40 再会
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
湿気と暑苦しさで俺は目を覚ました。
頬と服が濡れている。起き上がって周囲を見渡すと、人気のない石造りの広い部屋の中に、あたたかい蒸気がホカホカと漂っていた。チャポンと水滴が水たまりをたたく音が響く。蒸気の向こうに水面が見える。どうやら、浴場のようだ。
ギィ……、と扉の開く音がして、ピタピタと石の床の上を誰かが歩く音がきこえた。足音と一緒に鼻歌が流れる。女の声だ。音が外れているような気がするが、石の壁に反響して微妙に上手に聴こえる。この声は……。
俺は声の方を向く。湯気にかすんだ女の人の姿が視界に入る。体の曲線がわかる薄い衣をまとった、女の人。顔は良く見えないが、肌が白くて、髪は黒い。その人は俺が振り向くと同時に足を止め、鼻歌を途切れさせて身構える。
「誰っ!」
その声をきいて、俺の全身に喜びが満ち溢れた。ああ、この声。懐かしいこの声。実際はついさっきまで一緒にいたはずなのだが、何年もあっていなかった気がする。夢にまで見た彼女の声!
俺は手を広げて彼女の方へと歩いてゆく。俺と彼女の間に漂う湯気が少しづつ晴れてゆく。彼女の白い足が、くびれたおなかが、豊かな胸が、そして顔が、あらわになる。濡れた黒髪の下で相変わらずの鋭い目が、大きく見開かれる。
頬が自然と持ち上がるのを、俺はいかんともできなかった。こらえきれずに口を開き、そして彼女の名を呼ぼうとする。
「久しぶりだな、ヴィオレー……」
「キャアァァァァァァァ!」
彼女の悲鳴が俺の声をさえぎって、浴場に響き渡る。それを合図としたかのように扉が乱暴に開かれ、たくさんの足音がどたどたとなだれ込んで俺をとり囲んだ。
「閣下。何事ですか」
「侵入者よ。ひっ捕らえなさい!」
「ちょ、ちょっと待て。誤解だ。俺はこいつの……」
「黙れ変質者め。ヴィオレーヌ様の入浴シーンに堂々と乱入とは不届きせんばん」
どうやら女性の護衛隊のようだ。甲高い隊長の合図と同時に何人もの兵隊の身体が俺の上にのしかかる。変態、覗き魔とののしられながら、俺はあっという間に縛り上げられてしまった。
「話をきけ。俺はタケルだ。ヴィオレーヌの第一の家臣だぞ」
湯のように浴びせられる罵詈雑言を押しのけるように、もがきながら俺は叫ぶ。もっと格好よく登場するつもりだったが、なりふり構ってはいられない。俺は変質者じゃない。ヴィオレーヌの昔馴染みだ。だから助けてくれ。
俺の願いが届いたのか、浴室内が静まり返り、縄を引っ張る力が弱められた。
「……タケル、ですって?」
護衛たちをかき分けて、ヴィオレーヌが俺の前に姿を見せる。残念ながら、いつの間にかマントを羽織って胸の前で描き合わせていやがる。
眉をひそめて怪訝そうに俺の姿を観察する。そんな彼女の表情に、雨上がりの雲間から光がさすように、少しずつ笑みが広がってゆく。
「タケルだ。本当に、タケルだ」
そう言ってから彼女は表情を引き締め、そして周囲の護衛たちに命じた。
「この者を、あとで私の執務室に通しなさい。丁重に扱うように」
〇
客人用の部屋だろうか、高級ホテルのスイートルームのような部屋に通され、紺色の燕尾服のようなものに着替えさせられた俺は、しばらくそこで待機させられた。
それにしても……。
俺は不審な思いにかられながら、豪華な客間を見渡す。七色の光をちりばめて輝くシャンデリア。金色の装飾のほどこされた無駄に大きな壺。ふかふかのソファ。壁には絵画やら鏡が、これまた金色の額に収められて飾られている。どれもなんだか高そうだ。部屋だけじゃない。ここに来るまでの廊下だって、なんだかすごかった。長くて、天井が高くて、いろんな彫刻が置かれていて……。ヨーロッパの宮殿のそれみたいだった。あきらかにあの宿舎のホテルではない。ここは、どこだ。
この建物だけじゃない。ヴィオレーヌの様子も、別れる前とは違っている。何だか偉そうというか。いや、偉そうなのは前からなのだが、この環境で妙に落ち着いていて、堂々としている。大勢の人間にかしずかれても、まるで自分の家にいるように。そういえば「閣下」だなどと呼ばれていたな。ということは、あの別れた直後ではないということか。
あれからどれくらい時間がたっているんだ。今はいったい、いつだ?
そんな疑問にかられながら落ち着きなく部屋を行ったり来たりしていると、やがて紅い制服を着た大柄な男が迎えに来た。
「お待たせしました。これより、宰相の執務室にご案内いたします」
〇
宰相執務室は客室よりは広いもののずっと簡素で、しかしそこにはいろんな格好をした大勢の人がい並んでいた。
ヴィオレーヌの姿は部屋の奥に見つけることができた。部屋の奥に敷かれた紅い敷物の上に置いてある、重厚そうな黒い机。そこに片肘をついて、難しそうな顔で書類を眺めている。
「閣下はまだ仕事中なので、こちらでお待ちを」
衛兵に促されて俺は彼と一緒に入り口近くの壁際に移動した。そこにはほかの廷臣と思しき人々が整列している。その端に並んで立ち止まった時、その大柄な衛兵が前を向いたままささやきかけてきた。
「それにしても君が生きているなんてな」
俺は思わず彼の顔を見上げる。よく見るとその人は、アルベルトだった。綺麗な格好をしているからわからなかった。
「君が消えてから、いろんなことがあったよ。ヴィオレーヌ様は宰相家に迎え入れられ、王太子様と婚約し、ほどなく俺も前職に復帰した。それから二年のうちに宰相やそのご子息が相次いで亡くなられた。ヴィオレーヌ様は大変苦労なさった。味方も少ない宮廷で、人づきあいも苦手なのに、宰相代理として、ひとりで頑張ってきたんだ。王太子様から婚約破棄されても気丈にふるまっておられた」
「ちょっとまって。婚約破棄されただって?」
もう、そんな段階になっているのか。それにしてもあの王太子め。結局ヴィオレーヌを見捨てたのか。見損なったぞ。
俺の憤りに同調するようにひとつうなずいて、アルベルトは言葉をつづけた。
「ああ、婚約破棄された。もともと王太子は宰相の権勢になびいて婚約したお人だからな。クラリス側有利となったらあっけなく鞍替えしたよ。まあいいさ。奴はもう、報いを受けた。誓いを破った天罰が下ったんだと、みんなは言っている」
「誓い、だって?」
「そう。いつのことか俺は知らないが、王太子はかつて誓いを立てたのだそうだ。ヴィオレーヌ様を決して見捨てないという。それはかなり重い誓いだったらしく、その場に居合わせた者も大勢いたのだとか。だから王太子が婚約破棄をしたとき、いたるところから反発の声があがった。無視できないほどのね。結果、王太子はその地位をはく奪され、今は公の場に出ることもできず、郊外の離宮に逼塞している」
誓いって、遺跡公園での俺とのやり取りのことかな。そうだとしたら、俺の頑張りも無駄ではなかったことになる。王太子をヴィオレーヌの味方にしておくことはできなかったが、裏切り者に一矢報いることはできたわけだ。
「それは、ざまあみろだな」
「ああ。でも、そんなことより、ヴィオレーヌ様の疲れた様子を見るたびに思ったもんだよ。あの青年はどうした。彼女にいつも影のように寄り添っていたあの青年は。彼がいたら、彼女はあんなに苦しまずに済んだかもしれないのに。君は、今までどこにいたんだい」
執務机のヴィオレーヌに視線を向けながら話していた彼は、言葉を切ると、大きく息を吐いて俺に顔を向けた。
「話せば長くなります。ところで、あれから、何年がたったのですか」
「来月ある建国記念日で、三年になる」
三年。そんなにたっていたなんて。ヴィオレーヌが失脚して処刑されるまで、ほとんど時間がないじゃないか。
急に落ち着かない気持ちになる。俺はすぐにでも話しかけたい気持ちにかられながらヴィオレーヌの様子を眺めた。
大会社の重役みたいに執務机についたヴィオレーヌは、やり手のキャリアウーマンのように、次々と寄せられる案件をさばいている。
立派な服を着た太った紳士が執務机の前に立って、ヴィオレーヌに紙を差し出す。それを手に取り一瞥したヴィオレーヌは首を横に振り、紙をつき返す。
次に机の前に出てきたのはみすぼらしい格好をした老人。震える手で彼もまた一枚の紙を差し出す。それを受け取って目を通すヴィオレーヌ。しかしやはり首を横に振って紙を返す。
次もまたみすぼらしい格好の中年の男。今度の書類は先のそれより時間をかけて審査された。やがて一つうなづいたヴィオレーヌはペン立てから羽根つきペンをとり、サラサラと紙にサインをした。
「光の天使。君はそう呼ばれている」
「え。どういうことですか」
「現れるときも去る時も、君は光に包まれていたそうだね。だから、ミシェル様もヴィオレーヌ様も、君のことを天使だと言っている」
そう言って、アルベルトはヴィオレーヌの背後の壁にかけてある肖像画を視線で示した。
そこに描かれているのは、光を背にまとったひとりの男だ。俺ははじめ、それをどこかの国の王か英雄だと思っていた。鼻筋は通っているし、眉はキリリとしているし、遠くを見晴るかすようなその表情には、優しさと威厳が満ちている。なに。ひょっとして、あれは俺なのか。嘘だろう。俺だとしたらちょっと……いや、かなり美化されすぎだ。
冗談でしょう? そう確認するように苦笑してアルベルトを見上げると、絵を見つめる彼の顔は大真面目だった。
「本当にそうなら、どうか今からでも、彼女に力を貸してほしい。あの方には、敵が多い。誤解のされやすいご性格だから……。味方は少数の側近と、そして君だけなんだ」
「もちろん、俺もそのためにきたんです。すぐに戻ってきたつもりだったけど、三年もたっていたなんて知らなかった。詳しいことは、後でヴィオレーヌに話します。こちらも色々ありすぎて、きっと信じてはもらえないから」
そう、話し合っているうちに、執務室にいた人の数はずいぶん減って、最後の訪問者がヴィオレーヌの前に進み出た。
貴族だろうか、堂々とした体格の偉そうな老紳士はヴィオレーヌから書類をつき返されてもなかなか引き下がろうとはしなかった。ヴィオレーヌが冷静な表情で説明しても納得した様子をみせない。しまいには顔を赤くしてヴィオレーヌを指さし、何事かわめき散らしはじめる。
「おっと、仕事だ」
そう言ってアルベルトは執務机の方へと歩いて行った。
老紳士を文字通りつまみ上げ、出口の方へと引きずってゆく。
出口の廊下が閉まり、老紳士のしわがれた悲鳴が響くと同時に、ヴィオレーヌは俺の方を向いて軽くほほ笑んだ。
「さあ、午後の仕事はここまでとしましょう。タケル。こちらの部屋へ来なさい」
その場に残った廷臣たちの視線が一斉に俺に注がれ、ざわめきが部屋に満ちる。
おいおい。俺は偽物じゃないぞ。あの絵がおかしいんだ。あの絵が。
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