29 武道大会①
歓声が、潮騒のようにドアの向こうから流れ込んでくる。そのざわめきが高くなるたび、ヴィオレーヌはそわそわと狭い控室の中を行き来したり、テーブルの上に置かれたお茶のカップに口をつけたりした。
「ちょっとは落ち着けよ。ただでさえつけなれない鎧なんかつけているんだから、その格好でそんなに歩き回ったら、無駄に疲れるだろ」
俺が見かねてそう言ってやると、ヴィオレーヌはこっちを一瞥してからおとなしく椅子に座って、フーっと息を吐いた。ぎこちなく体をひねってお茶のカップを手に取る。緑色の衣装の上につけた胸甲と肩当てがやけに重たそうだ。今日初めて身につける新品のドレスアーマーは、想像以上に彼女の体に負担があるのかもしれない。
武道大会一日目、女子の部一回戦はもう始まっている。今は二試合目で、ヴィオレーヌの出番は四試合目。しかし、朝からがちがちに緊張している彼女は、闘技場の控室に入った時からもう疲れ切った様子だ。
「おい、大丈夫かよ。そんなことで、今日何試合も戦えるのか」
女子の参加人数は三十二人。宰相と顔を合わせるには、彼から表彰される三位以内に入らなければならない。つまり、少なくとも四回は勝たなくてはだめだ。それなのに……。
俺はカップにお茶を足してやりながら、ヴィオレーヌの姿をうかがう。
背を丸めて、今にも胃の中身を吐き出しそうに、おえっとえずく。まあ、でも本当に吐いて部屋を汚すことはあるまい。そこは大丈夫。中身はさっきトイレで全部吐き出してきたようだから。
しかし見ているうちに俺まで気持ち悪くなってきた。なんだか緊張がうつってきそうだ。
これじゃあ、一回戦突破もおぼつかないんじゃないか。
そんな危惧を抱きながら、俺はできるだけ穏やかな声音でヴィオレーヌに話しかけてやった。
「あんまりお茶を飲みすぎない方がいいんじゃないか。試合中に漏らしちゃうぞ」
ヴィオレーヌは黙って苦しそうにうなずく。いつもならこんな俺の冗談には痛烈な罵詈雑言が返ってくるのに。逆に心配になるじゃないか。
「呼吸を整えるんだよ。息を吐いて心を落ち着かせるんだ。ほら、ヒー、ヒー、フー。ヒー、ヒー、フー」
俺はなおもふざけてみせる。それ、妊婦さんがやるやつじゃん。馬鹿なのこの変態。……なんて返しが来ると思った俺の期待は、もろくも破られた。ヴィオレーヌはこともあろうに、俺の言った通り素直にヒー、ヒー、フーと息を吐きはじめやがった。ああ、どうしよう。ヴィオレーヌがおかしくなっちまったよ。頼むから、はやく戻ってきてくれ。
おろおろとしながら見つめたドアの向こうからまた、大きな歓声が流れてきた。どうやら第二試合も終わったらしい。
〇
第三試合のうちに何とかヴィオレーヌを落ち着かせようと思っていたのに、その試合は驚くほど早く終わってしまった。
第三試合開始直前、一瞬だけ室内に静けさが戻る。試合開始の銅鑼の音が遠く響いたかなと思っていたら、今までで一番と思われるような大歓声が沸き起こり、その歓声が収まらぬうちに控室のドアが開いた。
「第四試合出場のヴィオレーヌ嬢。どうぞこちらに」
スケジュール表と思しき紙に視線を落としながら係官が入ってきて、心の準備もできていないヴィオレーヌと俺を控室から追い立てた。
「第三試合はあっという間だったんですね」
闘技場への通路を進むにつれて、落ち着くどころかますます鼓動が高まってゆく。黙っていられなくて心の動揺を収めるために係官にたずねると、彼はただ俺を一瞥して意味深げにニヤリと笑った。その表情はまるでこう言っているようだった。君たちもそのうちあたるよ。そして一瞬でやられるんだ。と。
どうやら、相当強い人物が参加しているらしい。
緊張と動揺の上に、さらに戦慄が覆いかぶさる。なんだか俺の方が逃げ出したくなった。もう、一回戦負けでもいいや。ヴィオレーヌよ。生きてここから出ようぜ。そう、ヴィオレーヌに言ってやりたくなって、彼女の肩に手をおきそうになる。
「あら? あなたたち。大会に参加していたのね」
聞き覚えのある声が廊下に響いて、俺たちは立ち止まった。
視線を向けた先にいたのはクラリスだった。彼女は先日街中で会った時と同じように、柔らかな笑みを浮かべて俺たちに会釈してくれた。あの時と違うのは、彼女もまたドレスアーマーに身を包んでいて、兜を片手に抱えているというところだ。
「お疲れ様です。ミス・クラリス。第三試合は、鮮やかでした」
係官が丁寧にお辞儀しながら声をかけると、クラリスは優雅に首を振った。
「いえいえ。お相手の方が手加減してくださったのよ。勝ちを拾わせていただきました」
そう朗らかに言ってくすぐるように笑うクラリスの額には、汗ひとつ浮いてはいない。まるで散歩中に知り合いと出くわして挨拶でもしているみたいだ。
彼女は係官から視線をヴィオレーヌに移すと、まるで立ちはだかるように彼女の前に進み出た。
「頑張りましょうね、ヴィオレーヌ。今度は、試合で会いましょう」
そしてバチンと音でもしそうなウインクをして、彼女の脇を通り過ぎていった。
クラリスが去ってからも、ヴィオレーヌはしばらくその場に呆然と立ち尽くしていた。ぼんやりと見つめているその先に、闘技場への出口が白く光っている。その白い光の先から歓声が流れ込んでくる。彼女を呼ぶ運命の潮騒のように。その身を引き込んで逃れることを許さぬ渦のように。
やがてヴィオレーヌは俺の方を振り返り、そして言った。
「さあ、行くわ。見ていてタケル」
その表情はついさっきまでとは全く違っていた。腹を決めた、決然とした、凛とした表情。その彼女のギラギラ輝くエメラルドグリーンの瞳を見つめながら俺は、ああ、戻ってきた、と思った。
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