25 アニエスを救え
またしても、アニエスがさらわれた。
それは、六月になって一週間ほどしたある日のことだった。
建国記念日に先立って、都に旅立つ前に城で祝賀会が開かれた。宴会場になっていたのは城の大広間。そこにはモルガンはじめ城の面々とアニエスとヴィオレーヌと俺。そしてアルベルトとその部下たちも誘われて参列していた。なんでも旧交を温めるとかで、テーブルの上座で杯を酌み交わすモルガン卿とアルベルトは確かに親しげだった。
「あたし、ちょっとトイレ」
ヴィオレーヌの隣で黙々と肉をかんでいたアニエスは、やがて食べるのに飽きるとそう言って広間から出ていった。そのすぐあとに斜め向かいに座っていたアルベルトの部下のひとりも席をたったが、気に留める者もいなかった。
はじめは誰もそれに気がつかなかった。俺も、アニエスは帰ってくるのが遅いなあ、くらいにしか思っていなかった。まあ、女の子だしそんなもんなのかな。と勝手に考えていた。それがただ事ではないことに気づいたのは、おなじ女の子のヴィオレーヌが深刻な表情で俺を見たときだ。
「ねえ、タケル。おかしくない?」
ヴィオレーヌがつぶやくと同時に、衛兵が広間に駆け込んできた。
「大変です。あ、アルベルト殿の配下の方が、アニエス様を……」
ざわめきが消え、静まり返った広間に、モルガン卿の手から落ちたグラスの割れる音が響き渡った。
〇
アニエスをさらった男は、噴水広場にいた。噴水を背に、彼女を盾にして、その首にナイフをあてている。その周囲を村の住人と、城から駆け付けた俺たちが取り囲んでいた。
「モルガン卿に告ぐ。建国記念行事列席のための上京を中止すべし。それをここで誓え。さもなくばお前の娘の喉をかき切るぞ」
男は何度目かのその台詞を吐いた。無茶苦茶な要求だ。本当にアルベルトの部下なのか。しかし着ているものは紛れもなく、紅い近衛兵の制服。アルベルトの配下に違いない。
「一体どういうことだ、アルベルト。お前、何でこんなことを」
「いやいや。俺の命令じゃない。さっぱりわからん。あいつ、どうしちまったんだ」
顔を赤くして食って掛かるモルガン卿を両手でなだめながら、アルベルトは太い眉を八の字にして男を見ていた。
「おい。ケント。馬鹿な真似はよせ」
頭領のの呼びかけに男は答えない。アルベルトが一歩前に出ると、ケントと呼ばれた誘拐犯はアニエスの身体をさらにナイフに近づけた。
「近寄るな!」
ドラマかなんかで、追い詰められて人質を取った犯人が、刑事によく言うセリフだ。リアルに聞くのは初めてだが、なるほど、近寄らなければいいんだな。どうしてこんなことになってるかはわからないが、ここは俺の出番のようだ。実はこんなこともあろうかと、城を出るとき手ごろな石をつかんできた。こいつをケントとやらの顔面におみまいしてやる。あとはアルベルトが何とかしてくれるだろう。
俺はアルベルトに目配せする。
俺の視線に気づいたアルベルトは、察したように小さくうなずいて身構えた。
石を握る手に力がこもる。その時だった。
突然、黒髪がふわりと俺の目の前に流れた。ヴィオレーヌだ。
「タケル。それは私にやらせて」
俺の前に進み出たヴィオレーヌは、前をじっと見据えたまま、誰に言うともなく言った。
「アニエスはは私の生徒だから。私が助けなきゃ」
無茶だ。と俺は思った。いや、俺でなくても思うだろう。ヴィオレーヌは今まで一度だって的に当てたことはない。しかも、この三週間は石を触ることさえなかった。いきなり本番は危険だ。変なところに飛ばして誘拐犯を逆上させるだけならまだしも、下手をしたらアニエスにあててしまうことも考えられる。
しかし、なぜか俺はヴィオレーヌをとめることができなかった。
彼女の声があまりにも落ち着いていたからかもしれない。あまりに落ち着いていて、自信とそして決意に満ちていたからかもしれない。彼女ならやれる。そんな確信を抱かせるような空気を、今のヴィオレーヌは静かにまとっていて、俺は気がついたら彼女に石を渡していたのだった。
ヴィオレーヌの動作には一切の力みが感じられなかった。
必要以上に誘拐犯をにらみつけたり気合をためたりすることもしない。俺から石を受け取った彼女は、ただ、流れるようにそれを標的の方へと投げた。まったく無造作と言っていいような投げ方。しかし、どこにも無駄のない、完璧なフォームだ。俺も見とれてしまうような美しいフォーム。
その細い腕がヴィオレーヌの白い顔の傍らでしなやかにしなる。石が手から離れる瞬間、彼女の眼もとにかすかな笑みが浮かび、流れる黒髪に午後の光が散った。
「よし、やったぞ。ケントを取り押さえろ」
アルベルトの声に続いて、軍靴が石畳を蹴る音が俺の脇を通り抜けてゆく。
気がつくと、顔を手で押さえた誘拐犯が、アルベルトとその配下の兵によって取り押さえられていた。
アニエスは? 無事なのか?
そう思いながら彼女の姿を探して辺りを見まわそうとした瞬間、俺の身体が誰かに突き飛ばされた。
「うわーん。お姉ぇさまぁ~」
振り返るとアニエスがヴィオレーヌに抱き着いて泣いている。どうやら怪我もないようだ。
俺は今思い出したように、胸にたまっていた息を大きく吐き出した。
〇
事件の真相がわかったのは、翌日のことだった。
誘拐犯の元部下の尋問を終えたアルベルトは、今度はお供をひとりだけ連れて城へとやってきた。
広間に姿を現した彼は、ずいぶん疲れた顔をしていた。その疲れた顔で、しばらく広間に集まった俺たち一同を見渡してから、ため息まじりに言う。
「ケントは……。マクシミリアンの手先だった」
マクシミリアン。その名がアルベルトの口から吐き出されると、広間にざわめきがおこった。
「あいつか」
そう絞り出すように言ったモルガンの岩のような顔が、たちまち苦虫を噛み潰したように歪んだ。
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