9 怪盗ジセン③

 ランプの灯は消していったはずだが、物置小屋からは明かりが漏れていた。何やら物音も聞こえる。


「何か、様子がおかしくないか」

「いいから。はやく行きなさい」


 ヴィオレーヌに背中を押されながら俺は小屋の戸に手をかける。やれやれ、夜勤まであるのかよとぼやきながら。一応懐に手を忍ばせてライトを握る。もう戦闘はないとは思うが、念のため。


 ジセンは手も足も縛ったうえで、その体を柱に縛り付けてある。だから、大丈夫のはず。そう念じながら俺は戸を開けた。


「やあ、諸君。助けに来てくれたのか。ありがとう」


 朗らかなジセンの声が俺たちを迎える。どうしたことか、ジセンの奴は縛られてはいなかった。木箱の上に胡坐をかいて、ワインをラッパ飲みしてやがる。


「どうして。どうやっていましめを解いたの?」


 ヴィオレーヌが俺を盾にしながら、顔だけ出して奴に問う。肩から手を離せよ。重たいだろうが、という愚痴は彼女に届きそうもない。

 そんな彼女の無邪気に驚いた様子に気をよくしたのか、ジセンは髭を指でなでながら得意げに答えた。


「まあ、こんな拘束から逃れるのは簡単さ。いつでもここから出ていけたんだが、君たちを待っていたんだ」

「私たちを? どうして」

「挨拶をしておこうと思ってね。吾輩を逃がそうと言ってくれたことに対するお礼だ。吾輩は、紳士だからな」

「うるさい。俺はそんなもんいらん。寝込みをおこされて気分が悪いんだ。とっととどこへでも行ってしまえ」

「口の悪い青年だ。ついでに都のこともちょっと話してあげようと思ったのに」

「教えて!」


 ヴィオレーヌが俺の口をふさいで後ろに押しのける。おいおい。家来はもっと大事に扱えよ、という愚痴は、今の彼女には届きそうもない。


 ジセンは身を乗り出して、口髭を撫でつけながらヴィオレーヌを見つめる。


「うんうん。いい目をしてなさる。お嬢さんのためにお話ししましょう」


   * * *


 都の話、といっても、大して言うこともない。大きくて、にぎやかで、金持ちも貧しい人も大勢いて、混とんとしている。それだけだ。

 だが、最近空気が変わってきたな。何というか、華やかさに陰りが出てきたというか、人々の中に昔からある不満の渦が、大きくなってきたような気がする。原因はきっとあいつだ。ラファエル・ド・ポンデュピエリー。最近宰相になった男だよ。

 奴は今の国王のお気に入りで、大した手柄もなく出世し、権謀術数で数々の優秀な大臣たちを失脚させたという。国王も言いなりで、今じゃ奴に逆らえるものは誰もいないという話だ。

 俺が勘違いしたのは、そのポンデュピエリー家の紋章だったんだ。だけど、お嬢さんの家は違うよな。お嬢さんは心優しいもの。


   * * *


「お嬢さんも都に興味があるみたいだが、都に行くなら気をつけなよ」


 話し終わったジセンはワインをラッパ飲みしながら立ち上がった。さて、それでは吾輩は帰るとしよう。そうつぶやきながら今度も、堂々と正面から小屋を出てゆこうとする。彼のために道を開けた俺とヴィオレーヌの間を通って。


 ヴィオレーヌが心優しいって? それだけは訂正させてくれ。

 そう言いたくてうずうずしている俺にワインの瓶を押し付けて、ジセンは夜の闇へとその身を溶かした。


     〇


 しばらく考え込んでいたヴィオレーヌもやがて小屋から出ていった。


「あんたは後かたずけをしておいて」

 そう、捨て台詞を残して。


 ジセンの奴め。ワインを四本も飲み干していやがった。

 あの大酒のみめと愚痴をこぼしながら、残った俺は空き瓶を集めて入り口わきに置き、鍋を棚に戻し、割れた皿の破片を集めて空き瓶の傍に積んだ。ところで、残業手当は出るんだろうな、とヴィオレーヌへの愚痴も少々。

 かたずけを適当に終わらせて外に出ると、生暖かい風が俺の身体を包んだ。

 なんだか、嫌な風だ。はやく俺も家に入ろう。

 そう思いながら暗くなっているはずの道具屋の建物を見上げる。意外にもヴィオレーヌの部屋の窓からはまだ明かりが漏れている。もうとっくに寝てしまったろうと思っていたのに。


「なあ、いい子だよな。あの娘は」


 突然背後から湧いたその声に、俺は思わず飛び上がりそうになった。


「誰だ」


 俺は両腕で胸を描き抱いて震えを抑えながら声のした方に問いかける。ジセンじゃない。男か女かよくわからない、中性的な声。でも重くて圧があって、腹の底をえぐるようなおどろおどろしい声だ。


「我が名は……そうだな。デスティネ。運命をつかさどるものよ」


 おもむろに名乗る、その人物の姿は見えないのに、その声の重々しさと目の前の闇によどむ雰囲気に、俺は歯の根がかみ合わなくなる。デスティネだって? そんなキャラ知らないぞ。しかし何だこのまがまがしいオーラは。ラスボス感半端ねぇ。


「お前をこの世界に呼んだのは我だ。お前にあの娘、ヴィオレーヌの手助けをさせるためだ」

「もう、ずいぶんこき使われてるよ」

「それはよかった」


 デスティネはかみ殺すように笑う。嫌な笑い方だ。見えはしないけれど、口の間から鋭い牙でも光らせていそうだ。


「なあ。もういいだろう。帰らせてくれよ。呼び寄せたってことは、帰し方も知ってるんだろう」

「我の力で帰すことはできぬのだ。あるきっかけ、スイッチのようなものが必要なのだ。そのきっかけさえ起これば、お前は帰ることができる。それが何か言うことはできぬ。言えるのは、その、帰るためのきっかけをおこすには、お前は当面ヴィオレーヌのために働かなければならないということだ。ヴィオレーヌの出世のために尽くせ。そうしていればそのうち、お前の帰り道はおのずと開ける」


 きっかけ……。やはりそれはクラリスのキスだろう。デスティネの話は、俺がもともと持っていた仮定に確信を与えた。ヴィオレーヌが出世しなければ発動しないきっかけで、あのパッケージに描かれていたことなら、やはりそれはクラリスに絡むことだろう。俺が元の世界に戻るカギは、クラリスのキスに違いない。


「なあ、教えてくれ。具体的に俺は何をすれば……」

「よいか。ヴィオレーヌのために尽くすのだぞ」


 薄気味悪い笑い声が俺の質問を阻む。訊きたいことがたくさんあった。しかし何も教える気はないのだろう。笑い声はしだいに遠ざかっていき、やがて風の音に紛れて消えた。それとともに、前の闇にわだかまっていたおどろおどろしいオーラも、嘘のように感じられなくなっていた。


     〇


 結局何だったんだ。

 ぼやきながら俺は道具屋の二階へ続く階段をのぼった。

 不思議な出来事だったが、思い返してみると、デスティネとのやり取りでわかったことは、結局俺はヴィオレーヌとの生活を当分続けていかなければならないということだけだった。そして、彼女といる限り、俺の望む望まぬにかかわらず、俺は彼女のために働かねばならないだろう。

 逃げるなよってことか。まあ、知らないよりは知っていた方が、やる気も出るとは思うが……。


 二階の廊下にあがると、ヴィオレーヌの部屋の扉の隙間からはまだ、明かりが漏れていた。

 俺はちょっとためらってから、しかし思い切ってその扉をノックしてみる。こんな夜更けまで何をしているんだろう、と、単純に気になったから。


「夜更けにごめん。俺だけど」

「どうぞ。入っていいわ」


 部屋に入ると、机に向かっているヴィオレーヌの背中が目に入った。揺れるランプの光の中で、彼女は分厚い本の紙面を一心に見つめ、ページをめくっている。黄色い光に照らされたその横顔があまりに真剣だったので、俺はしばらく声をかけることもできなかった。


「どうしたの?」

 ヴィオレーヌがこちらを向いたのでようやく俺は問いを発することができた。

「いや……。何やってるのかなって」

「何って、勉強よ」

 ヴィオレーヌはつまらなそうに答える。見ればわかるでしょと言わんばかりに。

「勉強しなきゃ、偉くなれないじゃない。勉強して、いつか都で行われる試験を受けに行くんだ。女官の登用試験があるの。今はまだいけそうもないけど、でも、チャンスが来た時のためにちゃんと力を蓄えておかなくちゃ」

「そうか……」


 俺は視線をあげて窓の外によどむ闇に目を向けた。先ほどのデスティネの声を思い出す。

 デスティネ。運命……。

 この娘の運命は決まっている。宰相の養女となって権力を手にし、そして失脚して処刑されるんだ。その運命に向かって、もうこの世界は動き始めている。俺もそれに力を貸してゆくことだろう。それはきっと変えることはできない。そんなことは知らないこの少女は、目を輝かせて夢を語り、貧しさにも負けずひとりでこんなに頑張っているというのに。


「何? まだ何か用?」

「え。ああ、いや……」

「もう、寝なさい」


 ああ、そうするよ。そう生返事をして部屋から出てゆこうとする。扉に手をかけたとき、もう一度ヴィオレーヌに呼び止められた。


「今日は……。あ、ありがとう」


 ちょっと顔を伏せて、口ごもりながら言う。その頬が、ランプの光加減のせいではなくほんのりと紅いようにみえた。


「まあな。頑張れよ」


 俺はこの世界に来てからおそらく一番優しい声で、一番心を込めて、そう彼女に言ってあげた。こんな言葉が運命の前には何の力にもならないと分かっていながら……。

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