第4話 世界で一番臆病な剥製【1/3】
「ああ、WEBのことだね」
夜明けの食堂でシゲは静かに笑った。景は隣に座る篝を目でうかがう。篝は首を横に振った。
「あたしも詳しくは知らないわ。『ウェブ』って呼ばれてたの? 紛らわしい名前ね」
篝はもう落ち着いている。光が落ちてからしばらくは何かに怯えるようにしていたが、展望塔から降りてきた掬の顔を見て、明かりが灯ったかのように笑顔を見せた。明りを灯した掬は篝の膝で宍色の髪をモフモフされている。
抵抗せずこそばゆそうな笑顔を見せる掬に、シゲは変わらない笑みを向けた。
「ワールド・エンド・ボーナス。その頭文字をとってWEBって呼ばれてたみたいだよ。篝くんはボーナスって言われる前に剥製にされちゃったのかな?」
掬は首を傾ける。篝は掬の頭を両手でつかみ、傾きを修整した。
「そうね。どんどん人が死んでいくだけで、絶望しかなかったわ。あの状況をボーナスだなんて、狂った人間が言ったとしか思えないわ」
景は思わず立ち上がった。
「ど、どういうこと? 人がどんどん死んでいくだけって……何があったの?」
篝と掬は同時に景を見上げた。
「詳しくは知らないって言ったじゃない。あたしはただ、人がどんどん死んでいくのを見てただけ。景のおばさんだってあたしが看取ったんだから」
「ぼ、僕の母さんも……?」
「そうよ。いつか景が帰ってきたらって、あたしにお願いしながら亡くなったわ。あたしの両親――育ての親はもっと早く死んじゃったし、景のおじさんがどうなったのか知らないけど、帰ってきた景が一人にならないようにってね」
篝の膝から掬が降りた。掬は景の肩に手を置いて、景をイスに戻す。そして、その膝に座って体を擦り付けるように体を寄せた。
「って! なにやってんのよ!」
篝が掬の腕をつかんだ。
「降りなさい! あたしの膝でいいでしょ? こっち来るのよ。ほら」
篝は空いた左手で自分の膝を叩く。掬は頬を膨らませ、首を横に振った。篝はつかむ手に力を入れたが、掬はそれに逆らいながら体を景に押し付ける。
景は思わず口元を緩めた。
「景もヘラヘラしてんじゃないわよ! ぶっ飛ばすわよ!」
「べ、別にヘラヘラなんて……」
篝に檄を飛ばされても、景の口元から笑みは消えなかった。掬がすぐ近くでそれを見上げる。
「景。元気になった」
「そう……かな? ありがとう。心配してくれたんだね」
景は掬を抱きしめたい衝動に駆られたが、篝の鋭い視線がそれを抑え込んだ。景は手持ちぶさたになった両手で、掬の頭をかき回すように撫でた。
その光景を変わらぬにやけ顔で眺めていたシゲに、景が目を向ける。
「それで、WEBって言ってましたよね? シゲさんは何があったのか知ってるんですか?」
「ニュースとインターネットで知った程度だけどね。経験したことは篝くんとそう変わらないよ。それでもよければ、なんでも聞いて」
「お願いします。僕が剥製になった後、金裾町で何があったんですか?」
景の強い言葉に、シゲはうなずいた。
「金裾町だけで起きたことじゃないんだけどね。景くんは裏山に隕石みたいなのが落ちたのは知ってるかな?」
「隕石……ですか? 知らないと思いま――」
景は先ほど感じた揺れを思い出した。いま思えば、あの光も隕石だったのかもしれない。そして景は似たような揺れを生前に経験している。
「そうだ。掬にナイフを向けられてるとき。さっきみたいに地面が揺れて、窓ガラスが割れたんだ。あれってもしかして、隕石だったんですか?」
「そうかもしれないね。隕石は金裾町だけじゃなくて、同じ日に世界中のあらゆる場所に落ちたんだ。それこそ、世界が終わるみたいにね」
景は右腕を握られ、無いはずの心臓が縮む感覚に襲われる。隣に座る篝がイスを寄せて、景の腕に触れていた。しかし篝の目はシゲからそらされていない。
景は質問を続けた。
「隕石の衝撃で人がたくさん死んだんですか?」
「いや、衝撃での被害は窓ガラスが割れる程度だったよ。他の場所では家に直撃したりとかもあったみたいだけど、被害者の人数なんてたかが知れてる。人が死に始めたのはその後さ」
人が死に始めた。そんな話をするシゲの表情はいつも通りのにやけ顔で、まるで映画の話をしているようだった。景も昔に観た映画を思い出す。
「じゃあ、隕石で環境が変わってしまったとかですか?」
「そんなこともないよ。落ちてすぐには、驚くほど変化はなかったんだ。それなのに突然具合が悪くなる人が増えて、そのまま死んでいった。まるで命を抜かれていくようにね」
景の腕を握る篝の手に、力が入る。
「あたしのパパもママも、景のおばさんもそうやって死んだわ。病気でもないって話だったと思ったけど」
「そうだね。未知の病原菌が疑われたけど、死んだ人からは病原菌どころか、常在菌すら見つからなかった」
聞き覚えのない単語に、景は首をかしげる。
「『じょうざいきん』ですか?」
「そう。人間の体にいるはずの菌すら見つからなかったんだ。人が死んだのと同じ理由で死滅したんじゃないかって言われてたね。人や動物が死ぬぐらいだ。小さな菌なんてイチコロだったろうね」
実感の湧く話ではなかった。景の中で菌といえば、食中毒や風邪などの病気を引き起こす病原菌だ。それらも死んだのだと理解するので精一杯だった。
「よくわからないんですけど、もしかして、菌が死んで病気がなくなったから『ボーナス』なんですか?」
「おもしろい意見だけど、どんな流行り病よりもたくさんの人が死んでいったからね。それじゃあボーナスにならないよ。ボーナスはもっと劇的に生活を変えるものだったんだ。今のボクらもその恩恵をうけてる」
「僕たちも……ですか?」
景は目が覚めてからの生活を思い返した。物は食べていないので食べ物ではない。服はもともとあった物だし、この屋敷だって景が生きているときからある。
「なんだろう……掬はわかる?」
膝に座る掬と目を合わせる。掬は顔を傾けた。
「なんで掬に聞くのよ。掬がわかるわけないでしょ」
篝が景の腕を引いた。自然と景と篝の目が合う。
「じゃあ篝はわかるの?」
「当然でしょ。これよ」
篝は後ろのポケットから折り畳み式のゲーム機を取り出して、テーブルに置いた。景はそれを手に取ってみる。
「ゲーム機? これは僕たちが生きてたときからあるじゃないか」
「頭悪いわね。それが何で動いてるかって話よ」
「そんなの電気に決まって……あっそうか」
「そうよ。今はもう、電気を作ってくれる人なんていないわ。それでもゲーム機は動いてる。充電もしてないのに」
篝が目で確認すると、シゲはゆっくり頷いた。
「その通り。正確には、世界に謎のエネルギーが満ち始めたんだ」
シゲが手を伸ばし、景からゲーム機を受け取った。
「最初は誰も気づかなかったんだけど、雑音マニアっていうのかな? そんな感じの人がマイクに入った雑音から気づいたらしいよ。『電磁波に似た何かが飛び交ってる』ってね。結局その正体がわかることはなかったけど、それは突発性非物質エネルギー体……だったかな。それの頭文字をとってCOMETって呼ばれてた。COMETは電気に変換しやすいエネルギーだったんだ。ボクでも変換できるぐらいにね」
シゲはゲーム機を裏返し、底に当たる面をひとさし指で軽く叩いた。そこがバッテリーの入っているはずの場所だと、景にもなんとなくわかる。
「シゲさんがゲーム機を使えるようにしてくれたんですか?」
「そうだよ。ボクが掃除機を使えるようにしたってどこかで知ったみたいで、篝くんが自分のゲーム機と景くんのゲーム機を持ってきて――」
机が音を立てて小さく揺れた。篝のこぶしが机に置かれている。
「と、とにかく! それぐらいでボーナスとか言っちゃう人は結局狂った人間なのよ!」
篝が突然息まいた。景と掬は目を見開いて篝を見たが、シゲは表情をにやけ顔から変えない。
「そうかもしれないね。たしかに生活は豊かになりそうだったけど、皮肉の意味合いが強かったみたいだから。現に、こうして地球の生物は滅びてしまったわけだし」
「戦争で滅びたとばかり思っていたが、そうではなかったのだな」
部屋の隅から威勢だけはある声がする。景、掬、篝、シゲの視線が集まるその先で角に追いやられたかのような目日田と、その後ろに隠れる羽月がいた。もちろん羽月の腕には翼が抱かれている。
シゲはにやけ顔で笑いかけた。
「二人ともそんなところにいないで、こっちで一緒に話そうよ」
羽月が目日田の後ろからしかめっ面を出す。
「そいつの髪を隠しな! なんのためにベールを作ってやったと思ってるんだい!」
景は目の前にある掬の頭に目を向けた。宍色のきれいな髪がそこにある。
「そういえば、掬。あれどうしたの? 髪隠すやつ」
掬は景を見上げ、顔を傾けた。
「なくしちゃったの? ダメだよ。大事にしないと」
「んなわけないでしょ。ここにあるわよ」
篝が膝の上から黒い布をとり、立ち上がった。
「あたしはこれ無いほうがかわいいと思うんだけど」
文句を垂れながらベールを掬につける。景は苦笑いを浮かべた。
「そういう問題じゃないと思うけど。それに……」
景は体を少し倒して、ベールを被った掬の横顔を覗き見る。
「僕はこれはこれでかわいいと――」
篝は景の頬をつねり上げて体を起こさせた。
「あまり調子に乗ってると、しばき倒すわよ」
景の苦笑いが楽しげな笑みに変わっていた。シゲはいつものにやけ顔でそれを見た。
「楽しそうだね。もう少し見ていたいけど、ボクはこれから昨日落ちた隕石を見てくるよ」
篝が景から手を離した。
「待って。あたしたちも行く。世界を変えた隕石を放ってなんかおけないわ」
「いいけど、今回の隕石がCOMETをもたらした隕石と同じものかわからないよ?」
遠くで机が叩かれた。大きなテーブルの端で目日田が両手をついている。
「だが世界を滅ぼした隕石と同じものなのかもしれんだろう! 危険すぎる!」
「遠くからうっさいわね。別に目日田は来なくていいわよ」
「自分も貴様の心配などしていない! どうせ景も連れていくつもりなのだろう!」
景は突然名前を出され、自分を指差した。
「僕ですか? 僕も少し興味があるので行こうかなと思ってますけど」
「な、なんだと……?」
目日田が硬直していると、その横を羽月が通り過ぎた。
「危険なものなら、なおさら確認しておくべきだろうさ」
羽月が合流すると、景たちは食堂から出ていった。目日田一人が取り残される。
「……じ、自分も行くぞ!」
目日田は全速力で食堂から飛び出した。
※ ※ ※
日は見上げるほどに高くなった。正午は過ぎていないだろうが、まだ住宅街を抜けたところで、振り返って丘を見上げれば童中の屋敷が見える。隕石の落ちたと思われる隣町まで歩けば、日が落ちてしまうだろう。
「あれ? こんなのあったっけ?」
景が見上げる先に、プレハブで組まれた見上げるほど大きい建物があった。見慣れた建物では体育館が近い。だが――
「体育館……じゃないよね?」
「ばかみたいなこと言ってんじゃないわよ」
篝が振り向いた。景は苦笑いを浮かべる。
「はは……そうだよね。篝はなにかわかる?」
「当然よ」
篝は正面を向き、建物を見上げた。
「これはあれね。えっと……」
ちらちらっと、隣の掬をうかがう。だが掬は顔を傾けるだけだ。
「あ、いま掬に言わせようとしたでしょ? ずるいよ」
「ち、違うわよ。ちょっとど忘れしただけ。ずっとこの町に住んでたんだから、見たことあるに決まって――」
シャッター特有の悲鳴に似た開門音が篝の声をさえぎった。バドミントンコート程のシャッターが上へと開く。
暗い屋内に、垂れ下がった鎖に触れるシゲの姿があった。
「うん。うまくいったね。ここを開けるの初めてだったから、少し心配だったんだ」
シゲは満足気に開ききったシャッターを見上げる。景は中に入り、シゲと一緒に見上げた。
「鎖でシャッターを上げたんですか。ずっと放っておかれてたのに、動くものなんですね」
「うーん。確かに放っておいてはいたけどね。ここは一からボクが作った建物だから、景くんが思ってるほど古くないんだよ」
景は建物の外で頬を引きつらせている篝に目を向けた。
「あれ? さっき篝が見たことあるって……」
「う、うるさいわね! なんか見たことある気がしたのよ! 文句あるわけ!」
景は首を横に振った。掬が篝と向き合い、頬を膨らませる。
「な、なによ。掬もあたしが悪いって言いたいわけ?」
掬はうなずく。篝が言葉に詰まっていると、建物の中から白い影が音もなく飛び出した。影は空を一回りすると、静かに掬の頭へと降り立つ。
景は影に見覚えがあった。
「あ、僕のフクロウ」
白く小さなフクロウは、篝を見て頭を傾けた。
「なによ! フクロウまであたしをバカにするわけ? いいじゃない! 人間一つや二つ間違えることもあるわよ! それを責めたてるなんて、外道がすることよ!」
「べつに責めたててるわけじゃないけど……」
景は苦笑いを浮かべる。
「邪魔をする」
目日田が篝の横を通り、建物の中へと入った。
「なぜこんな場所にきたのだ? 境界へとむかうのだろう?」
「遠くに行くなら乗り物があった方がいいと思ってね」
シゲが建物の中で先ほどとは別の鎖を引くと、いくつもの天窓が開いて建物の中を照らす。建物内には大小さまざまな何かが布で覆い隠されていた。小さいものは人と同じくらいだ。
「車とか飛行機なんかもあるんだけど、みんなで乗るならやっぱ列車だよね」
シゲは最も大きな布に隠されているものに近寄った。バスより少し大きいくらいで、箱のような形をしているのが布越しでもわかる。
「列車とは汽車のことだろう。この箱に汽車が入っているのだな?」
「いやいや、それは箱じゃなくてね」
シゲが布に手をかけ、一気に引き抜いた。布に隠れていたのは二両連結の電車だ。オレンジ色の車体に緑のラインが入ったその姿は、景や篝には見慣れたものだった。
目日田は電車を見上げて、感嘆の声を上げた。
「ほう……面白い車両ではないか。だがこれは旅客車両だろう? 動力機関を積んだ牽引車両はどこにあるのだ?」
「ないよ。列車はこれで全部さ」
「なにを言っているのだ? 汽車で隣町まで行くのだろう? 旅客車両だけでは走らないではないか」
目日田の言葉に『?』を浮かべたのは景と篝だった。もちろん食いついたのは――
「なに言ってんのよ。電車はこれで走るでしょ」
篝だ。篝相手ならば目日田も黙っていない。
「機関車なしでどう走るというのだ? 馬でも使って引くつもりか? これほどの大型車両を引くとなると、相当数の馬が必要だぞ? そんな馬がどこにいるというのだね」
「は? あんた何言ってんの。なんで電車を何かで引っ張らないといけないのよ」
目日田は深くため息をついた。
「これだから女子はいかん。物の構造というものがわかっていない」
「なによそれ! じゃああんたは電車の……いえ、屋敷の中を走り回ってる掃除機の構造がわかってるっていうの!」
目日田は眉をひそめて固まった。
「地を這っている円盤のことか? なぜあんなものの話になるのだ」
「うっさいわね! なんか電車に詳しそうだったから他のにしたのよ。それで、どうなの? わかるわけ?」
「知るわけがなかろう。あんなものの構造を知ったところで、何の役にも立たないではないか」
「それよそれ! 電車だって同じじゃない!」
「同じではない! あんな大きな物がなぜ走っているのかわからなかったら怖いではないか!」
「そんなの――え?」
口数だけは達者なはずの篝の言葉が途切れた。それを合図に時間が止まる。全ての者が言葉を失い、目日田を見ていた。掬だけが顔を傾ける。
「ぷ…………ぷぷっ」
静寂を破り、時間を動かしたのも篝の声だった。篝はつい吹き出してしまった口元を右手で押さえ、左手で腹を抱えた。
「な、なにがおかしい!」
「おかしいわよ……だって、電車が怖いだなんて……ぷぷ」
篝は体を震わせて、口を大きく開いてしまわないことに全力を注ぎながら笑った。生身の体だったら、涙がこぼれていただろう。
目日田も体を震わせ始めた。だが心中は篝とは正反対だ。
「く……黙っていれば!」
目日田は右手を握りしめ、振りかぶった。
「やめな!」
高いが力のあるその声は、プレハブの建物によく響いた。目日田は握った手をそのまま降ろし、声のした入口に顔を向ける。
「は、羽月さん……なぜ止めるのだ! ケンカを売ってきたのは童中の方なのだぞ!」
「何言ってんだい。『これだから女子はいかん』だっけ? 聞こえてないとでも思ってた?」
羽月の目はこれまでで一番冷たかった。ただならぬ気配に目日田は握っていた手をほどき、大きく横に振って否定の意思を精一杯表現する。
「ち、違うのだ! それは言葉のあやであって、決して女性一般を否定したわけではない!」
「どっちにしたって同じさ。ケンカを売ったのは目日田。あんたの方だろ。言い合いに負けたからって手を出すなんて情けないよ」
「し、しかし……」
「なんだい? 篝が悪いとでも言うつもりかい? 確かに篝はあんたにとって嫌なことを言ったかもしれない。でもそれは事実無根なことじゃないだろ? 受け止めなきゃいけない事実を黙らせるために手を出すなんて、それこそ臆病者のすることだよ」
「お、臆病者……」
目日田は顔を下げ、黙ってしまった。羽月はしばらく目日田の様子を伺っていたが、しばらくすると横を通り抜けた。
「電車で隣町に行くんだろ? さっさと出ないと、暗くなる前に帰れなくなっちまうんじゃないかい?」
「そ、そうであった」
目日田が顔を上げる。
「結局のところ、汽車は動くのか? 動かなければ隣町へ行くどころではないだろう」
「うん。大丈夫だよ。あれに運転席もついてるんだ」
シゲがにやけ顔を目日田に向ける。目日田は振り向き、電車を見上げた。
「ならば自分が運転しよう。汽車の心得なら多少ある。景、手伝ってくれ」
※ ※ ※
電車の運転席に立ち、目日田は震えた。
「なぜこんなにも狭い……? 焚口は……加圧弁操作輪はどこにある!」
「あの……大丈夫ですか?」
同じく運転席に立っていた景が目日田の手元を覗き込む。目日田は運転台に両手を載せているだけで、何かを操作する様子はなかった。
「もしかして、運転できそうにないですか?」
「く……自分の知っている汽車と運転席の構造が違うのだ。このままでは運転できん。自分で運転すると言っておいて、恥ずかしい話だがな」
「いえ、そんなことないですよ。僕だって運転できないんですから。シゲさんに話を聞いてみましょう。電車を動くようにできたんだから、運転の仕方も多分知ってますよ」
景は振り向き、客席を見た。車両は長い席が壁に沿って並ぶ、乗り慣れた車両だった。シゲは右奥の席に座っている。
「シゲさ――」
艶やかな黒髪が景の言葉をさえぎった。景がほんの少し視線を下げると、吊り上がった大きな目と目が合う。
「か、篝……? どうしたの?」
「この子が『景、景』ってうるさいのよ」
さらに視線を下げると白く小さなフクロウが、さらに下には独特の髪色を隠すベールと、無垢な輝きを放つ大きな黒い瞳があった。
「あーうん。ごめんね掬。今は少し忙しいから、後でいいかな?」
掬は頬を膨らませ、景のシャツをつかんだ。景が一歩下がれば、掬は運転室に入るだろう。
その事実に一人の男が震えた。
「ま、待つのだ! ここは狭いだろう! 入って来ないでくれたまえ!」
「うっさいわね。ならあんたが出ていけばいいじゃない」
篝が背伸びをし、奥にいる目日田を見て答える。目日田は一瞬だけ怯んだが、口は閉じない。
「な、何を言っているのだ。自分が出ていったら誰が運転するというのだ」
「なに言ってるのはこっちのセリフよ。運転できないんでしょ? 聞こえてたわよ」
「く……だが、自分が運転しなければこの汽車は動かないではないか。自分が出るわけにはいかん!」
「そうかしら? ちょっとどいて」
篝は掬の背中を押して、景もろとも運転室の右角に追いやった。景と掬の体が密着する。だらしなく弛んだ景の頬をひとつねりしてから、篝は運転台の前に立った。
「うん……だいたい一緒ね。これならあたしが運転できるわ」
篝はアクセルレバーとブレーキレバーに手を置いた。目日田がその肩をつかむ。
「たわ言をぬかすな。汽車の構造すらわからない小娘に運転できるわけがなかろう」
「できるわよ。ゲームで何度も運転してるんだから」
篝はレバーを前後に動かし始める。電車はなんの反応も見せない。目日田は眉をひそめた。
「げ、げえむ……だと? わけのわからない言葉を使って誤魔化さないでくれたまえ。動かないではないか」
「まだ感触を確かめてるだけよ。ゲームも知らないわけ? いったい何して生きてきたのよ。まぁいいわ。これから動かすから」
篝は肩を振って、目日田の手を振り払う。目日田は言葉を失い、目をそらす。その先には掬に抱き付かれた景がいた。景はそれを目日田からのメッセージだと受け取り、小さくうなずく。
「篝、僕も不安なんだけど。ゲームで覚えた運転って大丈夫なの?」
「大丈夫よ。再現度が高いって評判のゲームだったし、レバーとかも専用コントローラーとほとんど同じだから。それに……」
篝はキーを回しながら、にっこりと笑った。
「あたしたちは剥製なんだから、ちょっと事故っても大丈夫でしょ?」
※ ※ ※
速度計は五十キロを示していた。だが見慣れない運転室からの風景と、運転しているのが篝だという事実が体感速度を大幅に上げている。
「篝! あまりスピード出さないでよ!」
「わかってるわよ。全然出してないでしょ」
ゲームでの仮想体験を済ましている篝は冷静だった。だが全くストレスがないわけではない。
「なんで……なんでこんな狭いところで運転しなきゃいけないのよ!」
篝は両隣に文句を飛ばした。左には目日田が、右には白いフクロウとその下に掬が、さらにその奥に景。狭い運転室に四人と一匹がそろっている。
「窮屈なのよ! とりあえず目日田! あんた出ていきなさい!」
「そ、そうはいかない。いざというときのために、自分が運転方法を覚えておくべきだろう」
目日田は後ずさりを続けるように背中を壁に押し付け続ける。篝はその姿を一瞥し、鼻で笑った。
「そんなんで運転が覚えられるわけ? 掬が怖いならさっさと出ていけばいいじゃない」
「こ、怖くなどない」
「ふーん」
篝は正面を見た。
「ねぇ掬。あたしと場所変わらない?」
目日田が窓に後頭部を叩きつけた。
「ま、待つのだ! こっちは狭い!」
「ん……」
目日田の泳ぎ回る目と、掬の無垢な目が合った。掬が景の腕を抱き、正面へと目をそらす。
「いや」
景が言われたら深く落ち込みそうな拒絶の一言であったが、目日田は安堵の息とともに体の力を抜いた。篝はにやりと笑う。
「掬が景のいるほうから動くわけないじゃない。ちょっと考えればわかるでしょ?」
「貴様ら童中の考えることなどわかるものか……」
目日田の無意識の一言に、篝の機嫌がさらに悪くなる。
「あたしからすれば、目日田の考えてることの方がわからないわ。せっかく羽月と話すチャンスなのに、こんなところで人の運転を眺めてるんだもの」
「な、なぜ自分が羽月さんと話さなければならないのだ!」
目日田の体にまた力が入る。震える指先は意識すればするほど強く震えた。生身の体であれば顔は真っ赤に染まっていただろうと、目日田自身でも想像できる。
篝はその様子を目だけを動かして確認し、黒い笑みを浮かべた。
「そんなの簡単よ。好きなんでしょ? 羽月のことが」
「えぇ! そうなんですか!?」
大きく反応したのは景だった。操縦室の右隅に寄せていた体を少しだけ目日田の方へ乗り出す。景に密着していた掬の体も一緒に左へと流れ、篝の右腕に触れた。
「ちょ、ちょっと……!」
篝の右手で握っていたブレーキレバーがひねられ、電車の速度が一気に落ちる。Gに備えていなかった四人の体は前へ引っ張られた。フクロウが掬の頭から飛び上がる。
「わっ、危ない……!」
景は運転台と掬の間に体を滑り込ませた。掬の体は景の胸へと倒れ込む。景はそれを確認しつつ、後頭部をフロントガラスに打ちつけた。目日田はガラスに手をついてこらえる。篝は運転台にしがみつくようにして耐えながら、ブレーキレバーを戻した。
景たちを前に引いていたGは一瞬で消え、電車は加速して元の速さを取り戻す。
篝は体を起こし、吊り上がった目を景に向けた。
「なにが『危ない……!』よ! あんたが動いたからこうなったんでしょ! こんな狭いところではしゃぐんじゃないわよ! それと、ニヤニヤしない!」
篝は景の足を蹴る。景は自覚なく上がった頬に自分で触れ、軽くほぐした。
「ごめんごめん。驚いちゃって」
「景……驚いたの?」
掬が景にぴったりと体を寄せたまま、顔を見上げた。フクロウが掬の頭の上に戻り、一緒になって景を見上げる。
景はそれを見て、先ほどとは違う優しい笑みを見せた。
「そうだよ。目日田さんが羽月さんのことを好きなんだって」
「こ、こら! あまり大きな声で言うな!」
目日田が客室に目を向けながら叫んだ。口に人差し指を当てているが、景の声よりも目日田の声の方が圧倒的に大きかった。
篝が鼻で笑う。
「どこまで意気地がないのね。待ってるばかりじゃ何も変わらないわよ。景を見てみなさい。誰もが撃沈した掬に何度もアタックして……」
篝は思い出したかのように景を見た。そして思いっきり景の足を踏む。景に痛みはなかったが、足先への圧迫感はそれを思い出させた。
「ええっ! いきなり何するんだよ!」
「うっさいわね! 思い出したらなんかイラッとしたのよ!」
篝はそっぽをむいた。たまたまその先にいた目日田が怯んで、背中を壁に当てる。
篝は咳払いをした。
「ともかく、好きなら積極的にならないとこのまま終わっちゃうわよ。掬みたいにライバルの多い相手じゃないけど、羽月は恋愛する気なんてさらさらないんだから。あんたが恋させなきゃいけないのよ」
「こ、恋を……!」
目日田は体が芯から熱くなるのを感じた。
「き、君は……そんなことを言って恥ずかしくないのかね!」
「恥ずかしくなんてないわ。むしろ目日田。あんたは逃げてばっかの自分を恥じるべきよ」
篝の瞳はいたって真面目だった。からかう気はないのだと、目日田は篝の言葉を正面から受け止め、うつむいた。
「そう……かもしれんな。自分は臆病者で、逃げてばかりだ。ここに……金裾町にも自分は逃げてきたのだからな」
「な、なによ急に元気なくしちゃって。落ち込むぐらいなら今すぐにでも行動しなさいよ」
篝はちょっとした罪悪感逃げるように正面を向く。目日田は首を小さく横に振った。
「それはできない。自分の羽月さんへの想いは、恋心などではないのだ」
「じゃあなんだっていうのよ?」
篝は運転が忙しいといった様子で、目日田を見ない。目日田は電車の正面に目を向け、空を見上げた。
「自分は、羽月さんにあの人の影を見ているだけなのだ。
「纏……? 詳しく話しなさいよ。暇つぶしくらいにはなるでしょ」
目日田はうなずいた。
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