43 ヴィオレーヌの逆襲

「どうすればいい。どうすれば」


 今日はこの宰相官邸で会議があると言っていたのに、早々に俺の部屋にやってきたヴィオレーヌは、そう言って部屋の中を行ったり来たりした。


 ジセンがクラリスにつかまって数週間がたった。ゲームのシナリオ通り、ヴィオレーヌの陰謀の噂はあっという間に広まって、今世間での彼女の評判はすこぶる悪い。


 それでも、そんな評判くらいで自分の地位が揺るがされるものかとヴィオレーヌは強気だったが、今日は様子が違う。会議で何かあったのだろうか。


「何があったんだ」


 カップをテーブルに置いてお茶を注いでやると、ヴィオレーヌはようやく椅子に座り、しかしすぐに腰を浮かせて今度は窓際へと向かった。


「会議に、誰も来なかったのよ。大臣たちが、誰も」


 そしてまた戻ってきて椅子に座りカップを持ち上げ、しかし口は付けずに俺の方を向く。


「それでね。密偵を四方に発して様子を探らせたのよ。彼らがどうしているのか。そしたらどうしてたと思う」

「みんな、クラリスの屋敷に集まっていた」

「そう! 信じらんない」


 憤慨した勢いに任せて彼女はカップを一気にあおり、「熱っ」とお茶をこぼした。


「落ち着けよ。クラリスと仲良くすることは……」

「できない」

「なぜ」

「あの子とは、相いれないの。あの子の前にいると、私はいつも自分が惨めになる。自分のダメさばかりを意識させられてしまう。あの子は、私は私でいいと思わせてくれない。対等では居させてくれない。精神的に自由でいさせてはくれない。あの子と仲良くなることは、あの子に従属することよ。私に一生、あの子にこびへつらって生きろというの」


 そう一気に言って俺をにらみ上げる。興奮して少し頬が上気している、その彼女の表情は高貴で、誇りに満ちているように俺には見えた。


 そう。これが誇り高きヴィオレーヌだ。俺だったらこびへつらっても生きようとするかもしれない。しかしヴィオレーヌはそれを望まない。自由と誇りを失ったらヴィオレーヌではなくなる。きっと、敵に背を向けて亡命することだって、できればしたくないだろう。

 俺はヴィオレーヌを救いたい。だけど、それは単に命を救うことではないんだ。クラリスに屈しさせてしまったら、命は無事でも、精神が死んでしまう。


「よし、分かった」


 俺は数々のゲームオーバーのシーンを思い出しながら、ヴィオレーヌの肩に手をおいた。お前からの負け方なら、いくらでも知っているんだ。


「クラリスをやっつけようぜ。俺に、ひとつ策がある」


     〇


 建国記念祝賀行事の終わった街は、あの賑わいとのギャップで、少し閑散としているように感じる。

 宰相官邸前の静かな街路を、何百人もの兵隊が列をなして去ってゆく。紅い軍服。銀色の兜と胸甲。ヴィオレーヌの親衛隊だ。


 ちなみに、親衛隊と近衛隊は違う組織だ。アルベルトが彼の部下の元近衛兵中心に編成した、ヴィオレーヌの直属部隊が親衛隊である。軍装も似ているけれど少し違う。紅い軍服は同じだが、親衛隊の兜と胸甲には桔梗の紋章が刻まれている。ズボンの色は近衛隊の白に対して親衛隊は緑色。腕には紫の腕章をつけている。


 カーテンの隙間から彼らが行進していくのを眺めていた俺は、最後の兵の姿が街角を曲がって見えなくなると、窓際から離れた。


「みんな行った?」


 椅子に座ってお茶を飲んでいたヴィオレーヌが、カップをおいて俺に問うた。紫色のドレスアーマーの肩当てが、シャンデリアの明かりを受けて鋭く光っている。


「ああ。予定通りだ。クラリスに使いを送れ」


 そして俺は入り口にたたずむアルベルトに目配せをした。

 アルベルトは一つうなずいて部屋から出ていく。彼はこれから宰相謁見の間の裏にある隠し部屋に、官邸に残った親衛隊百名とともに待機するのだ。


 この館にクラリスはもうすぐやってくる。

 あの会議のあと、病気と称して引きこもったヴィオレーヌは、その後行われた建国記念の祝賀行事の全てを欠席した。そして祝賀行事の終わった昨日、クラリスに使いを送ったのである。「私は病が重く、今後のことはあなたに託したいと思う。ついては引き継ぎのこととかもあるので宰相官邸に来てもらいたい」と。


 クラリスの返事はこうだった。「官邸は警備が厳重で、私は近寄ることもできません」。つまり兵を引けというのだ。兵を引いたら行ってやろうと。


 クラリスが警戒するのは当然だ。もちろんこれは予想通りの発言。だから俺たちは今日、彼女が安心するため、望み通り官邸に駐屯する親衛隊五百を全てフリュイー郊外へと転進させた。

 五百人すべてを。……しかしこれは見せかけである。そのうち百人は官邸の使用人に軍服を着せただけのものだ。百人の精鋭はこの屋敷に残っている。空っぽと侮ってのこのことやってきたクラリスを捕らえるために。


「ねえ。今度は、うまくいくかな」


 アルベルトが出ていって二人になると、ヴィオレーヌは大きく息を吐いて肩を落とした。その表情には疲れがにじんでいる。本当に病気になってしまいそうだ。


「大丈夫だ。俺はクラリスの行動は熟知している。それに俺はゲームの中で何度もお前に負けている。その作戦のひとつだぞ。もっと自分を信じろよ」


 実際はヴィオレーヌの作戦のアレンジ版だが。ゲームではクラリスが最終的に勝つのだから、ヴィオレーヌの作戦そのままでは負けてしまう。ひょっとしたら、まったくゲームにない作戦を考えた方がよかったのかもしれない。しかし俺は、ヴィオレーヌを、ヴィオレーヌの作戦で勝たせたかった。


 ヴィオレーヌは何かを言おうとして、しかしすぐに口を閉じた。そのかわりに立ち上がって、俺と向かい合う。俺の顔をじっと見つめ、そして手を伸ばし俺の左の頬にそっと触れる。


「確認させてね。あなたの右頬を、はたいてはダメなのね」

「ああ。そしたら俺は自分の世界に戻って、二度とこの世界にはこれなくなる」

「キスはしても、大丈夫なのね」

「ああ……」


 そう答えた瞬間だった。

 突然ヴィオレーヌが、俺に顔を寄せた。

 彼女の柔らかい唇が俺の唇に当てられる。


 ヴィオレーヌの身体が離れると、俺は足から力が抜けたように傍に置いてあった椅子に腰を下ろした。


「ご注進!」


 俺の呆けた思考を覚ますように部屋の扉があわただしく叩かれ、伝令が入ってきた。


「デュフレーヌ卿から伝言です。これから参りますと」


 俺の全身に血が駆け巡る。いよいよだ。

 俺とヴィオレーヌはお互いの顔を見てうなずき合い、立ち上がった。


     〇


 広い宰相謁見の間の床には、いくつもの長い窓から差し込む午後の光が眠たげに這っている。その光の中に、たったひとり、紫のドレスアーマーに身を包んだヴィオレーヌが毅然と立っていた。

 俺は彼女の背後の壁際に膝をついて待機。もちろん何かあった時の援護のために、手ごろな石と指弾用の豆を装備している。さらに俺の背後の隠し部屋にはアルベルト率いる精鋭百人。万が一にもクラリスを逃すまい。


 しかしクラリスはなかなか姿を現さなかった。


「まだか。まだ、クラリスは来ないのか」


 つぶやく俺の胸の底に、黒い不安が渦巻きはじめる。

 おかしいな。もう来ているはずなのに。油断してたった数人の護衛しか連れずに、彼女は得意になってあの桔梗の紋章の刻まれた扉を開くはずなのに。


 謁見の間は異様に静かだ。部屋の中だけではない。外からも、何の音も聞こえてこない。クラリスたちが来る気配も、館に残ったスタッフが何かを知らせに来る様子も、何も感じない。静かすぎる。


 何か、おかしい。


 不審な気持ちと不安を抑えきれなくなった俺は、立ち上がって広間の脇の通用口へと向かう。

「ちょっと、様子を見てくる」

 ヴィオレーヌの、微動だにしない背中に声をかけ、そして廊下へととびだした。


     〇


 宰相官邸の玄関ホールから最奥にある謁見の間へ行くには、三つの経路がある。玄関から奥までまっすぐに伸びている中央廊下。その左右にそれぞれ中庭を挟んで並行してのびている、西の廊下と東の廊下。東の廊下は今は改装中で、西しか通れない。その西の廊下の途中に、中央廊下を通って宰相謁見の間へ向かう人間を監視する場所を設けていた。


 自分の悪い予感が的中したことを知ったのは、人っ子一人いない西側の廊下をしばらく走った時だった。。


 クラリス来訪を告げる役のスタッフが、本来待機しているはずの場所だ。しかしそこにいたのは見張りのスタッフではなかった。


 いや。スタッフもいた。見張り役の二人のスタッフが、床に倒れている。そして横たわる彼らの身体の傍に、血まみれの剣を携えて突っ立っている男の姿があった。その男は……。


 どうしてだ。


 俺の頭は混乱する。なんで、王太子の護衛のこいつが、こんなところにいるんだ。


 そして俺は歯ぎしりをしながら、その男の名を呼ぶ。


「グレゴリー」


 けだるそうにこちらを向いたグレゴリーは、俺の姿を認めると、血のこびりついたそのカミソリのような頬をゆがめた。

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