第7話 世界で一番怖い境目

 前の車体は完全に線路から落ち、むき出しの地面の上にあった。後ろの車体もそれに引かれて傾いていたが、なんとか線路に乗っている。


 シゲが屈んで車体の下を覗き込んでいた。


「ひどい状態ですね」


 景が近寄って話しかけると、シゲは立ち上がった。


「確かに結構な状態だけど、後ろの車両はまだ大丈夫そうだね。連結部分を切り離せば乗って帰れるよ」


 いつも通りのにやけ顔に、景は安心感を覚えた。


「手伝いますよ。何かできることがあったら言ってください」


「ありがとう。でも大丈夫。ここはボクに任せて、景くんは少し先を見てきなよ。境界に来るのは初めてなんだろう?」


「境界……?」


 景が振り向いた先に広がっていたのは、絵に描いたような荒野だった。草木は一本も生えず、わずかに残った建物の基礎らしきものが過去にあった町をかろうじて思わせるだけだ。


「すごい……遠くからしか見たことなかったけど、本当にこんなになってるんだ。それに――」


 金裾側に視線を向けた。山側には森が、海側にはちょっとした林や草原。まばらに置かれた家がある。景の見慣れた光景だ。


 荒野とその光景の境目が、景の立っている場所にあった。景から海に向かって、定規で線を引いたように緑と土色に分かれている。


「こんなきれいな境目になってるなんて。不思議だ」


「不思議とは、ずいぶんと余裕のある感想ではないか」


 坊主頭が景の横に立った。


「目日田さん。羽月さんとの話は終わったんですか?」


「まぁ、なんとか……な。羽月さんは翼が寝ているから、ここで待っているとのことだ。自分もそうしていたいほどここは恐ろしい場所だと思うのだが、それを不思議と言ってのける君はやはり勇敢だ」


「いえ、僕も怖いです。一歩踏み込んだら、ここにあった町みたいに消えてしまうような。そんな気がして。掬たちはすごいですよね。もうあんなところまで行ってます」


 景が荒野と化した町を指差す。その先、走って十秒ほどの場所に二つの影があった。掬と篝だ。二人はゆっくり歩きがら、瓦礫の陰を覗き込んだりして散策している。何かを恐れている様子は全くない。


 目日田は顔を引きつらせた。


「あれは……あれだろう。童中は普通の人間とは違うのだ」


「はは……どうですかね。男の人よりも女の人の方が肝が据わってるっていいますし」


 景は苦笑いで返した。


 白を頭に乗せた黒い影――掬が何かを拾い上げた。そのまま振り返って、景の方へと走っていく。もう一つの影――篝はそれを追った。


 景は思わず前に出て、掬を迎えた。


「どうしたの? 何か見つけた?」


 景がたずねると、掬はこくこくとうなずいた。


「あげる」


 掬は胸に抱えた布きれを景へと突き出す。景はおそるおそるそれに手を伸ばして受け取り、広げてみた。


「あ、ありがとう。これは……クマのぬいぐるみ、かな?」


 掬の頭に乗るフクロウと同じくらいのサイズのクマだった。だがボロボロで綿はほとんど抜けており、クマの形を保てていない。もともと誰かへの贈り物だったのか『Happy』やら『Jamp』やら『Fight』やらと寄せ書きのようなものが書かれている。しかし破れや汚れがひどく、目であるボタンも片方なくなっていた。こんな状態では寄せ書きも台無しどころか、不気味さを増す要因にしかならない。


「ちょっと、返しなさいよ」


 クマが景の手から消える。掬の横まできた篝がひったくったのだ。


 掬が頬を膨らませ、顔を篝に向ける。篝はその頬をつついた。


「一丁前に怒ってんじゃないわよ。ちゃんと直してからプレゼントしないとダメって言ってるでしょ。屋敷に戻って直すまで、掬が大事に持ってなさい」


 篝がぬいぐるみをつきかえすと、掬は口を尖らせながらもぬいぐるみを大事そうに抱えた。


 景は掬の頭に手を置いた。


「ありがとう掬。楽しみにし――」


 背後からの轟音が、景の言葉をさえぎる。四人が視線を向けた先には脱線している車両があった。線路に載っている側の車両が少しだけ、金裾側に動いている。その車両のドアからシゲが飛び下りた。


 シゲは二つの車両に目を向けると、小さくうなずく。


「うん。これで大丈夫そうだね。じゃ、行こうか。隕石を探しに」


 シゲは景たちの方へ歩き出し、あっさりと境界を越えてみせた。景も掬に駆け寄った際に越えてしまったので、目日田だけが金裾側に取り残される。


「く……やるではないか。だが自分も男だ。この程度――」


 目日田の背中に衝撃が走り、体が前にとんだ。そのままむき出しの地面を転がり、景の足元近くで止まる。

 

「な、何が起きたのだ……」


 目日田は起き上がり、土に汚れた自分の両手を見た。


「これは……この地面は、ついに自分も越えたのか!」


「こんなところでなにちんたらやってるんだい!」


 声の方向を見ると境界のむこう側――先程まで目日田が立っていた場所に羽月の姿があった。相変わらず翼は羽月の腕の中で動かない。


「ここの留守はわたしに任せて、さっさと行ってきな」


 翼が起きてしまうのではと心配になるほどの声で檄を飛ばす。目日田は立ち上がって敬礼を返し、他の面々は手を振って荒野へと歩いていった。


 翼は起きなかった。


※ ※ ※


「風が強いですね」


「さえぎる物がないからね。ボクらも長居はしないほうがよさそうだ。少し急ごうか」


 景、シゲ、目日田の男三人を風除けにして、掬と篝を守るような形で進んでいた。巻き上げられた土を含む風は強く、顔を手でかばいながらでなければ目を開けていられない。


 幸い、隕石によってできたクレーターは歩き始めてすぐに見えるほど近かった。あと五十メートルもない。


「ぐ……羽月さんが残ったのは正解だったようだな。翼を連れてこの中を進むのは辛かろう。もうそこなのに、遠く感じる」


「そうですね。こんな中で隕石なんて見つけられ……あ、なにか落ちてますよ」


 景が指差した先――正面からやや右にずれた位置に黒い塊が落ちていた。景たちは進路を修正し、その塊へと近寄った。


「あれ? またぬいぐるみかな? 結構大きいけど」


 それは座布団二枚ほどの大きさの毛むくじゃらで、大きく開いた穴から白い綿のようなものをたなびかせていた。


「ちょっと見せて」


 篝が景の左を抜けて毛むくじゃらの横に屈んだ。


「やっぱり……これは剥製よ。灰雪が詰められてるから、うちで作った剥製ね」


 篝が綿のようなものをつまむと、繊維状にほぐれて粉雪のようにきらめきながら風に溶けた。


 景は目を細める。


「剥製? じゃあなんで動いてないの?」


「そんなのあたしが知るわけないでしょ。金裾の外にあった剥製は動かないんじゃない? こんなところにあるってことは、この辺りの家に飾られてた剥製でしょ?」


「違う……」


 掬が景の右を通って、篝の横に屈んだ。


「なによ掬。じゃあなんでこんなところに剥製が落ちてるのよ」


「自分で来た……」


「自分で……? 金裾の剥製が自分でここまで来たってこと? 何言ってるのよ。わざわざこんなところまで来るはずないじゃない。来たとしても、こんなボロボロになる前に逃げるに決まって――」


 掬が首を横に振り、毛むくじゃらの穴の空いている場所に触れた。もともと黒っぽい毛皮だが、穴の付近だけ黒が濃い。篝も触れてみると、固くなっていることに気づいた。


「なによこれ……焦げてるの? 隕石に当たったとか?」


「それは違うんじゃないかなぁ」


 シゲも屈んで毛むくじゃらを覗き込んだ。


「地面を揺らすほどの隕石にぶつかったら、木端微塵になってるはずだよ。それにこの穴。綺麗すぎるよね? これはきっと、人為的なものだよ」


 シゲが穴を広げてみせると、それはちょうど握り拳が入りそうな大きさの真円だった。篝はその手をはたいた。


「やめなさいよ。かわいそうでしょ」


「おっと、ごめんね」


 シゲは両手を離し、小さくバンザイするように降参のポーズをとった。


「でもよく調べておいたほうがいいんじゃないかな。ボクたちも誰かにこうされる可能性があるんだから」


「誰かって誰よ。この町にはあたしたちしかいないじゃない」


「今まではね。でも、昨日の夜に誰かが来たとしたら?」


「……!」


 篝はつりあがった目を大きく見開き、立ち上がった。そのままクレーターのある方へ駆けていく。


「待ってよ篝! 一人じゃ危ないって!」


 景は後を追った。土を巻き上げる風で視界は最悪だったが、そこまで離れていない篝の背中を見失うことはない……はずだった。


「きゃあ!」


「篝!?」


 短い悲鳴とともに篝の姿が消えた。景の足が速まる。


「篝! どこにい――」


 地を蹴っていた足が空を切った。勢いの乗った体はそのまま前に倒れ、視界が一回転する。


「うわぁ!」


 背中を打ちつけ、そのまま足の方へと体が滑っていった。そこそこ急な坂にいると気付くのに、そう時間はかからない。


(止めないと……!)


 景はかかとを地面に押し当て、ブレーキをかけた。土は脆く、景の体を支えることなく崩れていった。だが減速はしていたようで景の体が止まる。


「ちょっと……大丈夫?」


 頭の方から聞き慣れた声がした。見上げてみると、篝が景と同様に斜面に尻をついている。


 景は土に手をついて立ち上がった。


「篝こそ大丈夫? いきなり見えなくなったからびっくりしたよ」


「これくらいなんてことないわよ」


 篝も立ち上がり、尻をはたいた。上からもう一人、バランスをとりながら足で滑ってくる。


「そんなに急がなくても、隕石は逃げないんじゃないかな」


 シゲだ。シゲは景の横に立つと、少し遠くを見た。


「いや、隕石じゃないみたいだね」


 景たちもシゲの視線の先を見た。そこにあったのは人がまるまる二人は入れそうな大きなラグビーボールだった。


「なんだろう……?」


 景が近寄り触れてみると土汚れが取れ、銀色の地肌が見えた。金属特有のそれが自然物だとは思えない。中央部分にあいた正方形の穴にも人工的なものを感じる。


 シゲが景の左に立ち、正方形の穴を覗き込んだ。


「これはたぶん乗り物だよ。中にイスがある」


「本当ですか?」


 景も覗き込んでみると、駅にあるベンチのようなイスが見えた。


「ちょっと! あたしにも見せなさ――」


 景の右に滑り込んできた篝の声が消える。


「うわっ!」


 それとほぼ同時に景は右足を引っ張られ、バランスを崩した。倒れても引っ張る力は弱まらず、そのままひきずられそうになる。


「おっと」


 シゲが景の腕をつかんだ。景の体が止まり、どこかに引きずり込まれた右足に相当な重しがぶら下がる。


「し、シゲさん……。ありがとうございます」


「いいえ。気をつけないとダメだよ。そこには大きな穴が開いてるからね」


「穴……?」


 景が足の方向に目を向けると、直径が一メートル程度の穴があり、その中に景の右足が入っていた。


「なんですかこれ……? 井戸?」


「いや、これは――」


「ちょっと! 早く引き上げなさいよ!」


 景の足にぶら下がる重しが揺れた。声は穴の中からだ。


「篝? ちょっと待って。今引っ張るから」


 景は右足を穴から引き出そうとした。しかし景の力では引き上げられない。


「あれ? くそ……」


 手を伸ばしたかったが、体勢を変えると穴に落ちてしまいそうだ。


「やれやれ。仕方ないね。自分で体を支えられるかい?」


「あ、はい」


 景はシゲから手をはなし、両の手を地面に押し当てて体を支えた。シゲは穴に近寄り、景の右足をつかんだ。


「うん。じゃあ引っ張るよ」


 シゲが力を入れるのを景は感じた。景もそれに合わせて足を引く。すると足は土の上へと引き上げられた。足首をつかんでいる篝の手をシゲが持って、一気に引き上げる。


「あぁもう! 死ぬかと思ったわ! なんでこんなところに穴があるのよ!」


 篝は地上に這い上がりながら文句を言った。シゲは篝が完全に穴から出たのを確認すると、篝から離れた。


「それはきっと、こいつが着地した跡さ」


 シゲがラグビーボール型の乗り物を叩いた。


「地面に突き刺さることで着陸の衝撃を弱めて、壊れないようにする。乱暴な発想だよね。ボクは真似したくないなぁ。でも穴の外に出てハッチを開けてるってことは、その思惑は成功して、乗っていた人も外に出れたってことだね」


 景が立ち上がった。


「本当に人なんでしょうか? 僕たちの知らない宇宙人が来たってことはないですか?」


「景くんはロマンチストだね。ボクも地球外生命体だったら面白いなって思うけど、たぶん違うよ。乗り物のイスがボクたちのよく知ってる形をしていたよね? 地球外生命体がたまたま同じものを作ったっていう確率はとても低いと思うよ」


「ちょっと待ちなさいよ」


 篝が景の体を支えにしながら立ち上がり、土を払った。


「それだと、あたしたち以外にもどこかで人が生き残ってるってことになるわ」


「そうだね。ボクたちみたいな特殊な例があるわけだから、何かしらの状態で人間やってる人がいても不思議ではないよね」


「そうだけど……今まで何の音沙汰もなかったのに、こんなロケットみたいなのでいきなりぶっ飛んできて、何しに来たっていうのよ」


 シゲは両手を広げてみせた。


「さぁ? でも気をつけたほうがいいかもね。さっきの壊された剥製はこれで来た人がやったんだろうし、ボクたちにも同じように危害を加えてくるかもしれない」


「なんだと!」


 声のした後ろを見上げると、目日田が斜面の途中に立っていた。景たちのいる場所はまだ少し距離がある。


「なによ目日田。そんなところで話が聞こえたわけ?」


「もちろんだとも! こうしてはおれん。すぐに羽月さんに知らさなければ! 危険が迫っていると!」


 目日田は斜面を駆け上がっていった。


「忙しいやつね。そんなに急がなくてもいいのに」


「いや、どうだろうね。襲われる危険がある以上、一人でいる時間は少ない方がいいと思うよ。いまの羽月くんは一人も同然だから、誰かが急いで彼女のところに向かうのは悪くない判断なんじゃないかな」


 その言葉に、篝は毛むくじゃらの剥製に残っていた傷を思い出した。


「そうね……用心するにこしたことはなさそうね。掬もあたしから離れないように――」


 篝は辺りを見渡して、言葉を止めた。


「景。掬は?」


「え? さあ……」


 景も周りを見たが、掬の姿は見当らなかった。


「もう! 掬! いるなら返事して!」


 篝は叫んだ。だが声は帰ってこない。篝は斜面を登り切った目日田を見上げた。


「目日田! その辺に掬はいない!」


 思いっきり声を張り上げたが、目日田は振り向くことなく走り去ってしまった。


「あいつ……! 聞こえてないわけ! 景! 掬を探すわよ! シゲは目日田を追いかけて!」


「ボクはもう少しこの乗り物を調べたいんだけど」


「危ないって言ったのは誰よ! 目日田だって電車に着くまで一人なのよ! あんたのせいで走っていっちゃったんだから、責任取んなさいよ!」


 篝の剣幕に、シゲは両手で小さくバンザイをした。


「わかった。わかったよ。篝くんは本当にやさしいね」


 シゲは一歩一歩、ゆっくりと斜面を上り始めた。


「急ぎなさいよ!」


 篝が声を荒げても、シゲは手を上げて応えるだけで斜面を登るペースは変えなかった。


「もう!」


 篝はシゲに向かって走り出しそうだった。景は腕をつかんで止める。


「篝。僕たちも掬を探さなきゃいけないんだから、シゲさんは放っておこうよ。シゲさんにはシゲさんの考えがあるんじゃないかな」


「うっさいわね!」


 篝は景の手を振り払った。


「だいたい、景が掬をしっかり見てないからいけないんでしょ! 恋人ならちゃんと近くにいてあげなさいよ!」


「なっ! なんで篝にそんなこと言われなきゃならないのさ! そもそも、篝がいきなり走り出すからこんなことになったんじゃないか!」


「なによ! あたしが悪いっていうの!」


「僕のことばっか責めないでって言ってるんだよ! 篝のこと心配して追いかけたのに、文句ばっか言われたんじゃたまらないよ」


「なっ! し、心配なんて……!」


 篝はひるんだ。景から顔を背け、ロボットのようなぎこちない動きで振り向くと、そのまま斜面を上り始めた。


「こ、こんなことに時間をかけてる場合じゃないわ。早く掬を見つけないと」


「そうだよ。掬もきっとさみしがってる」


 景は篝の後を追った。篝は足を滑らせて転びそうになりながらも、駆け上がるに近いペースで上っていく。景はそれについていくのがやっとで、上りきるまで追いつくことはなかった。


「どう? 近くに掬はいる?」


 景は上りきると同時に、先に上っていた篝に尋ねた。篝は辺りを見渡していた顔を景に向けると、横に振った。


「ここから見える範囲にはいないみたい。早く探さないと……」


「落ち着いてよ。こんな場所をむやみやたらに探し回っても、僕たちが迷子になるだけだよ。掬がいそうな場所を見当つけて探さないと」


「いそうな場所ってどこよ? そんな場所あるわけないじゃない! このあたり一帯は人がいなそうな場所なんだから!」


「落ち着いて。逆にこういう場所だから絞りやすいって考えようよ。例えば、ほら、あそこ」


 景が左側を指差す。篝が目を凝らしてその先を見ると、黒い何かが落ちているのが見えた。


「あれって……さっきの壊れた剥製じゃない」


「そう。少なくともあそこにはいたんだから、近くを探せば掬の足跡が残ってるかもしれないし、もしかしたら近くにまだ掬がいるかもしれない」


「あたしたちには目印にできる場所はあれくらいしかないものね。行きましょう。すくい―! いるなら返事して!」


 篝は掬を呼びながら足早に壊れた剥製へと向かった。


「掬は声が小さいから、耳を澄まさないと……」


 叫ぶのは篝に任せて、景は掬の声を拾うのに全力を注いだ。自分でも不思議なくらいに景は冷静だった。掬を大事に思っていないわけではない。それは篝にも負ける気はしない。


 それでも冷静でいられるのは篝が目の前で慌てているからだろうか。それとも掬なら大丈夫だと安心しているのだろうか。


 きっと両方だ。篝の慌てぶりのおかげで少し冷静になり、掬が意外と強いというのを思い出した。だが掬を一人にしておいてもいいと思ってるわけじゃない。掬は寂しがりやだし、一人が危険なことに変わりはない。


「ダメだ……返事がない」


 剥製の場所に着いても、掬の声を拾うことはできなかった。


「足跡よ! 足跡を探しましょう!」


 篝が両手をついて地面に顔を近づけた。景も屈んで地面を見てみたが、強い風に土が巻き上げられ自分がここまで歩いてきた足跡すら消えてしまっていた。


「足跡なんてどこにもないじゃない! どうするのよ! 景!」


「待ってよ。今考えるから……」


 もし自分が掬だったらどうするか。間違いなく他の面々を追ってクレーターへと向かう。だがクレーターにいた景たちのもとへ掬は来なかった。クレーターに落ちた景たちを見失った可能性も考えたが、上にはまだ目日田がいたはずだ。それなのに掬は別の場所へと行った。それはなぜか?


「そうか……ベール」


 掬はベールをかぶっていた。風除けをしていた景たちがいなくなったことで、それが風に飛ばされたとしたら、きっと掬はそれを追うだろう。


 風はクレーターとは逆の方向に吹いていた。


「あっちだ。掬はきっと、風の吹いた先にいる」


「じゃあさっさと行くわよ。すくいー!」


 先程と同じように篝が名前を呼び、景が耳を澄ます。今度は何かの音を拾った。


「待って篝!」


 景は篝の腕をつかみ、進もうとする篝を止めた。


「なんなのよ! やっぱり違ったっていうの?」


「しっ! 静かにして。なにか聞こえるよ」


「え? そんな、何も聞こえてなんか――」


 篝が声を止めた。篝の耳にも届いたのだ。音は近づいてきている。


「…………グルルルル」


 うなり声だった。篝が一歩、後ろに下がる。


「な、なんなのよ? 野良犬?」


「いや、これって、もしかして――」


「ガウ!」


 鳴き声と同時に犬の頭が見える。大型犬のそれよりも大きいように思えた。


 篝が景の腕をつかみ返す。


「逃げるわよ! 掬がいなきゃあんなの相手にできないわ!」


「大丈夫だよ。だって……」


 犬の頭が近寄ってくる。篝は景の手を引いたが、景は動こうとしなかった。犬の頭の後ろには黒い体――黒いドレスがあった。黒いベールとその上に載る白いフクロウ。そして無垢な瞳も見えてきた。


「掬? 掬なの?」


 篝が呼びかけると、無垢な瞳がこくりとうなずいた。掬が大きな犬の頭を抱えていたのだ。


 景が一歩近づく――


「ガウ!」


 犬の頭が吠えた。景は足を止める。


「す、掬? それは……?」


「オオカミ。拾ったの」


 掬が犬――いや、オオカミの頭を景の方へと突き出した。オオカミの頭が大きく口を開く。


 景は思わず一歩下がった。


「あぁ、うん。それ、オオカミだったんだ。で、それ、どうするの?」


「直すの」


 掬はオオカミの頭を抱え直すと、歩き始めた。景と篝が避けて道を開けると掬は間を抜ける。掬の向かう先に目を向けると、そこは先程まで景たちがいた壊れた剥製の場所だった。


 景は掬を追いかけ、やや後ろに並んだ。


「もしかして、それがあの壊れてる剥製の頭?」


 掬はこくこくとうなずいた。篝も追いついてくる。


「直すって正気なの? 今はみんなと合流するのが先よ。かわいそうだけどそれは放っておいて、金裾に戻るわよ


 篝は掬の腕をつかんだ。掬は一瞬だけ足を止めたが、振り払った。


「すぐに直す……」


「ちょっと! こんなときにわがまま言わないでよ!」


 篝がもう一度、掬の腕をつかみ直そうとすると、掬はオオカミの頭を顔の前まで持ち上げた。オオカミの鋭い眼と、掬の無垢な瞳が向き合う。


「すぐに戻してあげる……」


「…………」


 景や篝には吠えてばかりだったオオカミだったが、掬と向き合っているときは静かだ。黙っているオオカミの頭は、篝には子犬のそれと変わらないように思えた。


「あーもう! 仕方ないわね! さっさとしなさい!」


 篝は掬の腕をつかんだ。だが引っぱる方向は金裾の方向とは逆だった。壊れた剥製――オオカミの体へと向かって、猛ダッシュしたのだ。それには掬も抵抗せず、スキップするように篝と共に走った。景もその後ろを追う。


 オオカミの体のもとに着くと、篝はそれを飛び越えた。


「景もこっちに来なさい! 掬の作業が終わるまで風除けになるわよ!」


「う、うん! わかった!」


 景は言われるがままに篝の横に立った。景の背中に当たる風は強かったが、大きくもない景の体で止められる風はたかが知れている。


「景! 座って!」


 篝が景の肩を引いた。景が膝をつくと、篝が体を寄せて肩を組んだ。同じく膝立ちになっている篝の肩は、景の脇くらいの高さしかなかった。


(僕よりもこんなに小さな体で、篝は掬を助けてあげようとしてるんだ。僕も負けてられない)


 景は篝に体を寄せ、気持ちだけでも大きく持った。もちろん体の大きさは変わらないが、少しは掬に届く風が少なくなったような気がする。


 だが向かい側でそれを見ていた掬は、頬を膨らませた。


「掬も一緒がいい」


 掬はオオカミの体をまたぎ、景と篝の間に体をねじ込んだ。


「えぇ! どうしたの掬? 剥製を直すんじゃなかったの?」


「ここで直す」


 掬はオオカミの頭を体の横に置いた。景と篝は顔を見合わせ、笑った。


「ちゃっちゃと終わらせちゃってよ。掬」


 篝が掬の頭を撫でた。掬はこくこくとうなずくと、スカートからレースを一枚、引き抜いた。レースをオオカミの腹へとあてると、掬は髪を一本引き抜き、袖に隠していた針を使って縫い付け始めた。


「掬が作業するのを見るのはこれで二度目だけど、やっぱり手際がいいね」


「当たり前でしょ。掬は天才なんだから。縫製に関しては母様よりも腕がよかったのよ」


 誇らしげに篝が笑った。そうしている間に掬はレースの縫い付けを終えて、大きく空いた穴をふさいだ。掬は撫でてそれを確認すると、オオカミの頭を体の右側に置いた。レースをもう一枚、スカートから抜きだすと、今度はオオカミの首部分に巻いた。そして穴をふさいだ時と同じように縫い始める。


「そういえば、僕のときもフクロウを直したときもレースは使わなかったよね?」


「このレースは剥製を修復するときの仮生地だから、家で使うことはないわ。家に持ち帰ったらちゃんとした生地に変えるの。そのときの目印でもあるわね」


 仮というだけあって、レースから中の灰雪が見えてしまっている。それでもオオカミの頭は体と繋がり、掬は針をしまった。


「グルル……」


 オオカミが起き上った。景は逃げたい衝動に駆られたが、掬と篝が動かなかったのでなんとかこらえる。オオカミは景たちを一瞥すると、背中を向けた。


 掬が前へと歩き出す。


「掬。危ないよ」


 景は掬の背中をつかもうと手を伸ばしたが、届く寸前で掬は飛び上がり、オオカミの背中にまたがった。


「えぇ! ダメだって掬!」


 景は駆け寄って掬を降ろそうと思ったが、振り向いたオオカミの目に怯み、足を止めた。


「なにしてんのよ! 男ならしっかりしなさいよ!」


 景の背中に衝撃が走った。以前にも感じた覚えのある衝撃だ。


「ちょ――」


景の体が前へと飛んだ。一瞬で地面に体を叩きつける覚悟は決めるが、景の顔が着地したのはやわらかい毛むくじゃらの上だった。


「びっくりした……いきなり蹴らないでよ」


 景が顔を上げると、オオカミと目が合った。


「あ、どうも……」


 景が顔を突っ伏していたのはオオカミの体だった。振り向いて景を見るオオカミは、今すぐ景の頭にかぶりついてもおかしくない雰囲気だ。


「ご、ごめんなさ――」


 景は飛びのいて逃げようとしたが、掬に手をつかまれてそれはできなかった。


「景。こっち」


 掬が手を引いた。体勢を崩していた景は簡単に引き寄せられ、オオカミの体に寄りかかるような状態になる。


 オオカミは少し動けば景に噛みつけたが、そうする気配は全くなかった。


「乗るの」


「え? オオカミに?」


 掬はこくこくとうなずいた。


 景はためらいながら、掬の背中に寄り添うようにオオカミへとまたがった。オオカミは嫌がるような素振りは全く見せず、景に向けていた目を篝に移す。


 掬も篝を見た。


「や、やっぱあたしも……よね?」


 掬はこくこくとうなずく。篝はため息をつくと、景の背中につかまってオオカミに乗った。


「これでいいわけ?」


 掬が一度だけうなずくと、オオカミは前を向いた。


「きゃっ!」


 オオカミが走り出した。走り出しは軽快で、人が三人乗っているような重さは感じさせない。だがオオカミはもともと乗るためのものではない。大きく揺れて乗り心地は良いとはいえず、篝は景の胸に腕を回してしがみついた。


「ちょっと掬! これ速すぎるんじゃないの! もっとゆっくりにしなさいよ!」


「……?」


 掬は振り向いたが、篝の姿は見えない。代わりに後ろを気にしている景の姿が見えた。


「篝!? そんなにくっつくと胸が……!」


 景の弛んだ口元を見て、掬は頬を膨らませた。


「めっ……!」


 掬は景の右頬をつまんだ。


「ふぇ!?」


 景は驚いて後ろにのけ反った。景にしがみついていた篝の腕に更に力が入る。


「ちょ! バカ! 落ちるじゃない!」


「だから! 胸ふぁ――」


 掬が両手で景の頬をつまみ始めたので、景は言葉を続けられなかった。


「ちょっと! あんたたちこんな時に何やってんのよ! 危ないじゃない!」


 篝が泣きそうな顔で悲鳴を上げる。


 オオカミはそんなことは気にもせず、軽快に荒野を駆け抜けた。


※ ※ ※


 目日田が荒野を抜けたとき、空は赤みがかっていた。あと三十分もすれば暗くなってしまうだろう。目日田たちが乗ってきた列車はすぐ近くの丘を見上げた先にある。


(羽月さんはあの中で待っているのだったな)


 目日田は丘を駆け上った。赤く照らされた車体が美しい。その近くに人影が見えた。


「羽月さん! 無事でよか……!」


 目日田が言葉を止めたのは、人影は羽月のものにしては少し小さかったからだ。景と同じくらいだろうか。だが景が目日田よりも早くこの場所についているはずがない。


「だ、誰なのだ……?」


 目日田はかすれて消えてしまいそうな声を出した。気付けば指先も震えている。


(な、なんて臆病なのだ。自分は……)


 目日田は強くこぶしを握った。


(自分は羽月さんを守りに来たのだ。怯えていては意味がないではないか!)


 目日田は影の方に一歩踏み出した。


「そ、そこにいるのは誰だ!」


 目日田は体の底から声を出した。影が目日田の方を見る。


「なん…………!」


 目日田は言葉を失った。影の姿が目日田の常識で理解できるものではなかったのだ。


 影は人の形をしていたが、全身が黒かった。体の表面の所々が甲殻類の殻のようなものでおおわれている。目日田の知っている限りではそんな衣類は存在しない。頭は防毒マスクのようになっていた。大きな目を携える頭部だけを見れば、まるで虫のようだ。


「な、なんなのだ貴様は……」


 目日田の声はかすれて消えてしまいそうなものに戻ってしまった。影が近寄ってくる。


「く、来るな……」


 目日田は後ろへと下がった。影の一歩に合わせて、一歩一歩。


 背中が何かに当たり、下がれなくなった。


「大丈夫かい? 目日田くん」


 聞き覚えのある声だった。


「シ、シゲ……!」


 目日田が振り向くと、いつもと変わらないにやけ顔があった。にやけ顔は影に向かって

右手を伸ばす。


「あまりボクの友達を怖がらせないでくれるかな?」


 空気に衝撃が走った。目日田の視界の端で――シゲの手の先で何かが光る。目日田には覚えのある感覚だった。


「銃……!」


 シゲの右手にはリボルバー式の拳銃が握られていた。銃声はその後も続く。


 影は身を低くして横へと走った。身のこなしは速く、拳銃の弾が当たる気配はない。影はどんどんと離れていき、森の中へと消えていった。


「うーん。ボクの腕じゃ当てられないかぁ。目日田くんに撃ってもらった方がよかったかな?」


 シゲは目日田の肩に手を置いた。目日田は思わず一歩下がった。


「な、なぜそんなものを持っているのだ!?」


「こんなこともあろうかと持ってきておいたんだ。おかげで助かったよね」


 シゲはリボルバーから空薬莢を抜き、ポケットから新しい弾を取り出して詰めた。目日田は拳銃を指差す。


「そんなもの! 民間人が持っているものではないだろう!」


「ああ、これは警察が使ってた物だよ。一人だった頃に町を探索して手に入れておいたんだ。今まで使う機会なんてなかったけどね」


 シゲはふと後ろを見た。


「……ップ~!」


 遠くから声が聞こえる。シゲが見る先――目日田が来たのと同じ方向だ。


「なんだというのだ……?」


 丘の下から何かが上ってきている。かなりのスピードだ。先程の影とは違うと一目でわかる。虫に近かった影とは対照的に、四つの足で駆け上がってくるそれは獣のようだった。


「掬くんたちが来たみたいだね」


 シゲは拳銃をズボンに押し込んで、シャツで隠した。


「ちょっと! もう着いてるから! 止まって! ストップ~!」


 篝の叫び声はよく響く。だが目日田からよく見えたのは両手で景の頬をつねる掬の姿だった。かぶっているベールはなびいていたが、上に載っているフクロウがしがみついて支えているからか、落ちずに掬の髪を隠している。


 すぐ目の前まできたオオカミが、高く飛び上がった。


「きゃ~!」


 大きな悲鳴が目日田たちの上を飛び越えていく。


 オオカミが目日田たちの後ろに着地して止まった。その上には景にしがみつく篝と、景の頬をつねる掬。そして二人にされるがままの景が乗っていた。


「はぁ……やっと着いたのね…………」


 篝が景から手を離し、後ろに倒れるようにオオカミの背中から落ちた。残った景はまだ頬をつねられ続けている。


「な、なにをしているのだ?」


 あっけにとられていた目日田がやっと声を出した。景と掬の視線が目日田に向けられる。


「景がめっしたの」


「ふぇ~」


 景は苦しそうな声を出しながらも、目はにやけていてどこか幸せそうな表情をしていた。


 シゲが二回、手を叩く。


「ほらほら。何があったのか知らないけど、それくらいで許してあげなよ。景くんも反省してるみたいだし。ね? 景くん」


 景はうなずく。あまり反省しているようには見えなかったが、掬は手を離してオオカミから降りた。景もオオカミから降り、その背中をなでた。


「運んでくれてありがとう。君はすごく速いね」


 オオカミはそっぽをむいた――が、その先には掬が待っていて頭を撫でられた。


「グルル……」


 オオカミは頭を振ってそれを払いのけると、走り出した。そのまま森の中へと消える。


「なによ。まだちゃんと直ってないのに家までついてこないわけ?」


 篝が立ち上がる。景が上機嫌に笑った。


「篝はまだ乗り足りなかった?」


「冗談。もう二度と乗らないわ。それで、羽月は? まだ合流してないの?」


 篝の言葉に、目日田は息を飲んだ。


「そうであった! 羽月さん!」


 目日田は車両内へと駆けこんだ。車両内には夕日が差し込んでいて、羽月の姿を見つけるのは簡単だった。


 羽月は翼を抱いて、車両の中央に立っていた。


「よかった。無事であったか」


「目日田……どうしよう……」


 羽月の声は弱く、震えていた。さすがの目日田も異常を感じる。


「ど、どうしたというのだ? まさか、影に何されたというのか!」


 羽月は首を横に大きく振った。


「翼が……翼が全然動かないんだよ!」

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