死。





祖母と叔母は、チャンスとばかりに沙耶達を追い出した。





無一文。




次いで母の病気。



進学を決めていた大学は辞退せざるを得なかった。




誰も頼る人間は居ない。



けれど、母と弟を支える人間は沙耶しか居ない。




最初から転落人生だ。



バイト先をクビになった位で、落ち込んでいる場合ではない。







「なんとかなる」





信号待ちで、沙耶は頬を叩き、気合を入れた。




今までだって、この言葉でどうにかやってきた。





世の中が不公平の上に成り立っていることだって、今に始まったことじゃない。








「何これ…」




アパートの駐輪場―なんてものは存在せず、実際は伸び放題の雑草が生えて誰も手を付けられない状態の空き地の一角―に自転車を停めた沙耶は、道路脇に停車している一台の黒塗りのロールスロイスに目を剥いた。




ファントムと呼ばれるその車は、中古でも安くて一千万はくだらない。




ぼろアパートの住人に、こんな高級車に乗る知り合いなんていただろうか。



しかし、運転席にも後部座席にも、人気は無い。






―つーか、でかすぎだし、邪魔だし。





沙耶はそれを冷めた目で見つめ、階段を上ろうとした。





が。





「・・・」





階段に足を掛けた所で、沙耶はぴたりと動きを止める。





沙耶の家の前に、スーツ姿の男が立っていたからだ。





しかも、二人。




沙耶はゴクリと唾を飲み込む。





―借金は、とりあえずは無い、筈だ。





父や母が隠していなければ。





百歩譲って借金取りにしても、二人は上品過ぎる気がした。





―ウチに一体何の用なのかな。





沙耶は、身動きせずに二人の背中を見つめながら、必死に頭を回転させた。





続けざまに厄介事が多過ぎる。




あの二人が運んでくるものも、見るからに良いことではなさそうだった。




―逃げたって仕方ない。




沙耶はフッと早い息を吐いた。そのせいで一瞬だけ、前髪がふわりと上がった。





意を決して、キッと二人の背中を睨みつける。





「ウチに何か御用ですか?」





12段しかない階段の1段目から、腕組みをしてきつく声を発すると、それに気付いた手前の男が、ゆっくりと振り返った。





「…やっと、お会いできましたか。」





今更気付く、栗色の髪に、沙耶はあっと息を呑んだ。





「余りにお忙しいようなので、今日も駄目かと思いました。」





スーツ姿で、沙耶の家の前からこちらを見下ろす男は。





「あんた…」






沙耶の記憶が目まぐるしいスピードで巻き戻しされ、ミュアンホテルの裏口まで辿り着く。





「あの時の、ボーイ…」





タン、タン、とゆっくり階段を下りる足音がする。





「先日は、どうも。」





驚いて目をパチクリする沙耶を余所に、階段の3段目で立ち止まった坂月はにこりと微笑んだ。





「突然で申し訳ないのですが―」






どこかで聞いた台詞に―バイト先で雇い主から腐る程聞いた―沙耶は眉を潜める。





「私と一緒に、ご同行願えますか。」





「・・・・・・は?!」






ただでさえ心身共に疲れているというのに。





―どういうことだ、それ。





沙耶は見開いた目を、さらに広げた。





「いや、ちょっと、私もやることがありますから、用があるならここで済ませていただけませんか。」





早朝、直ぐ近くの公園に、犬と散歩に来た年配の男がちらちらとこちらを見ているのを感じ、沙耶はできるだけ声を低くした。





「うーん、困りましたね…」




坂月が溜め息交じりに呟くのと同時に、沙耶はホテルでの失態を思い出す。




「もしかして・・・」





どやされるのだろうかと身構えた。





「貴方に用があるのは、私じゃなくて、私の雇い主なんです。」





坂月が困ったように頬を掻いたので、やはりそうかと思った。





しかし―。




何故一介のボーイである坂月が、ここに来るのか。



それがどうしても腑に落ちない。




余程人手でも足りなかったのだろうか。





「何か、相当おかんむりなようで…」




坂月が言葉を続けた。





沙耶はふぅと息を吐く。




―仕方が無い。



あの男はいけ好かないし、ワインを浴びせかけてやって後悔していないが、ホテル側には迷惑を掛けたと思う。





沙耶は無一文ながらも、必死で謝り倒そうと考えた。





「その人は、今何処に?」




「会社にいらっしゃいます。」





「…わかりました」






沙耶は渋々と言った表情で首を縦に振った。



坂月は明らかにほっとしたような様子で、階段を下りた。



坂月の背後に来ていた男はどうやら運転手らしく、先程停車していたロールスロイスに飛ぶようにして辿り着くと、慣れた動作で後部座席のドアを開けた。




途端、沙耶の頬が引き攣った。




―まさかとは思ってたけど、これ、この人らのだったのか。





「どうぞ。」




躊躇している沙耶に、坂月は中に入るように促す。



やはりあれだけのホテルとなると儲かってるらしい。坂月はただのボーイだというのに、こんな車に乗って移動するのを許されているのか。




沙耶は半ば呆れたように溜め息を吐いた。




そこである事を思い出し、背後に立つ坂月を振り返る。




「あの…」




「何ですか?」




坂月は笑みを絶やさず、首を少しだけ傾げた。




「うちの、、呼び鈴って、鳴らしました?」




このご時世だというのに、インターホンですらない、ブザーのことだ。




「あ、いえ。鳴らそうとした所で声を掛けていただきましたので。」




坂月は首を横に振る。





「そうですか。」





それを聞いて、沙耶はほっとした。


弟を起こしたくはなかったからだ。




パッと見た腕時計の針は、6時30分だった。





―いいや、今日のお弁当は、仕方ないけど買ってもらうようメールしておこう。





痛い出費だな、と思いつつ、今回の失態が弟にばれることは避けたい。




余計な心配をかけたくなかった。




「お願いします。」




言いながら、沙耶は恐らく一生に一度しか乗ることのないロールスロイスに乗り込んだ。


坂月は後ろには乗ろうとせず、助手席に座った。


広い後部座席に、沙耶は身を縮めた。



これから何を言われるのだろう、と不安だった。



土曜の夜のことを回想し、沙耶は憂鬱になる。



あゆみにも連絡しなければならないのだが、まだしていない。



その上、あゆみはまだ休暇中だ。



もしかしたら、従業員から話がいって、直ぐに連絡がくるかもしれないと思っていたが、あゆみからは音沙汰なかった。



一度だけ「スーツのサイズ、大丈夫?」とだけメールが着たけど。





「今日は、何かご予定がありましたか。」




ぼんやりしていた沙耶は、坂月の問いにはっとする。




「あ、いえ、、ありましたけど…なくなりましたから。」





バイト三昧だった筈が、あっという間に無職になってしまった。




沙耶は少し項垂れた。





「あの、、長くなりそう、、なんですか?」





「あぁ…そう、ですね。出方次第、ですけど」





坂月が意味深なことを言う。




「そんなに、怒ってるんですか?なんか、金銭的にもマイナスついちゃったのかな…」





「うーん、、、問題はそこじゃないみたいですけど」





先程から坂月の言うことが、沙耶はいまいちよく理解できない。



―あゆみが悪く言われないといいけど。





沙耶にとって、それが一番心配だった。





―あゆみにだけはとばっちりがいかないようにして、今日電話して、折角紹介してくれたのに、ミスったことを謝ろう。





そう心に決めながら、車窓から外に目をやった。





これだけの高級車に乗っているというのに、景色はいつもと何ら変わらなかった。






それから、目的地に着くまで車内は静かだった。




やがて―





「着きました」




坂月の声に、いつの間にか俯いていた沙耶が顔を上げると。





「え?」




目の前に大きな山のように立ちはだかる、超高層ビルに、沙耶は目をぱちくりさせた。




当然のごとく、ミュアンホテルに行くものだと思っていたからだ。




呆然としている沙耶を余所に、運転手は立ち上がって、後部座席のドアを開ける。





「え、あ、いや…その…」





しどろもどろになっている沙耶を、運転手の背後から、先に降りた坂月が覗く。





「どうかされましたか。」





―お、落ち着け。




沙耶は自分にそう言い聞かせて、車を降りた。


「てっきり、ミュアンホテルかと、、思っていたので・・・」





不思議そうな顔をしている坂月に、沙耶は決まり悪そうに呟く。





「そうでしたか。でもあながち間違いではありません。ここは、ミュアンホテルを経営しているグループの本社です。」




坂月は安心させるようににこりと微笑みかけるけれど。






―全っ然、効き目ないんですけど!むしろ不安が煽られたんですけど!




ただのアルバイトの沙耶がした一度の過ちが、こんなばかでかい会社で説教されなければならない程の重罪だというのか。




―なんつー暇な会社なのよ。




そして、もう一つ不思議なのが、ボーイ坂月の役柄。




ホテルのボーイが、こんな仕事をするだろうか。






「さ、中へどうぞ。まだ、早い時間帯なので、ほとんど社員は居ませんが、社長はいらっしゃるので―」




「え!?」




坂月の勧めるまま、警備員が両端に立つゲートをくぐり、円柱型になっている自動ドアを抜けた所で沙耶は立ち止まった。



坂月の言葉通り、会社内に人はおらず、受付も空っぽだった。




「どうかしましたか?」




素っ頓狂な沙耶の声に先を歩いていた坂月が振り返る。




そして、天然なのか、腹黒なのか、しれっとした顔で、首を傾げた。





「いい、今、しゃ、社長って、、、」




「あれ、言いませんでしたっけ。」




「き、聞いてませんけど…」




「おかしいですね。言ったと思ってました。すみません。」





少しも悪びれない坂月の物言いに、沙耶の顔から血の気がさぁっと引く。





―社長、直々にバイトを説教、とか。有りなの?!どんだけ暇なんだよ!ほんとに!!





「さぁ。最上階まで行きますので、エレベーターにお乗りください。どうぞ。」





坂月は流れるような動きで、硬直した沙耶をエレベーターに乗せた。




ぐんぐん上がるエレベーターのせいで、沙耶の耳が痛んだが内心それどころではなかった。





―逃げたい。





沙耶らしからぬワードがぐるぐると頭の中を巡っている。




せめてもう少し考える猶予というものが与えられても良かっただろうに、詳しいことは何も聞かずにのこのことこんな所にまできてしまった自分が恨めしい。





点灯する階の数字は、無情にもどんどん上がっていく。




沙耶の予想では、ミュアンホテルに連れて行かれて、従業員室か何処かで、マネージャーとか支配人とかに怒られる筈だった。




―でも、確かに、そんなことでロールスロイスが来るわけないか。いや、じゃなんでロールスロイス!?





沙耶の頭の中はパニックになっていた。




同じエレベーター内の坂月の様子をチラリと伺うが、その表情は穏やかそのもので、沙耶のことなど何処吹く風だ。




―よくわかんないけど、良い気なもんだわ。




逆恨みと呼ばれても構わない。沙耶の心は荒む。



あんな良いホテルに勤めてて、こんな良いスーツを着て、こんな大きな会社に出入りする。



慎ましい生活を送り、さらに一日にして無職になった沙耶とは偉い違いだ。




―お金があれば、人はこんな風に穏やかになれるものなのかしら。




そこまで考えて、ブンブンと首を振った。




違う、それだけは絶対に違う、と。




自分達にされてきた仕打ちを考えれば、払拭しなければならない思考だった。




やがて、坂月の栗色の髪に目がいって、ふと昔の記憶が甦る。





散々苛められていた自分の、傷だらけの手を引いてくれた男の子。





『僕が、守ってあげる』





そう言ってくれた、男の子。






―あの子は、一体なんていう名前だったっけ。





今頃、何処でどうしているだろう。



「着きましたよ?」




坂月の声に、沙耶は我に返った。



見れば、坂月が開ボタンを押して、沙耶が下りるのを待っている。




「あ、す、すいませんっ!!!」




沙耶は自分の馬鹿!と罵りながら、慌てて下りた。




大きなエレベータホールを出た先には、ゲートがあり、その先に自動ドアが見える。





勿論勝手に開いてはくれず、坂月がモニターのようなものに手を翳(かざ)して初めてゲートが開いた。





「行きましょう」




坂月は沙耶を気遣うように振り返って、小さく頷いた。





ピカピカと光る大理石の床。




自動ドアの先には、明るいフロアが広がっており、入って直ぐの所にダークブラウンの大きな秘書机。



その上にはパソコンと電話が置いてあり、椅子はリクライニング付きだった。



傍に、待機する客人用なのか、黒いソファとテーブルが置かれている。





しかし、秘書は不在だ。





―社長が居るっていうのに、なんで、秘書が居ないんだろ。早い時間だから…そういうもんなのかな。




絶えず緊張はしているが、どこか夢を見ているような気持ちで沙耶は坂月の後を付いていった。





―そして。





奥へ進んでいくと、両開きの扉が重圧感たっぷりに登場。





坂月がその前で立ち止まる。




―い、いよいよだ…




沙耶は自分が生唾を呑んだ音をしっかりと聞いた。





坂月はコンコン、と慣れた手付きで扉をノックする。





「社長。秋元様をお連れしました。」





中から、「入れ」という短い返事が、微かに沙耶の耳にも届いた。





「失礼致します。」





坂月はそう言って、扉を開ける。





「さ、どうぞ。」





坂月が扉を押さえて、沙耶に中に入るよう促した。




沙耶は緊張で足元しか見ることが出来ないでいたが、ここまで来てしまったら腹を括るかしかないと、背筋を正す。




―よし!




心の中で、掛け声をかけ、中に足を踏み入れた。





「失礼します!」





勢い良く一礼し、頭を上げた先には―。





黒い、いかにもっていう背もたれ有り、革張りの回転椅子。





重厚感溢れる、先程見た秘書机の倍あるだろうデスク。





その上に、両肘をついて、手を組んでいる男―





「!?…なんでっ、あんたがここに…」






見覚えのあるその顔に、沙耶は文字通り言葉を失った。





「あんた??」




男は沙耶をじっと見つめたまま、不愉快そうに沙耶の言葉を繰り返す。





「そうよ!あんたよ!!もう二度と顔も見たくないって思ってたのになんで居るのよ?」




沙耶の緊張の糸なんかぷつんと切れてどこかへ行ってしまい、代わりに胸焼けするようなむかつきを覚えた。




「…どういうことだ、坂月。」





低い声で男は沙耶の隣に視線を移す。




「申し訳ありません、社長。少々説明不足な所がありまして…」




「社長!?」




沙耶は恐縮する坂月の言葉に耳を疑う。




「違いますよ!この人、こないだのパーティーで弱い者苛めしてたどこぞの…「秋元さん」」




坂月は苦笑しながら、少し窘(たしな)めるように沙耶の名前を呼んだ。




「私の言葉が足らず申し訳ありませんでした。貴女に用事があり、呼びにいかせたのは、彼、つまり石垣諒(いしがきりょう)なんです。」




「いし、がき…」




沙耶は今しがた聞いた事を反芻するように呟き、最近どこかで見かけたような気がする、と記憶を探った。




そして、あっと息を呑んだ。




沙耶の反応を見て、坂月は頷く。





「そうなんです。あの日は、石垣グループの新しい社長就任の披露パーティーだったんです。」





自分でも顔から血の気が退いていくのがわかった。



もしかして、という気持ちが先走っている。




そんな沙耶を知ってか知らずか、坂月は淡々と続けた。


「そこで新しく若手社長として就任したのが―」




そこまで言うと、坂月は机の上で不機嫌そうにこちらを見ている男に片手を向ける。





「石垣諒、です。」








バチっと、沙耶と石垣の視線が交じわった。





それは見紛うことない、モデルの様な顔立ち、スタイルの、最低野郎。




こんなにじっとは見たことがなかったが、悔しいかな、本当に綺麗な顔立ちをしている。




しかし、その瞳は熱そのものを忘れてしまったかのように、温度というものが感じられない。






「え、でも、ミュアンホテルって―」





沙耶は納得いかないように、隣の坂月にちらりと目をやる。





「mur(ミュール)・en(アン)・pierre(ピエール)。フランス語で石垣っていう意味なんです。」





坂月の待ってましたというような笑みに、間違いなく、こいつ策士だ、と確信した。





「もういい。坂月。ここでつらつら説明なんかしやがって。」





怒気を含んだ声が、静かに部屋に響く。




ギッという音がして、石垣は椅子の背もたれにふんぞり返った。





「秋元沙耶」





名前を呼ばれ、沙耶はびくりと身体を震わせる。




扉に入った所で立ち止まっていたため、石垣とは距離があった。




しかし、その視線は鋭く、射抜くように沙耶に注がれている。





「やっと会えて、嬉しいよ。」





―私はこれっぽっちも嬉しくない!




沙耶はキッと睨みつけるも、石垣は全く臆さない。




「お前さ、天下の石垣の晴れ舞台に命知らずなことやったんだよね。」





先日のパーティーよりも、ずっと砕けた物言いに沙耶はカチンと来る。




冷ややかな、氷みたいな声だと思った。




けれど、石垣はどこか楽しそうな笑みを浮かべている。





「あんな屈辱的なこと、俺初めて。大体ワインで台無しにしてくれたあのスーツ、幾らすると思ってんの?」





そこまで言うと、石垣は立ち上がった。




床から、コツ、コツと靴音が響く。




ゆっくりと。






そして―





沙耶の目の前でピタリ、止まった。



間近で見る石垣は高圧的で、背も高い。





「弁償できる?百万。」





見下すように言われ、沙耶は向っ腹が立って仕方ない。





「っ、「できないよなぁ?」」




口を開きかけた所で、男の笑いが不敵になった。





「今、無職、だろ?」




「!!!!」





一瞬、何でこの男がそれを知っているんだと頭が真っ白になるが。





「…あんたの仕業ね…」





不自然な解雇通告の根源が直ぐに理解できた。



「どーすんの、これから。母親は入院中、弟は高校生。」




つらつらと石垣の口から出てくる個人情報に沙耶は目を見開く。




「なっ…んで、そんなこと…」




「朝飯前だよ、そんなこと。それから?なんだっけ?うちのホテルの従業員の代わりにお前が来たんだっけ?」





馬鹿にしたように鼻で笑う石垣に、沙耶は武者震いのようなものを感じる。





「瀧澤あゆみ、だっけ。そいつにも責任ないとは言えねぇよなぁ?」




「!!!あゆみは悪くないっ!!!」





そう言って石垣を仰ぎ見た途端、顎をグイっと掴まれる。




「放し…「そーいうこと、したんだよ、お前は。」」





触れそうな程の距離で、大きな目に睨み据えられた。





「石垣敵に回したら、命なんてないと思え。善人気取りで世間知らずのお嬢ちゃん。」





―ヤクザだ。




こいつ、ヤクザだ。




いや、ヤクザの方がまだ筋が通っている。




こいつは、中身が腐り切ってる。




沙耶の握り締めた拳がぶるぶると震えた。





―あったま、来た。





「…ざけんなよ。」





沙耶の口から低い声が出る。




「-は?」




聞き取れない石垣は、沙耶の顎を掴んだまま、眉間に皺を寄せた。




瞬間―



「ざけんじゃねぇっつったんだよ!」




バキッ




「うっ」




怒声と共に、沙耶の右手の拳が、石垣の左頬を直撃した。




予期していなかった衝撃に、石垣の身体がよろめき、そのまま倒れこむ。




「年上の人間には敬意を払う!これ常識。世間知らずはあんたの方だっつーの!」





沙耶はパンパンと手を叩き、言い放つ。





「このアマ…こんなことして、ただで済むと思ってんのかよ。」





一瞬呆然としていた石垣が、頬に手を当てながら、忌々しげに脅しをかけるも。





「やれるもんならやってみなさいよ!おかげさまで、既にマイナスよ!こうなったら堕ちるとこまで堕ちてやるわ。どうせ、あんたみたいなのが経営する会社に支えられてるようじゃ、この国も終わったようなもんだからね!」





フン!と沙耶は腰に手を当てて言い切った後、身を翻した。





「待てよ!まだ話は終わってねーよ!」




石垣の言葉に沙耶はピタリと立ち止まる。そして頭だけ振り返り、石垣を睨みつけた。




「ごめんなさいね?誰かと違って忙しいの。用事があるなら次はあんたが来れば?」




ケッと吐き捨てるように沙耶はそう言って、部屋から出て行った。





「…右ストレート。」




押し殺したような笑い声と共に、坂月が呟いた。




「何笑ってんだよ、坂月。お前がいながら、どーいうことなんだよ。」




石垣は口の中に広がる鉄の味に顔を顰めながら、身を起こす。





「ふっ…失礼。まさか、殴られるなんて思っていなかったものですから…くくっ…」





「…のやろぉ…、つーか、なんで説明もしないまま連れてきたんだよ?」





ツボに入ったのか、小刻みに身体を震わせる坂月を、石垣は恨めしそうに睨む。





「……最初から話していたら、彼女はこないだろうと判断したんです。ただでさえ忙しい毎日を送っていて、会うのすら二日もかかったんですから拒否されたら更に面倒なことになりますので。」





「ったく、詭弁だな。単に面白がってるだけだろう。」




呆れたように言えば、坂月はあっさり認めた。




「はい。諒様が他人に興味を示すなんてこと、初めてだったので。」





チッと石垣は舌打ちするだけに留め、沙耶の出て行った扉に目を向ける。





「暴力女。地獄の果てまで追ってやるから、覚えとけよ。」





まさか、そんな呪いの言葉を吐かれているなんて知らない沙耶は、高級ブランドショップが立ち並ぶ街を、がむしゃらに突っ走っていた。





石垣の髪の色が、栗色だったことに、出て行く直前に気付いた。






―あんな最低野郎の髪の色が、一番良かった頃の記憶とリンクするなんて、吐き気がする!





「あー!!!腹立つ!!!!」





唯一の思い出を穢されたような気がして、沙耶は力任せに街路樹の幹を蹴り飛ばした。




ちょうど出勤時間のサラリーマン達が、驚いてちらちらと見て行く。





高圧的な物言い、人を見下したような目、その何もかもが沙耶の神経を逆撫でする。





―大っ嫌い。






「あんな奴に、私は絶対屈しない!」







顎に、触れられた感触が残っていて、ごしごしと痛いほど擦りながら、自分自身に宣言した。




「…何が天下の石垣よ……」




―あいつが天を行くのなら、私は地を這ってやる。








どこからか金木犀香る、秋晴れの朝の出来事だった。




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