3 ブルジヨン村②
俺は人違いであってくれと願いながら、目をこすり、もう一度彼女をよく観察した。目をこれ以上なく見開いて。初対面にもかかわらず、無礼なほどにまじまじと。
不健康なほど白い顔。
つり気味の大きな目。
エメラルドグリーンの瞳。
ぽってりとした紅すぎる唇。
その口元にある一点のほくろ……。
髪型は違うけれど、肩まで伸ばしたちょっとウエーブのかかった黒髪はつややかで、右耳の上にさされた髪留めには、見覚えのある桔梗の紋章が刻印されていた。
残念ながら、間違いなかった。俺の目の前にいるその女は、間違いなくヴィオレーヌだった。身につけているものこそ他の村人と同じ、よれよれのワンピースに汚れたエプロンをひっかけたような服だけれど、確かに、ゲームで散々見たヴィオレーヌの顔だ。
俺は己のあごを指でつまみ、ヴィオレーヌに鼻先を近づけながら首を傾げた。
それにしても、どうして彼女がこんな田舎の村の道具屋にいるんだ。ヴィオレーヌ・ド・ポンデュピエリーは宰相の養女だったはず。貴族の娘なんじゃないのか?
「ちょっと。どこの誰だか知らないけど。いつまで人のことジロジロ見てるのよ」
彼女の不機嫌そうな声で、頬をはたかれたように俺は我に返る。
見上げると眉根を寄せたヴィオレーヌが俺をにらみつけている。俺はヒッと短い悲鳴を上げてその場から逃げ出した。
そう。俺は思わず逃げ出してしまった。
それはそうだろう。ここはゲームの中の世界だ。その世界の、いわばラスボス的キャラに、いきなり遭遇してしまったのだ。腰抜けと俺を非難するなかれ。いや。腰抜けと言ってくれたってかまわない。絹のドレスを着ていなくても、ヴィオレーヌはヴィオレーヌ。やっぱり俺は、この娘が怖い。
〇
背後から声をかけられた気がしたが、それを振り切る勢いで俺は走り続けた。そして気がつくと人気のない村はずれにたどり着いていた。
とりあえずクラリスを探そう。クラリスは確かアルフール王国の首都フリュイーの出身だったはず。フリュイーに行って彼女に会い、そして事情を話して解決策を考えるんだ。
……そう、思っていたのだが……。
息を切らしながら目の前に広がる風景を見晴るかす俺の胸には、たちまち絶望感が広がってゆく。
ごつごつとした石が転がるばかりの、見渡す限りの荒涼とした大地。日が傾いてきたのか橙色に染まるその原っぱに、細い道が一本だけ、地平線まで続いている。荒野を渡ってきた風が砂を巻き上げながら、真正面から俺を襲う。砂粒が針のような鋭さで頬や額にあたる。痛い。俺はたまらずに顔をそむけ、目をつむって首をすくめた。
だめだ。とてもじゃないが、別の街になんか行けそうもない。日も落ちてきたし。この荒原に踏み出したところで、野垂れ死ぬのは目に見えている。地図もない。食い物もない。どんな動物が襲ってくるかもわかったものじゃない。モンスターはこの世界にはなかったと思うけれど……。
俺は自分の上着の内ポケットに手を忍ばせる。そこには一応護身用の道具が入れてある。自慢じゃないが俺は臆病だ。腰抜けを自認しているからこそ、侵入者に襲われたときのために、自室では自衛の道具を身につけることにしている。
強力な光を放つライト。警棒型スタンガン。
どれも使ったことはない。使えたところで、どこまで続いているかわからぬこの荒れ果てた野を、生きて通り抜けられるとも思えない。
やはり、この村のどこかの家に泊めてもらうことにしよう。
俺はすごすごと、風に追い立てられるように村へと踵を返した。
〇
「あ、あのぅ~」
俺が恐る恐る声をかけた主婦は、立ち止まってはくれず、振り向くこともなく足早に歩き去っていった。
村に戻ってずいぶん時間が経過したと思う。本格的に日が暮れてきた。空は茜色に染まり、陽はもう家々の屋根に隠れている。それなのに俺はまだ、今日滞在できるところを見つけられずにいた。
まず宿を探したのだが、そんなものはこの村にはなかった。あったところで、そもそも俺はこの世界で通用する金を持っていない。まあ、リアルな金だって、1780円しか財布には入ってないが。
宿はあきらめて、誰かの家に泊めてもらうことを考えたのだが、これにも大きな問題があった。
俺は、人と接するのが、大の苦手なんだ。
追い詰められれば何とかなるかと思っていたが、俺のコミュニケーション能力の低さはそんなに甘いもんじゃなかった。できれば誰とも話したくない。俺の頑ななこの性質は、もはや遺伝子レベルで体に染みついているように思えてしょうがない。
それでもその信念を押し曲げて、俺は何度か決死の覚悟で道行く人に話しかけることを試みた。しかし結果は御覧の通り。今のところ誰も立ち止まってはくれない。彼らはまるで何も聞こえないかのように俺の前を素通りしてゆく。言葉は通じるはずだけど、この世界の人間はみんな耳が遠いとみえる。いや。俺の声が小さいのか。
誰かの家の戸をたたけばいいって? とんでもない。見知らぬ人のおうちを訪問だなんて、俺には紐なしでバンジージャンプをするに等しい行為だ。
気がつくと、もう石畳の道を歩く人の姿もなくなっていた。家々の窓に明かりが灯りはじめる。煙突から吐き出される煙が、薄紫に暮れ行く空を流れてゆく。俺はしばらくその様子を見上げてからため息をついて、荒野とは逆方向の村はずれへと足を向けた。
〇
村に面した湖のほとりの原っぱに、俺は腰を下ろして一息ついた。
今日は野宿をしよう。ミシェルさんはブルジヨン村は少々寒いと言っていたが、幸い今は温暖な季節らしく、この時刻でも寒さは感じない。何か被るものがあればなんとかなるのではないだろうか。食べるものはないけれど、今日明日くらいは死にはしないだろう。今日、明日くらいは……。その先は、わからない。
暗闇に沈みつつある広大な湖を見つめているうちに、俺の身体はどうしようもない勢いでふるえだした。手が、腕が、顔が、足が、勝手に震えて、俺はそれを抑えることがどうしてもできなかった。
心細かった。
俺は本当にずっと、この世界に閉じ込められたままなのだろうか。知り合いもなく、拠り所もなく、生きる術もわからないこの世界で。
そう考えると、不安で、心細くてしょうがなかった。
そのどうしようもない気持ちと身体の震えに耐えきれず、俺は暗い湖に向かって一声、言葉にならない声で吠えた。
「何、やってんの?」
背後から声をかけられたのはその時である。聞き覚えのある、陶器をはじいたような澄んだ声。
俺は二度目の遠吠えを飲み込んで振り返る。
心臓が大きく鼓動をうつ。
ヴィオレーヌだ。
心の中の動揺を悟られないように、俺はわざと落ち着いた、そっけない口調で彼女に語り掛ける。
「何って。なにも。君こそ、何しにきた」
「あなたを、むかえに」
「どうして。そんな義理はないだろう」
「お父さんが、そうしろって。あなたを家に迎え入れたいって。お父さんは、あなたのことを天使だと信じているから」
「違うんだ。俺は……」
「天使じゃ、ないんでしょ」
返答に窮して、俺は口を閉じ、まじまじとヴィオレーヌを見つめた。彼女の表情は暗くてよくわからないが、どうやらほほ笑んでいるらしく、細い小さな笑い声が闇の中から漏れ聞こえた。
「いいから来なさい。でないと、私が帰れないのよ」
そして彼女は手を差し出す。俺にはもはやそれを拒む選択肢はなく、彼女の手を握って立ち上がる。
握り返したヴィオレーヌの手のあたたかさに、多少戸惑いながら。
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