33 宰相との面会

 宰相と会わせる。そう約束してくれた王太子シャルルに連れられて、俺とヴィオレーヌは建物の外に出た。そこから向かったのは闘技場の北側の、人気のない区画。そこは小さな公園になっていて、木立の中に質素な馬車が一台とまっていた。観客たちが出入りする表門とは反対の方角だ。


「ここだ。この小さな門を使って宰相はいつも闘技場に出入りされる。ここにいれば、宰相に会うことはできるよ」


 そう言って、王太子は闘技場の建物を振り返った。

 石造りの、古代ローマの円形闘技場のような立派な建物は、夕陽をうけて紅色に染まっている。その壮麗さに比べて地味すぎる長方形の小さな入り口は、中が暗くて寒々しくて、ぽっかりとうつろに見えた。


 王太子と肩を並べて同じように闘技場を見上げるヴィオレーヌは無言だった。客席をたってから、一言も発していない。ただ宰相への手紙と告発文の入った封筒を、大事なぬいぐるみのように抱いて黙っている。しかしその肩はさっきまでみたいに力んであがったりしてはいなかった。全くの自然体だ。安らかな、穏やかな表情で、今にも王太子の肩にもたれてしまいそうにリラックスして、そこに佇んでいる。今までの緊張が嘘のようだ。


 どうして、と問いかけようとして、俺はとっさにそれをためらう。それがとても無粋なことのように思えたから。夕陽さす小さな公園に並んで立つ二人。身分も生い立ちも性格も、全然違う二人。しかし、この二人が寄り添う姿を見ていると、なぜか胸が締め付けられるような気持ちになる。ふいに、自分がひどく場違いなところにいるような気がした。


「不思議です」

 ふいにヴィオレーヌが王太子に話しかける。彼女にしては珍しい、ちょっと高めの、歌うような声音で。少しも気負うことなく。

「殿下の隣にいると、とても心が安らぐのです」

 そう言って、王太子を見上げる。その頬が、目が、口もとが、柔らかな笑みに包まれる。今までついぞ見たことのないような笑みだった。


 王太子がヴィオレーヌを見下ろし、何か言おうとする。その時、門の方から物音がした。宰相たちがやってきたのだ。


「やあ、宰相。ご苦労様です」


 王太子が手をあげてあいさつすると、小さな門から出てきたその初老の男は立ち止まってこちらを向いた。さっき表彰式でクラリスにトロフィーを渡していた男だ。勲章はもうはずしている。痩せていて、顔色が悪くて白髪が目立つ。髭も白い。ミシェルさんの弟だというが、正直こちらの方が老けて見える。しかし、王太子が声をかけたからには間違いない。ラファエル・ド・ポンデュピエリー。彼こそ、ミシェルさんの弟にしてこのアルフール王国の宰相だった。


「これは。王太子殿下。このようなところで、何か御用ですか」


 彼は憮然とした様子で尋ねる。不愛想に。不機嫌そうに。こんなところはヴィオレーヌと似ているなと、俺は思う。


「はは。相変わらずですな。今日は、あなたのファンを連れてきたのですよ」


 宰相の態度にひるむ様子もなく王太子は朗らかに笑って、ヴィオレーヌの背を押した。

 おずおずと一歩前に進み出たヴィオレーヌは、恥ずかしそうにうつむいている。しかし緊張した様子ではない。ただ、くすぐったそうに、焦らすように、親しい友人に何か打ち明けるときのように。


「どうしたのかな。お嬢さん。君は、どこの誰?」

「私はヴィオレーヌ。ブルジヨン村で、道具屋を営んでおります」


 そう言って顔をあげたヴィオレーヌは、胸に抱いていた大きな封筒を、思い切ったように宰相に差し出した。


 宰相が片眉をあげ、何度かまばたきをする。それから目をすがめて、品定めするようにじっとヴィオレーヌの顔を見つめた。


「そういえば君は、武道大会に出ていたな。投石の娘だろ。ブルジヨン村の……。そうだったのか」


 そうつぶやいて封筒を受け取り、宰相は口の端をほんの少しだけあげた。

 面会はそれだけで終わった。宰相はこの後も用事があるのだろう。封筒を懐に入れると、とくに何か言葉をかけてくれることもなく、足早に馬車の方へと去っていった。


     〇


 馬車を見送って、少し間をおいてから、王太子はフーっと息を吐きだした。


「どう。満足できたかな」


 そう言ってヴィオレーヌを見つめ、ほほ笑んだ。この人は黙っていると、知的で近寄り難い雰囲気があるが、笑うと一転、親しみがわく。はるか雲上の王太子という地位であることを一瞬忘れさせる。

 その笑みにほだされて、ヴィオレーヌまでが、普段とは違う表情になる。


「ええ。とても。本当に、ありがとうございます」


 そう言って、また柔らかく目を細めた。その笑顔は、きっと、任務を果たせた喜びからだけではないだろう。


 ヴィオレーヌが口を閉じる。王太子が次に何か言うのかと思ったら、彼も何か言いかけて口を閉じた。お互い何も言い出せずに、ただ、見つめあっている。次の言葉を……お別れの言葉を口から出してしまうのをためらうように。

 そんな彼らの頭上で、紅い木漏れ日が瞬き、木の葉が優しいさざめきを奏でる。


 さざめきが止んでから、ようやく王太子は口を開いた。


「そうだ。ちょっとその辺でも散歩しないか」


 ヴィオレーヌの瞳が輝きを増す。


「え、ええ。光栄ですわ」


 おいおい。こんなとこで道草食うなよ。みんな心配して待ってるぞ。早く帰ろうぜ。……という言葉を出しかけて、俺はまたしてもそれを飲み込んだ。言えなかった。この二人を前にして、俺は何も言えなかった。


 こんな俺の視線に気づいたのか、ヴィオレーヌが俺の方をチラリと見、そしてためらうように瞳をゆらす。


「とても、光栄です。でも……。私を待っている者もいますし、皆を心配させてしまうのは……」

「大丈夫です。あなたのことは責任もってお送りしましょう。君」


 そして王太子は俺の方を向く。ヴィオレーヌを背にして俺の前に立ちはだかるようにして、そして言う。穏やかに。しかしきっぱりと命じるように。


「ヴィオレーヌ嬢の帰りは少し遅くなる。しかし王太子が送り届けるので心配しないよう、仲間に伝えたまえ」


 俺は口がきけない人間になったみたいにただ無言でうなずいて、そそくさとその場を後にした。


     〇


 どうしちまったんだろう、俺は。

 闘技場の表門の方へと歩きながら、俺は自分の胸がずっとドキドキしていることに戸惑っていた。

 王太子シャルルの優しい笑顔と、ヴィオレーヌの安らいだ表情。

 それを思い出すたびに、いたたまれない気持ちになる。胸が重苦しくなって、手足から力が抜けるような感じがする。


 王太子なんて雲の上の人間と、勝負をする気なんてない。だけど、彼のことを考えると、どうしようもない敗北感を感じずにはおれないのだ。


 俺は今まで、嫌々ながらもヴィオレーヌのために尽くしてきた。ずっと彼女の傍にいて、彼女の要求に応え、彼女を見守り、彼女とともに目標に向かって走ってきた。

 だけど、王太子は、たった一日でそれを軽く飛び越えた。ヴィオレーヌが都で受けた傷を癒し、あのような柔らかい表情をつくらせた。

 出会って、たった一日で。

 そりゃあ、王太子さまは地位があって優しくて、魅力的だよ。金も人脈もあって、ヴィオレーヌになんでも与えることができるだろう。俺なんか比較するのもおこがましいとはわかっている。

 だけど、この数カ月、ずっと彼女の隣にいたのは俺なんだ。一緒に薬草を採り、山賊のアジトに行き、投石の訓練をしたのは、俺なんだ。

 俺だってそれなりに頑張ってきたつもりなのに。

 今までの俺は一体何だったんだ。

 俺は一体、ヴィオレーヌの何だ。


 ……運命。


 その言葉がふいに俺の脳裏に浮かんだ。そうだ、そもそも俺はヴィオレーヌの何でもない。デスティネによってあてがわれた、ただのヴィオレーヌの出世の道具なんだ。俺はきっと、ここまでなんだ。ここから先は、王太子が彼女を助けてゆくのだろう。そして二人は婚約する。わかりきっていたことじゃないか。


「いいさいいさ。あんな奴。これからどうなろうが、俺の知ったこっちゃない。俺は元の世界に戻れればそれでいいんだ」


 そう。俺はタケル。現代の日本に生きる、ただの腐れ大学生だ。ヴィオレーヌとは元の世界に戻るために、やむを得ず一緒にいたに過ぎないんだ。あいつにはあいつの運命があって、それとは別に俺には俺の人生がある。


 気がつくともう闘技場の表門までついていた。閉館時間も近いようで、行きかう人の数ももうまばらだ。


「ねえ。元の世界って、何?」


 ふいに背後から声をかけられた。振り返ると、闘技場前の階段の上に人が立っていて、俺を見下ろしている。水色のドレスを着た、金髪の少女。クラリスだった。

 俺があっと声をあげると、クラリスは後ろ手を組み、ちょっと首をかしげてあいさつするように目を細めた。

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