23 アニエスとヴィオレーヌ

 俺は石をつかんで構えるヴィオレーヌの姿勢を確認してから、その視線の先にある木を見やった。修業を始めたころより、緑の色が少し濃くなったように思う。その枝の下の茂みには、一月前には見られなかった、ピンク色のラッパの口のような花が咲いていた。何の花かは知らない。


「ねえ、ねえ。お姉さまぁ~。占星学の、ここの部分がわからないんですけどぉ……」


 開いた本を重たそうに捧げながらおずおずと近寄ってきたアニエスに、しかしヴィオレーヌは見向きもしない。周囲に誰も人がいないかのように、目を閉じて、ゆっくり息を吐く。

 目を開くのと、ひゅっと息を吸うのとは同時だった。ヴィオレーヌは大きく振りかぶると、短い掛け声とともに素早くその腕をしならせた。


「キャッ」


 と短い悲鳴を上げてかがみこんだのはアニエスだ。ヴィオレーヌの手を離れた石は的を立てかけた二十歩先の木の幹にかすりもせず、枝の末端にぶら下がる葉を二三枚散らした。


「まだまだだな」

「わかってるわ」

「ねえ、お姉さま。しつもーん」

「姿勢も、石の速さも悪くはない。でも、的に当たらなければ意味はない」

「わかってるわよ。そんなこと」

「占星学、わからないところあるんですけど……」

「石を離すのが、はやすぎるんだ。もっとしっかり指に……」

「お姉さまぁ」

「うるさい!」


 ヴィオレーヌに怒鳴りつけられて、アニエスは驚かされた猫のようにビクンと身体を硬直させた。


「ごめんなさい。でも、分からないところがあるから……」


 おろおろと言いながら、しゅんとうつむいてしまう。

 そんなアニエスを苛立たしげに見下ろしていたヴィオレーヌは、頭をかきながらため息をついた。


「そうね。私も悪かった。職務をおろそかにしてたわ。どこがわからないの?」


 そうせわしげに言って、アニエスの抱えるテキストに手を伸ばそうとする。

 しかしアニエスは、差し出されたヴィオレーヌの手から逃げるように身を引いた。


「ごめんなさい。お姉さま。邪魔しちゃって。わたし、部屋で自習してますね」


 そしてヴィオレーヌから目をそらしたまま彼女は、館の方へと駆けて行ってしまった。


     〇


 修行をはじめて一月。石の選び方、投げ方を学び、練習を重ねたものの、ヴィオレーヌはなかなか的にあてることができずにいた。選ぶ石も投げる姿勢も型も、特に問題はないと思うのだが、どうしても、当たらない。戦うのに遠くからの攻撃は有利なのだろうが、当たらなければ、相手への脅威は激減する。


「なあ。しばらく、投石の練習をやめてみてはどうだろうか」


 アニエスが館に逃げ込んだ後、十個目の石が干し物用の杭にあたったところで、俺はそうヴィオレーヌに提案してみた。これを何回繰り返しても無駄のような気がした。対処法がわからないし、とりあえず、ちょっと気持ちを切り替えた方がいいんじゃないか。


 何か反論してくるかと思ったが、息を切らして地面を見つめていたヴィオレーヌは意外と素直にうなずいた。

 拍子抜けした俺は、思わずヴィオレーヌの顔を覗き込む。大丈夫かヴィオレーヌ。ひょっとしてどこか具合が悪いのか。

 そんな俺のありがたい気づかいがうっとおしいのか、呼吸を整えながら彼女はそっぽを向いた。相変わらずのクソ可愛くない態度。ちょっと安心するぜ。


「そうね。ちょっと、投石から離れた方がいいのかも」

「なぜって、きかないんだな」

「私も、ちょうどそうしようと思っていたから」

「気分転換に、アニエスの面倒でも見てやれよ。家庭教師様」


 今度はヴィオレーヌが振り向いて、俺の顔を覗き込んだ。罵声のひとつでも浴びせてくるのかと思ったら、何も言わず、まじめな表情でうんとひとつうなずいた。やっぱりどこか悪いんだ。


     〇


 アニエスの部屋は、館の東側の塔の最上階にある。

 木の扉をノックしても返事はない。押すと開いたので、俺とヴィオレーヌは勝手に部屋の中へと足を踏み入れた。他の部屋と同じ、石の壁の部屋。しかしなんだかここだけ異世界みたいな部屋だ。床にはピンクの敷物が敷いてあって、ピンクの大きなベッドに、ピンクの幕が垂れ下がっている。鏡台もピンク。ピンク。ピンク……。


 アニエスは、ピンクのレースのカーテンがかかった窓辺に膝を抱えて座っていた。教科書は持っていない。ただぼんやりと、窓の外を見つめている。そのブロンドの巻き毛に、差し込んだ陽光があたって柔らかく輝いている。彼女の周囲には数多のテキスト類とぬいぐるみが散乱し、まるで本丸を守る堀のように俺たちの行く手を阻んでいた。

 俺たちが部屋に入ったことには気づいているはずだが、アニエスはこちらを向こうともしない。完全に拗ねていやがるな。


「おい。何か声をかけてやれよ」


 俺はヴィオレーヌを肘でつついてささやきかける。しかしこっちも無反応だ。おい何やってるんだ、お前がお姉さまだろうが、ともう一度つついてやると、わき腹にこぶしを突き入れられた。


「うるさいわね。わからないのよ」


 彼女も声を抑えてようやく答える。視線だけはアニエスに向けて。そこにいつもの鋭さはない。そのエメラルドグリーンの瞳の表面は、彼女にしては珍しく、戸惑うようにゆらめいていた。


「私、友達なんかいなかったから。どんなふうに同年代の女の子と接したらいいかわからないのよ。口を開けば喧嘩腰になってしまう」


 俺は言い返すことができなかった。友達をつくれない。何と言葉をかけたらいいかわからない。それは俺も、痛いほど知っている感覚だったから。

 俺が何も言えないでいると、ヴィオレーヌは誰に言うでもなくつぶやいた。


「ねえ。私は、なんて言えばいいの」


 その声に反応して、ようやくアニエスがこちらを向いた。


「こういうときはですね。こういうんですよ。『毎日頑張っているね、アニエス。えらいわ』あと『わあー可愛いぬいぐるみ』それから『アニエスの髪って素敵ね。毎日どうやって手入れしてるの?』。あ、そばかすのことは言わないでくださいね。気にしてるんだから」


 そしてようやくほほ笑みを浮かべる。控えめに。ヴィオレーヌの様子をうかがうように。しかし今までのようなへつらうような笑い方ではなく、気遣うように。


 ヴィオレーヌはしばらく虚空を見つめて考えてから、一言だけ言った。


「アニエス。私に、化粧の仕方を、教えて」


 アニエスの笑みが深くなる。そして彼女は勢いよくうなずいた。

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