38 別れ

 ミシェルさんが帰っていった翌日には、モルガン一行も宿舎を引き払ってブルジヨン村へと戻っていった。


 そんなに大きくはないホテルだが、みんながいなくなった宿舎は何だかガランとしていてさみしかった。明日には取り合えず世話係のメイドが派遣され、数日後には正式に宰相家から迎えが来るらしい。それまでこのホテルは、今度はヴィオレーヌひとりのために貸し切られるということだった。


 物音もしない静かなホテルの一室に、ヴィオレーヌはその日一日中閉じこもっていた。

 そんな彼女を俺はずっとそっとしておいた。自室の窓辺でボケっと外の景色を眺めながらふと俺は、東京で一人暮らしをはじめた最初の日のことを、思い出していた。遠い都会にひとりぽつんと取り残されたような、なんとも言えない心細さ。あれと同じような気持ちを、今ヴィオレーヌは抱えているのかもしれない。


 しかし、俺は彼女の部屋を訪ねるのをためらっていた。本当ならばそばにいてやった方がよかったのかもしれない。だけど、それが彼女のために良いのかどうかわからなかった。俺だって、もうすぐ彼女の傍からいなくなってしまうのだから。ずっと一緒にいてあげることができないのだから。彼女は自力で、その寂しさを克服しなきゃいけないんだ。


 ようやく意を決してヴィオレーヌの部屋の扉をたたいたときには、もう夕方になっていた。俺は、ホテルの人に作ってもらった軽食のサンドウィッチの皿を持っていた。彼女は昼食も食べていなかったから、差し入れてやろうと思ったのだ。


 ヴィオレーヌはあの紫のドレスを着て、窓辺の机に向かって頬杖をついていた。机の上にはチェスの盤が置いてあり、並べられた駒が机上に長い影を落としていた。それをぼんやり眺めるヴィオレーヌのエメラルドグリーンの瞳に、長いまつ毛に、額にかかる髪に、橙色の光が瞬きながら散っていた。


「おい、ヴィオレーヌ。飯だぞ」


 俺が声をかけてやると、彼女はこちらを向かずに、少しの間をあけてから答えた。


「……ヴィオレーヌ、『様』よ。っていうか、あんた、私のこと様つけて呼んだこと一回もないよね。家来のくせに」

「これからは、お前に会う人みんなが様をつけて呼んでくれるよ」


 俺は部屋の中ほどにあるローテーブルに皿をおいて、その前にあるソファーに腰を下ろした。何か言った方がいいかと思ったが、こういう時にかける言葉が何も思いつかない。しょうがないのでサンドウィッチをにらんで黙っていると、ヴィオレーヌが独り言のように話しはじめた。


「私、昔から友達いなくて、いつも一人で過ごしてて……。だから、自分は独りでも大丈夫だと思ってた」

「そうか」

「でも、今になってわかる。私はけっして独りじゃなかったんだ。本当の独りって、寂しいのね」

「王太子が、いるじゃないか」

「あの人は、私を見ていないわ。デートしてみて嫌というほど思い知った。あの人の心の中にはいつもクラリスがいる。その場にはいなくても、いつもクラリスを見ているの」


 チラリと窓辺をうかがう。ヴィオレーヌはチェスの駒を眺めたまま、自嘲するように鼻を鳴らした。


「勘違いしないでね。王太子のことは、好きとかそういうのじゃないの。ただ……、あこがれてたのよ。いつか王子様が私を見初めて……なんてストーリーに。ひょっとしてそれが実現するんじゃないかって、舞い上がってた。でも、これが現実。王子さまは田舎娘が珍しくて面白がっていただけ」


 そして彼女はようやくチェス盤に向けていた視線をあげると、大きく息をついた。ゆっくりと立ち上がり、俺に背を向けて窓と向かい合う。


「いいざまよね。世間知らずの小娘がいきがって。試合では負けて、王太子からはもてあそばれて。バカみたい。わかってたんだ、夢だって。でも、私……」


 声を途切れさせたヴィオレーヌは、次の言葉を発することはなかった。その背が、肩が、頭が小刻みに震えている。やがて、言葉の代わりにうめき声が流れてきた。細くて哀しくて、美しいそれはうめき声だった。俺が初めて耳にする、ヴィオレーヌの泣き声だった。


 その泣き声は俺の胸にひたひたと浸透し、たちまち大きな水たまりをつくった。空っぽだったはずの心の底に、橙色の、エメラルドグリーンの、紫色の、美しい水たまりを。


 俺はソファから腰を上げ、窓辺へと向かう。

 どうしてそれをしようと思ったのか、自分でもわからない。頭の中は真っ白だった。いろんな理屈はもうどうでもよくて、ただ俺の中にあるむき出しの想いが、勝手に俺の手足を動かしているようだった。

 そして気がつくと俺は、ヴィオレーヌの身体をを引き寄せ、彼女を抱きしめていた。


「大丈夫だ、ヴィオレーヌ。君は、大丈夫だ」


 彼女の身体は思っていたよりもずっと細くて、柔らかくて、そして頼りなかった。その頼りない体が消えてしまわないように、俺はますます強く抱きしめる。


 俺に身を預けたヴィオレーヌが、俺の顔を見上げる。その大きな目に見る見るうちに涙がたまって、ぽろぽろと、雨だれのように白い頬をつたった。必死に引き結んでいた口がふるえている。その紅い唇と唇の間から、ひっきりなしに嗚咽が漏れている。


「タケ……。ひっぐ……。うぐ……。えぐ……。うわぁああん……」

「君は、大出世する。宰相に変わってこの国を支配し、みんなが君の前にひれ伏すんだ」

「うん。う……。うう。うえぇぇん……」


 ヴィオレーヌは俺の胸に顔をうずめて泣き続けた。声をあげて。背を震わせて。その頭に手をおき黒い髪を撫でてやりながら、俺は彼女に語り掛ける。


「君にはもうすぐ、たくさんの仲間ができるよ」

 そう。そして彼らはやがて裏切る。

「モルガンも、ルミエールも、アルベルトも、アニエスも、また戻ってくる」

 だけど、最終的にはみんな、いなくなってしまうんだ。

「君は強い。強くなる。もう誰にも負けないよ」

 嘘だ。ヴィオレーヌ・ド・ポンデュピエリー。君はいつかクラリスとの争いに敗れ、そして……。


 俺の視界がにじんだ。

 やはり、おいてなんかゆけないと思う。

 たとえ、この世界に骨をうずめることになろうとも。


 俺はヴィオレーヌから身体を離し、一歩後ろに下がってから、その場に膝まづいた。


「あなたの第一の家臣、タケルがここにおります。お困りのことがあれば、何なりとこの俺にご命じを。ヴィオレーヌ・ド・ポンデュピエリー様」


 床に手をつき、一気に言い切ってから、彼女を見上げる。

 ヴィオレーヌはまだしゃくりあげながら、涙にぬれる目や頬を手でぬぐっていた。その動作はまだ子供っぽくって、紫の絹の衣装もまだ板についていない。そこにいるのは悪役の衣装だけを身にまとった、頼りなく弱々しい少女だった。


 やがて涙を拭くのをやめたヴィオレーヌは、俺の腕をとって立ち上がらせた。

 まだ涙を宿してはいるものの、いつもの強い光を取り戻した目で、俺を見つめる。


「家臣タケルよ。それでは命じます。私から、離れないで」


 その命令に、俺は強くうなずき返した。おそらくこの世界に来てから一番の強い意志を込めて。


 ヴィオレーヌの表情がパッとほころぶ。わずかに頬を染めてうつむく。俺の右の手をとって、恥ずかしそうにその甲に視線を落としていたが、やがて、思い切ったように顔をあげた。


 ヴィオレーヌの白い手が、俺の頬に触れる。

 彼女の顔が、俺の顔に寄せられる。

 花の香りがする。

 何の花だろうと思ったとき、俺の唇に柔らかい感触が当たった。


 数秒間そうしてから、ヴィオレーヌは俺の口から唇を離した。手を俺の頬に添えたまま、また照れくさそうに、しかし今度は俺の顔をまっすぐに見てほほ笑む。蕾が開くような、ちょっと硬くて、みずみずしくて、不器用な笑み。しかしその笑みを俺は、クラリスのそれよりもずっと魅力があると思う。


 異変が起こったのはその時だった。


 突然心臓が一つ大きな鼓を打ち、激しいめまいが俺を襲った。

 視界の四隅が暗くなり、その暗がりが次第に中心へと広がってゆく。

 ヴィオレーヌの目が見開かれる。眉をひそめ、不安そうな表情で何かを叫んでいる。しかしその声がきこえない。ただ彼女の姿が段々と遠ざかってゆく。

 ヴィオレーヌが手を差し出す。俺も、その手に向かって必死に手を伸ばす。しかし届かない。


「ヴィオレー……ヌ……」


 最後の力を振り絞って彼女の名を呼んだところで、俺の意識は地の底に引きずり込まれるように、闇に飲まれた。

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