28 クラリスとの出会い
クラリス。ああ、夢にまで見た、クラリス!
俺はしばらく声も出せず、ただ茫然とその少女の顔を見つめていた。
絹のようにつややかな金髪。ヴィオレーヌのそれとは違う、健康的な白さの肌。ちょっと垂れ気味の優しそうな目。碧い瞳。見ているだけでホッとする、柔らかな笑み。
間違いなかった、それは正真正銘のクラリスだった。俺がこの世界に来てから、ずっと会いたいと思っていた、会わなければならないと思っていた少女だった。
「ねえ、それ、わたしにもひとつちょうだい」
澄んだ歌うような声でクラリスは言った。初対面の人間にいきなり自分のお菓子分けてくれなんて言われたら、本来だったら全力で逃げ出すところなのだが、俺はそれができなかった。逃げるどころか俺は、自分の妹にでも分け与えるように自然な気持ちで、シュークリームを彼女に差し出していた。
「ありがとう」
そう、心から嬉しそうに言ってシュークリームを一口かじり、クラリスは無邪気な笑みを浮かべた。俺の心に寄りかかってくるような、むき出しの笑み。その笑顔を見つめていると、もっともっと、何か彼女にあげたくなる。
「ところで、あなた、何だか様子がおかしかったけれど、どうなさったの?」
「へ、変でしたか」
「だって、こんなところでひとりで立ち止まって、うつむいているんですもの。まるで迷子みたいに」
自分の頬がほてるのを俺はどうしようもなかった。図星だったから。しかしそれを白状してしまってよいものかどうか、俺は迷う。だって恥ずかしいだろ。自分より何歳も年下の少女に、迷子ですなんて言うのは。
言い淀みながらおろおろしていると、そんな俺の顔を覗き込んだクラリスと、思わず目があった。
その碧い瞳に見つめられた瞬間、それまでの戸惑いが嘘のようにふっと消え、俺は素直な心の内を吐露してしまった。
「実は、仲間とはぐれてしまったんだ。彼らは宿所に帰ると言っていたけれど、俺はそれがどこにあるかわからないし、ここで待っていたほうがいいものか、迷ってね」
それをきいて、クラリスは軽くほほ笑んでうなずく。この俺の間抜けさを笑うこともなく。それを受け入れるように。母親が我が子をあやすように。
「そう。その宿舎の名前ってわかる?」
「たしか、タリスマンホテル、とかいう名前だったかな」
「それなら……」
クラリスの目が細められる。
「それなら、近くよ。連れて行ってあげるわ」
「でも、仲間が気づいて戻ってきたら……」
「大丈夫よ。そこの曲がり角を曲がってまっすぐのところにあるの」
なんだ、そうだったのか。それならきっと大丈夫。俺は一体何を悩んでいたんだろう。あんなに絶望感を抱いていたのが、馬鹿みたいだ。
俺がホッと安堵の息をつくと、クラリスもまたそれに合わせるかのように、ほほ笑みながら息を吐いた。
そんなクラリスの笑みを見つめながら、俺は思う。
ああ、もっと彼女の傍にいたいな。もし、このまま宿所に帰らなければ、彼女ともっとずっと一緒にいられるのだろうか。
その時、背後から名前を呼ばれた。陶器を弾いたような硬質の冷たい声が、俺の綿あめみたいな妄想を吹き飛ばす。
「何やってるのよタケル。なかなか帰ってこないから探しに来てやったわよ」
ヴィオレーヌが腰に手をあてて仁王立ちして、蔑むように俺を見据えていた。その鋭い目を見ながら俺は、夢の時間が終わったことをさとった。
「ああ、宿への道がわからなくて、ここで途方に暮れていたんだ」
「はあ。バカなの?」
おいおい、いきなりバカなの?はねえだろ。相変わらずだなやっぱりヴィオレーヌだよお前は。クラリスとは大違いだ。彼女の爪の垢を飲ませてやりたいぜ。
……という抗議は飲み込んで、俺は鼻だけ鳴らしてそっぽを向いてやった。
「どちら様?」
クラリスの屈託のない朗らかな声が、再会するなり喧嘩腰の俺とヴィオレーヌの間に割って入る。
ヴィオレーヌは眉をひそめてクラリスの方を向き、何か言いかけて、しかし出しかけた言葉を飲み込んだ。さすがのヴィオレーヌも驚いたらしい。目を見開いてポカンとしていやがる。俺は以前クラリスの記事を読んでいたヴィオレーヌの表情を思い出した。どこか憧れるような表情。たぶん、別世界の人間のように思っていたであろう人物を目の前にして、彼女は今、何を思っているのだろう。
何か言葉をかけるものと思っていたが、ヴィオレーヌは黙りこんだまま、何も言おうとはしない。
そんな彼女に、クラリスの方から話しかけてきた。
「あなたが、こちらの方の言っていたお連れの人?」
「ええ、たぶん」
「そうだったのね。よかった。こちらの方が困っておいでだったので、宿舎までご一緒しようと思っていたの」
「それは、どうも」
「ああ、ごめんなさい。自己紹介がまだだったわね。わたし、クラリスって言います。あなたは?」
ヴィオレーヌはクラリスの視線を避けるようにちょっとうつむいて、小さな声で名乗った。
「ヴィオレーヌ」
クラリスは例のすべて受け入れるような優しい笑みを浮かべ、ヴィオレーヌに手を差し出す。
「よろしく。ヴィオレーヌ」
ちょっとためらった後、ヴィオレーヌはその手に、恐る恐るといった様子で触れた。
その光景を俺は感慨深く眺めていた。ただ、差し出されたクラリスの手の先を遠慮がちに握っただけの握手。握手になっていないような握手。しかしいずれ敵対し憎みあうことになるはずの二人の握手を。
〇
クラリスが去ったあとも、ヴィオレーヌは茫然と彼女が通っていった往来を眺めていた。
「あの人は、きっと愛されて育ったのね。なんでも与えられて、誰からも受け入れられて……。いいわね」
そうつぶやく背中が、なんだかとても寂しそうに見えた。
「お前だって、いろんな人から愛されている」
俺はその背中に、思わずそんな言葉をかけてしまう。ヴィオレーヌよ。お前だって、ミシェルさんから愛されているじゃないか。ミシェルさんだけじゃない。アニエスも、きっとアルベルトやモルガンも、お前のことが好きだ。そりゃあ、クラリスほど大勢からではないかもしれないが。でも、自分が愛されていないなんて、思わないでくれよ。
俺のセリフに振り返ったヴィオレーヌは、ちょっと驚いたように目を開いてから、フッと薄く笑った。
「さあ、帰りましょう。明日から、武道大会がはじまるわよ」
そして、クラリスが去っていったのとは逆の方向へと歩を進めた。
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