第2話 世界で一番優しい剥製【1/2】
昼食という話だったが、テーブルに食事らしきものはおろか、カップの一つすら置かれていない。
「誰かが料理を作ってるんですか?」
景がたずねると、隣に座るシゲは手を横に振って否定した。
「いや、ボクたちは剥製だからね。食べ物は食べられないんだよ。だから食べるフリ……っていうのも悲しいから、こうしてご飯代わりに集まって話をするんだ」
「ああ、そうだとも」
相槌をうったのは景の正面に座る姿勢のいい学ランの男だった。朝、屋敷の出口を教えてくれた坊主の男だ。
「剥製になろうとも、我々が人間であることに変わりはない。たとえ必要がなくとも、人間らしい生活を続けるのは当然のことだ」
その隣に翼を抱えた羽月が笑った。
「出た。
「よ、よいではないか。今の我らにとって、最も大事なことだろう」
学ランの男は少し顔を赤らめる。
「彼は目日田くん。甲子園を目指す高校球児って感じの真面目な男の子だよ」
シゲに紹介され、目日田は手を伸ばして手の平を見せる。
「よろしくたのもう。名は景……だったな。こんなに早く帰ってくるとは、君の足は常人離れしているようだ。それで、どうだね。境界を見た感想は」
「きょ、境界?」
「そうだ。境界――境目を見たから戻ってきたのだろう?」
「いえ。僕は篝に連れ戻されただけで、境界なんて心当たりも――」
景は空気が変わるのを感じ、言葉を止めた。目日田も羽月も言葉に困っているようだ。
「あの、何か……?」
景が気まずそうに尋ねると、目日田はゆっくりと口を開く。
「いや、単刀直入に聞こう。篝という娘とはどんな関係なんだね?」
「篝との関係……ですか?」
なぜそんな質問をされたのか。景にはわからなかったが、不穏な空気は感じ取れる。どう答えるべきなのか、少し悩んだ。
「そうですね、篝とは……幼馴染、みたいなものです。たまたま家が近所で学年が一緒だったから、小さい頃からよく遊んでて、それがまだ少し続いているというか、そんな感じです」
「なるほど。つまり、君は篝に殺されたのだな?」
「え? どうしてそうなるんですか? 篝はたしかに少しやりすぎなイタズラをすることはあるけど、人を殺すような――」
目日田が手の平を見せ、景の言葉を止めた。
「わかっている。それが童中のやり口なのだ。あたかも一般人のように立ち振る舞い、油断したところで牙を剥く」
「童中のって……篝の苗字は馬橋≪まばし≫です。篝は童中の人間じゃない」
景は思わず立ち上がった。その肩をシゲが掴んで座らせる。
「落ち着きなよ。冷静な君らしくない。確かに篝くんの苗字は馬橋で間違いないよ。でもね。目日田くんも嘘は言ってないんだ」
「どういう――」
景は背中に何かが寄りかかってくるのを感じて、言葉を止めた。目の前に白いフクロウが顔を見せる。それを支える細い腕は景の両肩越しに伸びていた。
「直った」
冷たい声が景の耳元で囁く。
「わぁ!」
景は背中にかかる体重を突き飛ばし、その反動で立ち上がった。イスの後ろで掬が尻餅をつく。イスの背もたれにフクロウがとまった。
「す、掬……? なんだよ。なんの用だよ」
「フクロウ直ったの」
掬は立ち上がり、フクロウの背中を撫でた。フクロウはこそばゆそうに目を細める。
「だ、だからなんだよ。いちいち僕に報告しなくてもいいだろ」
「景のだから」
掬はフクロウを両手で持ち上げ、景の方へと突き出した。フクロウは景の顔を覗き込む。景は首を横に振った。
「いらないよ。もう剥製はたくさんだ。もともとフクロウを買ったのだって、掬と話すきっかけが欲しかっただけで、フクロウが欲しかったわけじゃない。最初からいらないんだよ」
掬も首を横に振った。
「違う。景はフクロウを大切にしてた。フクロウは景が大好き」
「そんなの、掬が勝手に思ってるだけだろ」
掬はまた首を横に振る。
「景がフクロウを助けようとしたの、見てた」
「そ、それは……」
たしかにトラがフクロウに追撃しようとしたとき、景は『やめろ』と言った。
「あれはあまりにもむごかったから、つい止めちゃっただけで、フクロウを助けようとか、そんなんじゃ……」
「や、やめたまえ! 嫌がってるではないか!」
よく通る声がダイニングに響いた。だが声を出した目日田は席を離れて、部屋の隅へと逃げていた。そこに羽月と翼もいる。
掬がその場所を見た。
「うるさい……」
掬はフクロウを片腕で抱えなおし、スカートの中に手を伸ばす。
「ま、待って!」
景は掬の肩を掴んで止めた。
「わかった。わかったから。フクロウは僕が預かるから。直してくれてありがとう。これでいい?」
掬は小さくうなずくと、フクロウを腕から放った。フクロウはまっすぐ景の肩に飛び乗り、落ち着く。掬はそれを確認すると、満足気にもう一度うなずいた。そして景の左手を両手で握る。
「お話ししよ」
腕を引いたが、景は動かなかった。
「今は他のみんなと話してるから……その、また今度話そう」
景が慎重に言葉を選ぶと、掬は口を尖らせた。景は掬の両頬をつまんで引っ張り、尖った口を戻す。
「前にも言ったけど、それ、やらない方がかわいいよ」
掬は右手で唇を隠した。景が手を離すと、掬はそのまま部屋の外に走り去った。景はその先をしばらく眺め、掬が戻ってこないのを確認すると肩の力を抜いた。
「はぁ、疲れた……」
「さすが景くん。慣れてるね」
唯一、席から離れなかったシゲがニヤリと笑う。
「慣れてたらこんなに疲れませんよ」
景がテーブルに腰掛けるようにすると、フクロウは景の肩から降りてテーブルへと乗った。それを合図にしたかのように羽月と目日田がテーブルへと帰ってくる。
「あんた、肝が据わってるね」
羽月が翼をイスに座らせた。目日田はその横に立つ。
「ああ、驚いた。君は童中の少女が怖くはないのかね?」
「怖いですよ。僕は掬に殺されたんですから」
景は傷のあった左腕に触れた。わずかに筋張った感触があったが、気をつけなければつなぎ目はわからない。
「でも掬の機嫌を損ねたら、そっちの方が怖い」
「そうだな。いや、君の判断は正しい。だが頭でわかっていても、人は目先の恐怖を優先してしまうものだろう? 情けない話だが、あの状況で正しい判断を行える君がうらやましい」
目日田はこぶしを握り、奥歯をかみ締めた。
「さぁ、自分を罵りたまえ! 部屋の隅で怯えることしかできなかった自分を!」
「い、いえ、そんな……。僕は生前に掬と仲がよかったから、それで……やっぱり慣れてたのかな。僕も相手が全く知らない人だったら、何もできなかったと思います。それに、怖いから機嫌をとるっていうのも『情けない話』ですよ」
景はフクロウの左羽に触れた。付け根を探ってみるが、つなぎ目を見つけることはできない。
シゲがにやけ顔のまま笑う。
「あはは。景くんは中学生にして、もう女の子の尻にしかれてるんだね。うらやましいよ」
「笑い事ではなかろう! 景はことあるごとに、童中の少女の機嫌をうかがわなければいけないのだぞ! 年少者である彼に童中の少女を押し付け、のうのうと生活することなどできん!」
目日田は握ったこぶしをテーブルに叩きつけた。翼が体を震わせ、羽月がその頭を撫でる。
「やめなよ。あの子は景がお気に入りみたいだし、わたしたちにどうこうできるもんじゃないだろ。余計なことしたって、景の負担を増やすだけだよ」
「くっ……だが、しかし……! くそ! 景よ。情けない自分を許してくれ。だが自分にできることならなんでも協力するつもりだ。さぁ、何でも言いたまえ」
目日田は右手を胸に当て、大きく左手を広げた。景は苦笑いを浮かべる。
「そ、そんなに気負わなくても……。じゃあ、境界だっけ? それについて教えてください」
「ああいいとも。だが百聞は一見にしかずだ。実際に見てみるのが早いだろう。明るいうちなら展望室からよく見える。行ってみようではないか」
目日田は天井を指差した。景はその先を見上げても、装飾された天井が見えるだけだ。シゲがゆっくりと立ち上がる。
「うん、じゃあ今日は展望室で話そうか。たまには自分たちの住む町を見ておかないとね」
「わたしはパス」
羽月が翼を抱き上げ、景を見た。
「なに、あんたが気に入らないってんじゃないよ。高い場所は翼が嫌がるんだ」
「いえ、すみません。気をつかわせてしまって」
景は小さく頭を下げる。
「気にしなくていいさ。あんたが不安なのはわかってるし、わがままを言ってるのはわたしのほうだからね。ここがどういう場所なのか、しっかり目に焼き付けてくるんだよ。ずっとここで暮らすことになるんだから。じゃあ、また夜に」
羽月は翼を抱えたままダイニングから出ていった。
「さ、展望室はこっちだ。ついてきたまえ」
目日田は右腕で羽月が出て行ったのとは逆のドアを示す。景は目日田に導かれて部屋を出て、シゲもそれについていった。フクロウは遅れて外へと飛び立つ。
その十数分後、誰もいなくなったダイニングにマスクをした掬が現れた。掬は部屋の中心まで歩き、その場所でゆっくりと一回転する。
「……いない」
掬はマスクの下で口を尖らせ、部屋から出ていった。
※ ※ ※
母屋から外廊下を渡った先の離れに、傾斜の強い螺旋階段があった。上にある円形の部屋はサッカーのセンターサークルほどの大きさで、全面に窓がある。
町の方角に、観光地などで目にする双眼鏡が設置されていた。
「この双眼鏡で見るの?」
「いや、その方向ではない。こっちだ」
目日田は双眼鏡からみて右側の少し離れた窓を指差す。景はその窓に近寄って外へ目を向けたが、視界の左側に町が右側に森が見えるだけで、特に変わった光景ではなかった。
「町と山の境目のことをいってるの?」
「そうではない。もっと遠くだ。これを使うといい」
目日田が学ランのポケットから小さな双眼鏡を取り出す。それを受け取った景は、予想よりもだいぶ重いと感じた。
双眼鏡を目の前にかざすと、目の底が痛くなるほどに景色が景へと迫ってくる。景は慌てて視界を上げ、視野を遠くにとった。森ははるか遠くまで続いているように見える。
「町のほうがわかりやすいかもしれんな。隣町が見えるか?」
「隣……?」
景は左へと双眼鏡を動かした。最初に目に入ってきたのは澄んだ青空だ。視線を下げると金裾町とそう変わらない町並みが見える――はずだった。
「町が……ない?」
正確には景の知る町並みではなくなっていた。いや、『町並み』ということすらできないかもしれない。
原型を留めている建物はほとんどなかった。土台とかろうじて残っている壁だったものと柱が、そこに家があったと教えてくれるのみだ。
「町跡――とでもいうのだろうな。少なくとも、もう人の住む場所ではない。ここからではわからんが、近くまで行けば森も似たようなものだ」
「どうして……いったい何があったんですか?」
景は双眼鏡を視界から外し、悲惨な光景から目をそらした。目日田は首を横に振る。
「わからん。自分が目覚めたときからこの有様だ。皆、一度は童中の屋敷を出ていくのだが、金裾と隣町の境まで行き、あの惨状を見て帰ってくる。さすがの君も、あそこに踏み込む勇気はないだろう?」
「ええ。でも、金裾もいつああなってもおかしくないってことですよね?」
景の一言に、目日田は苦笑いする。
「君は恐ろしいことを簡単に言うんだな。確かにそうだ。誰もがあえて口には出さないが、いつその時がきてもおかしくはない。だが、どうしようもないだろう。原因もわからない上に、それが徐々にやってくるのか、突然やってくるのかもわからないのだからな。逃げる場所もなく、備えることもできんのなら、不安に思うだけ損というものだ。君もあまり口にしないほうがいい」
「す、すみません……」
景が頭を下げると、シゲが目日田の肩によりかかった。
「あーあ。目日田くんが景くんをいじめてる。羽月くんに言いつけちゃおうかな~」
「い、いじめてなどいないし、羽月さんは関係ないだろう! 景も頭を上げてくれ。責めているわけではない。ただ、皆が君のように勇敢でないと理解してもらいたかっただけ――」
目日田は表情をこわばらせて言葉を止めた。目日田が顔を横に向けると、シゲと景の視線もその先に集まる。
そこでは宍色の髪とマスクが印象的な、時代錯誤なドレス姿の少女がちょうど階段を昇りきっていた。少女は備え付けの双眼鏡をまっすぐ見ており、景たちには気づかない。そしてそのまま双眼鏡の前まで行ってのぞき込む。
「……いない」
少女のその声に、男たちの時間が動き出す。目日田は転びそうになりながら少女から距離をとり、シゲはそれを見てにやけ顔を色濃くする。
そして景は――
「す、掬!?」
少女の名を呼んだ。
掬は双眼鏡から顔を離さず、四分の一だけ回転させて二つの大きなレンズを景へと向ける。
「いた」
「な、なんで掬がここにいるんだよ」
「景を探しにきたの」
掬は双眼鏡をもとの方向に戻してから、顔を離した。
「なんでここにいるってわかったんだよ!」
景が声を張ると、掬は顔を傾ける。
「そんなんじゃごまかされな――」
景の肩にシゲの右手が置かれた。
「まぁ、落ち着いて。掬くんはいつも、ここで景くんを探してるんだよ。双眼鏡をのぞいてごらん?」
シゲは掬のすぐ横にある双眼鏡を指さす。景はおそるおそる双眼鏡に近寄り、やはりおそるおそる顔を近づけた。覗いてすぐには何も見えなかったが、顔の位置を調節すると住宅地が見える。
「あれは……うちじゃないか」
視界の中心にあったのはまぎれもなく景の家だった。窓から見えるのは、さっきまで篝がゲームをやっていた机だ。
「ま、まさか……。ここからうちを見てたの?」
景が双眼鏡から目を外すと、にやけ顔を変えないシゲと目が合った。
「まさかも何も、ここの双眼鏡は景くんの家を見るために、掬くんが置かせたものらしいよ」
「うん……」
掬がこくこくと首を縦に振る。景は背中に冷たいものを感じつつも、殺される前なら喜んでいる自分がいたような気がして、苦笑いを浮かべた。
「お話、終わった?」
掬がマスクで半分以上隠れた顔を傾けた。景は反射的に『終わってない』と言いそうになったが、寸前で掬に手を掴まれて言葉を詰まらせる。無垢な瞳に見つめられ、景は観念した。
「うん。終わったよ。むこうで話そうか」
景は掴まれている腕をそのまま引いて、掬を階段へと誘導する。掬はこくこくとうなずき、景の後をついていく。
階段の上から「すまない」とつぶやくのが聞こえた気がした。
※ ※ ※
「どこかいい場所ある?」
景は掬を完璧にエスコートできるほど、屋敷内の土地勘はなかった。
「中庭」
掬は文句ひとつ言わず、窓の外を指差した。そこにはモノリス型の巨大なオブジェが置かれており、その近くに小さなテーブルとイスがいくつか置かれている。確かに話をするのにはいい場所のように思えたが、テーブルの一つに羽月と翼の姿があった。せっかく目日田から掬を離したのに、羽月たちのいる場所に入っては意味がない。
「他の場所にしよう。二人きりで話せたほうがいいでしょ」
景の提案に、掬はこくこくとうなずいた。
「お部屋があるの」
掬が先行を始め、景と立場が逆になる。景は掬に手を引かれるままに廊下を抜け、階段を上がった。二階の廊下は一階のものよりも少し狭い感じがしたが、それでも学校の廊下よりも広いぐらいで、二人が歩くのには十分すぎる。
「ここ」
掬が三つ目のドアの前で足を止める。
「掬のお部屋」
掬はドアを開けると、景を引き込んだ。部屋は学校の一クラス分程度はあり、景の家のリビングよりも広かった。だがそこには掬が五人寝ても広すぎる天蓋付きベッドと、このお屋敷では珍しく普通サイズの勉強机が隅に置いてあるだけで、あまりにも閑散としている。
だが景が一番に感じた印象に広さは関係なかった。
「白いね」
床は白い絨毯。机もベッドも白で統一されていて、まるで掬が何もない空間に浮かんでいるように見えた。
「白いの?」
掬は顔を傾ける。景は首を小さく横に振った。
「ううん。何でもない」
「やっぱり景は変わってる」
変わってるのは掬のほうだ――とは言わなかった。掬に普通の感覚を求めるのを諦めたのだ。全て掬に合わせてしまおうと。
「何の話をする?」
「景の好きなこと」
掬は景の腕を持ったままベッドに座った。景も隣に座り頭をひねる。掬に合わせようとしていた景にとって、これ以上ない難問だ。
なにか掬が気に入りそうな話題はないかと考えたが、思い浮かんだのは特に面白くもない、ただとても気になる疑問だった。
景が掬の様子をうかがおうとすると、無垢な瞳と目が合う。
(掬が僕の好きなことでいいって言ってるんだから、大丈夫かな)
景は口を開いた。
「篝が童中の人間だって目日田さんが言ってたけど、掬は知ってる?」
それを聞いた掬は、マスク越しでもわかるほどに頬を膨らませた。
「お姉ちゃんの話はだめ。掬の話がいい」
「ああ、お姉ちゃん、なんだ……」
このお屋敷に集まっている人は家族みたいなものだから、お姉ちゃんと呼んだ――という可能性も残っていた。だがさらに追及する勇気が景にはない。
「じゃあ掬の話をしよう」
掬はこくこくとうなずいた。景は掬の顔に手を伸ばし、張り付いているマスクに触れた。
「これどうしたの? 風邪ひいてるわけじゃないよね?」
「これあるとお口見えないから、景に怒られないの」
景は一瞬だけ言葉の意味を見失ったが、すぐに口を尖らせないよう注意したのを思い出した。
「直したほうがいいって言ったのに、隠してるの? 直す気はないんだね」
掬はマスクに隠された口を尖らせた。景もなんとなくそれを察する。
景は思わず、小さくだが噴き出した。
「景?」
掬が首を傾ける。
「いや、ごめん。なんでもないんだ」
景は掬のマスクをつまんで、外した。
「せっかくかわいいんだから、顔を隠しちゃうのはもったいないよ」
掬は口を尖らせたままだった。だが景はそれを注意しない。
実は、景は掬のその動作が嫌いではなかった。やらないほうがかわいいと思っているのは嘘ではないのだが、なぜだかその動作にも惹かれている。
それは今でも変わらなかった。
「掬の言う通り、僕は変わり者だよ」
自分を殺した少女にまだ恋している自分を、景は小さく嘲笑った。
※ ※ ※
「大丈夫かね! ケガは、ケガはしていないかね!」
「え、ええ。大丈夫です」
掬のもとから帰った景を、ダイニングで出迎えたのは相変わらず暑苦しい目日田だった。
「目日田うるさい」
席に座る羽月が少し大きな声を出す。シゲも席についていた。目日田は一度羽月に振り向いたが、すぐに景へと向き直る。
「すまない。自分が不甲斐ないばかりに、君にばかり負担をかける」
目日田はこぶしを握りしめ、震えた。
「人に苦手なものがあるのは仕方ないですよ。僕はあまり負担に感じてないので、気にしないでください」
「いや、君は謙虚すぎる。頼りないかもしれないが、もっと自分を頼ってくれていい。せめて怖いのなら怖いと言ってくれ。恐怖だけでも分かち合わせてくれたまえ」
景は苦笑いした。掬と話しているあいだ、恐怖などすっかり忘れていたのだ。喉元過ぎればなんとやらというが、通り過ぎる早さは滑稽なほどだった。
本当に自分が掬に殺されたのか、それさえも疑問に思えてきた。実際、景の生前の記憶はメイドの少女に取り押さえられたところで途切れている。
(殺された記憶がないから、僕は大丈夫なのかな。それとも……)
掬への恐怖心にギャップがある理由に、一つの心当たりがあった。
「あの……少しでいいので、掬と話してみませんか?」
景の提案に、目日田のこぶしは少し緩められる。
「な、何を言い出すのかね。童中の少女と話すなど――そうか、童中の少女に脅されたのだな。何をされたのだね?」
「い、いえ、何もされてません。ただ、僕がみんなと違って掬があまり怖くないのは、僕が掬と話したからなんじゃないかなって思ったので」
景が控えめに言うと、目日田は首を横に振る。
「それは違うぞ景。順番が逆だ。君が勇敢だから童中の少女と話せるのだ。童中の少女と話すことで勇敢になったわけではない」
「違いますよ」
景は首を横に振り返した。
「僕も最初は怖くて、掬から逃げ出しました。でも、裏山で少しだけですけど掬と話して、その時もやっぱり怖かったんですけど、逃げ出すほどじゃなくて、そのあと会ったときとかは怖い理由をわざわざ探して接してたような気がします。僕は極端かもしれないですけど、みんなも掬と話してみれば、少しぐらい恐怖心がやわらぐかもしれません」
「だからなんだってんだい?」
羽月が何を聞き返したのか、景にはわからなかった。
「えっと……だから、掬と話してみればきっと恐怖心が――」
「あたしは恐怖心をなくす必要があるのかって言ってるのさ。どうあったって、わたしたちは童中の人間に殺されてるんだ。それを怖がるのは当然だし、それがなくなったって、童中の人間とは距離を置くのが道理ってもんだろ? なら恐怖心をなくしたところで何一つ変わらない。そうだろ?」
景は答えることができなかった。目日田が景と羽月の間に立つ。
「羽月さん。そんな言い方をしなくてもいいのではないか? たとえば、自分が童中の少女から逃げる必要がなくなれば、景の負担も軽くなるというものだろう?」
「そいつはどうかね。あの子は景がお気に入りなんだ。結局、あの子は景に近寄ってくるし、そのときに景の代わりをわたしたちにはできないんだよ。そんなことは景もわかってるだろ?」
景はうなずいた。
「代わりになってほしいとは思っていません。ただ、目日田さんや羽月さんの掬を怖がり方は極端すぎると思ったので、なんとかならないかと思って……」
「遠回しな言い方はやめなよ。あんたはわたしたちと童中の人間はわかり合える。そう思ってるんだろ?」
羽月の言葉に、目日田は声を出して笑った。
「ハッハッハ。何を言っているのだね。そんなありえぬことを景が考えているわけがなかろう。なぁ、景?」
振り向いた目日田に、景はうなずくことができなかった。
「景? どうしたというのだ?」
「いえ、もしかしたら、僕は心のどこかでそう思ってたんじゃないかと思って」
「無理よ」
その声は羽月のものではなかった。
「おや? 篝くんじゃないか。珍しいね」
シゲの視線の先――景の後ろに篝の姿があった。
「そいつらは童中の人間ってだけで最初から関わる気がないんだから。分かり合うどころか、まともに会話することすらできないわ」
景が振り返って篝と向き合うと、目日田が景を後ろに引いて前に出た。
「ふざけたことを抜かすな! それは貴様らがまともな人間でないからだろう! それを責任転嫁して景を惑わすな! この化け物めが!」
目日田は今にも殴りかかりそうな剣幕に、景は慌てて目日田にしがみつく。
「待って! 待ってよ! 乱暴はダメだよ!」
目日田は動きを止め、自分に張り付く景を見た。
「安心してくれたまえ。自分は童中の人間とは違う。だが言うことは言ってやらなければ、図に乗るだけだ」
「それなら……あれ? そういえば篝のことは怖くないんですか? 篝も童中の人間だって言ってましたよね?」
景がそう言うと、篝がくすりと笑った。
「そりゃ怖くないでしょうね。あなたたちは掬の髪の色が怖いんだもの」
篝は自分の前髪をつまむ。その色は艶やかな黒だ。目日田が一歩、景を引きずって前に出た。
「だからなんだというのだ! 出来損ないは恐れない! ただそれだけ――」
篝が目日田へと一歩踏み込み、屋敷内に乾いた音が響き渡った。
「あなたに出来損ないだなんて言われる覚えはないわ!」
振り切られた篝の平手を見て、目日田は自分の頬に触れる。
「痛みがないというのは、不思議なものだな……そちらがやる気なら相手になってやる!」
こぶしを振り上げる目日田は、景を軽々引きずる。
「ダメだって! やめて!」
力では止められないと、景は前へと回り込んだ。その瞬間に顔面に衝撃が走る。
「景!」
景のすぐ後ろで、篝の悲鳴に近い声が上がる。景は篝に受け止められながら尻餅をついた。
殴られた場所に痛みはなかったが、体を貫く衝撃はしっかりと響く。初めての感覚に、体が縮むような思いに駆られた。
「す、すまない……つい……」
目日田は握った手を解いて、景へと差し出した。その手を景の後ろから篝がはじく。
「な、何をするのだ……!」
戸惑う目日田を、篝は鋭く睨み付ける。目日田はこぶしを握りなおしたが、殴りかかりはしない。
「大丈夫。僕は大丈夫だから」
景はどちらにということなく、そう告げて立ち上がった。
「景、ちょっと来て」
篝が景の腕をとる。
「待ちたまえ。彼をどうするつもりだね」
目日田が景の肩をつかもうとしたが、景は手のひらを目日田にむけて止めた。
「大丈夫です。少し話してくるだけだから」
篝に手を引かれ、景は廊下の奥へと消えていった。
※ ※ ※
二階の廊下の途中で篝は立ち止り、窓の外を見た。日が傾き始めている。
「篝? どうしたの?」
景がたずねると、篝は視線を下げた。
「別に。時間が気になっただけ」
「時間?」
景は横に並んで篝の視線の先を見た。モノリス型のオブジェがある。
「中庭だね。時計はなさそうだけど」
篝が深く息を吐いた。
「時計なんて誰も使ってないわ。正確な時間なんてどうせわからないんだもの。でもまだ時間はあるみたい。何か話があるんでしょ?」
「え? それは篝のほうじゃないの?」
景が篝を見ると、怪訝な目をした篝と目が合った。
「はぁ? 話してくるって、さっき景が言ったんじゃない」
「それは篝が『ちょっと来て』って言ってたからで」
「あ、そう。じゃああたしと話すことなんて何もないんだ?」
篝は窓から少し離れ、廊下をゆっくりと進んだ。景は早足で篝を追う。
「待ってよ。わかったから。話したいこと、っていうか聞きたいことがあるんだ」
篝は足を止める。だが振り向かない。
「なに?」
「みんなが篝のことを童中の人間って言ってるけど、本当なの? 掬もお姉ちゃんって言ってたけど、僕には信じられなくて。みんなにも言ったんだけど、僕の知ってる篝はやりすぎなイタズラをすることはあるけど、人を殺したりなんて絶対に――」
景の頭が軽太鼓のようないい音をならした。高速で手を振り切った篝は痛くもない手のひらを振って冷やす。
「な、なに恥ずかしいこと言いふらしてんのよ! 何かあたしに恨みでもあるわけ?」
「な、ないわけでは……」
裏庭に蹴り出されたのを忘れたわけではない。だが鬼の形相の篝に――
「あれ? 笑ってる?」
景には篝の表情がそう映った。篝は右手で顔を覆い、景に背中を向ける。
「わ、笑ってるわけないでしょ。怒ってんのあたしは」
「そ、そうだよね。ごめん……。でも僕は篝のことをちゃんと理解してほしくて――」
「もういいって! それは、その、ちょっとうれしかったから……」
「え、なに?」
突然回り込んできた景に篝は全力で蹴りをいれ、口先で遊ばせていた言葉を引っ込めた。
「な、なんでもないわよ! おどかさないでよね。まったく」
「いてて」
痛くもないのに景はついた尻餅をさすって立ち上がる。うれしそうな笑顔を浮かべながら。
「でもよかった。やっぱり篝は僕の知ってる篝だ。童中の、とか言ってるのがおかしいんだよ」
「……」
篝は静かな笑みを浮べて、小さく息を吐いた。
「ごめん。それは嘘じゃないんだ。あたしはこのお屋敷で生まれた、正真正銘の童中の娘。掬とはちゃんと血のつながった姉妹なの」
「え……? でも」
景の目が少し上に向けられる。篝は手のひらを自分の頭にのせ、握った。
「そう。あたしは童中家特有の宍色の髪じゃなかった。ただそれだけの理由で、あたしは別の家の子供として育てられたの。たまにお屋敷に行って、パパとかママとか掬には会ってたんだけどね」
「それなら他の家の――馬橋の人間でいいじゃないか。童中の子供じゃない。そうやって育てられたんだから」
「童中が嫌い?」
「それは……」
頭の中に掬の無垢な表情が浮かび、うなずくことも首を横に振ることもできなかった。
「いま、掬のこと考えたでしょ?」
「そ、そんなこと……あるけど、掬と篝は違うよ。篝は人を殺したことないでしょ?」
篝は頭に当てていた手で目の周りに触れ、少し顔を落とす。
「人を殺してたら、あたしは掬と同じなの?」
口元しか見えない篝の表情は、笑いをこらえているようにも怒りを抑えているようにも、涙を我慢しているようにも見えた。
「もしかして、その、篝も人を……」
「さて、どうかしらね? 景はどう答えてほしい?」
「な、なんだよそれ。僕の答えしだいで答えを変えるの? そんなのずるいじゃないか」
篝が顔から手を離し、顔を上げた。
「いいじゃない。どうせあたしが本当のことをいうとは限らないんだから」
篝の表情は穏やかだった。暗くなり始めたせいか、景には篝の感情を読み取ることができない。
「僕は篝の言ったことを信じるよ」
「なにそれ? 人を殺したかどうかなんて聞いてるんだから、景もそれなりの誠意を見せなさいよ。そうね。じゃあ、あたしが二人いて、一人が『人を殺してない』って言ってて、もう一人が『人を殺した』って言ってるの。一人は偽物のあたし。景はどちらか一人を選ばないといけなくて、偽物を選んだらあたしはいなくなる。景はどっちのあたしを選ぶ?」
篝はわかりやすく笑ってみせた。景もそれにあわせて静かに笑う。
「そんなの選べないよ」
「ヘラヘラしないで。ちゃんと選んで」
篝の声には十分すぎる力があった。ごまかすことなどできないと、景は覚悟を決めた。
「わかったよ。僕は人を殺してない篝を選ぶ。僕の知ってる篝は人を殺したりしないから」
「景のくせにはっきり答えるのね。じゃああたしは景の選んだあたしになるか、掬になるかの二択かぁ……」
篝はあごに人差し指を当て、上を見た。
「やっぱり真面目に答える気はないんだね」
景がため息をつくと、篝は正面に顔を戻した。
「すごい真面目よ。本当は答えはもう決まってるの。あたしは人を殺したことはない。あたしは景が知ってるあたしそのもの。それはもう、つまらないくらいにね」
それが本当なのか、景にはわからない。だが、景は『篝の言ったことを信じる』と自分で言ったのを思い出した。
「……うん、よかった」
景がうなずくと、篝は外を見た。
「そろそろ時間ね」
赤かった空は群青へと色を変えていた。星もまばらに見え始めている。景も窓の外に目を向け、中庭を囲むように建っているお屋敷の窓を見渡した。
「暗いね。廊下の電気はつけないの?」
「生きてる明かりなんてもうほとんどないの。日が落ちたら寝る。それがここでの生活よ。例外はあるけどね」
篝が見下ろす中庭に翼を抱えた羽月が現れ、テーブルの一つについた。
「羽月さん? どうしたんだろ?」
「さぁね。翼がぐずったんじゃないの?」
篝は景を見て、景はそれを気配で感じる。二人の目が合うと、篝は深呼吸した。
「ここからがあたしが景を呼んだ理由。このお屋敷には剥製をしまってある場所があるの。そこにはまだ動いてない剥製がたくさんあるわ。あたしたちもそこで眠ってた」
「うん。なんとなく想像できる」
「そう。なら話が早いわ。あたしはそこに用事があるの。でもその鍵はシゲが持ってる」
景はうなずいたが、篝は先を続けない。景をじっと見て、何かを待っているようだ。
景は察して口を開いた。
「僕に取ってきてって言ってるの?」
「取ってきてくれるの? ありがとう。助かるわー」
篝は大げさに棒読みする。暗くて見えづらかったが、景には篝の笑顔が鮮明に想像できた。
「わかったよ。シゲさんに聞いてみる。篝は目日田さんとかと会うと面倒みたいだし。でも、どうしてそんなところに行きたいの?」
「お礼をするのよ。パパとママも剥製になってるみたいだから、育ててもらったお礼と、剥製にしてもらったお礼をね」
月が雲に入ったのか、篝の表情は闇に隠された。
※ ※ ※
「なんで今すぐなんだよ……」
景が愚痴りながら歩く廊下に照明はなかったが、日が落ちても宵闇に包まれることはなかった。窓からの月明かりは十分とはいえないものの、扉が見える程度には照らされている。
「ここ、かな?」
景が目を凝らすと扉の横に『第一使用人室』と書かれているのがわかった。篝によると、シゲはこの部屋を寝室として利用しているらしい。
景は大きく深呼吸し、二回扉を叩いた。
「あ、あの……すみません」
少し小声になってしまったが、声もかける。しかし答えは返ってこない。
「もう寝ちゃったのかな?」
ならば引き返す――というのが景の中の常識だったが、篝に文句を言われるのは目に見えている。景は深く息を吐き、ドアノブに手をかけた。
鍵というものがないのか、扉は抵抗もなく開く。
「あの、起きてますか?」
景は頭一つぶんだけ開き、部屋の中を覗き込んだ。
部屋の中は明るかった。といっても、廊下と変わらない月明かりの明るさだ。
「入り……ますよ?」
シゲの姿は見当たらなかったが、断って中に入る。部屋の中心にスタンドテーブルがあり、その上に大判の分厚い本が置かれていた。
景は何となくその本に触れる。
「何の用かな?」
突然の声に、景の肩が跳ねる。振り向くと、シゲが扉を開いて立っていた。
「す、すみません。勝手に入っちゃって」
「いいよいいよ。ボクが勝手に使っているだけで、もともとボクの部屋じゃないからね。それに、君が入るのを見ていたのに、ボクは止めなかったんだ。部屋に招いたようなものだよ」
シゲがゆっくり前に歩き始めた。
「見ていたのなら、声をかけてくださいよ」
「あはは、ごめんね。すぐ引き返すようだったら明日にしてもらおうかと思ってたんだ」
シゲがまっすぐ歩いてきたので、景は横によける。するとシゲはスタンドテーブルの本を手にとった。
「これを見たのかい?」
「いえ、そんな時間ありませんでしたし、そんなつもりも……。それに、この暗さじゃ本なんて読めないでしょう?」
「そうかな? ボクは結構明るいと思うけど」
シゲの見上げた天井の一辺が、天窓のようになっていた。
「この建物は一階と二階が少しだけずれているだろう? どの場所にも自然光が入るように設計されているんだ。おもしろいよね。まるで電気が使えなくなるのがわかってたみたいだ」
「そうだったんですか。そういう作りだから、みんなこのお屋敷に住んでいるんですか?」
シゲはあごに手を当て、少し考えるようにしてから景を見た。
「そうかもね。深く考えたことはないけど、やっぱり人は明るいところに集まるんじゃないかな? ところで、何の用だったっけ?」
「そうでした。篝が剥製のしまってある場所に入りたいみたいなので、鍵を貸してほしいんです」
「鍵かい? 篝くんがそう言ってたのかな?」
景がうなずくと、シゲは顔を傾け頭をかいた。
「たしかに鍵はかかっているね。でもボクはあそこを開ける鍵なんて持ってないよ。だってあそこは――」
「いやぁぁぁぁ!」
悲鳴が響いた。景はドアの外を見たが、ここからでは何も見えない。
「今のは……?」
「行ってみよう。景くん」
「はい」
景はシゲに促され部屋の外に出る。シゲもそれを追おうとするが、一度足を止め、スタンドテーブルの本を手に取ってから景の後を追った。
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