32 ヴィオレーヌ対クラリス

『Bゲート。クラリス・ド・デュフレーヌ嬢』


 クラリスの名が高々とアナウンスされると、それまでヴィオレーヌへのブーイングに染まっていた会場は一転、大歓声に包まれた。


 今までで一番の大歓声。クラリスの人気を改めて思い知らされる。両手をあげてアイドルのように笑顔で、八方からの声援にこたえるクラリス。圧倒的なヒロインのオーラを振りまいている。

 そんなヒロインの前にぽつんと突っ立っているのはヴィオレーヌだ。彼女はと言えば、茫然自失といった様子で、しょんぼりとその大歓声に耐えていた。


 その光景を眺めながら俺は頭を抱える。あともう一歩だというのに、よりにもよって準々決勝の相手がクラリスとは。しかも頼みの綱の投石攻撃も封印せざるを得ない状況だ。結局時間までにひとつのボールも見つけることができなかったから。


     〇


 試合開始の銅鑼が鳴る。

 水色の衣装とドレスアーマーを身にまとったクラリスは、表情を引き締めると兜をかぶり武器を構えた。

 彼女の両の手に、短い槍が握られている。それが彼女の武器。双槍というらしい。左手の槍は前に突き出して防御の構えを取り、右手の槍の切っ先をヴィオレーヌに向けて攻撃の機会をうかがう。

 かっこいい。と俺は思わず見惚れてしまう。その構えの姿勢は、絵心のない俺でも絵にしたいと思うくらいに、完璧に決まっている。まるでカンフー映画のスターのようだ。


 クラリスがその決めポーズを見せてくれたのは、しかしほんのわずかの時間だった。スッと息を吸ったかと思うと、水が流れるように彼女の身体が前に動き、それと同時に右手の槍が前に突き出された。


 ぼんやりしていたヴィオレーヌの反応が遅れる。クラリスの槍の切っ先を上身をのけぞらせてかろうじてかわした彼女は、数歩足をもつれさせながら後退する。左手の剣で相手をけん制しながらさらに数歩、ステップを踏むように後退。後退しながら右手で腰のあたりを探る。


 だめだ、ヴィオレーヌ。


 俺にはヴィオレーヌが何をしようとしているかすぐにわかった。とっさに、投石攻撃をしようとしているんだ。クラリスの攻撃に焦って、忘れているのに違いない。頼みの綱のボールは今、一個もないことを。


 ボールがないことに気づいたヴィオレーヌの動きが止まる。腰に視線を落として戸惑う彼女の隙を、クラリスは見逃さなかった。

 俺が声をあげる間もなかった。クラリスの右手の槍の一突きは水流のようにヴィオレーヌのわき腹を襲い、気がつくと二本の青い旗があがっていた。


 勝敗は決まったな。


 やじの入り混じる大歓声をききながら俺は思った。クラリスは思った以上に強い。スピードも、攻撃の鋭さも勘も、きっとみんなヴィオレーヌよりも上だ。一方、ヴィオレーヌは投石攻撃もできない。この試合、ヴィオレーヌに勝ち目はない。


 試合再開して、先に動いたのもクラリスだった。一気に勝負を決めるつもりだ。右手の槍の切っ先が、獲物を狙うタカの目のようなきらめきを放ち、ヴィオレーヌに襲いかかる。


 ああ、負けた。


 そう、思った時だった。

 肩で息をしていたヴィオレーヌが、両手で剣を握り下段に構えて、ゆっくり息を吐いた。それは一瞬だったが、彼女の周囲の空気だけ不思議な静寂に包まれたような気がした。それほどの集中。会場の他の連中にはわかるまい。しかし俺には見えた。それは石を投げる瞬間に、いつも彼女がまとう静けさだ。


 ヴィオレーヌの身体が動いた。突き出された右手の槍を剣ではらい、クラリスの懐に入ろうとする。そこにすかさず左手の槍が襲いかかる。ヴィオレーヌは地面を転がってその攻撃もかわす。そして起きざま、しゃがんだ右足に体重を乗せ、スタートダッシュをする短距離走者のような勢いで身を躍らせて、クラリスの足をはらうように剣を一閃させた。


 剣は空を切った。クラリスが飛び上がってヴィオレーヌの攻撃をよけたのだ。上空から、滑降する鳥のくちばしのように、槍の穂先がヴィオレーヌを狙う。

 剣を構えなおし、ヴィオレーヌは空中のクラリスを見上げる。そして降りてくる彼女に向けて渾身の突きを繰り出した。

 ヴィオレーヌの剣と、クラリスの槍が交差する。

 剣がクラリスの脇をすり抜ける。

 槍がヴィオレーヌの肩当てにあたって折れる。


 二本の青旗があがり、試合終了の銅鑼が鳴った。


     〇


 すべての試合が終わり、表彰式が行われる頃には、陽もずいぶん傾いていた。空はまだ明るく、橙色に染まった雲がふかふかと浮かんでいるが、闘技場の観客席にはもう光は差し込んでいない。その光の届かぬ薄暗い客席の隅に肩を並べて、俺とヴィオレーヌは競技スペースで行われている表彰式をぼんやりと眺めていた。


 クラリスが宰相と思しき勲章をつけた人物からトロフィーを受け取り、握手をする。その様子をしばらく無言で見つめていたヴィオレーヌは、やがて目を伏せて大きなため息をついた。


「ま、まあ。そんなに気にするなよ。初出場で準々決勝まで進んだだけでも大したもんだ。相手が悪かったんだよ」


 俺はわざと明るい口調で慰めてみるが、その語尾が図らずも弱々しくなってしまう。こんな言葉が今のヴィオレーヌを元気づけるわけないと、俺もわかっているから。


「私は負けて、宰相様と会うチャンスを失った。それが、すべてよ」

 ヴィオレーヌは鋭く言って顔をあげ、また表彰式の光景に視線を向けた。

「すごいわね。あの子は」

 そして今度は短く息を吐き、目を細める。

「強くて。宰相様の前でもあんなに堂々として。すごいわね。私は、かなわないな」


 強く憧れるようなまなざし。しかしそのまなざしに、寂しそうな影がさす。クラリスに会ってから、ずっとどこかおかしかった。ヴィオレーヌにしてみればあこがれ続けた都という舞台。クラリスはその象徴だったのだろう。しかしいざ舞台にあがってみれば、そのヒロインは眩しすぎて、自分の存在はかすんでしまう。自分でいられなくなってしまう。自分の居場所がそこにはない。


「君だって、なかなかのものだったよ」

 その声は俺たちの後ろから降ってきた。

 びっくりして振り返った俺とヴィオレーヌは同時に声をあげる。王太子シャルルだ。


 慌てて立ち上がろうとするヴィオレーヌを制して、王太子は彼女の隣の席へと移ってきた。

 ヴィオレーヌはまた両手を膝の上で重ねて、肩に力を入れてうつむいてしまう。その隣で、王太子は昼と同じような優し気な微笑を浮かべた。


「準々決勝は惜しかったね。クラリスは強かったけれど、君の戦いぶりも見事だった」

「恐れ入ります」

「投石攻撃はしなかったね。なぜ?」

「ボールが、なかったから……」


 ヴィオレーヌは膝の上の手を、スカートと一緒に握り締める。あのボールがあれば勝てたのに。勝ちたかった。悔しい。そんな思いがその手の震えににじみ出ていた。

 王太子はその手をじっと見つめていたが、やがて表彰式に視線を移すと静かに言った。


「宰相に、会いたいかね」


 うつむいていたヴィオレーヌがハッと顔をあげ王太子を見る。王太子は表彰式を眺めながら、言葉をつづけた。


「僕は宰相とはちょっと親しいんだ。悪い噂ばかりがたって、みんな恐れているけど。でも宰相がやっつけているのは、実は悪い政治家や役人たちなんだよ」


 そしてヴィオレーヌに顔を向けてほほ笑みながら首をかしげる。どうするかね? と、問うように。


「どうして……」

 そう訊ねるヴィオレーヌは、今度は王太子から視線をそらさなかった。

「どうして、殿下はそんなに優しくしてくださるのですか」


「言ったろう。君を見ていると、なつかしくてうれしいんだ。だから、お礼がしたい」


 そして王太子は白い歯を見せてウインクをした。

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