第8話 世界で一番走る剥製【1/2】
屋敷に着いたのは真夜中だった。月明かりしか光のない屋敷内は暗く、この時間にダイニングに集まることなどほとんどない。だが今日は別だった。
イスの上で人形のようにぐったりしている翼の周りに景と篝、目日田と羽月が立っている。
「確かに翼はたまに寝てるみたいに動かなくなることがあったさ。でもこんなに長く動かないのは初めてなんだ!」
羽月は多少落ち着いてきていたが、まだ本調子というわけにはいかない。
篝が羽月の両肩に手を置いた。
「落ち着きなさいよ。遠出したから、いつもより疲れて長く寝ているだけかもしれないでしょ」
羽月を押すようにして、翼の隣のイスに座らせた。羽月は首を横に振る。
「そんなわけあるかい……わたしたちは剥製なんだ。疲れたりなんてしないだろ」
「それは、そうだけど……」
篝は黙ってしまう。空気が重くなるのを感じて景が口を開いた。
「で、でも! 翼くんが疲れたと勘違いしてしまっただけかもしれませんよ。病は気からというか、そんな感じで。朝になれば本当に起きてくるかもしれません」
「なら! ならどうして声をかけても全く反応しないのさ! これはただ寝てるだけじゃない! わたしにはわかるのさ!」
羽月の声は屋敷中に響いた。それでも翼は全く動かない。羽月はうつむき、景もかける言葉を失った。
「で、ではやはり、車両の近くにいた影がなにか関係あるのだろうか?」
目日田が言葉を絞り出したが、それに応える者はいない。この場にいる景、篝、羽月は影を見てないし、なぜ翼が動かないのかもわからないのだ。
「けい~」
部屋の外からの声だ。景が声の聞こえた方向をみると、漆黒のドレスがダイニングに入ってくるところだった。
「掬? 今までどこに行ってたの?」
景は掬に駆け寄ると、ベールが傾いて髪がはみ出しているのに気付き、ちゃんと隠れるように直した。上に乗っているフクロウがバランスをとるために羽ばたく。
掬は両手を景に向けて突き出した。
「あげる」
手には知らない誰かへの寄せ書きのされたクマのぬいぐるみが抱かれていた。境界で拾ったのと同じ物だ。きちんと膨らんでクマの形を保っていたし、ボタンの左目はきちんと縫い付けられ、なくなっていた右目も蒼いガラス玉が付けられていてオッドアイが作られている。
「あ、ちゃんと持って帰ってたんだ。ありがとう。帰ってきてからこれを直してたの?」
景がぬいぐるみを受け取ると、掬は景が一番好きなはにかみ顔をしながらこくこくとうなずいた。そして景の腕をとる。
「お話、しよ」
「ごめん掬。今はちょっと……」
景は羽月たちの様子をうかがった。すると羽月が立ち上がり、こちらへと歩いてくる。
「ま、待ってください。掬はよくわかってないだけで、悪気があるわけじゃないんです」
羽月が怒っていると思った景は、羽月の前に立った。だが近くで見えた羽月の顔は、出るはずのない涙をこらえているような、目じりに力の入った顔だった。そこから怒りの色は感じ取れない。景は道を譲った。
羽月は掬の両肩に手を置く。
「お願いだよ……掬。翼を直してやっておくれ。どんな剥製だって直せるんだろ? 材料が足りないならわたしの体を使っていい。頼む! あんたしか頼れないんだ!」
掬は顔を傾けた。そして景を一瞬だけ見ると、羽月の手を肩からどかす。
「掬――」
景は自分からも頼もうとしたが、そんなことをせずとも掬は翼のもとへと歩いていった。
掬は翼の首元に触れ、あご下から覗き込んだ。しばらくそうした後、頭側に回り込んで髪をかき分けるようにしながら頭を探った。そして今度は服をめくって体を確認する。
掬が翼から離れた。
「壊れてない」
掬は静かに言い放った。
「そんなはずはないだろ! じゃあなんで動かないのさ! もっとちゃんと調べておくれよ!」
「ちょっと! 掬に当たらないでよ!」
掬につめ寄ろうとした羽月の前に、篝が立ちふさがった。羽月は篝の胸倉をつかむ。
「じゃあどうしろっていうのさ! わたしにはもう、掬しか頼れるものがないんだ!」
「だからって掬に全部の責に――」
尻で何かが動いた気がして、篝は言葉を止めた。自分で触れてみると、後ろポケットに入れていたゲーム機が振動している。
篝はゲーム機を取り出して開いた。ゲーム機の画面には長いひげをたくわえた劇画風の老人が映っている。
「なによネッジイ。いま取り込み中なんだけど」
『わかっておる。話は全部聞いておった』
「じゃあ引っ込んでなさい」
篝はゲーム機を閉じた――が、先ほどよりも強くゲーム機が震えて篝は思わずゲーム機を落とした。ゲーム機が地面で開く。
『年寄りの話は最後まで聞くものじゃぞ』
「なんなのよ。どうせろくな話じゃないんでしょ」
『話を聞けと言っておるじゃろう。ほれ、羽月も手を離すんじゃ。嬢ちゃんを責めても何も始まらんじゃろう』
羽月は言われたとおり手を離し、ゲーム機を拾った。
「じゃああんたに何かできるっていうのかい?」
『ワシにはなにもできん。こんな体じゃしな。じゃが知恵を貸すことはできる。ぬしらには見えぬ情報も、ワシになら感知できるしの』
「じゃあ聞かせてもらうじゃないか」
ネッジイは画面の中で咳払いをした。
『もちろんじゃ。よく聞くのじゃぞ。翼の不調の原因じゃが、おそらくCOMETの乱れが関係しているのじゃろう』
「COMET? 昨日話してた、世界を滅ぼしたっていうあれのことかい?」
『そうじゃ』
「ちょっと待ちなさいよ」
篝がゲーム機をひったくった。
「それってずっと前の話なんでしょ? 今さら、何の関係があるっていうのよ」
『うむ。WEBが起きたのは遥か昔のことじゃが、そのときに充満したCOMETは地上に変わらず残っておるのじゃよ。特にこのあたりのCOMETは安定した状態で留まっておった。じゃが昨晩からCOMETが対流を起こし、乱れ始めたのじゃ』
「昨晩って……あの乗り物が落ちてきてからってこと?」
「貸しな」
羽月はゲーム機を篝から奪い取った。
「じゃあその乗り物とやらを壊せば翼は起きるってことかい」
『それはなんとも言えんの。目日田が見たという影も気になるしの。そちらが原因という可能性も十分にあり得る』
黙り込んでいた景が首をかしげた。
「待ってください。COMETがどうして翼くんに関係あるんですか? 世界を滅ぼした恐ろしいものってだけで、僕らには影響ないですよね?」
『それはじゃな――』
「ボクらはCOMETからエネルギーをもらって活動しているんだよ。何も食べれないボクたちが動き続けられるのはそのためだね」
答えたのは外からの声だった。注目の集まったドアからシゲが姿をあらわす。その腕には長い筒や小さな塊が抱えられていた。それの正体に一番に気づいたのは目日田だ。
「な、なぜそんな物を……」
目日田が震える。シゲは変わらぬにやけ顔で皆の集まるテーブルにそれらを置いた。
「敵らしき相手が出てきたんだ。それなりの準備は必要かと思ってね」
シゲがテーブルに置いたのは銃だった。三つが小さな拳銃だが、一つだけ長物がある。
「大きいのが狩猟用のショットガンで、リボルバーのが警察の使ってた拳銃だよ。二丁あるスライド式のはガスガンだけど、高圧のガスを使えるように改造したから普通の銃とそこまで変わらない威力を出せるはずさ」
シゲは平然と紹介したが、誰も手を伸ばさなかった。
「戦闘になるというのか……もうそんなこと考えたくなかったというのに」
銃を見慣れている目日田ですらそう言って震えるだけだ。困惑を隠せない皆を見回した掬がリボルバーの銃に手を伸ばした。だが銃に触れる寸前で手首をつかまれる。
「ダメよ。こんなもの、掬は持っちゃダメ」
篝だ。篝は掬が取ろうとしていた拳銃を拾うと、グリップ側を景に向けて突き出した。
「え? ぼ、僕が持つの?」
「当然でしょ? 男の子なんだから、戦って掬を守りなさいよ」
そう言いながら、篝はスライド式の拳銃を手に取った。
「あたしだっていざとなれば戦うわ。それでも景は武器を持たないっていうの?」
「わかった。わかったよ。僕も銃を持つ」
景は手を伸ばし、銃を受け取った。景が思っていたよりもそれは重く、武器としての存在感を強く放っている。温度を感じれない景にも、それはとても冷たく思えた。
なんとも言えない不安に周囲を見渡すと、掬と目が合った。
「僕が掬を守るからね」
景はひきつり気味の笑顔を掬に向けた。掬は両手を頬に当てて呆けたような顔をする。篝が銃で景のあごを持ち上げた。
「一つ言っておくけど、掬はあたしの大事な妹だから。景にあげたわけじゃないからね?」
「え? な、なんで怒ってるの?」
「なんでもないわよ」
篝は景から離れるとテーブルに近寄った。
「じゃあこの強そうなのは目日田が持ってて、もう一つの拳銃はシゲね」
「ああ、ボクのぶんは大丈夫。もう持ってるんだ」
シゲはシャツをめくると、リボルバーの拳銃を取り出した。
「じゃあ羽月。これ使う?」
「そう……だね」
羽月は怯えるような目で拳銃を見た。だが一度目を閉じて深呼吸すると、拳銃を手に取った。再度開かれた羽月の目にはもう迷いはない。
「そうさせてもらおうじゃないか。影がいなくなれば翼が起きるかもしれないんだろ? なら影はわたしがぶっ殺してやるよ」
「は、羽月さんが手を汚す必要などない! 自分がやる!」
目日田がショットガンを、震える手で取った。
シゲが拳銃をしまって手を叩く。
「いい心意気だね。これならお屋敷の守りは任せて大丈夫そうかな」
「あれ? シゲさんはお屋敷を守らないんですか?」
「ボクは境界まで行って、乗り物を調べてくるよ」
「一人でですか? 危ないですよ。僕がついていきましょうか?」
景が申し出ると、後ろから篝が頭をはたいた。
「掬を守るってさっき言ったのはどこの口よ! どっかに行ったら掬を守れないでしょ!」
「あ、そうだった。じゃあ掬も一緒に境界に行くとか?」
景が掬を見ると、掬はこくこくとうなずいた。が――間に篝が入ってくる。
「ダメよ! 危険があるとわかった以上、掬を外に出すわけにはいかないわ」
「そっか。そうだよね。すみませんシゲさん。僕は行けないです」
「いいよ。ボクはもともと一人で行くつもりだったから。大丈夫。影に目的があるなら、すぐに乗り物のところに戻ってくることはないさ」
シゲは景の肩を叩いて、テーブルから離れていった。
※ ※ ※
二階の廊下の窓から朝日が差してきた。景は太陽を見上げた。
「結局、朝になるまで何も起きなかったね」
「考えてみれば当然よね。境界から歩いてここに来るなら、夜のうちに着くなんて無理だもの」
篝が景の左に並んだ。その間に掬が体をねじ込んで、一緒に太陽に目を向ける。
「明るい……」
「そうね。これ見ると時間経ったって感じがするわ」
掬がこくこくとうなずく。頭に乗ったフクロウがバランスをとるために羽を広げた。篝は顔を傾けてそれをよける。
「疲れないにしても、同じ屋敷のなかを見回り続けるのって結構堪えるわね。一度、羽月たちのところに戻らない? いつも朝食とかいって集まってるわけだし」
「いいけど、その前にちょっといい? いまさら思ったんだけど、どうして翼くんだけが動かなくなったのかな? COMETの乱れが原因でエネルギーが足りなくなったんなら、僕たちにも影響出てもおかしくないのに」
「翼は体が小さいから、エネルギーを溜めにくかったりするんじゃない?」
「違う……」
掬が首を横に振った。
「翼は弱かったから……」
掬の言葉に、二人は頭をかしげた。
「翼くんは子供だから、他の人に比べてたら弱いかもしれないけど……」
掬は景を見上げ、首を横に振った。
「え? 違うの?」
掬はうなずいた。
「翼は弱かったから選ばれなかった」
「えっと……掬? なんの――」
耳障りな固く高い音が聞こえた気がして、景は言葉を止めた。
「ねぇ篝。今……」
「ええ。すごく小さな音だったけど、何かが割れたわね。結構近くみたいだったけど、一階かしら?」
「僕も一階だと思う。行ってみよう」
景がロビーの階段に向かおうとすると、篝が景の手をつかんだ。
「待って。近くに階段室があるわ」
篝は逆側へ景を連れていき、手前から二つ目のドアを開く。中にはらせん状の階段があり、一階へと伸びていた。
そのまま階段を降り、篝がドアノブに手をかける。
「待って篝」
今度は景が控えめな声で篝を止めた。
「なによ。見に行くんじゃなかったの?」
篝も景にならって声を抑える。景は小さくうなずいた。
「うん。見てくるけど、僕が一人で行くよ。危ないかもしれないから」
「ならなおさら一人で行くべきじゃないわ。一人じゃ何かあったときに何もできないでしょ」
「助けを呼ぶくらいはできるよ。何かあったら叫ぶから、そうしたら助けに来て。みんなで行くのよりか、そっちの方が安全だと思うんだ。僕になにかあっても、掬がいれば直してもらえるし」
景はクマのぬいぐるみを左腕に抱き、掬の頭をフクロウに触れないよう右からなでた。だがフクロウはそんな景の手をつつく。
「めっ!」
掬は頭の上に手を伸ばし、フクロウをつかんで頭を上げさせる。篝はドアノブから手を離し、ドアの前に立った。
「掬に直してもらえるって考え方は少し危ないと思うんだけど」
「もともと篝が言ってたことだと思うんだけど」
「確かに似たようなこと言ったことあるけど、だから危ない目にあってもいいってわけじゃないでしょ」
「わかってるよ。でも、掬を一番に守らないといけないのは間違いないよね?」
「そうだけど……もう! わかったわよ。じゃあ景が様子を見てきて。何かあったらすぐにあたしを呼ぶのよ?」
篝がドアから離れた。
「うん。もちろんだよ」
景は右ポケットに拳銃をあるのを確認して、ドアを開いた。廊下に出て、左右を見渡す。何も変わった部分はない。
景は廊下を右に進んだ。すると窓のある廊下へと出た。窓からは裏の森が見える。さっき景たちがいた場所の真下に位置する場所だ。
(ここも異常は……あれ?)
廊下の床で何か光った気がした。近寄って確かめてみると、それはガラスだった。
(もしかして)
顔を上げて窓をよく見ると、鍵の近くに手のひら程度の穴が開いていた。
(誰かが入ってきた……? でもそれなら窓は開けっぱなしになってそうだけど)
窓を開けて近くを見渡してみたが、他に何かを見つけることはできない。
(いない……けど、何もないのにガラスが割れるわけ――)
突然何かが口をふさぎ、景の思考を奪った。
景は反射的に右手をポケットに伸ばす。だが右手首をつかまれ、拳銃には届かない。
(こ、これじゃあ何もできない……!)
左に抱くぬいぐるみを捨てるという判断が景には下せなかった。体をひねって逃れようとしたが、後ろにバランスが崩れて体がうまく動かない。景の体が後ろに引きずられ始めたのだ。窓がどんどん離れていく。
(せめて……せめて掬たちに何か伝えないと)
景は左腕に抱いているぬいぐるみにやっと気づいた。それをとっさに窓に向けて投げる。ぬいぐるみが窓にぶつかるのと同時に、景の体は右を向かされた。どこかの部屋に入ったようで、ドラム式の洗濯機と白い壁が見える。視界の外で静かにドアが閉まったのがわかった。
景は体を半回転させられ、壁へと背中を押し付けられる。視界に入ったのは真っ黒なガスマスクのような顔だった。
(これが目日田さんの言っていた……)
景は震えた。具体的な危険が想像できないのに、オオカミの頭を見たときよりもずっと怖い。
(でも……怯えてるだけじゃ、ダメだ)
口はふさがれたままだから声は出せない。右手も抑えられたままだ。
(でも左手なら……)
空いた左手を右ポケットへと伸ばした。
「ま、待ってください」
少女のような、細く柔らかい声がした。景は思わず手を止めた。
(え……? どこから? まさか――)
「わたしは敵ではありません。その……もし迷惑でなければ、あなたたちを助けたいです」
間違いない。黒いガスマスクからの声だ。景はどうしていいのかわからず、両手の力を抜いた。ガスマスクは景が抵抗をやめたと思ったのか、手を離す。
「す、すいません……乱暴してしまって」
ガスマスクは何度も頭を下げた。
「え? いや、そんな。えっと、人間……なのかな?」
景もつい申し訳ない気持ちになりながら、顔を覗き込んだ。ガスマスクは黒い手で自分の頭に触れた。
「はぅ! ごめんなさい。脱ぐの忘れてました」
ガスマスクはあご下からカードのようなものを引き抜いた。すると炭酸のペットボトルを開けたときのような、空気が抜ける音がする。黒い両手がガスマスクを持ち上げた。
「んっしょっと……」
ガスマスクが外れ、その下から出てきたのは少女の顔だった。
「え……君は!」
肩程度の長さのプラスチックのような青髪と赤眼。景はその少女に見覚えがあった。
「掬のところにいたメイドさん!」
「め、メイドサン? ご、ごめんなさい。あなたのお知り合いとは違うようで……。わたしはアイリネシア。えっと……連合植民船・和名『箱舟』から調査に来ました」
青髪少女――アイリネシアは緊張した面持ちで名乗った。景は童中邸にいたメイドの名前を知らなかったので、名前を聞いても他人なのかどうかはわからない。
(でも、違うって言ってるし違うのかな? 似てる気がするけど、雰囲気は違った気がするし)
前に見たメイドは活動的な印象があった。しかしアイリネシアはおどおどしていて自身なさげだ。アイリネシアが身に着けているのはスパイ映画にでも出てきそうな黒いボディスーツであるのにも関わらず、メイド少女の方が強そうに思える。
景の視線は自然とアイリネシアの胸元へと移った。だがボディスーツの胸元はちょっとした装甲でおおわれていて、ボディラインをそのまま拝むことはできない。
「どうかしましたか?」
アイリネシアが少し屈んで、景の顔を覗き込んだ。
「い、いや。何でもないよ」
景は首を横に振りながら後ろに下がろうとした。だが壁に背中を押しあてるだけで終わる。
アイリネシアが顔をしかめるのと同時に、景たちの入ってきたドアの方から足音がした。
「このぬいぐるみ……さっき掬が景にあげたやつじゃない!」
篝の声だった。景が戻ってこないので探しに来たのだろう。
「かが――」
景が呼ぼうとすると、口が塞がれた。アイリネシアが両手で景の口を押さえている。アイリネシアは顔を近づけて、声を抑えた。
「ご、ごめんなさい。その、たくさん人がいると緊張してしまうので、できれば一人ずつお話したいんです。一回、反対側のドアから逃げて――」
「景! どこ!?」
篝の声が聞こえていた方のドアが開いた。篝が部屋に入ってくる。もちろん景とアイリネシアをすぐに見つけ、篝は拳銃を向けた。
「あんた! 景から離れな……さ……」
アイリネシアが顔を向けると、篝の声は小さくなっていった。目を大きく見開いている。その後ろから掬が顔をのぞかせた。
「ネス……」
掬がそう呟いたのを聞き、篝は手をおろした。
「クリアイネス。あんたも動いてたの……?」
「はわ……ご、ごめんなさい。わたしはアイリネシアっていいます。そのっ、あのっ、人違い……ではないでしょうか。ごめんなさい!」
アイリネシアは何度も頭を下げた。
「え? ちょっとなんなのよ。わかったから頭上げなさいって」
篝もアイリネシアの腰の低さには困惑の色を隠せない。だがアイリネシアが篝の知るメイド少女――クリアイネスではないと確信した。クリアイネスはもっと落ち着きがあったのだ。
とりあえず危険な様子はなかったが、そう思うと同時に篝の中に怒りが込み上げてきた。
「えっと、アイリ……ネシアだっけ? 景とくっついて何を……いえ、やっぱり景に聞くわ。その女とくっついて何をしてたの?」
「え……? 少し話をしていただけだけど」
篝が拳銃を景に向けた。
「ずいぶんと近くで話をするのね?」
「ま、待ってよ! なんで篝が怒って――」
「めっ!」
掬が篝の手を叩いた。同時に篝たちとは反対側のドアが叩き割るような勢いで開かれる。
「何事だい!?」
部屋に飛び込んできたのは羽月だった。
「ま、また人が増えたぁ……」
アイリネシアは涙目で羽月を見た。羽月はアイリネシアの顔ではなく、体を見ていた。
「黒ずくめ……あんたが『影』だね!」
羽月は拳銃をアイリネシアにむけると、躊躇なく引き金をひいた。
「ひゃあ!」
アイリネシアは頭を抱えてしゃがんだ。だが避けるまでもなく、弾は大きくそれて後ろの壁に当たった。
「避けるんじゃないよ!」
羽月は続けざまに銃を連射した。だが照準のつけかたを知らない羽月の放つ弾は壁を傷つけるばかりだ。制御しきれない弾は掬と篝の近くにも襲い掛かる。
「バカ! 適当に撃つんじゃないわよ!」
篝は掬に頭を低くさせ、部屋を出て壁に隠れた。
羽月はそのことにも気づかないほど、夢中で銃声を鳴らし続ける。だがそれも長くは続かない。拳銃のシリンダーが下がったままになり、羽月の操作に答えなくなった。
「くそ! くそ! どうしたっていうんだい!」
それでも羽月は引き金をひき続ける。そんな羽月の肩に震える手が置かれた。
「さ、下がるのだ! 羽月さん!」
目日田だ。だが羽月はどかなかった。
「止めるじゃないよ目日田! こいつを仕留めないと翼が!」
「わかっている! だが銃の扱いになれていない羽月さんより、自分のほうが適任だろう!」
「そ、そうかもしれないけど……!」
初めて目日田に強く出られて、羽月は少しだけ冷静になった。
「わかったよ! やっちまいな目日田!」
羽月は下がると目日田の背中を叩いて前に押し出した。
「う、うむ! 影よ! 観念するのだ!」
目日田はショットガンの銃口をアイリネシアに向けた。少し震えているが、羽月のときよりも確実にアイリネシアをとらえていた。
「お、終わったぁ……?」
アイリネシアが顔を上げる。引き金にかけていた目日田の指が止まった。
「メ、メリクシアではないか……!」
「うぅ……、また間違えられましたぁ」
アイリネシアは声の方向を見て、自分に向けられている銃口に気づいた。
「ほぇ! パワーアップですか! 終わりじゃなくてパワーアップですか!」
アイリネシアは泣き叫びながら両手を上げた。むけられた銃口は震えるだけで、なかなか火を噴かない。
「なにをやってるんだい! さっさと撃っちまいな!」
羽月がしびれを切らして声を荒げた。だが目日田は動かない。
「し、しかし……相手は少女ではないか!」
「そんなの知ったことかい! 貸しな! わたしがやるよ!」
羽月は目日田を押しのけ、ショットガンを奪った。
「待ってください!」
景がアイリネシアと羽月の間に立った。羽月は構わず銃口を向ける。
「どきな! まとめてぶっとばすよ!」
「どきません! 落ち着いてください!」
「わたしは落ち着いてるよ! 翼を助けるためにそいつを殺さないといけないんだ!」
「それはまだわからないじゃないですか!」
「わからないからやるんだよ! わたしは翼を助けるためなら、なんだって試す――」
羽月の腕に衝撃が走り、ショットガンがはじけ飛んだ。壁まで飛んだショットガンに目を向けると、鉄の棒が突き刺さっている。
景をかばうように、羽月の前に掬が降り立った。
「めっ!」
掬の頭の上にフクロウが乗る。羽月は掬をにらみつけた。
「邪魔するんじゃないよ!」
羽月は今にも掬につかみかかりそうだったが、そうはしなかった。
(今だ……!)
景はアイリネシアの腕をとって、篝のいるドアへと走り出した。
「待ちな!」
羽月の叫び声を景は無視した。
「はわ……! いきなりどうしたんですかぁ!?」
アイリネシアは慌てふためいていたが、構わず引っ張る。正面のドアの前には篝がいた。
「け、景? ちょ……!」
篝が後ろにまっすぐ下がる。篝が背中を窓にぶつけるのと、景が廊下に出るのは同時だった。景は廊下を右に曲がり、窓を左に見ながらまっすぐと走る。
「あ、あの……! どうするんですかぁ!」
手を引かれ、転びそうになりながら走るアイリネシアが聞いた。景は先を見ながら答える。
「逃げるんだ! 今は危ないから、後で僕がみんなを説得する!」
景は窓が途切れる場所を見つけた。
「あった……! 裏の森への出口!」
景が篝に蹴り出されたことのあるドアだ。
景はそのドアから外に出た。広場があり、その先に森が広がっている。
「森の中に逃げるんだ!」
「誰かが追いかけてきてますよぅ!」
アイリネシアに言われ、景は振り向いた。窓から廊下を駆け抜ける黒いドレスと、それを追う白いフクロウの姿が見える。
「掬だ。あの子なら大丈夫。ちょっと先に行ってて」
「は、はいっ!」
景が手を離すと、アイリネシアは森へ向かって走り出した。だが途中で立ち止まり振り返る。
「名前を! あなたの名前を教えてください!」
「僕は景! 早く行って!」
「はいっ! 景さんも気をつけてください!」
アイリネシアは森の中へと駆けこんだ。それを見送った景は振り向き、自分が出てきたドアと向き合う。
掬が姿を表す。掬は景を見つけると一度立ち止まり、歩いて近寄ってきた。掬の頭にフクロウがおりる。
景は掬に駆け寄った。
「掬。羽月さんを説得したいんだ。手伝っ――」
掬が景の胸に飛び込んできた。その途端に景の口が動かなくなる。
(あれ……どうしたんだろう?)
比喩でもなんでもない。本当に口が動かなかった。体にも力が入らない。膝が曲がり、体が落ちていく。
掬が景の体を抱きとめた。景は体を冷たい何かが貫いているのに気づく。
(温度なんて、わからないはずなのに……)
景の背中から鉄の棒――剥製を飾るためのピンが飛び出している。掬は景にピンを刺したまま、背中におぶって屋敷へと歩き始めた。小柄な掬が背負っているせいで、景の靴はつま先を地面に削られている。
(ダメだ……全然力が入らない。自分の体じゃなくなっちゃったみたいだ)
景は抵抗しようとした。だが、それを表情に出すことすらできない。
屋敷に入っても掬は景を降ろさず、来たのとは逆方向に廊下を進んだ。そして先ほどとは別の階段室に入り、二階へと上がった。また廊下を進み、ある部屋に入る。全てが純白のその部屋に、景は見覚えがあった。
(掬の部屋……? 掬はいったい何をするつもりなんだろう?)
掬はベッドまで景を引きずっていき、ベッドの上に仰向けに投げた。ピンがベッドに突き刺さり、景を固定する。掬もベッドに乗り、景におおいかぶさるように寝ころんだ。
(えぇ! 掬ちょっと……!)
生身の体だったら顔を真っ赤にしていただろう。だがそんな状態でも景は声ひとつ上げることができない。掬は匂いでもつけるかのように、体を景にこすりつけた。景の体が動いたら、抱きしめていただろう。
(やっぱり掬はかわいいなあ。でも、いきなりどうしたんだろう? 今まで僕にピンを刺したことなんてなかったのに)
景は自分に刺さっているピンの冷たさを思い出した。たった一本で景の自由を完全に奪っているのだ。今の景たちにとって、これほど恐ろしいものはない。
(ショットガンなんかよりも全然怖いんだ。これを持ってるのが掬じゃなかったらと思うと、ゾッとするよ)
掬が体をこすりつけるのをやめ、顔を見せた。その頬は膨らんでいる。
(あれ? 怒ってる?)
ただならぬ気配を感じたのか、掬の頭の上で移動を繰り返していたフクロウが飛び立つ。
(あれ……もしかして、僕はずっとこのまま?)
掬はきっと、景に怒りを覚えてピンを刺したのだろう。だが掬がなぜ怒っているのかわからないし、わかったところで景には何か言うこともできない。掬が自分で気を変えない限り、景が解放されることはないのだ。掬が飽きてしまえばこのまま景を放置してしまうかもしれないし、動かない景に愛想を尽かして他の剥製を直すための材料として、景をバラしてしまうかもしれない。そう考えると、一気に背筋が冷たくなった。その冷たさはピンの冷たさに似ている。
掬が景の頬を両手でつねった。
「めっ!」
(怒るだけじゃ何もわからないよ……。せめてピンを抜いてから怒ってくれないかな。謝ることもできないなんて。くそ……!)
景はどうにかして体を動かそうと、あらゆる場所に力を入れようとした。だが指先ひとつ動かない。
掬が空気を吐き出し、はにかみ顔に変わった。
「景……」
掬の顔が近寄ってくる。
(ちょ、掬? まさかキス……!?)
景は思わず目を閉じそうになった。もちろんまぶたもまったく動かすことができない。掬の顔はもう目の前まで来ている。
「こら」
掬の顔が一瞬にして離れた。体も景から離れ、景の視界から掬の姿が完全に消える。
「まったく、だらしないわね」
かわりに篝がベッドの横で見下ろしていた。篝は両手でピンをつかみ、一気に引き抜く。
「――ぷは」
景は水から顔を出したような感覚を得た。思わずピンが刺さっていた腹に両手を当てる。そして体が動いているのに気づき、体を起こした。
篝のすぐ後ろで掬が倒れているのが見える。篝が間に入ってそれを隠した。
「ちょっと! 掬ばっか見てんじゃないわよ! 余計なことするなとか言うんじゃないでしょうね?」
「え? いや、ごめん。助かったよ篝。いきなり掬がおかしくなっちゃって困ってたんだ」
「は? なに言ってんのよ。掬はおかしくなんてなってないわよ」
篝は後ろを振り向いて掬を見た。掬は床に寝っ転がったまま頬を膨らませていた。
「掬も拗ねてるんじゃないわよ。ピンを景に使っちゃダメって言ったでしょ?」
篝は掬の手をつかんで立たせた。掬は立ち上がっても頬を膨らませたままだ。
「めっ! テスは、めっ!」
景が知りたかった掬が怒っている理由……のようだが、景には理解できなかった。
「え? どういうこと?」
景は篝に目をむけ、助けを求めた。篝はため息をつく。
「あんたが別の女といちゃついてたから怒ってるのよ。テスはうちにいたメイドのこと。さっきの、アイリネシアだっけ? あれによく似てるのよ」
「い、いちゃついてなんか……!」
景はベッドから降り、掬に近寄った。
「僕は掬一筋だよ! 何があったって掬を――」
景の頬が篝によってつねり上げられた。
「なにあたしの前で告ろうとしてんのよ! 掬はあげないって言ってるでしょ!」
「めっ! めっ!」
掬が篝の手をつかんで景から外そうとする。篝は手を離して掬の両頬をつまんだ。
「『めっ!』じゃないのよ。あんたのためにやってるんだから」
「めっ!」
掬も負けずと篝に手を伸ばす。しかし篝がめいいっぱい手を伸ばすと、小柄な掬の手は篝の顔まで届かない。
景はそれを見て、思わず吹き出した。
「あはは。二人は本当に仲がいいんだね」
「笑ってる場合じゃないでしょ」
篝は掬から手を離し、景と向き合った。
「これからどうするつもりなの? あんたがアイリネシアを逃がしたから、羽月はかんかんよ。すぐにアイリネシファ――」
掬が篝の両頬をつまんだ。
「…………」
篝の口元がけいれんし始める。
「いま大事な話をしてるのわからないわけ!」
篝は掬の頬をつねりながら掬を押し倒した。掬は篝から手を離さない。お互いの頬をつねりあうという、地味な取っ組み合いが繰り広げられる。二人とも痛みを感じていないはずなので、ひたすら不毛だ。
「僕は……」
だが景に考える時間を与えるのにはちょうどよかった。
「僕は羽月さんを説得してくるよ。僕はアイリネシアを助けたい」
景がするべきこと。それを思い出した。そのために景はアイリネシアを逃がし、屋敷に戻ったのだ。
それを聞いた篝は掬を突き飛ばすようにして離れ、景へと詰め寄った。
「どうしてあの得体のしれない女にこだわるのよ! もしかしたら本当にあの女が原因で翼が倒れたかもしれないのよ? まさか、何かされたんじゃないでしょうね!」
「何もされてないよ! 彼女は名乗ったし、連合植民船……だっけ? そこから、調査に来たって言ってた。得体のしれない人じゃないよ」
「どうだか。もしそれが本当だったとしても、翼のことと無関係だとは言い切れないじゃない」
「それは、そうかもしれないけど……アイリネシアを殺していい理由にはならないよ。彼女は僕たちと違って、ちゃんと生きてるんだから」
「それよそれ! 人はCOMETのせいで滅びたはずでしょ? なんであの女はCOMETが充満してるこの場所で普通に活動してるのよ! それって人間じゃないってことじゃないの?」
「そんなの……わからないよ。でも人間かも――」
篝が景の両肩をつかんだ。
「もしあの女が人間だったら……あの女を助けるためにあたしたちを見捨てないといけなくなったら……剥製の化け物のあたしたちを見捨てて、人間のあの女を助けるの?」
「な、なんだよそれ……」
揺れる景の目とは対照的に、篝の目はぶれることなく景に訴えかけてくる。景は怒られているとばかり思っていたが、篝の目はどこか悲しそうだった。流れないはずの涙が見えた気がして、景は思わず目をそらす。その先で掬が窓を見上げていた。
「ちょっと! 聞いてるの!」
篝が景の体を揺らす。だが景はそれに答えず、窓に目をむけていた。窓は白いカーテンが閉められていたが、影が透けて見えていたのだ。それはどんどん大きくなっていく。
「なにか来る……?」
「え……?」
篝は景の視線を追う。篝が影に気付いた瞬間、窓が割れた。
「てぃやぁぁぁぁぁ」
柔らかい声色の掛け声とともに、影が部屋に飛び込んできた。影はまっすぐ景と篝にむかって飛んでくる。
景は影の青髪に気づいた。
「ア、アイリネシア!?」
「ちょ――」
篝にアイリネシアが直撃し、壁まで吹き飛んだ。
「ご、ごめんなさぁい……!」
アイリネシアは少しだけ浮き上がると一瞬だけ空中で止まり、戻ってきた。どうやらワイヤーのようなもので体を吊って、振り子の要領で飛び込んできたようだ。
「今度はわたしが助けます!」
篝に突っ込んだのと同じ勢いでアイリネシアが迫ってくる。景は身の危険を感じたが、一歩も動くことはできなかった。
「わっ――」
アイリネシアが景に激突した。景は強い衝撃と体が浮く感覚に襲われる。だが落下感は訪れなかった。
「ごめんなさい。痛かったですか? でももう大丈夫です!」
景の体は窓の外に浮かび上がった。アイリネシアが両腕で景を抱えたのだ。だがこのままでは振り子のように部屋に戻ってしまう。
「少しつかまっててください」
アイリネシアは左手を景から離すと、腰から小さな輪っかをとった。それが緑色に光り始めると同時に、景は体が放り出されるような感覚を覚える。だがアイリネシアが景を落としてしまったわけではない。
「ワイヤーが切れ……! 落ち――」
パニック寸前になっている景とは対照的に、アイリネシアは落ち着いた様子で輪っかを森の大きめな木に向かって投げた。輪っかが木に当たると、その部分とアイリネシアの腰が緑色の光でつながる。光はゆるんだ紐のように曲がりくねっていたが、すぐにピンと張り、アイリネシアの体を引いた。
「わぁぁぁぁぁ!」
景だけが絶叫を上げる。二人の体は森の中へと入っていった。だがすぐには止まらない。速さと視界を覆う草木のせいで、景には何が起きているのかわからなった。
体が強く引っ張られるのを感じ、景は止まったということだけを理解する。だが体のどこかが地面に着くことはなかった。いつもよりもはるか遠くに地面が見える。
「あの……すぐに下ろしますから」
後ろから柔らかい声がした。アイリネシアが両腕で景を抱えている。そのアイリネシアは腰から伸びたワイヤーで木にぶら下がっていた。
アイリネシアが息を吐くと、ワイヤーが伸びて景たちを地面までゆっくりと運んだ。
景は地面に足をついてアイリネシアの腕から解放されると、よろめいて尻餅をついた。
「あーびっくりした。アイリネシアはすごいね。ワイヤー一本で空を飛びまわったり、簡単に僕を抱えたりするんだもん」
「ご、ごめんなさい。突然で驚かせてしまって……。わたしは調査のために訓練してきましたけど、そうじゃないと怖いですよね」
アイリネシアは腰からワイヤーをはずし、地面に降り立った。景も立ち上がり、アイリネシアと向き合う。景の目線と同じくらいの高さにあるアイリネシアの左頬に、赤い筋がT字に走っていた。
「ケガしてるよ!」
景は傷を指差した。
「え!?」
アイリネシアはそこに左手で触れた。指先がわずかに血で汚れる。
「き、気づきませんでしたぁ……」
アイリネシアは血を見てわずかに瞳孔を開く。景はポケットを探った。
「絆創膏でもあればよかったんだけど、ごめん。持ってないや」
「気にしないでください。痛みはありませんし、少しの傷なら草で止血できると習いました」
アイリネシアは折れて足元に落ちていた枝を拾った。生い茂っている葉の一枚に触れる。
「あれぇ? わたしが知ってる草とはずいぶんと違いますね」
「そうなの?」
「はい。形は似ていますけど、素材……といっていいんですかねぇ? 違うものでできているような気がします」
景はアイリネシアに一歩近づいて、枝についている葉に触れた。葉は不自然なほど柔らかい。とても薄いのだ。それでいて、指先でひねった程度ではちぎれないほど丈夫だった。
「これ、造り物だ。布でできてる」
景はアイリネシアから離れ、近くにあった身の丈ほどの低木についている葉に触れた。
「これも……」
景はまた移動し、腰くらいの低木に触れた。
「これもそうだ。もしかして、この森全部?」
「あ、あのぉ……」
アイリネシアが後ろに近寄っていた。
「あ、ごめん。ここにある木は全部偽物みたいだ。WEBのときに生き物が全部滅びたって言ってたから、そのときに本物はやられちゃったのかな。あまり気にしてなかったけど、木も生き物だもんね」
「ほぇ? でもここはあなたたちが生きてるじゃないですか? ここはCOMETの毒が弱かったんですよね?」
「えっと……そうなのかな? アイリネシアのいる場所は木が無事だったの?」
アイリネシアは手を口に当て、大きく目を見開いた。
「あぁ! そうでした。あなたたちからすれば、わたしが無事なのが不思議なんですよね。いますぐ説明を……といっても、ずっと昔の話なのでわたしも習っただけなのですが」
アイリネシアはわざとらしく咳払いする。
「『宇宙からの謎の飛来物が原因でWEBという悲劇が起きた。COMETと名付けられたエネルギー体が原因だと判明したが、人類は克服することができなかった。そこで人類はCOMETの届かない宇宙へ逃げることにした。そのとき撃ち上げられたのが連合植民船・和名「箱舟」である』と……どうですか? 言えるようになるまでたくさん練習したんですよ?」
アイリネシア得意げに笑った。景もつられて笑う。
「すごいね。じゃあアイリネシアは宇宙から来た……その、普通の人間ってこと?」
「はい。地球の人間は滅んだって習いましたけど、景さんが生きてました」
アイリネシアは景の手を両手で握った。
「これはすごいことですよ。船の人が知ったら喜びます。地球に住める場所があるってだけで奇跡なんです」
喜ぶアイリネシアに、景は心が痛くなった。
「ごめん。僕は人間じゃない……っていうと語弊があるけど、普通の人間じゃないんだ」
「ほぇ?」
アイリネシアが一瞬だけ固まった。だがすぐに笑顔に戻り、景の手を強く握る。
「なにを言ってるんですかぁ。景さんは人間ですよぉ。これは人間の手です」
「そうなんだけど……ちょっと待ってね」
景は手を離してもらうと、自分のシャツをめくって腹を出した。そしてピンを刺されて空いた穴を広げる。
「わっ! 何をするんですか!」
アイリネシアは両手で目を覆った。
「大丈夫。そんなに気持ち悪いものじゃないよ」
景にそう言われ、アイリネシアは恐る恐る景の傷を覗き込む。そこから見えていたのは、繊維状の綿のようなものだった。
「僕は剥製なんだ。僕だけじゃない。金裾の生き物は全部、剥製が何かの――たぶんCOMETの影響で動いてる。生きてる人間なんて一人もいないんだ」
「えぇ……えぇ?」
アイリネシアは景の傷を二度見した。さらに顔を近づけて見る。
「本物……ですかぁ?」
「もちろん」
「痛くないんですかぁ?」
「痛くないよ。剥製だからね」
「指、入れてもいいですかぁ?」
「え……? まぁ、いいけど」
景が躊躇しながらうなずくと、アイリネシアは右の人差し指を景の傷へと伸ばした。わずかにはみ出していた灰雪を押し込みながら、アイリネシアの指が景の傷へと飲み込まれていく。
「なんだかくすぐったいや」
景がはにかむのも気にせず、アイリネシアは指を押し込み続ける。そしてついに指は根本まで景の体に入った。
「おぉ……中に景さんの体がないです。ということは……」
アイリネシアは指を引き抜き、景から一歩、距離をとった。
「ほ、本当に剥製なんですか!?」
「うん。信じてもらえた?」
アイリネシアはカクカクと、機械のようにうなずいた。
「だ、大丈夫デス。ソレハソレハ不思議ナコトガ」
「大丈夫じゃないよね!? 落ち着いて! 剥製だけど、基本的に人間と変わらないから」
景はアイリネシアの手を握った。
「ほら、人間の手。これは変わらないでしょ?」
「あ、本当です。人間です」
アイリネシアは深く息を吐いた。
「びっくりしました。そうですね。剥製でも景さんは人間の形をしてますし、人間ですよね」
「えっと、うんまぁ、そんな感じ。ところで、アイリネシアはCOMETで満ちてる金裾に来ても大丈夫なの? COMETのせいで地球に残った人はみんな死んじゃったんだよね?」
アイリネシアはあごに手を当て、頭を傾けた。
「このあたりの毒が弱いんですよねぇ? 大丈夫なんじゃないですかぁ?」
「僕が生きてるのは毒が弱かったからじゃないんだけど……」
「そうでした! でも船内調査によると、金裾のCOMET濃度は五〇〇を超えています。スーツとマスク無しでは濃度一〇〇で即死するらしいので、普通ならマスクをはずしたわたしは死んでしまってるはずですよ?」
「え!? そんな危ないのにマスクをはずしたの!?」
「えぇ、まぁ……景さんたちがマスクしてませんでしたし?」
アイリネシアは眉をひそめた。景の言葉に疑問を感じているようだ。
(死ぬかもしれないって思わなかったのかな……。無事だったからよかったけど)
またアイリネシアが取り乱してしまうかもしれないので、景は言葉にしなかった。
アイリネシアは何かを振り払うかのように、首を大きく横に振った。
「そうでした。そんなことはどうでもいいんです。これからどうしますか?」
「ああ、えっと、助けてもらったのに申し訳ないんだけど、僕は屋敷に戻って羽月さんを説得するよ。さっきは掬に捕まっちゃって、羽月さんに会うことすらできなかったし」
「羽月さんって、さっきのお姉さんですかぁ? やめたほうがいいですよぉ。殺されちゃいますよぉ」
「大丈夫だよ。羽月さんは本当はいい人なんだ」
アイリネシアは腰に手を当て、眉を吊り上げた。
「じゃあどうしてあんなに怖くなっちゃったんですかっ?」
「実は羽月さんの子供が倒れちゃって、その原因がわからないから気が立ってるんだ。全部を疑ってかかってるから、アイリネシアの命も狙ってる」
「迷惑な話ですっ!」
アイリネシアはぶーぶーと空気を吐き出した。羽月のことが相当気に入らなかったらしい。
「でも説得しないと、アイリネシアが乗ってきた乗り物も壊されちゃうかもしれないよ」
「もうあの乗り物は使わないからいいですけど……ずっと命を狙われ続けるのは迷惑ですっ!」
「だから僕が説得して――」
アイリネシアは顔の前で大きなばってんを作り、景の言葉を遮った。
「それは危ないからダメですっ! お姉さんの子供さんが倒れた原因がわかれば、お姉さんは元に戻るんですよね?」
「うん、まぁ、たぶん」
「じゃあわたしたちで原因を突き止めましょう! そうすればわたしが悪くないってわかってくれるはずですっ!」
「そうかもしれないけど、そんなの無理だよ。何もわからないんだから」
「そんなことはないです! さっき景さんは言ってました。COMETの影響で景さんたちが動いてるって」
「うん、確かに言ったけど……」
「じゃあCOMETの結晶を見つけてきましょう! きっと関係があります!」
「結晶?」
「はい! 地球にCOMETを運んできた隕石のことです。大量のCOMETを放出し続けるその石があれば、きっと助けられます! この辺に存在するのはわかってるので、探せばきっと見つかりますよっ!」
「そうか。エネルギー不足かもしれないって篝が言ってたから、本当にそれで治るかもしれない。隕石は裏の森に落ちたって言ってたから……」
景は屋敷とは反対側に目を向けた。よく茂った森には太陽の光は十分に届いていないのか、先は薄暗い。
「この奥にあるはずだ」
「行きましょう! 景さん!」
アイリネシアは景の手をつかみ、薄暗い中へ走り出した。
「待って! この森には猛獣の剥製が……!」
景が何を言っても、アイリネシアは止まりそうになかった。
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