37 紫のドレス

 俺たちが宿舎の応接間に入ると、その場にいた皆の視線がヴィオレーヌに集まった。

 そこには一行の主要メンバーが集まっていた。モルガン、アニエス、ジセンにメイド。直立の姿勢をとった彼らは皆深刻な表情でヴィオレーヌを見つめ、そして目だけで彼女に語り掛ける。さあ、おはいりなさいと。そんな彼らの最奥で、ただ一人、窓辺に腰掛けて外に顔を向けている人物がいる。それがミシェルさんだった。


「ラファエルから、手紙が来たんだ。私のところに」


 部屋の中ほどまで進むと、ミシェルさんはそう言って振り向いた。笑ってはいなかった。怒ってもいなかった。ただ、ちょっと疲れたような目でヴィオレーヌを一瞥し、そして部屋の中の人々に目配せをした。


「みんな。ちょっと、席を外してくれないか。娘と、二人にしてほしいんだ」


 そして最後に俺を見、深々と頭を下げた。

 ああ。ついに来たのか。俺はさとった。ついに来たんだ。ヴィオレーヌの待ち望んでいたことが。そしてミシェルさんの恐れていたことが。この時間はひょっとしたら、ミシェルさんとヴィオレーヌ父娘の、最後のひと時になるのかもしれない。

 何人も邪魔してはいけない。ただミシェルさんとヴィオレーヌの覚悟に敬意を込めて、俺も彼と同じくらいに頭を下げ、部屋から出ていくみんなのあとに続いた。


     〇


 二人はなかなか応接室から出てこなかった。そんなに長く、二人の間でどんな会話が交わされているのか、誰もわからなかった。あるいは、話をしているわけではなく、ただ、父娘水入らずの時間を過ごしているだけなのかもしれない。ただ、ひとつの大切なことが決定されつつあるということだけが、俺たちにはわかっていた。


 陽が暮れるころ、一回だけメイドが軽食を部屋に持っていった。彼女の話によると、二人は向かい合ってチェスに興じていたということだった。何か短い言葉を交わしあいながら、二人とも、橙色の夕陽に顔を染めてほほ笑んでいたらしい。


 それからまた時間が過ぎて、ようやく応接室の扉が開いたのは、夜もすっかり更けてからだった。


 まず部屋から出てきたのはミシェルさん。さっきと同じ、疲れたような、少し寂しそうな、でも晴れ晴れとした表情で迎えた一同を見渡した。


「みんな。紹介しよう」


 そう言って、道を譲るように体をわきにずらす。

 後から出てきたヴィオレーヌが、数歩前に進んでその姿をみせた。彼女の表情はミシェルさんのそれとは違って、ずいぶんと緊張しているようだった。紅い唇を引き結び、かすかに頬をこわばらせている。相変わらずの鋭い目つきで虚空をにらみ、しかしその瞼が心なしか薄桃色に染まっているような気がした。


 ミシェルさんはそんなヴィオレーヌの背に優しく手をおき、そして宣言するように声を張った。


「アルフール王国宰相ラファエルの養女。ヴィオレーヌ・ド・ポンデュピエリーだ」


 一瞬の沈黙のあと、一同のどこかから手をたたく音があがった。パチ、パチ、パチ……。控えめなその音は、しかし徐々に周囲に伝播し、重なり合い、やがて豪雨のようにその空間に降り注いだ。


     〇


 自分の小さな部屋に戻ると、ベランダに何やら気配を感じた。

 不思議と怖くはなかった。それが誰だか、俺には想像がつく。きっとあいつだ。そろそろ出るころだと思っていた。そう思いながら俺は、部屋に明かりをともさずに、窓を開けてベランダに出た。


 柔らかい空気が頬をなでる。六月の夜風は思ったよりも涼しくて、少し湿り気を帯びていて気持ちがよかった。大きく息を吸い込むと、微かに甘い香りがした。何かの花のそれだろうか。


「あんただろ。デスティネ」


 俺が呼びかけると、ベランダの隅にたたずんでいた影がかすかに動いた。


「よく、わかったな」


 そう答えたが、その声は以前会った時とは少し調子が違う。おどろおどろしさも重々しさもない。中性的でもなく、どちらかというと女性的で、この夜風のように静かでしんみりとしていた。


「ようやく、ここまで来たか。タケルよ。よくやりました」

「ということは、やっぱり俺の帰る時が近づいているということか」

「そうです」


 そのとき、ふと俺の胸にまた疑問がわいた。それは、こいつが本当に運命を司る者かということだ。本当にヴィオレーヌの運命を成就するためなのならば、彼女が処刑されるときまで俺は傍にいなければならないはずじゃないか。それなのに、ヴィオレーヌがその地位を得るまでとは、いかにも中途半端に思える。


 あるいは、ここまで彼女を連れてくれば、あとは勝手に事が進むのか。それとも、ここから先は別の誰かがその役を担うのか。


「なあ、きかせてくれよ。あんたは本当は、何なんだ?」


 俺の問いにデスティネは答えなかった。ただ、笑い声だけが返ってきた。達成感のにじんだ、満足げなその笑い声は、夜風に香る花の香りのように薄れて消えていった。


     〇


 その晩宿舎に泊まったミシェルさんは、翌朝早くにブルジヨン村へと戻っていった。


 一同に見送られながら、まだ人のまばらな街へと馬車が動き出す。

 誰も身動きしないなか、ひとりだけ、集団から飛び出たものがあった。ヴィオレーヌだ。徐々に速度を上げていく馬車と並走するように彼女は駆ける。やがてついていけなくなると立ち止まり、大きく手を振って馬車を送った。馬車が街の角を曲がって見えなくなるまで、彼女はそうしていた。


 建物の中に戻ると、モルガンが大きな箱を持ってきて、ヴィオレーヌに渡した。


「ミシェル様からだ。君への、贈り物だよ」


 いぶかしそうな表情で箱を受け取り、ふたを開けたヴィオレーヌは、ワァと、小さな歓声を上げる。


「どうしたヴィオレーヌ。何をもらったんだ」


 俺が問いかけても答えはない。そのまま固まったようにポカンとしているので、業を煮やした俺は彼女の脇から覗き込んだ。


 その箱の中に入っているのは、ドレスだった。紫色の絹のドレス。俺はこのドレスをとてもよく知っていた。ゲームの中で、ヴィオレーヌがいつも着ていた衣装だ。悪役令嬢ヴィオレーヌの、トレードマークのひとつともいえるそれは衣装だった。


 空の箱が、地面に落ちる。


「お父さん……」


 声を震わせながら、ヴィオレーヌはその紫のドレスを抱きしめた。それが幼いころからの家族との思い出そのものであるかのように。まるで両親がそこにいるかのように。


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