第10話 世界で一番かわいい彼女【1/2】

 アイリネシアが足を止めたので、景は目を開いた。


 そこは森の外だった。空は赤らみ、結構な時間が経ったのだと景は実感した。屋敷の近くに出たのかと思ったが、視界の端に映ったのは倒れかけた列車だ。


「ここは……境界?」


「景さん。生きてたんですね。静かだったから、もう死んじゃったのかと思いましたよ」


 アイリネシアは景を顔の前まで持ってきた。アイリネシアの頬には涙が乾いた跡がある。


「目が回りそうだったから、目をつぶって黙ってたんだ。どうしてこんなところに? 乗ってきた乗り物はもう使わないんじゃなかったの?」


「はい。あれは打ち上げができませんから。もうすぐお迎えの時間なんです。ほら、来ました」


 アイリネシアは景を回転させ、前に向けた。


「え……なにこれ? 大きな……セミ?」


 目の前にシロクマにも劣らない巨体が浮いていた。夕日に照らされて赤く染まっていたが、元の色は白のようだ。頭と体をくびれで区切った手足のない土偶のような形で、滑らかで艶やかなセラミックに近い素材でできている。背中で広がっている緑色の薄羽はまさにセミのそれだ。


「自立型小型無人艇HATOです。わたしと結晶を回収しに来たんです」


 アイリネシアは景を持つ右手を下げ、左手の結晶を前に出した。


「これが結晶ですっ。任務を完遂しましたっ。帰還させてくださいっ!」


 HATOの頭部分に緑の光が一つ浮かび上がった。それは十字を描くようにHATOの頭部を動き、結晶を見下ろすような位置で止まる。


 光が点滅し、HATOの腹部が引き出しのように飛び出て、その上が小窓のように開いた。アイリネシアは結晶を引き出しの上に置く。すると引き出しは中に戻り、小窓が閉じた。閉じた窓の白はだんだんと薄れていき、透明になる。HATOの頭部にある光が赤に変わった。


「搭乗部分を開いてくだ――」


 太鼓のような音がアイリネシアの声を掻き消した。景は地面に落ち、転がる。景の頭はアイリネシアを見上げるような形で止まった。アイリネシアは自分の腹に手を当てたあと、それをそのまま自分の顔の前まで持ってくる。アイリネシアの手は真っ赤に染まっていた。


 撃たれたのだ。近くに人の姿はない。それに太鼓のような銃声は箱舟産のCOMET弾特有のものだ。つまり、銃撃したのはHATO。


「ほら……血ですよぉ。やっぱりわたしは生きてます」


 アイリネシアは虚ろげにつぶやいた。撃たれた事実に気づいていないわけではない。事実を拒絶しているのだ。


 アイリネシアは赤く染まった手を握った。


「痛く、ないですぅ…………」


 アイリネシアの声はかすれていった。強く閉じたまぶたからは涙がこぼれている。拒絶しきれない事実がアイリネシアの精神をむしばんでいく。


「うわぁぁぁぁぁぁ!」


 銃を抜き、HATOに向けた。よく狙いもせず引き金を引く。


 太鼓のような銃声が響いた。


「どうして! どうしてですかぁ!」


 銃声は絶え間なく鳴り続けた。ほとんどの弾が命中していたが、HATOは微動だにしない。


「わたしは一生懸命訓練しました! 任務も完遂しました! どうしてわたしは死んでるんですかっ! どうしてわたしを助けてくれないんですかっ!」


 銃声が鳴りやんだ。アイリネシアが指を止めたわけではない。COMETによる銃へのエネルギー供給が間に合わなくなったのだ。


 アイリネシアは銃を投げ捨て、HATOへ走り込んだ。手を強く握り――


「嘘だったんですか!」


 HATOを叩いた。


「市民になれるって――」


 もう一度。


「もう一人じゃなくなるって嘘だったんですか!」


 力いっぱい叩いた。


「どうして、じゃあわたしはなんのためにっ……!」


 アイリネシアはガラス部分に爪をたてた。奥にCOMETの結晶が見える。


「返してっ! 返してください! それは景さんたちの命なんです!」


 いくらひっかいてもガラスにはヒビ一つ入らない。


「わたしが奪ってしまった、大事なものなんです! 本当は奪っちゃいけないものなんです!」


 アイリネシアはHATOに額をつけ、荒くなった呼吸での深呼吸を四回繰り返した。そして右手を強く握りしめる。


「返してくださいっ!」


 握りこぶしをガラス部分に叩きつけた。ガラスに一本のヒビが入る。


「かえ――」


 HATOが高速で回転しながらアイリネシアを弾き飛ばした。

アイリネシアが景の近くに尻餅をつく。


「アイリネシア!? 大丈夫?」


 景が声をかけると、アイリネシアは首を振りながら立ち上がった。


「わたしの心配なんてしないでください! わたしは悪者なんです!」


「アイリネシアは悪くないよ! アイリネシアはだまされてただけ――」


「ダメです! わたしを許すなんて許しません! 許されたら、わたしはもう頑張れなくなってしまいます!」


 アイリネシアはまっすぐ、HATOにむかって歩き出した。


「わたしは今さっきから、景さんに――」


 太鼓のような音が空気を震わせた。アイリネシアの足元に血が落ちる。アイリネシアは右の脇腹に触れて血を確認したが、足は止めることはなかった。


「景さんに許してもらうためだけに生きてるんです!」


 HATOに触れ、右にこぶしを握った。


「だから! 簡単に許されたら困るんです!」


 ガラス部分に叩きつける。ヒビが二本増えた。


「これを取り戻しても許さない! それぐらいがちょうどいいんです!」


 アイリネシアはもう一度腕を振りかぶる。だがHATOは回転し、それを拒んだ。


「く……!」


 アイリネシアは突き飛ばされたが、今度は尻餅をつかなかった。


「何回飛ばされても、何回撃たれてもわたしはあきらめません! わたしにはもう、帰る場所も命もないんです! わたしに残ってるのは……わたしを信じてくれた人だけなんです!」


 今度は走ってHATOに迫った。すでにこぶしも握っている。


「このままではその人も裏切り者になってしまうんです! そんなの、絶対ダメなんです!」


 アイリネシアは握りこぶしをHATOにねじ込んだ。だがHATOはすでに体を回転させており、アイリネシアのこぶしがガラス部分に当たることはなかった。


 手がはじかれ、アイリネシアはバランスを崩す。それでもアイリネシアはHATOから目を離さなかった。それはHATOも同じだ。頭部の赤い光はアイリネシアを見続ける。


その光がわずかに強くなった気がした。


「これはマズイ……ですかねぇ」


 COMET弾がそこから撃たれていたのだと、アイリネシアは瞬間的に悟った。そしてそれは確実にアイリネシアの頭を捉えている。


 後ろに倒れかけている体はいうことをきかなかった。


「景さん。ごめんなさい。わたしはこれまでみたいです……」


 アイリネシアは覚悟を決めた。だが聞こえてきたのは太鼓のような音ではなく、軽く乾いた音だった。連続していくつも鳴ったそれは、アイリネシアが聞いたことのない音だ。HATOの目がアイリネシアとは反対側に回った。


 その瞬間、低い風切り音とともに深緑色の十字が景たちの上空を通過した。


「な、なんですか……?」


 それは鼻先のプロペラで飛んでいるようだ。全貌が見えてもアイリネシアにはそれがなにかわからない。だが景には心当たりがあった。


「飛行機……? もしかして、あれが零戦!? じゃあ乗ってるのは目日田さんだ!」


 零戦は左側に旋回し始めた。すぐにアイリネシアたちに鼻先を向けるだろう。


 アイリネシアは景を拾って駆け出した。


「ア、アイリネシア? どうするの?」


「あれが景さんのお仲間なら、わたしに攻撃してくるはずです! 景さんが巻き込まれるといけないので、安全な場所へ――」


 森まであと数メートルというところで、背後で軽快な乾いた音が鳴った。


※ ※ ※


(まさか、シゲの直した飛行機が自分の乗ってきた零戦だったとは)


 目日田は久々に握る操縦桿の感触を再度確かめた。はるか昔――目日田の感覚では一年も経っていないときことだが、金裾町に乗ってきたときと何ひとつ変わらない。良好な旋回性能も健在で、真後ろへと見送った白い蝉のような浮遊物と、メリクシアに似た少女――たしかアイリネシアという名前の少女を正面にとらえた。アイリネシアは森へ向かって走り出していた。白い浮遊物もそれを追って動き出す。


(逃がすものか)


 目日田は正面に目標をとらえ、回転桿についている引き金をひいた。


 機銃が火を吐き、白い浮遊物を無数の弾丸が襲う。浮遊物は停止し、目日田を赤い眼で追った。その先で森へと向かっていたアイリネシアも足を止めている。


「なにをしている! 早く逃げたまえ!」


 届かないとわかっていても目日田は叫んだ。


「シゲから聞いた! 君は翼を助けるために奔走しているのだろう! 君に銃を向けた自分たちが今更かもしれないが、君を助けたいのだ! 白いのは自分に任せて――」


 零戦の駆動音すら掻き消すほどの太鼓のような音と、零戦をひっくり返りそうな衝撃が目日田を襲った。零戦の高度が一気に下がる。


「く……!」


 零戦は森に飛び込む軌道をとっていた。操縦桿を引いて機首を上げようとしたが、左の翼がうまく空気に乗らない。


「左がやられたか! だがまだ……!」


 操縦桿を右に傾け、機重の多くを右の翼に乗せた。左の揚力もまだ完全には失われていない。機体は徐々に上昇の兆しを見せた。だが正面に見える木々は視界から消えることなく目日田に迫ってくる。


「まだ、まだだ……! 諦めてなるものか!」


 操縦桿を握る手に力を込める。だが機体の上昇速度は上がらない。


「くっ、ダメか……!」


 目日田が諦めかけた瞬間、足に何か当たったような気がして足元を見た。目日田の足近くに紫色の巾着が落ちている。


「あれは!」


 目日田は左手で操縦桿をつかんだまま、巾着袋へと手を伸ばした。安全帯がそれを邪魔する。


「ぐ……!」


 完全には固定されていない右半身をひねり、手を巾着に近づける。


「届くのだ!」


 指先が巾着に触れた。そこから一気に体をひねり、巾着をつかんだ。その瞬間、強い重力を感じ、機体が浮き上がる感覚を得た。


 正面を見ると、機体は森の上――梢を掠める位置を飛んでいた。


「はぁ……はぁ……」


 目日田の息は上がっていた。手や足も小刻みに震えている。あと数ミリの差で墜落していたという恐怖が目日田の体を覆っていた。痛みを感じない剥製の体でこれなのだ。生前に特攻をしていたらどうなっていただろう。


 目日田は右手に握る巾着を見た。それには『守』の刺繍がされている。


(やはり、これは纏≪まつり≫さんに取られた自分の御守りではないか。これが自分を守ってくれたとでもいうのか? いや、きっとそうなのだろう。自分にはまだやることがあると、纏さんがいっているのだ)


 手足に力を入れ、震えを抑え込んだ。機体を旋回させ、機首を白い浮遊物へと向ける。


 アイリネシアが走り出していた。だがその方向は森ではなく、むしろ森から離れている。


(森に逃げるのではなかったのか……?)


 目日田はアイリネシアを目で追う。するとアイリネシアが目日田をちらちらと確認しているのに気づいた。アイリネシアの後ろを白い浮遊物が追っている。


(なるほど。アイリネシアが森に入ると白いのも森に入り、空から狙うのは難しくなる。自分が白いのを攻撃しているのに気づいて、逃げる方向を変えたということか)


 目日田は一度だけ、深呼吸した。撃墜失敗はアイリネシアの死につながる。


(責任重大ではないか。自分にできるだろうか……いや、やるしかあるまい。アイリネシアが自分を信じてくれたのだから)


 目日田は白い浮遊物に照準を定め、引き金をひいた。小気味よく機銃から放たれた弾は多くが浮遊物に当たったが、浮遊物はよろけるどころか、アイリネシアを追う足を止めすらしない。


(く……もう一度だ)


 旋回し、今度は頭に照準を定める。まっすぐアイリネシアを追う浮遊物を狙うのは難しくなく、目日田の放った弾は的確に浮遊物の頭を捉えた。


 だが浮遊物は変わらずアイリネシアを追い続ける。


(なぜだ……なぜ効かない!)


 もう一度、同じく弾を撃ち込んだが、やはり効果があるようには思えない。


(この機銃では威力が足りないとでもいうのか。いや、しかし、景たちの時代からすれば零戦はかなりの旧式だったようだ。ありえない話ではない。そうなるとアイリネシアの武器に頼らざるをえないが……)


 目日田はアイリネシアを見た。機銃が効かないのに気付いて、武器を取り出すかもしれないと思ったからだ。


 だがアイリネシアの手には別の物が抱かれていた。


(あれは人の――景の頭ではないか! あの白いのにやられたのか! アイリネシアは景の頭を守りながら逃げ――)


 太鼓のような音が鳴り響いた。アイリネシアの足元が小さく炸裂する。手がふさがっているアイリネシアは体をひねり、背中から地面に倒れた。そこに白い浮遊物が近寄っていく。


(いかん! このままではアイリネシアと景がやられてしまう!)


 浮遊物を止めなければ。


 零戦についている機銃は通用しない。他の武器も搭載していない。だがそれでも、目日田はあと一つだけ、攻撃する方法を知っていた。


(やるのか……アレを)


 体が縮こまるのを、目日田は必至でこらえた。そうなってしまえば、もう体は動かなくなってしまう。


(纏さんは言っていた。『目日田の命は国のためなんかじゃなく、もっと大切な他のために使うべき』と)


 目日田は小さく息を吐くように笑った。


「纏さん。自分は国よりも大切な、友人を助けるためにこの身を捧げると決めた。付き合いは短いが、彼なら自分の想い人や、その人が大切にしている人。そして打ち解けることができなかった自分の仲間も守ってくれる気がするのだ」


 声を出したからか、幾分が楽になった。恐怖が消えることはないが、それに負ける気はまったくしない。


 目日田は機首を浮遊物に向け、回転数を最高まで上げた。速度が上がり、浮遊物までの距離が一気に詰まる。


「あとは頼んだぞ。景」


 全ての弾を撃ちきり、機体や自らの身まで火力に変える。


 それが特攻なのだ――


※ ※ ※


「目日田さん!」


 景が叫ぶのと同時に、零戦はHATOに突っ込み爆散した。大きな爆風にアイリネシアの体が煽られる。倒れていなければ間違いなく吹き飛ばされていただろう。

爆風がおさまってからHATOに目を向けると、そこは炎に包まれていた。


「目日田さん! 無事ですよね!? 目日田さん!」


 景は炎へと駆け寄りたい衝動に駆られたが、それができる体がない。アイリネシアは立ち上がり、景を地面へそっと置いた。


「COMETと、景さんのお仲間を回収してきます! 景さんはそこで待っててください!」


「え! ダメだよ! 危ないよ! あんなに火がでてるじゃないか!」


「ですが、COMETはともかく、景さんのお仲間をあの炎の中に置きっぱなしにするわけには――」


 アイリネシアが一歩踏み込んだ瞬間、突風が起こり炎が吹き消された。その突風の中心にいたのは、高速で回転するHATOだ。


「なっ……!」


 景たちは言葉を失った。


 回転をやめたHATOは右頭部が若干へこんでいるのと、多少すすで汚れたくらいしか異常が見られない。HATOの目である赤い光も健在だ。


 アイリネシアは唇を噛んだ。


「あなたは人の命をなんだと思ってるんですか! いい加減やられたらどうなんですかっ!」


 その言葉が理不尽なのはわかっていた。だがHATOの強固さはそれ以上に理不尽なのだ。もう、アイリネシアにガラス部分を叩きに行く気力は残されていない。


 HATOの目の光が強くなる。


 逃げなければ。アイリネシアの頭にそれだけが浮かぶ。だが行動に移すのが一瞬だけ遅れた。赤い光に包まれたような感覚に襲われる。


 赤い光はHATOの目から放たれたものではなかった。アイリネシアの眼前で何かが燃えたのだ。炎とともに散るそれは粉雪のように白くきらめいていた。視界を覆うそれが消えると奥には変わらずにいるHATOと、その頭上近くに黒いドレス――


「めっ!」


 黒いドレスはHATOの頭の人で例えると顔の部分に両足で着地した。HATOの体がわずかに奥へ傾く。そしてドレスが飛び上がるとHATOは地面へと倒れ、人工の草を削った。


「掬! どうしてここに?」


 景が名前を呼ぶと、地面へと降り立った黒いドレス――掬は振り向いてはにかみ顔を見せた。だが景の姿が見えなかったからか、顔を傾け、辺りを見渡した。その後ろでHATOが起き上る。


「掬さん! まだ終わってません!」


 アイリネシアが見る先へ、掬は振り向いた。HATOの赤い光と目が合い、掬は頬を膨らませる。空気へと散った白いきらめき――灰雪が掬の近くへと集まり、漂い始めた。きらめきは掬を包み、神秘的な雰囲気をより際立てている。


 人であれば好奇、魅了、あるいは怖れなどの理由で見とれていただろう。だがHATOにはそのような感情はないようで、ひどく冷たい赤い光で掬を見た。


「気をつけてください! 撃ってきます!」


 アイリネシアの叫びを合図にしたかのように、掬を見る赤い光が強くなる。だが次の瞬間、その光は掬の姿を見失った。光は残った灰雪を赤くきらめかせるだけだ。


 灰雪は飛行機雲のように横へと筋を作っている。赤い光が筋を追うと、それはHATOの左側頭部の近くまで続いていた。そこに掬の姿がある。掬は両手で細長い鉄棒――ピンを持っていた。


 HATOは強めたままだった光を掬に向けて解き放った。だが光は掬には当たらなかった。灰雪が壁となり、HATOの攻撃を防いだのだ。

 

 HATOは出力を上げた。灰雪の壁は容易く燃える。あっという間に灰雪に穴が開き、壁の向こう側に光が通った。


 しかしそこに掬の姿はない。HATOの頭のへこんだ部分――右側にピンが突き立てられた。掬が回り込んでいたのだ。


 掬は体重を使ってピンを押し込んだが、全く入っていかなかった。HATOの装甲は人の力で貫けるものではない。


 HATOは回転して掬を弾き飛ばした。高めに飛ばされた掬だったが、空中ですぐに体勢を立て直して、少し離れたところに足から着地する。掬は頬を膨らませていた。


「掬さん! 落ち着いてください! HATOはとても固いです! お腹の透明になっている部分を狙ってください! そこはガラスなので簡単に割れます!」


 アイリネシアはHATOを指差す。HATOは右に掬がいるにも関わらず、正面のアイリネシアに体を向け続けた。赤い光もアイリネシアを見ている。


「ん……」


 掬が目にも留まらぬ身のこなしでアイリネシアとHATOの間に移動した。ピンを握る掬の右腕には灰雪が集まっている。


 掬はほとんど振りかぶらずにピンをHATOに向かって投げた。小さな動作から放たれたピンの軌道はアイリネシアにも見えない。だがピンはHATOの腹部――ガラス部分に突き刺ささっていた。


「やりました!」


 アイリネシアが歓喜の声を上げる。HATOは倒れ――なかった。


 HATOの赤い光は変わらず光り続け、アイリネシアをターゲットとし捉え続けている。


「まだ……! やっぱりCOMETを取り出さないとダメですか」


 アイリネシアはピンの刺さったHATOの腹部を見た。ガラスは中が見えないほどヒビが入っている。今なら丸腰のアイリネシアでも一撃で砕いて、COMETを取り出せるかもしれない。掬がここまでやってくれたのだ。


「わたしがやらないわけには――」


「見つけたわ! 丘を登って!」


「わたしはペーパーなんだよ! ちっとは普通の道を走らせてくれてもいいもんだけどね!」


 アイリネシアが自分を鼓舞しようとした瞬間、後ろの少し離れたところから声が聞こえた。アイリネシアにはすぐにそれが誰の声か判断することはできなかったが、景には聞き覚えのある声だった。


「篝……? 羽月さん?」


 少し高めのエンジン音が近寄ってくる。白いフクロウが飛んできて、アイリネシアの上を旋回し始めた。


「フクロウの下に景たちがいるわ! 轢くんじゃないわよ!」


「わかってる! でもブレーキかけたらエンストするよ! 覚悟しときな!」


 赤いオープンカーが丘の下から姿を現した。運転席には羽月が、後部座席で篝が立っている。


「構わないわ! むしろ止まってた方が狙いやすいじゃない! 一発で仕留めてやるわ!」


 篝が座席から鉄の筒をとり、肩に担いだ。人の腕くらいの太さのそれは、小さめのバズーカのようだった。


「止めるよ!」


 オープンカーのタイヤがロックされ、芝生の上を滑り始める。車はそのままアイリネシアの目の前までいき、ぶつかる寸前で止まった。


「ほら! 決めちまいな!」


「任せなさい! この距離なら絶対当たるわ!」


 空気に殴られたような、強烈な爆発音がその場にいる全員を襲った。HATOがわずかによろめく。左の胸のあたり――人間でいうと心臓がありそうな場所にペットボトルほどの弾が突き刺さっていた。


「シゲ特性の弾頭よ! さあ! 吹き飛んじゃいなさい!」


 篝が自分の耳を両手でふさいだ。羽月もそれにならい耳をふさぐ。掬もそれを見て真似した。


「ば、爆発するんですかぁ?」


 アイリネシアは両耳に指を入れ、目をつぶってしゃがんだ。


 静寂が訪れる。それは嵐の前の静けさなのだと、そこにいるすべての人が思った。


「……あれぇ?」


 アイリネシアが目を開く。空を旋回していたフクロウが掬の頭に戻った。まだ嵐は訪れない。


 篝が耳から手を離した。


「どうなってるのよ! 爆発しないじゃない!」


 その声に反応したかのように、HATOは目を強く光らせた。アイリネシアは瞳孔を開き、篝たちを見る。


「気をつけてください! 撃ってきます!」


 アイリネシアの鬼気迫る声に、篝は眉をひそめるだけだった。銃が見えているわけではないのだ。危機感を覚えろというのが無茶な話だろう。


「伏せてください!」


 アイリネシアはボンネットを踏み越え篝に跳びついた。


「え、なっ――」


 篝は後部座席に押し倒される。それと同時に空気が震えた。だが太鼓のような音が鳴ったわけではない。音ではなく、強烈な突風が篝たちを襲ったのだ。


「ちょっと……! どきなさい!」


 篝はアイリネシアを押しのけ、起き上った。車の正面にHATOの姿はない。


「やった! やっつけたのね!」


 篝は座席から黒いベールをとって掬を呼ぼうとした。掬が空を見上げている。その先を篝も見てみると、糸の切れた風船のようにどんどんと空に上がっていくHATOの姿があった。


「なによ! 逃げられちゃったの? これ、全然役に立たないじゃない!」


 篝は持っていたバズーカを車の外に投げ捨てた。


「まぁいいわ。逃げたんならあたしたちの勝ちよね。景はどこにいったのかしら? どこかに隠れてるの?」


 篝は辺りを見渡す。座席に突っ伏していたアイリネシアが顔を上げた。


「そうでしたぁ! 景さん!」


 アイリネシアは車から飛び下り、近くの地面を探した。篝がそれを上から覗き込む。


「なにやってるのよ。景は近くいなかったでしょ? 遠くからでもそれくらいわかったわよ」


「違うんです! 今の景さんはとても小さくて……」


「はぁ? なに言ってんのよ」


 アイリネシアは景を探すのをやめなかった。車の下を覗き込み、前の方へと移動する。


 逆側のタイヤの前に白い綿のようなものが見えた。


「いました!」


 アイリネシアは車を回り込み、景の頭を拾い上げた。


「大丈夫ですか! 景さん!」


 景の頭を顔の前に持ってきて確認する。アイリネシアには傷が増えているようには見えなかった。景もまばたきでうなずく。


「うん。大丈夫だよ。タイヤが目の前まで来たときは生きた心地がしなかったけど……。それでよく見えなかったんだけど、HATOは――」


「え!? ちょっと!」


景の視界が大きく回転した。視界が止まったときに正面にあったのは篝の顔だった。


「本当に景じゃない! なに? どうしちゃったわけ?」


「えと……まぁ、色々あったんだよ」


 景がお茶を濁すと、篝は空を見上げた。その先ではHATOがどんどんと上昇している。


「あいつにやられたのね」


「ああ、うんまぁ、そんな感じ」


 ひきつった笑顔で景が誤魔化すと、アイリネシアが車に両手を置いた。


「違いますっ! それはわたしが――」


「ちょっと!」


 篝の声に、アイリネシアは体を硬直させる。だがその声はアイリネシアに向けられたものではなかった。


「掬! なにするのよ!」


 掬が篝から景の頭を奪ったのだ。掬は小さな胸にそれを抱き寄せた。


「掬の……」


「だから! そういうことしちゃダメってこの間言ったばかりでしょ! 景も! ニヤついてるんじゃないわよ! 叩き割るわよ!」


 景の髪をつかみ、引っ張る。掬の胸からわずかに離れた景の顔は確かにゆるんでいた。


「に、ニヤけてないよ。ただ少し柔らかいなって……」


 篝が両手で景の頭をつかんだ。


「掬! 貸しなさい! あたしが懲らしめてあげるわ!」


「めっ! めぇっ!」


 掬はより強く景を胸に押し付けた。篝も諦めずに両手で景の髪を引っ張る。


「あ、あのぉ……」


 アイリネシアが控えめに声をかけた。だが掬たちにその声は届かなかったようで、景の引っ張り合いをやめない。


「おい! 遊んでる場合じゃないだろう!」


 怖いお姉さん――羽月が怒鳴り声を上げる。篝と掬は一瞬だけ硬直したが、篝は掬にベールをかぶせるとすぐに羽月と向きあった。


「なによ! 敵は追い払ったんだから、少しくらい遊んだっていいじゃない!」


「まだ翼は助かってないんだ。わたしは翼が走り回るのを見るまで、そいつを信用できないよ」


 羽月が鋭い眼差しでアイリネシアを見た。アイリネシアは思わず目をそらす。


「その……ごめ……なさ…………ですぅ………………」


 アイリネシアの声は今にも消えてしまいそうだった。


「はぁ? なんだって?」


 羽月が顔をしかめた。アイリネシアはその表情をちらりと見て、更に小さくなる。


「ふぁ、ふぁの!」


 掬の胸で声がした。掬が景を胸から離し、羽月の方をむけた。


「あの、アイリネシアを信用するか、話し合いをしてくれたんですか?」


「そうじゃないよ。戻ってきたシゲから聞いたのさ。COMETの結晶ってのがあれば、翼を助けられるかもしれない。アイリネシアと景はそれを探しに行ってるって。で、箱舟のやつらに襲われてるかもしれないから助けに行けって言われたのさ」


 篝がうなずき、空を見上げた。


「まさか、本当に化け物みたいのに襲われてるとは思わなかったけど。そういえば目日田が先に来てるはずなんだけど、あいつったらどこに行ったのかしら?」


「目日田さんは……」


 景は言葉を濁した。アイリネシアも黙って車の正面に目を向ける。その先、車五台分程度離れたところに零戦の残骸があり、わずかながら火も残っていた。


 篝もそれに気づいた。


「もしかしてあれ、目日田が乗っていった飛行機……!」


 篝は自動車から飛び下りた。


「ま、待ってくださいっ!」


 零戦の残骸へと走っていきそうな篝の手を、アイリネシアはつかんだ。篝はそれを振り払おうとする。


「離してよ! 目日田を探してすぐに直せば、助けられるかもしれないわ!」


「危険です! 火が出ている機械は爆発するかもしれないと習いました!」


「じゃあほっとけっていうの!?」


 アイリネシアは首を横に振った。


「わたしが行きます」


 アイリネシアは篝を後ろに立たせ、零戦の残骸に向かって歩き出した。篝がその肩をつかむ。


「待ちなさいよ。危ないのはあなたも同じじゃない。あなたにそこまでする義理はないでしょ?」


 アイリネシアは肩を振って篝の手を外した。


「あります。わたしはまだ許してもらってないですから」


「許す? なに言ってるのよ。許してもらわないといけないのはあたしたちのほうでしょ? あなたは翼を助けようとしてくれてたのに、あたしたちは銃を向けたり、景に信じちゃいけないって言ったりしてたんだから」


 アイリネシアは振り向いて篝と向き合った。


「違うんですっ! あなたたちは勘違いしていますっ! わたしは翼さんを助けるためにCOMETの結晶を探していたんじゃないんです! そう言って景さんをだまして、箱舟に持って帰るために探していたんです! 景さんだって――」


「もういいよ!」


 叫んだのは景だった。


「もういいよ。アイリネシアはだまされてただけじゃないか。シゲさんだってきっとそれに気づいてたから、篝たちにアイリネシアが結晶を持ち去ろうとしてるって言わなかったんだよ。僕たちの敵だったときもあったかもしれないけど、今のアイリネシアは僕たちの味方――仲間じゃないか」


「仲間……ですか?」


「そうだよ。アイリネシアは危ない目にあいながら、僕たちのために結晶を取り戻そうとしてくれた。仲間じゃなかったらそこまでできな――」


 風船の割れたような音が景の言葉を遮った。アイリネシアが自分の左頬に触れる。篝はアイリネシアの右頬を、もう一度はたいた。


「篝! やめてよ!」


 景は声で止めようとした。だがアイリネシアは景を見て首を横に振った。


「いいんです景さん。わたしは叩かれて当然のことをしたんです。気が済むまで叩いてもらって構いません」


 アイリネシアは篝を見た。篝はアイリネシアの胸に右の手の平を当てる。


「景が何と言おうと、あんたが景をだまして危ない目にあわせたり、景を傷つけたりしたのは絶対に許さない」


「はい……」


 アイリネシアは顔を伏せたくなる欲求に耐え、篝から目をそらさなかった。少なくとももう一度、手ひどい一撃をくらう覚悟はできている。痛みはないが、心の奥底に響く一撃だ。


 篝がアイリネシアの胸から手を離した。


「でも、あんたは仲間よ。景がああ言ってるし、あたしを守ろうともしてくれた。それに、なんだか他人だとは思えないのよね。クリアイネスによく似てるし。あ、クリアイネスはあたしの家にいたメイドね。まぁ、家族みたいなものよ」


 篝はあきれるように笑った。アイリネシアにはそれがとても優しい笑顔に見えて、目頭が熱くなる。


「い、いいんですかぁ……?」


 アイリネシアは目を拭った。篝は頬をかく。


「当たり前でしょ。許せないことがあるから仲間じゃないなんて、あたしはそんなちっぽけな人間じゃないの。羽月もいいわよね?」


 篝が運転席を見ると、羽月は背もたれに寄りかかった。


「わたしは翼が助かればそれでいいよ。そうすればそいつも信用するって言ったはずさ」


「うぅ……それなんですけどぉ」


 アイリネシアは上目づかいで羽月を見た。


「COMETの結晶はHATO――さっきのお化けみたいなのに……持っていかれちゃった…………んですぅ」


 アイリネシアの言葉は少しずつゆっくりになっていった。いつでも耳を押さえられるように準備しておく。


「なんだって!」


 アイリネシアが思っていた通り羽月は叫んだ。アイリネシアは耳をふさぎながら頭を下げた。


「ごめんなさい! ごめんなさいですぅ!」


 何度も下がるアイリネシアの頭を、羽月はつかんで顔を上げさせた。


「謝ってる場合じゃないだろう! どうするんだい!」


「うぅ……あんな高く飛ばれてしまうと、わたしにはどうにも…………」


 アイリネシアの言葉を聞いて、羽月は空を見上げた。HATOはもう点にしか見えないほど高くまで上がっている。


「ったく! 篝! あんたがしっかり仕留めないからだよ!」


「あ、あたしのせいじゃないでしょ! シゲよシゲ! シゲがあんな役に立たない武器を渡すのがいけないのよ! 敵がいたらアレを打ち込めば大丈夫って、シゲが言ったのよ!」


 篝は地面に捨てたバズーカを指差す。羽月は頭をかいた。


「あぁもう! 誰が悪いとかどうだっていいんだよ! どうにかしてアレを落とすか、アレを追いかける方法を探しな!」


「人にやれって言うだけじゃなくて、羽月も何か考えなさいよ!」


「考える! 考えるさ! でも変な技術とか持ってるあんたらのほうが、色んな方法を持ってるだろ!」


「空飛ぶ剥製でも作れっていうの? そんなことしてる時間ないわ! それに、考えるのはシゲの仕事でしょ! こんなときにシゲはどこに――」


 篝が言葉を止め、森を見た。距離は五〇メートルほどといったところか。


 羽月もその先を追う。


「なんだい?」


「いま、何か動いたような気がしたんだけど」


 それは気のせいではなかった。少し奥に見える大きめの木が揺れたのだ。


 アイリネシアがみんなと森の間に立った。


「なにか近づいて来てます」


 アイリネシアの頭に一番に浮かんだのは倒したはずのシロクマだった。腰の輪っかに手を当て、構える。


 白い体が木々の隙間から見えてきた。


「来ますっ!」


 アイリネシアは腰の輪っかをシロクマらしきそれにむかって投げる。木の間から出てきたのは白い大きな箱だった。


「あれぇ……?」


 アイリネシアに見覚えはなかった。それの上半分はガラスのようになっていて、輪っかはそこを貫く。ガラス部分は細かくひび割れ、真っ白になる。


 白い箱は大きく蛇行し、最後に横転した。


「あ、あれはなんですかねぇ? でも一撃で倒しましたっ!」


 控えめに胸を張るアイリネシアの頭を、篝が後ろからはたいた。


「バカ! 何やってんのよ! あれは――」


 アイリネシアが見慣れないそれも、他の面々にはそれなりに見慣れたものだった。


「あれは軽トラじゃない!」


 白い軽トラ。町中を離れれば畑や果樹園が広がる金裾町ではあまり珍しくない車だ。車には必ず運転手がいる。


「噂をすればってやつね」


 篝が軽トラに向かって走り出すと、掬が車から降りてそれを追った。アイリネシアも慌ててその後を追う。羽月も車から降りた。


 篝が軽トラの近くまで行くと、上になっているドアが開き、にやけ顔が出てきた。


「ああ、びっくりした」


「シゲ! どこ行ってたのよ! 大変なんだから!」


「そんなに怒らないでよ。車で森を抜けるのってけっこう大変だったんだから」


 シゲはゆっくりとした動作で体を出し、荷台の方を見た。


「大事なものを回収してきたんだけど、転んだ拍子に落ちちゃったね」


「なによ? 大事なものって」


 篝は荷台側へとまわった。荷台は完全に横になり、何も残っていない。すぐ下にも何も落ちていなかった。


「なにもないけど――」


 近くを見渡していると、一〇メートルほど離れた場所に麻袋が落ちていた。


「あれかしら?」


 篝は近くまでいき、袋に手を入れて中のものをつかんだ。


「結構重いわね」


「手伝いますっ」


 アイリネシアが横に並び、麻袋に手を入れた。篝はうなずいて息を吸う。


「「せーの!」」


 掛け声に合わせて中のものを引っ張り出した。それは白いシャツと――


「きゃあ!」


「わわっ」


 篝はその姿に悲鳴を上げて手を離し、アイリネシアは篝の悲鳴に驚き手を離した。半分ほど袋から出たそれ――頭のない体が地面へと倒れる。


「ああ! 僕の体!」


 篝の後ろに立つ掬の腕の中で、景が声を上げる。掬の横にシゲが立った。


「掬くん。すぐに直して上げてよ」


 掬はこくこくとうなずき、スカートからレースを引き抜きながら景の体の横に座った。シゲはそれを確認すると、篝に目を向ける。


「篝くん。さっき『大変』って言ってたけど、それは結晶が敵に持っていかれちゃったってことかな?」


「そ、そうだけど……」


 篝の声は小さかった。シゲはにやけ顔を変えずにうなずく。


「輸送機かそれに値するものに、ボクの渡した弾を当ててくれたかな?」


「当てたわよ。ちゃんと当てたけど、あんなの全然役に立たないじゃない。あの弾ったら刺さっただけで、爆発とかしなかったわよ」


「うん。あれはそれでいいんだ。じゃあ……」


 今度はアイリネシアを見る。


「君のスーツを貸してくれるかな?」


 アイリネシアは突然声をかけられて、体を硬直させた。


「い、いいですけど……なにに使うんですかぁ?」


「景くんが着て、輸送機を追いかけるんだ」


 シゲが空を見上げた。もうHATOの姿は見えない。アイリネシアも同じように見上げる。そして何かに気づいたようにシゲに視線を戻した。


「お、追いかけられるんですかっ! ならわたしが行きますよっ! 結晶を取り戻すって、景さんと約束したんです!」


「悪いけど、君を行かせることはできないよ」


 シゲが首を横に振ると、アイリネシアは顔を落とした。


「そ、そうですよね……。わたしなんかを、信用なんてしてくれませんよね」


「そうじゃないって言ったら嘘になるけど、ボクは君が箱舟に見捨てられると思ってたから、いずれ味方になってくれるってわかってたよ」


 アイリネシアの顔が一気に明るくなる。


「じゃあ――」


 シゲは首を横にふって、アイリネシアの言葉を止めた。


「君はずいぶんと無茶をしてたから、もう体はボロボロのはずさ。痛みがないからわからないかもしれないけど、追跡が宇宙空間にまで及んだら君の体は耐え切れない。掬くんに修理してもらえる体でもないしね」


 シゲは掬の修理を受けている景を見た。


「それに、いつもみんなのために全力を尽くす景くんは、この失敗できない作戦には適任だと思うんだ」


 アイリネシアも景に目を向け、にっこり笑った。


「そうですね。わたしも景さんならできると思います。景さんにこのスーツを預けます」


 アイリネシアは首の裏側に手を当てた。すると炭酸のペットボトルを開けたような音がして、ぴったりとアイリネシアにくっついていたスーツが緩む。スーツの首元が大きく開いて下がり、アイリネシアの白い肩が見える。アイリネシアが手を抜き出すとスーツは更に下がり、圧迫されていた豊かな胸を――


「ちょっと!」


 篝がスーツをつかんで引っ張り上げた。


「ほぇ?」


「『ほぇ』じゃないわよ! 下に何も着てないじゃない! こんなところで脱いだら景とかシゲに見えちゃうでしょ! こっち来なさい!」


 篝はアイリネシアを引っ張り、森へと入っていく。


 シゲが周りを見渡すと、羽月は零戦の残骸の近くに立っていた。


「こんなときだっていうのに、みんな勝手だなぁ。だから面白いんだけどね」


 シゲは麻袋を景の体から引き抜いた。景の足の近くにクマのぬいぐるみが落ちる。


 麻袋を持って、シゲは零戦の残骸に向かって歩いていった。

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