4 家来になりなさい①
朝目覚めて目に飛び込んできたのは、木組みの天井と石造りの壁。そして白いカーテンのかかった木枠の窓だった。
ここは、昨日連れてこられたミシェルさんの道具屋の、二階の一室。ヴィオレーヌの部屋の隣の空き部屋だ。
ちょっとだけ自分のアパートのそれを期待していたけれど、しかし俺はたいしてがっかりもしなかった。頬を打つ砂の痛みも、握ったヴィオレーヌの手の感触もあまりに鮮やかだったので、夢オチはないと覚悟はできている。
それよりも、元の世界に戻る方法を真剣に考えよう。
俺はベッドに寝っ転がったまま、昨晩寝る前にめぐらしていた思索の続きに浸った。
俺はこの世界に来る前、何をしていたか。いったい何がきっかけで、この世界に来てしまったか。
(まずはこのようにベッドに寝っ転がっていた。そしてゲームのパッケージを見上げていて……)
俺はベッド脇のテーブルに置いてあった木箱をとり、両手で持って頭上に掲げた。
(そして、こんなふうに顔の上に落としたんだ)
俺は両手を箱から離す。一瞬で落ちてきた箱が俺の顔面を激しく打つ。痛い。ただただ痛い。俺は鼻を抑えてしばらくベッドの上をのたうち回った。
どうやら、顔を打つことは関係なかったようだ。それならば、あとは何があるだろう。俺は必死に思い出そうとする。意識を失う直前、スローモーションのように俺が見ていたもの。パッケージに描かれていた絵。そういえば、クラリスの絵がそこには描かれていた。そう、俺が最後にみたのはクラリスのイラストだ。俺が顔を背けたとき、俺の頬にあたったのはあのパッケージだ。おそらく、あのパッケージに描かれたクラリスだ。だとしたら……。
俺は毛布を払いのけて起き上がった。
だとしたら、クラリスからキスをされたら元の世界に戻れるんじゃないだろうか。それはまことに突飛な発想にも思えたが、しかし妙な確信があった。ここはゲームの中の世界でクラリスはそのヒロイン。自分におこったこの不思議な現象を解くのは、やはり彼女のそういった行為であるのがふさわしいように思われた。
「入るわよ」
部屋の戸がノックされて、俺の思考は中断された。
入ってきたヴィオレーヌは部屋の中を横切って窓を開けてから、俺の方を向いた。吹き込んだ風が彼女の黒髪をなびかせる。朝の清澄な光が当たった肌は透きとおるようで、触れたら壊れてしまいそうに思えた。その強い光を放つ大きな目を細めて、彼女はわずかにほほ笑んだ。
「よく眠れた?」
「あ、ああ。まあ。こんなにいい部屋に泊めてくれるとは思わなかったよ。物置みたいなところでよかったのに」
俺は改めて部屋を見渡しながら返事をする。自分のアパートの部屋よりも広い。机やテーブル、ソファもそろっていて、どうやら古い物のようだけど、綺麗によく手入れされている。
窓際の椅子に座ったヴィオレーヌもまた、部屋の中を見渡した。
「お母さんの部屋だったから。私が物心つく前に亡くなってしまったのだけど。それ以来は、ずっと空き部屋」
「いいのか。そんな部屋に俺を入れて。俺は……」
「お父さんはあなたのことを天使様と信じているから。お人好しで、信心深いの」
「でも、君は天使じゃないと知っている。嫌じゃないのか」
「そりゃ。面白くないわよ。どこの馬の骨とも知れない男に、お母さんの部屋を貸すなんて。でもずっと空き部屋だし。それはそれで、なんだか寂しいし」
「なんで俺が天使じゃないと分かった?」
ヴィオレーヌは目を丸くして俺の顔をまじまじと見つめた。
「逆にどうやったらあなたが天使にみえるわけ?」
たしかに。自慢じゃないが、俺の容貌は美男子からは程遠い。頬はこけているし無精ひげは生えているし、目つきは悪いし目の下にクマがある。天使よりは悪魔に近いかもしれない。
「じゃあ、俺は何にみえる?」
「変態。枯れ木。さえないおっさん」
ひどい言われようだ。しかし俺はなんだかおかしくて思わず笑ってしまった。笑いながら、そして一つ不思議なことに気づく。俺は、この娘と普通に会話をしている。人と接するのが苦手で、コミュニケーション能力の低い、この俺が。彼女がゲームのキャラで、悪役とはいえなじみのある顔だからだろうか。
でも、相手はヴィオレーヌだぞ。とも思うが、二三言葉を交わすうちに、最初抱いていた恐怖心がすっかり薄れてしまったことも確かだ。何より恩人だし、今はこの娘の助けがなければ生きていけない。まあ、このキャラが好きになれるかどうかは別として。
「俺はおっさんじゃないよ。まだ21歳だ。天使じゃないが怪しいものでもない。名前はタケル」
「ヴィオレーヌよ。17歳。さあ……」
そして彼女は立ち上がった。
「朝ごはん持ってくるわね」
〇
昨晩と同じ、固いパンと豆のスープをたいらげた俺は、ヴィオレーヌに連れられて店舗へと降りていった。店舗にはすでにミシェルさんがいて、彼は商品の整理をしていた。
「ああ、天使様お目覚めですか。よく眠れましたか」
「え、ええ。はい」
「どうぞ、心ゆくまでご滞在ください。娘のヴィオレーヌに身の回りのお世話をさせていただきますので、いかようにもお使いください」
「えっと。はい……」
なんだかちょっと気まずい。背後の様子をうかがうと、ヴィオレーヌはお屋敷の侍女のようなかしこまった姿勢で顔を伏せている。その表情の何分の一かは垂れた前髪に隠れてよくわからない。ただ、その口の端がわずかに上がっていて、含み笑いをしているようにも見えた。
ヴィオレーヌのその口もとを見たとき、俺の胸に靄のように不安感がわき上がった。ふと、ゲームの中での彼女の表情を思い出したからだ。彼女が己の企みについて語るとき、いつもあんな口もとをしていたような気がする。
「お父さん。薬草摘みに行ってくるわ。天使様と一緒に」
「ああ。気をつけてな」
疑うことを知らぬミシェルさんの笑顔に見送られて、俺はヴィオレーヌと店を後にした。
〇
村の東側には森が広がっている。小鳥のさせずりが響くのどかな森だ。朝の光が枝の間から斜めに差し込み、小路の上を木漏れ日が舞っている。その小路をヴィオレーヌは、手にしたバスケットを揺らし、鼻歌を歌いながら歩いていく。
楽しげに左右に揺れるヴィオレーヌの後ろ髪を眺めながら、俺は小さな疑問を感じ始めていた。
なんだか、うまくいきすぎじゃないか。
俺は昨晩からの食事を思い出し、ヴィオレーヌの服装を改めて観察する。固いパンに野菜と豆のスープ。質素な食事だ。麻のワンピースに汚れたエプロン。質素な格好だ。彼女の生活は決して豊かではない。それなのにどうして俺にこんなに親切にしてくれる。ミシェルさんが信心深くて俺を天使と信じているから? でも、この娘はそうじゃない。俺が天使じゃないと分かっている。むしろ怪さまんてんだ。それなのに、追い出そうともしない。その理由はなんだ。俺に親切にして、彼女に何の得がある?
その時、突然ヴィオレーヌが立ち止まった。こちらは振り向かず、前を向いたまま彼女は低い声で言う。
「おかしいって、思っているでしょ」
「あ、ああ」
俺の鼓動がはやくなる。しかし彼女はゆっくりとした口調で、かみしめるようにつづけた。
「安心して。家にはおいてあげる。ただし、条件がある」
そして彼女は振り返った。そのエメラルドグリーンの瞳には、刃のような光が灯っている。その光の刃で俺をたたき斬るように、彼女は言った。
「私の、家来になりなさい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます