4.型

  『転生物語』の特徴は“テンプレート”である。ほとんど、どの物語も同じ世界観なのである。そして、転生物語を読みたい人は、似たような世界を好む傾向にある。

 それはなぜか。

 私は似たような物語も過ぎれば飽きるし、考えることも嫌いではないので、同じ異世界物語でも、今ほどそっくりの世界の物、十人の作家だったけど、そっくりの世界観の物語だ、というような感じの作風を続けて読んだことはない。

 今の転生物語のほとんどは、なぜかゲームの世界に転生することが決まっているかのようで、ゲーム用語の出て来ない転生物語はないように見受けられる。しかも、魔法もお決まりのようで、魔法のない転生物語もないように見受けられる。ドラゴンも出てきて、必ず勇者がいる。

 つまり、決まっているので考えなくていいのである。新しい世界観だとよく考えなくてはならず、疲れている人、癒やしを求めている人には、不要の物なのである。思考すること自体に疲れているので、いちいち考えることが面倒くさいのだ。

 それでいて、少し現実離れしたい。現実逃避をしたい。その願望を叶えるための物語がライトノベルという小説スタイルの転生物語なのだ。しかも、漫画では言葉が足らず、詳しい心情を理解するには小説というスタイルがいい。中には漫画でいいという人もいるだろうが、私は漫画は少し言葉が足らず不足感を覚える。

 それに、スマホで少し息抜きをするなら、画面を占領してしまう漫画より、小説スタイルの方が適しているのだろう。

 そういうことで、ライトノベルの世界で『転生物語』が跋扈ばっこすることになったのだろう。

 つまり、作者はそういうことを考えるなら、簡単に飽きられるというリスクを負う覚悟で、量産できる自信があるなら、いて捨てるほどある『転生物語』を書いた方が読まれるということである。

 しかも、『転生物語』は作者にとっても簡単である。なぜなら、最初から世界観はできあがっており、その通りに進めればよいからだ。

 テンプレート的世界観で、つまらないという人もいる。私自身そう思う。話を読めばストーリーの先が読め、結果はこうなるだろうという予想通りのお決まりの展開だ。

 最初から主人公が危機におちいることはほとんどなく、危機に陥るはずが逆にやっつけちゃう、という展開。少しは苦労しろ…!と時に言いたくなる。私が獅子ししの代わりに千仞せんじんの谷に突き落としてやろうか、と思うほどだ。

 そこまで考えたところで、テンプレートって、結局コピペよね、と思った。そして、これは“形式”でもあることに気が付いた。

 形式。つまり、“型”だ。型は日本文化にとても多い。落語にしろ、歌舞伎にしろ、狂言にしろ、そして、能もみんな“型”である。“型”ができあがると、“襲名しゅうめい”という形で、名前さえ受け継ぐ。ある意味、先達のコピペを究極に極めた人だけが、襲名できるのである。

 文化的なことだけではない。武術もみんな“型”である。しかも、武術の方がより一層、その傾向は強くなる。“型”を大切にする。それぞれの流派の“型”を極めると免許皆伝になるのだ。それぞれの流派の違いは、いわばテンプレートが基本にあって、少し変化したものとさえ言えるのではないか。

 “型”を極めていく中で、それが“道”を極めることになり、“○○道”というものになっていく。

 こうやって考えていくと、日本文化の根底には“型”が大層多い。手紙だって形式があり、それに則ったように書かないと、常識がない人だと思われる。ビジネス文書もメールの文書も、みんな“型”である。

 私はそれを考えていた時、テレビ番組の一シーンを思い出した。どんなテレビ番組だったかは忘れたが、狂言師のある方とフィギュアスケートの選手が出ていた。

 選手は、見ている人がどこで何をするかを分かっているから、上手くできるかどうかプレッシャーになるというようなことを話し、それに対して、狂言師の某氏は「それが型の宿命です。」と言われた。それを聞いた選手は、「なるほど。」と何か納得して吹っ切れた様子だった。

 私はそれを思い出し、私も何か納得できた気がした。“型の宿命”という某氏の言葉で、なぜ、分かっている顛末てんまつでも読むのかが分かるような気がしたのだ。

 そうだ。お決まりの顛末の物語。日本にはこれがあるではないか。

 「この紋所もんどころが目に入らぬか…!」で有名な水戸黄門である。話の顛末は同じだ。どこで名台詞を言うかまで、そろそろ言うはずだと、その時間を視聴者は分かっていたようである。

 どこで何をするか分かっている物語。これも型でありテンプレートである。何も転生物語が始めではなかったのだ。

 それをきっかけに考えてみれば、実にテンプレート的な物語は多い。

 たとえば、○○サスペンス、○○劇場、などのどこかダサい番組名からして、テンプレートではないのか。

 そして、どこかダサさの残る番組では、熱血刑事が犯人を追い詰め、そして、犯人は断崖絶壁の上で、自殺を図るも刑事に止められ、そして、涙ながらに自分がどうして罪を犯すに至ったのか、その理由を話す。その後ろでは日本海の荒海が白波を立てながら、ザッッパーンと砕けている。

 しかも、涙ながらに自分がこうなった理由を話すのは、夢幻能と同じ構図ではないか。

 他にもある。山奥の古びた洋館。おしゃれな外観だが、夜になると不気味さを増す。そして、予想通りに殺人事件が起き、そこに居合わせた探偵などがその謎を鮮やかに解き明かすのである。

 確かに話の構想というか、アイディア自体は決まっている。例えばシンデレラストーリーは日本にもあった。落窪おちくぼ物語は日本のシンデレラである。

 テンプレートと言えばテンプレートなのだ。泥棒がいて刑事が走る。そして、どの国の刑事もみんな「待て!」と言って追いかけ、どの国の泥棒も走って逃げて止まらない。

 考えてみれば、人間の行動原則はそういう意味では、世界共通なのかもしれない。みんな正義が勝つ物語を読みたいし、見たいのだ。

 特に日本人はそうなのかもしれない。自分がひとかどの者だとは思っていないし、何か大きなことを成し遂げられるとは思っていない。だから、深く考えてことを起こせる人に難しい問題は任せて、凡人である自分達は置かれた境遇に満足し、少しのことで満足を覚えるようになっているのかもしれない。

 それは災害の多い国だからかもしれない。だから、大きな戦乱の世も確認できるのは、弥生時代と鎌倉時代と戦国時代くらいなのかもしれない。狭い国で相争えば、死に絶える。

 そんな人達が息抜きするのが、“型”で決まっている物語の世界なのだ。物語の世界ならば、たとえ復讐ふくしゅうしたとしても、誰も傷つかない。本当に死ぬことはない。リアルの代わりにけがれを負う、ファンタジーの世界である。テンプレートの世界である。

 だから、テンプレートだと分かっていながら、みんな番組を見るし、小説も読むのだろう。

 確かにテンプレートである“型”は便利なものである。それにのっとって物語を進めれば良いので、ある程度決まっている。読んだり見たりする方も、つまり話の受取手もそれを知っていれば、複雑な思考をしなくてよいので、後はどんな味付けなのかを考えるだけですむ。

 そして、提供する側も便利である。型はある意味、法則でもある。こういう“決まりごと”なので、それに則っていれば過ちも少なくて済む。

 そして『転生物語』も“型”の中の“型”の物語である。

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