36 王太子からの要求

 木の枝の先にぶら下げられた板は、俺の立っているところからは小指の先よりも小さく見えた。

 俺たちのいるところまで戻ってきたグレゴリーが、おもむろに弓をかまえて、今自分がぶら下げたその板に向かって矢を放つ。空を切り裂くようにとんだ矢は、しかし上下に揺れる板の脇をすり抜けて、木の背後のレンガ塀に虚しく当たった。


 カフェの屋外席から見ていた人々の中から、ため息と嘆声がもれる。「あんな遠くにある板に、当たるわけないよ」というつぶやきも聞こえた。


「グレゴリーは武芸の達人だ。その彼でも、あの的に当てるのは難しい」


 王太子はさして落胆する様子も見せずに言う。それはそうだ。的のぶら下げられた木までは百メートル近くあるのではないだろうか。あんなに離れたところにある、あんなに小さな、しかも風で揺れる的に当てるのは、至難の業だ。


「僕の要求とは、あれだよ。ヴィオレーヌからきいた。君は投石の達人なのだろう。君の腕前が見たい。あの的に、当ててみたまえ。見事あの的に当てることができたなら、君のその願いとやらを聞いてやろう」


 王太子の説明を聞きながら茫然と的を見つめる俺に、グレゴリーが石をひとつだけ差し出す。


「一回。チャンスは一回だけだ」

「もし……、失敗したら」


 つばを飲み込んで問いかける、その声がかすれてしまった。

 王太子から返事はない。彼の代わりに答えたのは、グレゴリーだ。


「無礼の罪はお前ごときだけであがなえるものではない。お前はもちろん、お前の主人も一緒に、罰を受けることになるだろう」


 ヴィオレーヌが。そんな。

 俺は思わず彼女の方を向く。カフェの屋外席にできた人だかりの一番前に立って、祈るように手を組んだ彼女は、不安そうな表情で俺を見ていた。


 大丈夫。必ず成功させるから。


 彼女に目で語り掛け、自分自身にも言い聞かせて俺は、受け取った石を握り締めた。


     〇


 王太子もグレゴリーも下がり、指定された立ち位置に俺一人が残された。すぐ隣のカフェの屋外席に結構な数の観衆がいるはずだが、皆かたずをのむようにしていて、この場は異様に静かだった。


 俺は改めて標的を確認する。


 百メートル近くは離れている。木の枝の先にぶら下げられたそれは、風に合わせてゆっくりと上下に揺れる。揺れはそれほど大きくはないように見える。的の大きさは、さっき見た感じではおよそ三十センチ四方。その的一個分くらいの距離を、一定のリズムで上に下にと移動する。風は緩やかだ。右から左へと流れていく。さっきのグレゴリーの矢は的から左へとそれていった。石は風の影響は受けにくいと思うが、少し右寄りに向けて投げた方がいいのだろうか。


 俺は顔を前に突き出し、目をすがめて考える。

 的の揺れのリズム。その揺れの大きさ。距離。風の向きと強さ。それに対して俺は、どのタイミングで、どの程度の射角で投げればいいのか……。

 考える。考える。的は小さく距離も離れている。よく考えて投げなければ、はずしてしまう。もし俺がはずしたら、ヴィオレーヌは……。


 俺はヴィオレーヌの方はあえて見ないようにしながら、石を握り締め、集中する。心臓の鼓動がどんどん大きくなってくる。俺の上半身が鼓動に合わせて揺れているみたいだ。足にも、手にも力が入らない。ダメだ。これではしっかり投げられない。落ち着けタケル。落ち着くんだ。


 しかし落ち着かせようとすればするほど、俺の手足はそれに反して萎え、鼓動はますます大きくなる。


 ああ。ダメだ。俺にはできない……。


 俺は的に向けていた視線を下げる。その時だった。


「タケル。頑張れぇ」


 風に乗って、女の人の声が流れてきた。硬質の、よく通る声。俺は思わず振り向く。それはヴィオレーヌだった。カフェに集った観衆の一番前で、ヴィオレーヌが両手をメガホンのような形にして口にあてていた。


「大丈夫よタケル。あなたならできる」


 もう一度、そう言って彼女は、胸の前で小さくガッツポーズをしてみせた。


 俺は頑張れという言葉はあまり好きじゃない。だけど、今は嫌な感じがしなかった。全然、嫌ではなかった。それどころか、不思議な高揚感が俺の身体に浸透してゆく。ヴィオレーヌから言われてみると、それはなんだか特別な感じがした。


 俺の鼓動が落ち着きを取り戻してゆく。腕と足に、力が戻ってくる。

 俺は目を閉じて深呼吸をする。

 俺の瞼の裏に、あのブルジヨン村の光景がよみがえる。

 のどかな街並み。柔らかな陽の注ぐ石畳の道。木造の屋根。煙突から吐き出される煙。花の咲く草原。白い光を散らした湖。碧く澄み渡った空……。


 俺の頬を緩やかな風がなでてゆく。その風は暖かくてちょっと湿っていて、甘い香りを含んでいる。ああ、この風は……。


 俺は眠りから覚めるときのようにゆっくり目を開けると、高く足をあげた。

 もう、何も考えなかった。木の揺れ。風の流れ……。それらに自身を溶け込ませるようにして、俺は大きく足を踏み出し、腕を振り、石を手から離した。


     〇


 虚空に飲み込まれた石は、すぐに肉眼では見えなくなる。


 一瞬、世界から音が消えた。

 その一瞬が俺にはずいぶん長い時間に感じられた。

 汗が、額を伝う。

 やはりはずしたのか。

 そう、思いかけたとき、音もなく板が割れた。


「やったわね。タケル」


 まず、ヴィオレーヌの声がきこえた。それを合図に世界に音が戻る。気がつくと観衆の歓声が俺を包んでいた。


「やあ、見事だったよ」


 拍手をしながら俺に近づいてきたのは王太子だ。


「約束だ。君の願いを、きこう」


 俺は王太子の前にひざまずく。また、観衆が静まり返る。


「ヴィオレーヌは、ずっと、頑張っていたんです。このままで終わらない。どこまでやれるか、挑戦してみたいって。貴族になることは、彼女の夢だったんです。ずっと、貴族になりたかったんです」


 いったん言葉を切ってから観衆を眺めわたす。そこにあるヴィオレーヌの姿にしばらく視線をあててから、改めて王太子を見上げた。


「僭越ながら王太子殿下にお願い申し上げます。どうか……。どうか、ヴィオレーヌを見捨てないでください」


 俺は言った。言ってのけた。その場にいる観衆全員に聞こえるくらいに声を張り上げて。


     〇


「まったく、何やってんのよ。信じられない」


 宿舎に戻ってきたヴィオレーヌは、そうぼやきながらさっそく俺の部屋に乗り込んできた。

 いつぞやの晩と同じようにベッドに仰向けに寝っ転がって迎えた俺は、彼女の方は向かず、目を閉じたままたずねてやる。


「よお。どおだった? デートは」


 俺のセリフに続く彼女の罵詈雑言を予想しながら。大体想像がつく。腰に手をあてて眉を逆立てて、こう言うんだ。恥ずかしい。礼儀知らず。この変態。……変態は、ジセンの奴に言ってほしいな。聞き捨てならない言葉の数々も、ヴィオレーヌが言うなら許せるような気がする。それを聴くのもあともう少しかと思うとちょっと名残惜しい。

 しかしヴィオレーヌは何も言わなかった。ただベッドに歩み寄ってくる足音だけがきこえ、それが途絶えたかと思うと、額に冷たい感触があてられた。


「おいおい。何してんだよ」


 俺はびっくりして目を開け、上身をおこす。

 俺の額から手を離したヴィオレーヌは、眉をひそめて目をそらした。しばらく思い悩むようにして、何かを言おうとしては、またもごもごと閉じてしまう。


「どうしたんだ?」


 ヴィオレーヌは意を決したように俺を見下ろす。


「あなたのこと、心配したんだから。無茶しないでよ……」


 俺は思わず彼女の顔を凝視してしまう。どうしちゃったんだヴィオレーヌ。お前が俺を心配だなんて……。

 俺の方こそ心配になって、思わず彼女の額に手を伸ばしそうになる。すんでのところでそれは抑えたけれど、ポカンと開けた口を閉じるのも忘れて彼女を見つめ続けた。


 ヴィオレーヌは毛先を指でいじりながら、そんな俺の視線から逃れるように顔をそらす。


「ちょっと。いつまで見てんのよ」

「いや。だってよ……」


 そのとき、突然扉が開いて、メイドが部屋に飛び込んできた。


「大変です。ブルジヨン村からお使いが」


 彼女が告げたのは、ミシェルさんの来訪だった。

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