11 メイド・ヴィオレーヌ②
「おお。さっきの新入りメイドの連れだな。どうした」
「弁当忘れたんだ。届けに来た」
「よし。通っていいぞ」
城門を顔パスで通った俺は、初めてモルガンの城の中に入った。
城門を通ると石畳の広場があって、その向こうに三階建ての大きな館がたたずんでいる。傾斜の急な屋根にも窓が並び、建物の両端にそびえる円柱形の塔がなんだか威圧的だ。
館の玄関ホールに入ったところで呼び止められた俺は、手に携えた弁当包みを差し出して来館の訳を説明した。
「アニエス様の家庭教師の娘? ……はて。確かに最近新しい教師が雇われたが……」
その黒いスーツに身を固めた長身の男は、ひとさし指をあごにあてて首を傾げた。その眉間に深いしわが寄る。城主の娘の教師の知り合いなら怪しまれることもあるまい……、と思っていたのに、話が違うじゃないか。相手は露骨に俺を怪しんでいる。急にこの館がひどく場違いな、足を踏み入れてはならなかったところのように思えてきて、居心地が悪くなった。
そうかといってここですごすごと逃げ帰ったら、自分が怪しい者だと認めたことになるような気がして、俺は必死になって説明を試みた。
「ほら、最近はいった女の子ですよ。髪は黒くて、顔は病気みたいに白くて、目つきの鋭い生意気そうな女です。あ、そうそう。口も悪い。年は十七。だけどその年とは思えないくらい偉そうで……」
どさくさに紛れてちょっと悪口も混ざったが、特徴としては間違っていまい。何かを伝えようとするとき、その特徴を捉えていることは大切だ。
俺の表現は実によく的を射ていたようだ。説明を聞くなり黒服男は得心したように手をたたいた。
「ああ。あの新入りメイドか。教師ってのは君の勘違いだな。あの娘は、今の時間なら裏庭にいるよ」
そう言って、親切にも裏庭への行き方を教えてくれた。
庭といっても、そこは隅に大きな木が一本生えているだけの、ただの原っぱだった。長い木の杭が何本かたててあり、その間に紐が張り巡らされていて、紐につるされた大小さまざまの布が風にはためいている。どうやらここは物干し場のようだ。
(ん? ちょっと待てよ。どうしてここに、ヴィオレーヌの奴がいるんだ)
メイドの中でも特別な地位にいるんじゃなかったのか。などと思っていると、建物の陰から、洗濯物を山積みにした籠を抱えた少女が、危なっかしい足取りで歩いてきた。
黒い制服に白いエプロンをかけたその少女は、地面に置いた籠から洗濯物を取り出しては不器用にはたいて、細い腕を伸ばして紐にかけてゆく。その様子を何となく眺めていた俺は、彼女の横顔を見て、思わず声を上げそうになった。
その少女が、まぎれもなくヴィオレーヌだったから。
ほどなく別の太ったメイドが姿を現し、何やらヴィオレーヌに話しかける。腰に手をあて、唾を飛ばしそうな勢いで。どうやらヴィオレーヌを叱りつけているようだ。彼女の前で直立したヴィオレーヌはうなだれて、時々力なくうなずくばかり。何か言い返すのかと思っていたら、そんなこともなく、まったくの無抵抗で怒鳴られるままになっている。ただぺこぺこと頭を下げ、嵐が過ぎるのをじっと耐えている風情だった。
俺は声を出してしまわないように口を手で押さえて、彼女に気づかれないように庭を後にした。何だか見てはならないものを見てしまった気持ちだった。彼女に知られてはならない。俺に見られていると分かったら、きっと傷つくだろうから。俺も見たくはなかった。ヴィオレーヌのあんな姿など。
何だよ。城主の娘の教師って、嘘だったのかよ。
そう思う俺の胸に、言いようのない怒りが湧いた。それが嘘をつかれたことによるものか、それとも悔しさによるものなのかは、自分でも判然とはしなかった。
腹立たしさのためによく前が見えていなかったようだ。
弁当をさっきの黒服の執事に託して玄関を出ようとしたところで、俺は人とぶつかりそうになった。
「気をつけたまえ。君」
そう、俺に注意してきたのは、白いコートを羽織った背の高い中年の男だった。その傍らには、ピンク色の派手なドレスを着た少女。彼女をかばうように立った男は、顎髭をなでながら蔑むような視線を俺に向け、吐き捨てるように言う。
「この、下賤の者が」
「何だと」
気の立っていた俺は、売られた喧嘩を買ってやろうとそいつをにらみ返す。
その間に割って入ったのはドレスの少女である。
「ちょっと先生。こんなのほおっておいてさ。はやく行こうよ。わたしお話の続きはやく聴きたい」
「ああ。そうでしたな、アニエス様。早く勉強の続きをしないと。こんなのにかまっている場合ではありませんでした」
二人は汚いものを見るように俺を一瞥して、笑いながらホールの奥へと消えていった。
あれが、城主の娘アニエスと、新しい本物の家庭教師か。
お前らのせいで!
別に彼らがヴィオレーヌに何かをしたわけではない。しかしさっきのヴィオレーヌの惨めな姿の原因が彼らにあるような気がして、俺はいつまでも彼らの去ったホール奥の扉をにらみつけていた。
〇
その夜、夕食の席でのヴィオレーヌは雄弁だった。
「……でね。アニエスったら、悪戯がばれて、家政婦長にこっぴどく叱られたの。そこで助けてあげたのが私。家政婦長の理屈なんて、軽く論破してやったわ。ついでにこっちから説教してあげちゃった。あなたの態度も横柄ですよって」
ミシェルさんは目を細めてうなずきながらパンを咀嚼しているが、その隣でそれを聴く俺の心はうつろだった。
ヴィオレーヌの嘘がわかってしまうから。
「あとね。執事のルミエールさんが、私にお菓子を差し入れしてくれたの。たくさんのクッキー。もう食べきれなくって!」
ヴィオレーヌよ。
俺は木のさじを振りながら得意げに語るヴィオレーヌの笑顔に、おそらく無理に作っているであろう笑みに、そして決して笑っていない瞳に、心の中で語り掛けてやる。
ヴィオレーヌよ。それは違うよな。俺は知っているよ。お前はアニエスを助けてなんかいない。家政婦長を論破もしてないし、説教もしていない。本当はお前はその細い腕で、抱えきれないほどの洗濯物を干し、太った先輩のメイドからこっぴどく叱られて、反撃もできなかったんだ。きっとクッキーなんか、食べてないんだろう? それはたぶん、俺が届けた弁当だ。
「ねえ。私はもうあの城で一目置かれる存在になっているわけ。すごいでしょ」
「ああ、はいはい。すごいですね。いいから、もう、黙って食べろよ」
言ってしまってから後悔したが遅かった。あまりに冷めきった俺の返事に、にぎやかだった食卓が、一瞬にして静まり返った。
「なに、怒ってるの?」
「いや。怒ってなんかいない。ただ、ちょっと……」
ごまかそうとしたが無駄だった。俺は動揺を隠すことができず、スープをすすろうとしてさじを取り落とし、かすれた口笛を吹きながら意味もなく食堂を見渡したりする。我ながら不審極まりない行動だ。首筋ににじんだ汗が冷たい。ヴィオレーヌの視線に凍らされたみたいに。
ヴィオレーヌの表情から潮が引くように笑みが消える。
しばらくの沈黙の後、彼女は目を伏せて言った。
「……見てたんだ」
「ああ。……ごめんな」
ヴィオレーヌは返事をしなかった。ただ、顔を伏せたまま黙り込んでいる。静まり返った食卓に、小さく彼女の歯ぎしりの音が響いた。お椀の上で止まったままのさじを持つ、その手が小刻みに震えていた。
やがてそのさじをたたきつけるようにテーブルに置いたヴィオレーヌは、何も言わぬまま食堂から出ていった。
〇
その晩、俺は自分にしては珍しく、ベッドの上で考え事にふけった。
ひょっとして、ヴィオレーヌはもう城勤めをやめてしまうのではないだろうか。
俺も何かした方がいいのかなあ。
眠りにつくまでの、ほんの短い時間だけだけど、俺は割と真剣に悩んだ。何だかこの世界のヴィオレーヌは俺が知っている彼女とは少し違う。あれがどうやったらリバージュ伝の悪役ヴィオレーヌになるんだ。そのために一体俺に何ができるってんだ。ああなる未来は知っていても、その過程は何も知らないというのに。
でも、ひょっとしたら今のままの方が……。
その想念は突然窓から差し込む月明かりのように俺の頭上に降ってきた。
今のままの方が、結局彼女は幸せなんじゃないだろうか。と。
しかし俺は首を振り、慌ててその想念を振り落とす。
ダメだ駄目だ。それでは俺は元の世界に戻れない。彼女の結末はとりあえずおいておいて、俺は俺のために、ヴィオレーヌをヴィオレーヌにしなくてはならないんだ。
〇
翌朝、食堂で朝食をほおばるヴィオレーヌの姿は元気そのものだった。
スープを二杯お代わりし、肉まで食っていやがる。そういえば俺の皿にも肉がのっている。最近大金が入ったとはいえ、こんなことは珍しいことだ。
漠然とした嫌な予感が、肉を口に入れた俺の胸に脂の汁のように湧いた。
食事を終え、後かたずけをしたあと、登城の時間がきて、いつものようにヴィオレーヌの部屋の扉を叩く。ちょっと気まずい。いったん空で止めた手を、悩みを振り切るようにして扉にあてる。中からすぐに声が返ってくる。いつも通り。いや、むしろ明るいくらいの彼女の声だった。
恐る恐る扉を開くと、朝食の時と同じく上機嫌でヴィオレーヌが迎え入れてくれた。朝の光を背に受けて、昨日のように深緑色のドレスの裾をつかんだ彼女はほほ笑んでいる。
「今日も、本当にいい天気ね。気持ちいいわ」
そして、俺に向けられたつりがちの目がゆっくりと細められ、頬にえくぼが浮かぶ。
食事の時から感じていた、嫌な予感が膨らんで、俺の肺を圧迫する。そしてその予感は次の瞬間、的中する。
「今日は、大事なイベントがあるの。あなたも一緒に働いてもらうわ」
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