22 ヴィオレーヌの根性
柔らかな風が、俺の火照った頬をなでていった。頭上で木の枝がさざめき、庭の草花が眠たげにゆれる。しっぽの長い小鳥が二匹さえずりあいながら木漏れ日の間をかけぬけていく。目を閉じると、葉のささやきに自分の身体がどこかに流されてゆくような錯覚に襲われた。
俺は息を整えてから目を開け、手に持った扇をを振り上げた。
「きえぇーい!」
掛け声とともに一歩足を踏み出す。目の前には、腕を組んで俺をにらみつけるヴィオレーヌの姿がある。汗ひとつない涼しい顔で。その白い頬に風に流された黒髪を数本はりつけて。紅い唇は心なしか笑みの形をつくっているようにも見える。
その余裕そうなすかした顔に向けて、俺は思いっきり、開いた扇をふりおろす。
ヴィオレーヌの目の前二センチのところで扇はとまる。彼女は一歩も引かない。その長いまつ毛に縁どられた大きな目は、開かれたままピクリとも動くことなく、わずか二センチ先の扇をじっと見つめ続けている。
「ふう。やるじゃないか。これで八回連続で成功だ」
俺は緊張を解いて扇を下げると、息を切らしながらその場に座り込んだ。
ヴィオレーヌは突っ立っているだけだからいいよな。
と愚痴をこぼしながら。それに引き換え俺は素振りをしなければならない。アニエスから借りたこの羽みたいな扇を、ヴィオレーヌの顔に振り下ろして目の前でピタリと止める。これは数をこなすと結構疲れる作業だ。修行開始から今日で3日目。これで何回目だろう。百から先は数えていない。もう、腕が限界だ。ちなみにヴィオレーヌの目の前で止め損ねて、彼女の顔に扇がぶち当たったのが十三回。そのたびにはたかれたため、頬も痛い。こちらの方も限界。
同じ裏庭で洗濯物を干している衣装係のメイドがチラチラとこちらを覗き見ている。いい加減彼女たちの視線も気になる。
「ねえねえ、お姉さまぁ。どうして、XとYが一緒になるの? 熱を冷ます薬草って、五種類だっけ。わたし四種類しかわからないけど、あと一種類はなんですかぁ?」
アニエスの方もピーピーうるさい。もっと静かに勉強してろよ。もっともかまってやらないヴィオレーヌもヴィオレーヌだが。
「よし。じゃあ、次の課題に移るぞ」
俺は汗を拭きながら立ち上がって、そう、ヴィオレーヌに告げた。この修行の元ネタの青年は、確か二年はこれをやり続けたんだったと思うが、かまうもんか。
「アニエス。ヘアピンを貸してくれ。それと、糸はあるかな」
プリントから目を離して俺を見上げたアニエスは、面倒くさそうに顔をしかめる。扇の次はヘアピンと糸ですかぁ~、とでも言いたそうに。
俺は腰に手をおき、深刻な表情をつくっておもむろにうなずく。そして彼女をじっと見つめる、この目だけで語り掛けてやる。
嫌というなら、お姉さまからどんなお仕置きを受けるか、わからないよ。
〇
第二の課題も、見る修行だ。
俺はアニエスから借りた糸をつかって、ヘアピンを木の枝に吊り下げた。
「いいかヴィオレーヌ。離れたところから、これを見るんだ。毎日毎日、これを見続けろ。これが大きく見えるようになるまで」
確か物語の中ではシラミだった。毎日シラミを凝視しつづけた主人公の青年は、ついにはシラミを馬ほどの大きさにみることができるようになったという。が、虫が大きく見えるようになったら気持ち悪いので可愛らしくヘアピンにしておいてやる。感謝しろよヴィオレーヌ。
しかしヴィオレーヌはありがたがるどころか、いぶかしげな眼付きで俺をにらんでいる。
「本当に、それが大きく見えるようになるの?」
「ああ。なるさ」
「どれくらい?」
「へ?」
「あれがどれくらいの大きさに、あなたには見えるわけ?」
俺は返答に窮する。ヘアピンはヘアピン以外の何物でもない。ヘアピン以上の大きさにはならないし、俺にだって、ちゃんとヘアピンの大きさにしか見えない。
俺が答えをのどに詰まらせていると、ヴィオレーヌは鼻で笑って、ぶら下げられたヘアピンを指でつついた。
「本当にこれでうまくなるのかしら」
「うるさい。大きく見えるってのは、つまり比喩だ。これはさる名人の修行法だぞ。つべこべ言わずにやれ」
お話の中のだけどな、という言葉は飲み込んで、俺は頬を膨らまして見せる。まったく。それでも、ない頭をひねって一生懸命考えたのに、可愛くない生徒だ。もう二三発扇をあててやればよかった。
己のコーチとしての無能はとりあえず棚に上げてすねていたら、ヴィオレーヌは憮然と腕を組んでそっぽを向いた。
「わ、悪かったわよ。やるわよ。やりますわよ」
そう言って、指定した立ち位置へと歩いて行った。
やれやれ。と俺は木陰に座り込み、幹に背をあずけて目を閉じた。これでしばらく休めるぞ、と安堵の息を漏らしながら。息を大きく吸って、もう一回吐く。今度のはため息。これで上手く石を投げられるのかなんて、俺もわからない。でも、本当は何をすればいいか、知らないんだ。だから俺は、適当にやらせてもらうよ。
薄目を開けてうかがうと、ヴィオレーヌはおとなしく突っ立って、ぼーっとヘアピンを見つめている。
どうせじきに、投石への興味など冷めるだろう。そう思いながら、俺は寝返りを打った。
〇
「ねえ。起きてよ。起きなさいってば。この召使い!」
アニエスのとげのある声が耳元でして、蹴っ飛ばされたところで、俺は自分の不覚に気づいて飛び起きた。しまった、ほんのちょっと横になるつもりが、ついうっかり気持ちよく寝いってしまった。今、何時だ。どれくらい時間がたった。
顔をあげると、木の葉の間に瞬く物憂げな光が俺の目を射た。さっきよりも角度が低い。陽はずいぶん傾いていて、ぷかぷかと浮かぶ雲の底は少し桃色に染まりかけていた。ああ、もう夕方じゃないか。
ヴィオレーヌは?
あいつなら、怒って俺をひっぱたくか、無視して置いてきぼりにするかだろう。後者の方が怖い。下手をしたら夕飯抜きだ。そして、今、俺はその置いてきぼりの刑をくらった公算が高い。
半ば絶望的な気持ちで見渡すと、しかし俺は目にした光景に、思わず身体を硬直させた。
置いてきぼりの方が、まだましな気がした。
そこに、ヴィオレーヌの姿があったから。あれから何時間もたつはずなのに、あの時と同じ姿勢で、俺が言いつけた位置で、俺が言いつけたとおりに、じっと糸につるされたヘアピンを見つめ続ける、ヴィオレーヌの姿が!
「なに、やってんだ……」
俺が震えながら声をかけると、彼女は壊れたブリキのロボットみたいに俺の方を向き、口の端をゆがめた。
「何って、あなたが言ったんじゃない。修行よ」
そして、ふわりと音もなく草わらに倒れた。
俺は足を滑らせながらヴィオレーヌのもとに駆け寄る。
彼女は、白い花に囲まれて仰向けに横たわり、暮れ行く空を、まばたきもせずに見上げていた。
「強く……。強く、なりたいの」
俺が顔を覗き込むと、そう、小さな声でつぶやく。その目じりに、小さな光が瞬いた。
「投石ができたからって、強いとは限らない。少なくとも、俺は強くないよ」
「あなたは……」
ヴィオレーヌは瞳だけ俺の方に向けて、わずかにほほ笑んだ。
「あなたは、黙って私に教えればいいのよ。これで、投石の名人になれたのかしら」
俺は彼女を見つめたまま、首を振る。修行を始めて以来一番真剣な気持ちで。
ヴィオレーヌは、いつも真剣なんだ。勉強も、投石も。俺に無茶ぶりをするけれど、ふざけた気持ちで言っていることは一つもない。それなのに、俺は適当にあしらおうとして……。そんな自分の態度が今さら、ひどく恥ずかしいものに思われてしょうがなかった。
「実は、もっとやることが、いろいろある」
「嘘つきね。あなたは。今度こそきちんと教えてよ。センセイ」
弱々しく言って、ヴィオレーヌは寝たまま俺に腕を伸ばした。その華奢な手が俺の頬を軽くはたく。若草をなでる春風のように、なめらかで柔らかい、その感触だった。
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