第9話 世界で一番走る剥製【2/2】

 景たちは森を駆け回った。もう一時間は経っただろうか。剥製の景はもちろん疲れることなどないのだが、アイリネシアも息ひとつ上げていなかった。


「アイリネシアは疲れないの?」


「はいっ! 鍛えてますから!」


 アイリネシアは楽々答えた。本当に疲れている様子はなさそうだ。


「走ってるからかな? 全然動物に会わないや」


「わたしが怖くて出てこれないんですよぉ!」


 アイリネシアは走りながら笑って見せる。冗談なのだろうが、アイリネシアのワイヤーアクションを見た景には冗談には思えなかった。


「ところでさ。結晶ってこんなに走り回って見つかるものなの?」


「――!」


 突然アイリネシアが止まった。


「わっ!」


 景は対応できずに足元の根につまずき、一回転して尻餅をついた。


「そうでした……!」


 アイリネシアはそれに気づいていないのか、見向きもせずに頭を抱える。景は尻をはたいて立ち上がった。


「どうしたの?」


 景が駆け寄ると、アイリネシアは両手をサッカーボールくらいの玉を持つように動かした。


「結晶はこれくらいの石です。大きいから簡単に見つかると思ったんですけど、こんな広い森で見つけるのは大変ですっ!」


「まいったな。それぐらいの石ならどこに落ちていても不思議じゃないよ。せめて、他にも情報があれば……」


 結晶が落ちてきたときのことを思い出してみる。だがそのとき景は屋敷で掬にナイフを突きつけられていてそれどころではなかったし、窓にはカーテンがかかっていて外は見えなかった。


「うーん、ダメかな。落ちてきたときの衝撃はアイリネシアの乗り物が落ちてきたときと似てたみたいだけど、落ちた場所は全然違うみたいだし。いや、でも……」


 景はアイリネシアの乗り物を見つけたときのことを思い出した。


「クレーターだ。結晶が落ちた場所から動いてないなら、クレーターの真ん中にあるはずだよ!」


「おぉ! 景さん頭いいです! ちょっと待っててください。えっと、あれがいいですね」


 アイリネシアは空を見上げ、より高い木を選んだ。そして腰から輪っかを取り、選んだ木のてっぺんめがけて投げた。狙った場所にそれが命中すると同時に、緑の光がワイヤーになりアイリネシアの体を引き上げる。アイリネシアは勢いを利用して木の倍の高さまで飛び上がった。


「クレーター……クレーターはどこですかねぇ?」

 アイリネシアは空中で体を回転させ、視野を広くとる。遠くに見えたお屋敷は手の平に乗りそうだった。


「結構遠くまできましたねぇ。でも大事なのはクレーターです」


 アイリネシアはさらに体を回転させる。屋敷とは反対の方向に円く木が生えていない場所があった。


「穴……ですかねぇ?」


 アイリネシアの体が落ち始めた。アイリネシアの体が一気に地面へと近づく。木よりも低い場所まで来ても、その速度は落ちなかった。


「え? アイリネシア? 危な――」


 景が思わず手を伸ばすと、アイリネシアの落下がぴたりと止まった。アイリネシアは逆さまで、髪の毛は地面に触れている。あと数センチでもワイヤーが長ければ頭は地面に激突していただろう。


「ありましたよ! 森に穴があいてました! あっちです!」


 アイリネシアはそんなことを気にする素振りは見せず、森の奥を指差す。景は苦笑いを浮かべた。


「はは……すごいね。アイリネシアは大物だよ」


 いっしょにいるとこっちの心臓が持たないよ――と思った景だが、それがいつも目日田が景に対して覚えている感想だと気づくことはなかった。


※ ※ ※


 アイリネシアの示した方向に歩いていくと、突然に森が途切れた。その先はすり鉢状にえぐれている。まさにクレーターだ。サッカーコートを二つ、余裕を持って入れられるほど広い。


「あ! 何かありますよ!」


 アイリネシアがクレーターの中央を指差した。そこそこ離れているが、確かに何かしらの構造物が見えた。景は目を細める。


「なんだろう? パイプオルガン……みたいに見えるけど」


 パイプオルガンなど教科書でしか見たことはなかったが、上に向かって管が何本も伸びているその姿はとてもよく似ていた。少なくとも、アイリネシアが言っていたサッカーボール大の石ではない。


「パイプオルガンか。景くんはよくものを知ってるんだね」


「教科書で見ただけで、詳しくは知らな――」


 謙遜の途中で、声がアイリネシアのものでないと気づいた。景は後ろを振り向く。


「シ、シゲさん!?」


 後ろにあったのはいつも変わらないにやけ顔だった。


「わぁ! 知らない人がいます!」


 アイリネシアは景の後ろに隠れた。が、体格はそう変わらないので隠れきれていない。シゲは少し体をずらしてアイリネシアの顔を見た。


「君が箱舟から来た人かな?」


「そ、そうですけどぉ……」


 アイリネシアは体を縮こませた。景は少し動いてアイリネシアを隠す。


「どうしてシゲさんがそのことを? あ、そうか。屋敷で篝に聞いたんですね?」


 シゲは首を横に振った。


「ボクは屋敷には戻ってないよ。境界から直接ここに来たんだ」


「じゃあ、シゲさんは最初から箱舟のことを知っていたんですか?」


「箱舟が打ち上げられたとき、ボクはまだ生きていたからね。宇宙に逃げた人がいるのは知っていたよ。まさか生き残りがいたとはね」


 アイリネシアが顔だけ出した。


「は、箱舟では十万人が生活しています。資源の完全なサイクルを実現して、全ての住民が安定した生活を――」


「知ってるよ。よく聞いた宣伝文句だ。でもひた隠しにしてたことが一つだけあったんだけど、それは知ってるかな?」


「し、知らないです」


 アイリネシアが首を横にふると、シゲはいつものにやけ顔を傾けた。


「そうかな? ここに来たってことは知ってるんじゃないかな? まぁいいや。隠されていたことっていうのは、箱舟のエネルギーがCOMETでまかなわれてるってことなんだ」


 景は顔をしかめた。


「それって変じゃないですか? COMETから逃げるために箱舟を打ち上げたんですよね?」


「そうだよ。だから公表できなかったのさ。完全隔離してエネルギーだけ利用してたみたいだけど、COMETが管理しきれる保証はないからね。それに、いつ尽きるかもわからない」


 景の後ろでアイリネシアがわずかに震えた。


「アイリネシア? 大丈夫?」


 景が後ろをうかがうと、アイリネシアは景の手をつかんだ。


「大丈夫ですっ! 景さん! こんなよくわからない人のことはほっといて、結晶を探しに行きましょう!」


 アイリネシアが手を引いてクレーターを駆け下り始めた。


「え、ちょっと……!」


 景はつまづいて転びそうになったが、なんとかバランスをとってついていく。


「逃がすわけないじゃないか」


 シゲが右手を上げ、前にむけて下げる。すると三十メートルほど左の木が倒れた。その近くの木々が音を立てて揺れる。


 それに驚いて顔だけで振り向いた景からは、白い影が見えた。


「なにか……くる」


 白い巨体が森から飛び出した。クレーターへと降り立ち、地面を揺らす。


「な、なんですかぁ!?」


 アイリネシアは足を止め、振り向いた。


「動物……ですかぁ?」


 巨体は頭以外が白い毛におおわれ、四本の太い足で立っていた。それだけ見れば大きな獣だが、頭だけ黒く金属光沢を放っている。


 白い影が二本の足で立ち上がった。三角形に近いその体格に、景は見覚えがある。


「クマ……? でも、白くて、すごく大きい」


「地上最大の肉食獣。シロクマだよ」


 シゲがクレーターに降りてきてシロクマの隣に立つ。シロクマはシゲの倍ほどの身長がある。


「こいつは特に大きいけどね」


「シゲさんは…………そんな近くにいて大丈夫なんですか?」


 景は言葉を選んで聞いたが、嫌な予感がしていた。シゲはにやけ顔を変えずに答える。


「ボクが作った特別な頭に付け替えたからね。完全なコントロールはできないけど、簡単な命令を遂行させることくらいはできる。いまの命令は――」


 シゲはクレーター中央にある、パイプオルガンのような機械を指差した。


「COMETの結晶を守ること。あれに近づこうとすれば容赦なく君たちを襲うよ」


「つまり、あの機械に結晶が入ってるんですね? あの機械はなんなんですか?」


「気象制御装置……とでもいおうかな。地上のあらゆる生物が死滅したせいで、大気のバランスが崩れてそこらじゅうで嵐が起きてる。境界の外みたいにね。あの装置は近くのCOMETをコントロールして、大気を安定させるんだ。金裾がいつも穏やかなのはあれのおかげさ」


 シゲは手を下げた。


「あれはボクが作ったんだ。あれだけじゃない。壊れた建物は直して、森に緑を戻した。金裾はボクが三百年もの年月をかけて作りなおした楽園なんだ。地球を捨てた人たちに奪われるなんてごめんだね」


「ご、ご先祖さまは地球を捨てたわけじゃないです!」


 アイリネシアが景よりも前に出た。


「ご先祖さまは地球に帰る人がいなくならないように、宇宙に避難しただけです! 地球に帰る方法をずっと探しています! 定期的に地球の調査をしてるんです!」


「地球に帰る……ね。じゃあ結晶を持ち去るのも地球のCOMETを減らすためかい?」


「な、なんのことで――」


「ボクはてっきり箱舟のエネルギーを補填するためとばかり思ってたけど、なるほどね。そういう考え方もできる」


 シゲはアイリネシアの言葉を待たずにしゃべった。アイリネシアの言い分を聞く気はないのだと、景は悟った。


 景はアイリネシアの横に並ぶ。


「待ってくださいシゲさん。アイリネシアと僕がここに来たのは、結晶を持っていけば翼くんを助けられるかもしれないって思ったからです」


「景くんは騙されてるんだよ。彼女は結晶を持って帰るつもりさ。じゃなきゃわざわざこんな危ないところに直接来たりしないよ。COMETの濃度は箱舟からでも計測できるんだから」


 アイリネシアは首を大きく横に振った。


「違いますよっ! わたしは宇宙からでは見えない環境の変化を調査しにきたんですっ!」


「じゃあ今まで調査した見解を教えてくれるかな? 調査員ならそれぐらいできるよね?」


 アイリネシアは自分の胸に手を当てた。


「わたしにはわかりません! わたしは機動調査員といって、このスーツをより広い範囲で動かすのが任務です! 調査結果は勝手にスーツが送ってくれるので、わたしは運動の訓練しか受けてないです!」


「へぇ、それはずいぶんと便利になったものだね。でもそんな話じゃ君を信じることなんてできないよ。君が調査員だっていう証拠が何ひとつないからね」


「もう……いいです」


 アイリネシアは腰から輪っかを一つとった。


「あなたに話を聞いてもらう必要はないですっ!」


 アイリネシアが輪っかをシロクマに向かって投げた。


「そのクマさんさえ抑えてしまえば、邪魔はできないはずですっ!」


 輪っかはシロクマの右手に当たり、ワイヤーを取り付ける。アイリネシアは腕を振ってワイヤーを大きくうねらせ、シロクマの頭上に輪を作った。それはシロクマを囲うように落ちる。


 シロクマは突然動き出し、左腕にワイヤーを巻き付けて引いた。


「わわっ!」


 アイリネシアの体がワイヤーに引っ張られ、宙を舞う。シロクマは眼前まで飛んできたアイリネシアめがけて右の爪を突き出した。


「危ない!」


 景が思わず叫ぶ。


 アイリネシアはワイヤーを引き、シロクマの左側に飛び込んでそれを避けた。肩を蹴って後ろに回り込む。


「くらうですっ!」


 両手でワイヤーをつかみ、全体重で引っ張りながら着地した。ワイヤーに引かれてシロクマの左腕が後ろ手に取られるように曲がり、シロクマのバランスを強引に崩す。そのままシロクマは一回転し、背中から地面に叩きつけられた。


「へぇ、結構やるみたいだね。でも――」


 アイリネシアに向けられていたシゲの目がシロクマに向けられる。それを合図にしたかのようにシロクマは立ち上がった。


「剥製は痛みを感じないから、その程度じゃ無力化できないよ」


「そ、そうなんで――!」


 アイリネシアにはゆっくり驚いている暇もない。シロクマが四足になり、突進し始めたのだ。


「それくらい!」


 アイリネシアは飛び越えて背中へと乗った。そしてシロクマの左腕にかかったままのワイヤーを引き、転ばせる。アイリネシアは飛び下りるときにシロクマの右の後ろ脚にワイヤーを一巻きした。


「これならどうですかっ!」


 アイリネシアがワイヤーを引くと、シロクマの左腕が右の後ろ脚に引き寄せられた。もう四足で走ることはできない。シロクマは二足で立ち上がり、アイリネシアを見下ろした。


「まだ諦めませんかっ! じゃあ次は右腕です! 走れないのなら楽勝――」


 アイリネシアが前へと飛んだ。自分で跳んだのではない。シロクマが足を下げて、ワイヤーを引いたのだ。


「はぅ……!」


 アイリネシアはシロクマの足元へと転がった。シロクマは足を元の場所に戻し、アイリネシアの胸を踏みつける。


「くぅ……」


 アイリネシアは手でシロクマの足をどかそうとしたが、ぴくりも動かない。シゲはいつものにやけ顔でアイリネシアを見下ろした。


「体重も力もシロクマの方が上なんだ。そんな方法で無力化できるわけないじゃないか。境界でオオカミの頭を落とした武器を使えばなんとかなったかもしれないのに、まさか使わないとはね。どんな武器なのか楽しみだったんだけど」


「うぐぅ…………シロクマさんは……悪くないのでぇ」


 アイリネシアは小さな声でうめく。シゲは両手の平を上に向け、首をかしげた。


「悪くない相手には使えない武器ってことかい? まぁいいや。使えないならそっちの方がボクは楽だ」


「シゲさん! やめさせてください!」


 景がシゲに駆け寄った。シゲはにやけ顔を崩さない。


「それはできない相談だね。ボクは彼女を助けるつもりはないし、あのクマはボクの命令で彼女を襲ってるわけじゃない。動物としての防衛本能で、攻撃してきた敵を排除しようとしてるだけだ。それを止める命令はインプットしてないから、ボクを脅しても止まることはないよ。あれの役割である装置を守ること以外は自由にしてるんだ」


「じゃあどうすれば……」


 シロクマは右腕を振り上げた。それをくらえばアイリネシアは間違いなく死ぬ。景が身を投げ出してかばったところで、それは変わらないだろう。


 景は必死に考えた。どうすればシロクマは止まるのか。シゲはシロクマは止まらないといった。役割を守る以外は自由なのだと。


「そうか……止める必要なんてないんだ」


 景がつぶやくと、シゲは景を見た。


「おや? 諦めてくれたのかな?」


 景はそれには答えない。シロクマは腕を振り下ろし――


「こっちを見るんだ!」


 景は走り出した。クマに向かってではない。むしろ遠ざかる方向にだ。


「おや? まさかそんな手に出るとはね」


 シゲの表情がわずかに歪む。シロクマの爪がアイリネシアの眼前で止まった。景の走る先に気象制御装置があったからだ。


 シロクマはアイリネシアから足を外し、前足をついて景を追おうとした。だが走れずに肩をつく。左前足が後ろ脚とワイヤーでつながれていて、うまく動かせないのだ。


 シロクマは起き上り、右前足だけで進み始める。四足で走るのに比べるとかなり遅い。だが巨体に物を言わせて、人が走るのと同じくらいの速度は出ていた。足場の悪い坂に慣れない景よりもわずかに速い。


 しかしそれも一時だけだった。シロクマの速度が一気に半減する。


「行かせませんよぉ!」


 アイリネシアがワイヤーを引いて踏ん張っていた。シロクマの圧倒的な力にずるずると引きずられていたが、確実に負担をかけている。


 景は足を止めずにシロクマの姿を確認した。


(やっぱり、命令が優先なんだ。とりあえずこれでアイリネシアを助けられる)


 景は装置に向かって走り続けた。あと二十秒もしたら装置に着いてしまいそうだ。


「ボクを忘れてないかな?」


 乾いた音が鳴り響いた。


「ひぁ……!」


 アイリネシアが尻餅をつく。シゲはアイリネシアの近くで拳銃を構えていた。だがアイリネシアを撃ったわけではない。


「ワイヤーが……切られてしまいましたぁ!」


 アイリネシアは腰に手をやった。だがシゲに拳銃を向けられ、動きを止める。


「この距離ならさすがに当たるよ? ワイヤーに当てられたわけだからね」


「うぅ……景さんはあなたの友達じゃないんですか!」


「もちろん楽園の仲間さ。彼は君に騙されてるだけで、敵になったわけじゃない。でも彼を傷つけずに止められるほど、ボクは強くないからね。彼がどんなになっても掬くんが直してくれると信じて、こうするしかないのさ」


 シロクマはワイヤーを振りほどき、左前足を地についた。四本の足で走り出したシロクマは一気に景に近づく。


「なにを言ってるんですかぁ! このままじゃ景さんがぁ!」


 アイリネシアが叫んでもシゲは表情一つ変えない。


 景は後ろにシロクマが迫っているのを感じていた。


(僕が足を止めればシロクマは僕を追うのをやめるかもしれない。でもそうしたらまたアイリネシアが襲われるかも……)


 景は決断できずにいた。その間にもシロクマの気配は近づいてくる。見えない危険に体の芯が冷えた。振り向きたい衝動を抑え、全力で走り続ける。止まってしまえば恐怖で思考も体も凍ってしまいそうだ。いっそのこと、そうした方が楽なのかもしれない。だがアイリネシアを見捨てるに等しい選択をすることなど、景にはできなかった。


「景さん! 後ろぉ!」


 アイリネシアの声を聞くまでもなく、景はすぐ後ろに気配を感じていた。爪が迫ってくる。そんな想像が頭をよぎる。直撃すれば、体のパーツの一つくらい簡単に持っていかれるだろう。


「う――」


 景の体に衝撃が走った。背後からではない。右の脇腹に何か大きな物がぶつかった。そんな感覚だ。

 

 景の足が地面を離れる。左にむかって飛んだのだと、景にもわかった。


 景が一瞬前までいた場所をシロクマが叩く。


「う……!」


 景は地面をころがり、仰向けに倒れた。


「グルル……」


 やわらかい何かが景の顔を撫でる。景が目を開けると、黒い毛むくじゃらが景の顔をなめていた。その首に黒いレースが巻いてあるのが見える。


「君は……境界で掬が直したオオカミ?」


 景が体を起こすと、オオカミは景の背中に頭を押し当てた。まるで立ち上がるのを手伝おうとしているようだ。


「ありがとう。大丈夫。自分で立てるよ」


 景は立ち上がってオオカミの頭をなでた。オオカミは体を景に寄せて尻尾を振る。


 その姿を見たアイリネシアは目を見開いた。


「あのわんちゃん……! 本当に、あの状態から生き返ったんですか…………?」


 シゲもオオカミに目を向ける。


「へぇ……賢いオオカミだと思ってたけど、自分の住む世界をどうすれば守れるのかまではわからないみたいだね。直ったばかりでかわいそうだけど、壊れてもらうしかなさそうだ」


 シロクマが機械の頭を景たちに向ける。オオカミは景から離れて前に立った。


 猛獣二匹が正面でにらみ合う。


 先に動いたのはオオカミだった。ジグザグの軌道で一気に距離を詰める。


「ダメだ! かなうわけないよ! 逃げて!」


 景の声は無為に響いた。オオカミは止まることなく、自分の倍はある巨体へと突っ込んでいく。そして反応しきれなかったシロクマの左腕にかみついた。


「ダメだよ! そんなことしたって――」


 景が言い切る前にシロクマは爪をオオカミに突き立てた。痛みの感じない剥製にとって、痛みを与え合うだけのやり取りは無意味だ。だがシロクマの巨大な爪はそれだけでは済まさない。オオカミの体を切り裂き、構造から壊していく。それでもオオカミは噛みついた口を離さない。何度も爪に切り裂かれ、体がぼろ布のようになってもシロクマの腕にぶら下がり続けた。

 

「もうやめてよ! 掬にも直せなくなっちゃうよ!」


 景は叫ぶことしかできなかった。灰雪が周りに散っていく。


「どうし――」


 大きな太鼓のような音がそれをやめさせた。音のした方向――アイリネシアとシゲに、景と動物たちは目を向ける。


「なんだ…………やれるんじゃないか」


 シゲの右手だらりとたれさがり、拳銃が落ちた。シゲは左手で右肩を押さえている。


 アイリネシアは板チョコの箱にグリップをつけたような形の銃を握っていた。


「直るのなら、少しくらい壊れてもいいですよね? わたし、少し怒っていますよ?」


 アイリネシアは正面に銃を構えた。力のこもった瞳が見つめる先は、シロクマの頭だ。


「機械の頭がクマさんをおかしくしてるんですね。クマさんは大きいので、ちょっと強めに行きますよぉ!」


 空気に衝撃が走った。それは音だったが、景には強い風が吹いたように思えた。


「うわっ!」


 景は思わず目をつぶる。そして次に目を開いたとき、シロクマの頭がなくなっていた。シロクマの首は黒く焦げている。それはまるで境界で見つけたときのオオカミのようだ。


 シロクマの体は膝をつき、そのまま前に倒れた。


「すごい……あんなに大きなシロクマを一発で倒すなんて」


 景が視線を戻すと、アイリネシアはうなずいた。


「もう大丈夫です」


「それはどうかな? ボクはまだ動けるよ」


 シゲがアイリネシアの前に立った。歩くのは問題なさそうだが、右腕は動かないようで垂れ下がったままだ。左手で右肩を押さえている。


 それを見たアイリネシアは首を横に振った。


「無理ですよぉ。そんな状態で、どうやってわたしの邪魔をするんですかぁ?」


「そうですシゲさん! ボク相手ならともかく、アイリネシア相手じゃシゲさんが万全の状態でも歯が立ちませんよ!」


 シゲは景を見た。


「それはどうかな?」


 シゲが右肩から左手を離した。大きくえぐれた右肩を見て、景は息を飲んだ。


「その肩……!」


 シゲの肩に見えたのは球体関節だった。一部が欠け、複雑に噛み合ったギアが見えている。そして傷口からは灰雪とは違った、半透明のシリコンのようなものがはみ出ていた。


「シゲさんは……剥製じゃなかったんですか?」


「そう。ボクは機械なんだ。元々は人間だけどね。剥製にされて生き返ったわけじゃなくて、まぁわかりやすい言い方をすると、死ぬ前に体を機械に改造して生き延びたのさ。世界にはCOMETっていう、機械を動かすのに十分なエネルギーが満ちあふれていたからね。まさかこんなうまくいくとは思わなかったけど」


 シゲは左手を一度開いてから握った。


「世界に一人で生き残ったボクは、金裾の環境を安定させて朽ちかけた町を元通りに直した。本当はボクの好きなように作り直したかったんだけどね。でもそんなことをしたら地球を捨てた連中と同じになってしまう気がして、できなかった。でも作り変えなくてよかったよ」


 シゲは左手をズボンのポケットに入れた。


「掬くんが目覚めて、次に篝くん。そうやってこの世界の住民が増えていって、この世界は面白くなっていった。ボクの好き勝手に作っていたら、みんながのびのびと生活できなかっただろうからね。結局、ただの利己的でつまらない世界になってたんじゃないかな? だからボクはこの世界を『作る』のではなく、『守る』ことに決めたのさ。ボクが一人で世界を作るのよりも、みんながどんな世界を作っていくのか見ている方が面白かったからね」


 シゲは左手でポケットから何かを取り出し、景に向かって投げた。石ころのように小さなそれを、景は思わず受け止める。


「これは……鍵?」


 それは自転車に使うような、小さくて安っぽい鍵だった。シゲは小さくうなずく。


「それは装置の……景くんにもわかりやすく言うと、電池ケースを開ける鍵さ。結晶はその中に入ってる。どうするかは景くんが決めるといい。一応伝えておくけど、一度結晶を取り出しても二十四時間以内に戻せば大きな影響は出ないはずだ」


「え、でも、シゲさんはアイリネシアを止めて世界を守るんじゃ……?」


 シゲはいつものにやけ顔を横に振った。


「それは無理だよ。機械の体って割と不便でね。景くんたちのように走り回ったりすることすらできないんだ。本当に、童中家の剥製技術には恐れ入るね」


「じゃあ、『それはどうかな?』っていうのは?」


「景くんが謙遜していたからね。ボクは景くんの足元にも及ばないよ」


 シゲは景に背を向け、森に向かって歩き始めた。


「ボク一人じゃ景くんすら止められない。だから景くんを信じることにするよ」


 シゲはそのまま離れていく――ように見えたが、途中で足を止めた。


「そうだ。彼女――アイリネシアっていったっけ? 君はもう死んでいるけど、調査が終わったあとはどうするつもりなのかな?」


「なにをいってるんですかぁ? わたしは今もこうして生きていますよっ!」


 アイリネシアは自分の胸を叩いた。シゲは左手で自分のあごに触れる。


「そうかな? あの宇宙船の着陸方法だと、搭乗者が受ける衝撃は人間が耐えきれるレベルじゃないはずだよ。君のスーツが優秀で骨格が守れたとしても、内部へのダメージはそうはいかない。特に脳だ。確実に死を迎える程度には壊れてしまったはずだよ」


「そんなの……嘘ですっ!」


「嘘じゃないよ。もしボクたちと同じ状態なら、痛みとか温度を感じていないはずだけど、どうかな? ちなみに今の地球は日中の気温が六十度くらいになるんだけど」


「嘘ですっ! 地球がそんなに熱いはずがありません! ね? 景さん?」


 突然に話を振られ、景は狼狽しながら首を傾けた。


「ご、ごめん。僕は知らないんだ。でもアイリネシアは生きてると思うよ」


「そうですよねっ! ほら、聞きましたか! あなたは嘘を言ってます!」


 アイリネシアはシゲを指差した。シゲは小さくため息をついた。


「やれやれ。まぁいいや。ボクは失礼するよ」


 今度こそ離れていくシゲに目を向けながら、アイリネシアは景に近寄った。


「行かせちゃっていいんですかぁ? あんなこと言ってましたし、また邪魔してくるかもしれないですよぉ?」


「いいんじゃないかな。これ以上邪魔するのなら、鍵を渡したりしないはずだから。シゲさんが僕を信じてくれるって言ったんだ。僕は僕の信じるように進むよ」


 景はシロクマの体に近寄った。それは倒れたまま動かなかったが、左腕にはまだオオカミが噛みついている。オオカミの体はズタズタで動かなかった。景はその近くに屈む。


「さっきはありがとう。すぐに掬のところに連れっていってあげるから」


 オオカミがまばたきで答えたのを確認すると、少し離れたところに落ちていた鉄の塊に近寄った。アイリネシアに撃ちぬかれて落ちたシロクマの頭だ。


「君も、きっと機械に操られる前の状態まで直してもらえる。もう少しだけ待ってて」


 完全に機械になっているシロクマの頭は、オオカミのようにリアクションを返すことはなかった。景は振り返り、アイリネシアと目を合わせる。


「行こう。アイリネシア」


「は、はいです」


 景たちは装置に向かって歩き出した。


「思ったより大きいや……」


 遠くから見たときには実感がわかなかったが、装置は見上げるほど高い。空に伸びている幾本ものパイプは煙突のようにも見えたが、先から何かが出ているようには見えなかった。


「なんのためのパイプなんだろう……」


「景さん。今はそんなことよりも結晶を探しましょう」


「ああ、うん。そうだったね。でも探す必要はなさそうだよ」


 景は装置の正面に目を向けた。装置の本体は電信柱二十本分ほどの太さがある柱型で、一部分だけが窓のように透明になっていた。その中にサッカーボールくらいの石球が見える。


 アイリネシアが窓に張り付いた。


「これです! これがCOMETの結晶です!」


「やっぱり。ここだけ透明になってるから変だと思ったんだ」


「これは彗透すいとうガラスですね。COMETに反応して透明度を上げるガラスで、COMETを閉じ込められる唯一の物質です。強度はあまりないので割るのは簡単ですが……」


「せっかく鍵をもらったんだから、ちゃんと開けようよ。鍵穴はどこだろう?」


 ガラス面の近くを探ったが、鍵穴らしきものは見当らなかった。


「あ、これじゃないですかぁ?」


 アイリネシアがしゃがんで何かに触る。それは百円均一の店でも売ってそうな、真鍮の色がむき出しの南京錠だった。


「それを外してもガラスのところとは関係なさそうだけど、とりあえず試してみようか」


 景はシゲから受け取った鍵を南京錠に挿してみると、すんなりと錠前に吸い込まれた。思っていたのよりもかなり弱い力で鍵が回る。だが錠前は外れない。


「あ、開きましたよぉ!」


 景の頭の上でアイリネシアが叫んだ。景が上を見ると装置のガラス部分が手前に開いていた。


「鍵を回すのが開くためのスイッチだったのかな?」


 変な仕組みだと思いながら、景は結晶へと手を伸ばした。結晶はずっしりとした重みがあったが、持ち上げられないほどではない。手に取って間近で見る結晶は、月をそのまま小さくしたように見えた。


「これが結晶……? 水晶みたいなのを想像してたけど、本当にただの石みたいだ。でも、これがあれば翼くんを救えるんだよね?」


 景はアイリネシアがいたはずの右側を見た。が、その姿がない。


「え――」


 首裏に固い感触がすると同時に、視界が高く上がり、大回転した。空気が震える太鼓のような音に気づいたのはその後だった。回転する視界の中で、頭のない体と、四角い銃をそれに向ける青髪の黒ずくめの姿が一瞬だけ見えた。


「なんで……簡単に信用しちゃうんですかぁ?」


 アイリネシアの声が聞こえたと思うと、強い落下感が景を襲った。地面に衝突して落下感は止まり、それとほぼ同時に頭のない体が倒れる。


 目の前に月のような石球――COMETの結晶が転がる。だが景はそれに手を伸ばすこ

とができなかった。まるで手がないように――いや、景に動かせる手はもうなかったのだ。


 黒い足が見え、黒い手が結晶を拾った。


「ア、アイリネシア……? 君が撃ったの?」


「へぇ~」


 黒い手が景の髪をつかみ、拾い上げた。


「頭だけでも喋れるんですねぇ?」


 青髪で紅眼の少女の顔が目の前に来る。目の輝きは薄れ、その表情から感情を読み取ることはできなかった。


「どうして、こんなことを……?」


「わかりませんかぁ? さっきのお兄さんが言ってた通りなんですよぉ。わたしの任務はCOMETの結晶を持ちかえることなんです。箱舟のCOMETは尽きかけていますから、これがないと箱舟の人たちは死んじゃうんです」


 アイリネシアは結晶を頭の横に掲げた。


「そ、そんな……翼くんを助けるんじゃなかったの!?」


「そんなの嘘に決まってるじゃないですかぁ。このへんに住んでる人なら結晶の場所を知ってると思ったから、手伝ってもらおうと思ったんですよぉ」


「じゃあ……僕はだまされて…………?」


 よくよく考えれば、景以外の全員がアイリネシアの味方をするのに反対していた。それなのに景は全て無視して、アイリネシアを信じたのだ。


 その結果がこれだ。COMETの結晶を奪われ、装置が止まった。シゲの話通りなら金裾の環境は荒れる。さらに結晶のない金裾はCOMETが薄くなって、掬たちも翼のように倒れてしまうだろう。


 景のせいで、シゲが守ろうとしていた景たちの世界が滅んでしまうのだ。


「すごく……悲しいや」


 こういうときでも涙が出ないのが、さらに景の心を締め付けた。


「わたしを責めないんですかぁ?」


 全ての元凶はアイリネシアなのだ。だまされた景はアイリネシアを罵倒する権利ぐらいあるだろう。だが景は無力感と自責の念にかられるだけで、アイリネシアを責める言葉など浮んでこなかった。


「アイリネシアは自分の故郷を守ろうとしただけでしょ? 僕にはそれができなかった。ただそれだけだよ」


「本当にお人よしですねぇ! もう知らないです!」


 アイリネシアは景の髪をつかむ右手を大きく振りながら、来た方向へ歩き始めた。景の視界が大きく揺れる。


「う……気持ち悪い。ねぇ、僕は置いていってよ」


「ダメですっ! 景さんは箱舟まで連れていきますっ! 裏切り者のまま地球を出るんです!」


 景の頬に何かが落ちてきた。それは景の頬に貼り付き、下に向かって流れ落ちる。


「これって……」


 景は目だけを動かして、アイリネシアの顔を見ようとした。だがアイリネシアが大きく腕を振っているので、視界が定まらない。景はアイリネシアの顔を見るのをあきらめたが、鼻をすする音が聞こえ、確信した。


「アイリネシア……泣いているの?」


「泣いてないですっ!」


 アイリネシアは先程よりも大きく腕を振って歩き始めた。景は目をつぶって動きすぎる視界を遮り、時折落ちてくる雫だけを感じていた。

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