39 デスティネの正体
暗く底のない闇の中を、俺はどこまでも落下していった。
あまりどこかに向かって落ちているという感覚はない。でも落下しているのだと思う。俺の周囲の闇のところどころに光の粒が散っていて、それが勢いよく上へと流れていくから。そしてその勢いとは無関係に、あのデスティネの声が、常に俺の傍に寄り添うようにどこかから降り注いで来るのだった。
* * *
ヴィオレーヌのために尽くしてくれてありがとう。あなたが元の世界に戻る前に、本当のことを話しておきましょう。
私は本当はデスティネなどという名ではありません。運命を司る者というのも嘘です。私の本当の名前はジョセフィーヌ。ヴィオレーヌの母です。
まずは私の生い立ちについて話さなければならないでしょう。運命を司る者ではないけれど、私は不思議な力を持っているのです。私にはね、魔女の血が流れているの。しかしあの国では魔女は忌み嫌われていました。一族の者は迫害され、私の若いころに皆死に絶えてしまいました。私独りだけを残して。私は、あの国で最後の魔女だったのです。
迫害を逃れた私は自分が魔女だということを隠して暮らしていました。やがて、ミシェルさんと出会い見初められましたが、私は貴族の世界に入ることは気が進みませんでした。素性がばれてしまうのではないかと恐れたから。
ミシェルさんの人柄は信頼できたので、彼だけにはすべてを打ち明けて私は都を去ろうとしました。しかしミシェルさんは全てを承知で私と結婚してくれたのです。そして私は娘を授かった。それが、あの、ヴィオレーヌ。しかし穏やかな生活は長くは続きませんでした。ヴィオレーヌが生まれてほどなくして、私の素性が明るみに出そうになったのです。そして私たちは、貴族の地位を捨てて、あのブルジヨン村へと移り住みました。
私は自分の娘には自分のような人生を歩んでほしくないと思った。人の目を恐れ、自分の血に怯えて隠れ住まねばならない人生を。だから、あの子の分も私が引き受けることにしたのです。あの子の血に含まれる、呪われた成分を。
私は私の魔力を使って、あの子の魔力をすべて自分の体内に吸収した。もちろんそれには強い副作用を伴いました。私も予想していなかった恐ろしい副作用。闇の中でしか生きられなくなるという副作用が。それ以来私はこの世界の人間と接することができなくなりました。声も聴いてもらえず、姿を見せることもできない。ただ見ているだけの、死んだも同然の存在になったのです。
実際私は死んだものとされ、私はただ、霊のようにミシェルさんとヴィオレーヌを見守る生活を送ることになりました。
ある問題に気づきはじめたのは何年かしてからです。それはミシェルさんとヴィオレーヌの間に生まれた溝のようなものと申しましょうか。年頃になった子供と親の間にはたいてい生まれるものかもしれません。貴族が性に合わなくて、田舎暮らしを心地よく思っているミシェルさんと、都に行って身を立てたいと願い、日々頑張っているヴィオレーヌ。私がもしあの場にいたならば、二人とどう接したのだろう。想像しているうちにいてもたってもいられなくなりました。私はきっと、ミシェルさんをなだめ、ヴィオレーヌを応援したことでしょう。応援してあげたい。励まし、そしてその背を押してあげたい。私の娘として生まれたばかりに、華やかな世界から遠ざけられねばならなかったあの子の。それでもけなげに頑張っているあの子の、小さな背中を!
そして私はあなたを召喚しました。
あの子はいつもひとりぼっちで、助けてくれる人がいなかったから。あの子の傍にいて、時に手を貸し時に励まし、時に背を押してくれる誰かがいてほしかった。あの子に触れることも声をかけることもできぬ私の代わりに。いつもあの子に寄り添って、味方になってくれる誰かが。
* * *
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ヴィオレーヌのキスが転移の条件だったなんて……」
周囲の光の粒が消え、まったくの暗闇になったかと思うと、俺の身体がふわりと柔らかい何かの上に横たわった。
なんだか懐かしい感触だ。その柔らかくて暖かいものの上に仰向けに寝っ転がったまま、闇を見上げて俺は言葉を続ける。
「キスが別れの合図だなんて、ずいぶん残酷じゃないか」
「案ずることはありません」
すぐそばでしたジョセフィーヌさんの声は、さっきよりもくっきりとしていて、実体を伴っているそれのように思えた。
「私の世界では、キスは愛情表現ではないので。大きな感謝を表すときに、手の甲にキスをする習わしなのです。つまり、あなたのおかげで望みが叶い、ヴィオレーヌがあなたに感謝したとき、それがあなたの帰る条件だったというわけです」
「おかしいな。ヴィオレーヌは、俺の口にキスをしたんだぞ」
「口に……」
ジョセフィーヌさんは絶句という感じで言葉を途切れさせた。
その沈黙に耳を傾けながら俺は思う。ヴィオレーヌは本が好きだった。何かの本に書いてあった愛情表現としてのキスを、感謝の習わしと一緒にして行ったのかもしれない。いずれにせよ俺は、あの時の彼女の眼差しに、吐息に、頬に触れた手の感触に、愛情以外の何をも感じることはできなかった。
「ねえ、デスティネ……。いや、ジョセフィーヌさん。俺を、もう一度あの世界に戻してもらうことはできないだろうか」
ジョセフィーヌさんのいると思われる方へ首を曲げる。夜明けが近いのか、少しだけ空間が明るくなった。暗がりでもわかる散らかったアパートの部屋のなかに、フードをかぶった細身の人物の影がたたずんでいる。
俺が運命だと思っていたこの人物も、実は運命などではなかった。俺やヴィオレーヌと同じように運命に翻弄されるだけの人だった。その娘に対する想いが俺を呼び、俺がヴィオレーヌをあのステージへとあげてしまった。皆が運命に弄ばれ、その手のひらの上で運命のシナリオ通りに踊っている。
だが……。
だが、俺は今、強く思う。俺は今度こそ本当の運命と対決し、ヴィオレーヌを救いたいと。
もし俺がヴィオレーヌの運命と対決するならば、この人は敵ではなく、力を借りるべき味方だ。
俺は起き上がり、布団の上に正座して彼女の方に体を向けた。
「ジョセフィーヌさん。あなたに言いにくいことだが、ヴィオレーヌは宰相の養女になった後、政権争いに敗れて処刑されてしまうんだ」
「えっ……」
短い悲鳴のような言葉のあとに、少しの間をおいて、苦痛を絞り出すように彼女は言った。
「処刑……だなんて、そんな。そんな、馬鹿な。そんな……」
またジョセフィーヌさんは黙り込む。その影が少し震えているような気がする。
ああ。やはり彼女は知らなかったんだな。そうとは知らずにヴィオレーヌの出世を望みその背を押したんだな。そう思いながら俺は、言葉を続ける。だから俺は、ジョセフィーヌさんのためにも、もう一度、行かなきゃいけないんだと、決意を強くしながら。
ジョセフィーヌさんのために。
ヴィオレーヌを愛する人のために。
何より、ヴィオレーヌのために。
「お願いだ。もう一度だけ、俺をあの世界に飛ばしてくれ。俺はそんな彼女を救いたい。ヴィオレーヌを、救いたいんだ」
言い放った後、返ってきたのはしばしの沈黙だった。
部屋の中がまた少しだけ、明るくなっている。カーテンがほの蒼い光を含み、その向こうから、小鳥の鳴き声が流れてきた。
「あと一往復……。あなたに授けられるのは、あと一往復分だけです」
しばらくしてそうつぶやいたジョセフィーヌさんは、祈るように手を組んだかと思うと、何やら呪文のようなものをぶつぶつと唱え始めた。
彼女の足もとから光が発し、その身体も薄紫の光に包まれる。風もないのにバタバタと、彼女の身につけているフードとマントがはためく。やがて呪文が止むと、光も消え、彼女の衣類もはためくのをやめた。
「発動条件は、前回と、変えました。……ヴィオレーヌに、右頬をはたかれると、発動します」
「行くときは、やっぱりパッケージを顔にぶつけるのでいいのかな」
質問しながらパッケージの絵を思い出す。確か、ヴィオレーヌの手も描かれていたはずだ。
俺の方を向いてジョセフィーヌさんはゆっくりとうなずく。その肩が大きく上下に揺れている。胸に手をあてて、苦しそうに息を吐きながら、彼女はやっとのことで答える。
「そう……。はぁ……。行くときは、同じ……方法で、はぁ……。大丈夫」
「どうしたんですか。大丈夫?」
「ふふ……。この魔法は、自分の命を大きく削るのです。今私に残っているのは、自分があの世界に戻る分の力だけ。その力も……」
いったん言葉を切って息をつくと、ジョセフィーヌさんは俺の方を向いて手を差し伸べた。
「タケル。左手を出して」
彼女の方に少しだけ膝をすすめた俺は、言われるままに左手を差し出す。
俺の手首をつかんだジョセフィーヌさんはもう一度、先ほどみたいに呪文を唱えた。彼女の身体がまた、紫色の光に包まれる。しかし今度は、その光はほんの短い時間で消えてしまった。
俺の左手首から手をはなすと、ジョセフィーヌさんは大きく息を吐いて部屋の床に膝をついた。波打つ肩の動きも、呼吸も、先ほどよりも一層苦しそうだ。
俺は布団から飛び降りて彼女の背に手をあてる。小刻みに震えるその背は、衣服の上からでもわかるほど細くて頼りなかった。まるでヴィオレーヌのそれのように。
「具合が悪いのですか。どうしよう。どうしたらいいのですか。ジョセフィーヌさん」
「これでいいのです。今……」
荒い呼吸を繰り返しながら、一回つばを飲み込んで、彼女は言葉を続ける。最後の力を振り絞るように。
「今、私に残っていた最後の力を、あなたに渡しました。向こうに行ったら、あの子の……ヴィオレーヌのために、使ってあげてください。大丈夫。その力を使っても、あなたに大きな害はありません。命を失ったり、闇に飲まれたりは、しませんから」
「ど、どうやって使うのですか」
「念じるのよ……。強く。命を削るくらいに、強く」
そして、フフフ……、とささやくように笑った。苦しそうだが、安らかな笑い方だった。
そのささやきのような笑いと和すように、何種類かの小鳥の鳴き声が、先ほどよりもにぎやかに降り注いで来る。部屋の中は一層明るくなっている。カーテンにまだ日光は当たっていないが、その隙間から朝の白く薄い光がのぞいている。たたえきれないほどの光が、その向こうに満ちつつある。
「タケル。私を立たせて。窓際まで連れて行って。外の景色が、見たいの」
「そんなことをしたら、あなたは……」
「私は、ここまで。最後に、光を、見たい」
俺はうなずいて彼女に肩を貸し、彼女の背を抱いて立ち上がった。もう命尽きるというのに、闇の中でしか生きられない魔女なのに、それでも彼女の身体は暖かかった。
彼女の身体を抱えたままカーテンを引くと、たちまち光が視界に満ち、そしてジョセフィーヌさんの姿を照らした。
紫色のフードをとったジョセフィーヌさんは黒い髪をかきあげ、窓の外に向けた目を細める。初めて見るその横顔は、ヴィオレーヌにそっくりだった。病気みたいに肌が白くて、目が大きくてまつ毛が長くて、眉がキリリとしていて……。ただ、歳のせいかヴィオレーヌよりも雰囲気は穏やかで、どことなく柔らかい感じがした。
「ヴィオレーヌに、似ていますか。私は」
「ええ。もう十年か二十年したら、ヴィオレーヌはきっと、今のあなたのようなお母さんになっていることでしょう」
「そうですか」
とても、とても嬉しそうにそう言って、ジョセフィーヌさんは笑った。フフフと、ささやくように。白い歯を見せて。頬にえくぼをつくって。
彼女のその顔に突然光が当たり、肌がより白く輝いた。ビルの隙間から、今まさに陽が顔をのぞかせたのだ。暖かく明るい朝の陽光が、容赦なくジョセフィーヌさんに注ぐ。いくつもの金色の光の粒が、彼女の体を覆っていく。その光に溶け込むように、彼女の姿が消えてゆく。
「ヴィオレーヌを、頼みましたよ」
「ああ、必ず。必ず彼女を救ってみせるよ」
俺は力強くそう答える。
ジョセフィーヌさんがこちらを向いて微笑んだ気がした。ヴィオレーヌが死なずに歳を重ねたなら、きっといつか浮かべてくれるであろう表情と似ているはずのそれを、しかし俺はしっかりと見ることはできなかった。
気がつくと俺の手のひらの上には、いくつかの小さな光の粒が、ただ虚しく朝日の中できらめいていた。ジョセフィーヌさんの姿も衣装も、もうどこにもない。彼女を抱える格好のまま固まった俺の腕の中にあるのは、ただ彼女の残した印象だけ。花開くような、光が差し込むような、でもどこか哀しい印象だけだった。
その手を握りしめて立ち上がった俺は、枕元に置いてあったゲームのパッケージをつかんで持ち上げた。頭上に掲げたそれを見上げ、もう一度誓う。
「必ず救うからな。待っていろよ」
そして俺はパッケージから手を離した。
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