24 ヴィオレーヌ先生
「さあ、タケル。こっちを向いてもいいわよ」
アニエスに呼ばれて振り返った俺は、こちらを向いて座っているヴィオレーヌの顔を見て思わず失笑した。
化粧って、すげえな。と改めて俺は思う。
ピンクのカーテンの隙間から差し込む白い光を受けて俺を見つめているヴィオレーヌの顔は、頬に赤みがさしていていつもより健康的で、優し気で、どこか色っぽくて、少しもヴィオレーヌらしくなくて、なんだか気持ち悪かった。
「なによ。そんなに私の顔がおかしいの?」
ヴィオレーヌが憮然としていつものように俺をにらみながら悪態をつくが、化粧のせいでなんだかあんまり怖くない。垂れ気味に描かれた眉のせいだろうか。どこか困ってるようにも見えて、ちょっと間抜けにすら見える。
「それで、タケルはどの化粧が一番良かったと思う?」
ヴィオレーヌは毛先をいじりながら、困ったような眉をさらに困ったように下げて俺に訊いた。石を投げるのをやめてから三日。化粧レッスンの傍ら、彼女はアニエスのアドヴァイスをもとにいくつかのパターンの化粧を己に試してみたのだ。
どれも優しそうで、らしくなかった。おそらくアニエスの趣味なんだろう。あるいは流行なのか。ああ、そうだ。ただひとつ、しっくりくるのがあったな。たしかあれは……。
「そうだ。あれがいい。昨日の最後にやったやつ」
「それって……」
ヴィオレーヌよりも先に、アニエスが呆れたように言った。
「なによ。ほとんどメイクしてないやつじゃん。それじゃあ、わたしの腕の見せ所が……」
そう、ちょっと頬を血色よく見せただけの、一番の薄化粧。でもそれが、結局一番ヴィオレーヌを引き立たせていると俺は思う。優しそうに見せても、彼女に無理をさせているようにしか見えなくて、なんだか窮屈そうだから。
「ねえ。お姉さまからも何か言ってくださいよぉ」
口をとがらせるアニエスに、ヴィオレーヌはたしなめるようにふっと軽く笑ってみせた。
「さあ、午後の授業を始めるわよ」
〇
午後の光の這うピンク色の室内に、ヴィオレーヌの陶器を弾くような声が、朗々と流れている。時々そこにアニエスの無邪気な高い声が割込み、二人の声が長く短く交わされ、少し静かになったかと思うと、また、ヴィオレーヌの声がリズムを刻むように言葉を紡いでゆく。
石を投げるのをやめてから、ヴィオレーヌはアニエスへの授業も身を入れてやるようになっていた。
最初は俺も手伝おうとしたのだが、ちょっと覗いてみたテキストがちんぷんかんぷんだったので、早々にあきらめた。今は部屋の隅でぬいぐるみを抱えてごろごろしている。せっかく現代日本のススンだ知識を披露してやろうと思ったのに、俺の学んだことはこの世界ではあまり通用しないようだ。
天文学、占星学、薬草学、神学……。知らん星座、知らん理論、知らん植物、知らん神々ばかりで、うんざりした。
それにしても、ヴィオレーヌの教師っぷりには目を見張るものがある。
まだ数日しか見てないけれど、ヴィオレーヌは教師としても優秀なようだった。
まず、話しが分かりやすい。難しいことはやさしいたとえ話をつかってみたり、ちゃんとアニエスが理解できるように気を配っている様子がうかがえる。疑問に答えるのにも、相手の話をよく聞き、その疑問の本質をとらえたうえで、きちんと丁寧に、理論的に説明する。問題演習でアニエスが間違えた問題は、なぜそうなるのかを突き詰め、決しておろそかにはしなかった。
何より、教えているときのヴィオレーヌは活き活きしていた。実は教師にもなりたいんじゃないかと思うくらいに。
ヴィオレーヌ先生か……。
そんなことを考えながらぼんやりヴィオレーヌを見つめていると、ふと、彼女のまとっている服が、地味な灰色のスーツにみえた。彼女の背後には黒板。本を片手に立っているヴィオレーヌはなぜか眼鏡をかけていて、指示棒で黒板に書かれた文字を指しながら、教室のみんなに語り掛けている……。
「ヴィオレーヌ先生ぇ。タケル君がまた、よそ見をしていまーす」
アニエスの声で俺は我に返る。いつもの深緑のドレスに身を包んだヴィオレーヌが、無感情な目で俺を見る。勿論眼鏡はかけていない。いつもの、彼女の澄ました顔だ。
「生徒タケルは廊下に立っていなさい」
どこまで本気かわからない口調でヴィオレーヌは言う。
思わず立ち上がりかけて、俺は慌ててあぐらをかき、傍にあった亀のぬいぐるみを抱きしめた。
「やなこった。俺はお前の生徒じゃないし。それより新人教師ヴィオレーヌ君がちゃんと教えているか、見守ってやってるんだ」
アニエスが俺に、あっちにいけとばかりにベーっと舌を出してみせやがった。生意気な小娘め。負けじと俺も舌ベロを出して応戦してやると、ヴィオレーヌがやれやれと首を振ってため息をついた。
〇
アニエスが化粧や宮廷の話をヴィオレーヌに聴かせ、ヴィオレーヌがアニエスに勉強を教える。時には街を散策したり、紅茶を飲みながら読書にふける。そんなヴィオレーヌの家庭教師生活が三週間ほども続き、いつの間にか六月になっていた。
こちらの季節のことはよくわからないが、梅雨はないらしい。だが六月は初夏のようで、俺の元居た世界のそれと同じように暑い。緑はますます濃くなり、ピンクのラッパの口のような花はいつの間にかなくなり、代わりにくす玉みたいな紫の花があちらこちらに咲き誇っていた。
この間、ヴィオレーヌは一切石を手に取らなかった。まるで、投石の練習をしていたことを忘れてしまったかのように。そもそもそんなことをしようとしていたこと自体、記憶から消えてしまったかのように。
しかし俺はそれに対して何も言うことはしなかった。
忘れてしまっても、いいと思う。投石の技を習得できなくたって。武道会で勝てなくたって。
この数週間で心なしか柔らかくなったヴィオレーヌの表情を見るたび、俺は思う。
そうだ。いっそ、宰相と、会えなくても……。
しかし一瞬頭に浮かぶその想いもまた、俺は口にすることはなかった。そう思いかけるたびに、暗闇の中から俺を見ているであろうデスティネの重たい声がよみがえり、息が苦しくなった。
その息苦しさは俺に教える。このままでいられるわけがない。運命はじきに動き出すだろうということを。
そして、事件は起こった。
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