僕を剥製にした世界で一番かわいい彼女

もさく ごろう

第1話 世界で一番剥製が生きる町


 けいは初めて来る彼女の家に心拍を上げていた。彼女――すくいは手に握るそれを、景へと向ける。まるでうさぎに餌を与えるかのように。


「大丈夫。ちゃんと剥製にしてあげるから」


 フリルとレースで過剰に装飾された長袖から覗く指先は飴細工のように繊細で、その中にある細身のナイフもつららのように美しかった。だがそれは簡単に景の体を貫くだろう。


「ど、どうしてだよ……」


「景のことが好きだから?」


 『何を聞いているの?』と、掬は顔を傾けた。スカートが大きく膨らんでいたり、レース類で装飾されつくされていたりと、時代を間違えたかのような漆黒のアンティークドレス。それに強調された十四才とは思えない童顔は無垢な表情を見せている。大きな黒い瞳ににごりなど一切ない。


「ぼ、僕も……好きだったのに……」


 景の頬を涙がつたった。人形のように美しい顔立ち、無垢な瞳、天然だという宍色≪ししいろ≫の美しく長い髪、全てに景は惹かれていた。剥製屋の看板娘であった掬に勇気を出してアプローチし、付き合うことになったときの胸の熱さはひと月たった今でも忘れない。


 それなのに、今は冷たい心臓が暴れている。


「こらこら、あまり怖がらせてはいけないよ。綺麗な作品に仕上がらなくなるからね」


 掬の奥。大きなソファーに座るカイゼル髭の大男が、穏やかな笑顔を見せながらコーヒーをすすった。


「パパ。景は怖がってない。景は掬のことが好きなの」


 掬は振り向かずに答えた。大男の正面に座っていた、少し背の高いドレスの女性が立ち上がり、掬の後ろに立つ。掬と同じ宍色の長い髪が肩から流れた。


「掬? 景さんの顔をよく見てみなさい。怯えてるの、わかるでしょう? ごめんなさいね。世間知らずな子で」


「ママ……。景? 怖いの?」


 掬はナイフを景の首へと近づけた。


 景は細かくうなずきながら、背中を壁に押し付ける。思わず部屋の出口を確認するが、その少し手前にメイド服の少女が腕組をして立っていた。肩にかかる髪はプラスチックでできているかのような青色で、景をにらみつける瞳は朱色という異様な容姿の少女だ。

 

 少女の体格は町中で見る同年代の少女たちとそう変わらない。それだけ見ると運動が得意ではない景でも突き飛ばせそうだったが、芯の通った堂々とした立ち姿が景に勝てないという印象を植え付けていた。


「ごめんね。怖いならすぐ終わ――」


 轟音とともに、世界が揺れた。窓ガラスがはじけ、照明が明滅する。


 掬が後ろによろめくのを見た景は、ドアに向かって駆け出した。間に立ちふさがっていたメイド少女の姿も見えない。


 ――いける。そう思った瞬間、足首に激痛が走った。


「え……?」


 体が宙に浮く。視界の端に、低い姿勢で足を伸ばすメイド少女の姿があった。


 体が床に叩きつけられるとすぐに、誰かが景の髪をつかんだ。そして口に布が当てられる。


 つんとした香りを最後に、景の意識が途絶えた。


※ ※ ※


 寝ている間の時間感覚は不思議なもので、昼まで寝ていても一瞬に感じたり、長く寝ていたつもりが十五分ということもある。


 景にとってその眠りは一瞬だった。


「おや、目がさめたかな?」


 男の細い声に、景は目を開いた。光を感じて反射的に目を細めたが、思っていたような刺激はない。四角の組み合わせで成り立つシンプルな模様の天井が見える。景が見慣れた天井ではなかった。


「体、動かせるかい?」


 声の方向に顔を動かすと、声と同様に細い目をした男がイスに座っていた。歳は大学生ぐらいだろうか。茶色く染まった髪は目に入らない程度に伸び散らかされていたが、雰囲気は穏やかだ。


「――」


 景は答えようとしたが、声が出ない。


(違う……)


 声が出ないのではない。息が出ないのだ。


 景は跳ねるように起き上がり、のどに両手を当てた。ふたをされてしまったかのように、空気が出も入りもしない。景は体の中に汗をかく感覚に襲われる。


「落ち着いて。口や鼻で息をしてはいけないよ。体全体を……胸とお腹を膨らませて、空気を体の中に取り込むんだ」


 男は自分の胸を叩いて見せた。だが景の容態は一向に改善しない。景の頭の中がどんどん白に近づいていく。


「息ができなくても大丈夫だから、落ち着いて。一回横になってもらえるかな?」


 男は景の肩を押して、ベッドに倒した。そして景の腹に両手を置いて、強く押し込む。


「ぐぶ……」


 景の口から空気が抜けて、いびきに似た音が漏れた。男が手を放すと、景の中に空気が流れ込む。景はもう一度その空気を体の外へと吐き出した。


「そう。その感覚を忘れないようにね。すぐに体が動いたんだ。すぐになじむさ」


「……あなたは?」


 景の声はとても小さかった。それでも男には聞こえたようで、イスに手を置いて笑った。


「ぼくかい? ぼくは……そうだね。みんなシゲって呼んでるよ」


「シゲ……さん? 僕を助けてくれたんですか?」


 シゲは首を横に振った。


「違うよ。その様子だと、君は死ぬ前のことを覚えているみたいだね」


 死。その言葉に景はあまり驚かなかった。死後の世界がこんなに穏やかなら、あっさり殺されとけばよかったと思ったぐらいだ。


「ここは天国……ですか?」


 これに対してもシゲは首を横に振った。


童中どうなかのお屋敷、といえば君にはわかるかな?」


「童中……? じゃあ掬の?」


 童中は掬の苗字だ。つまりここは掬の家の中で、景は死んだ場所にいることになる。


「僕は、死んだんじゃないんですか?」


「その通り。もう死んでるよ。君は冷静だし、飲み込みが早いね。でもそんなに慌てなくていいよ。ゆっくり状況を把握すればいい。ここの生活に慣れながらね」


 シゲはイスを隅の机に寄せた。


「立てるかい? 君をみんなに紹介しよう」


※ ※ ※


 童中は町一番の富豪だった。独自の剥製技術一つで財産を築き上げ、金裾かねすそ町を剥製が特産の町へと変えてしまった。その住居はお屋敷と呼ぶにふさわしく、広さは東京ドームを張り合いに――とはいかなかったが、東京に行ったことのない者ならだませる程度にはある。

 

 シゲが景をつれていったのはダイニングだった。そこも相応に広く、電車が二両、横に並べて入りそうだ。中央に十人は余裕を持って座れる大きなテーブルが置かれている。だがその広さに反して、女と子供の二人しか座っていない。子供が絵を描くのを、女が隣で見ているようだ。


「あれ? 羽月はづきくんとつばさくんだけかい? 他の人は?」


 シゲがたずねると、女はスケッチブックから顔を上げた。


目日田めいたはいつも通り朝ランに行ったし、ネッジイは届きもしない新聞を取りに行って、他の二人はわたしが知るわけがない」


 女は後ろで縛った長い髪をなでた。年はシゲと同じぐらいだろうか。細身だが背が高くモデルのような人で、勝ち気な雰囲気の中にも大人の落ち着きがある。女は少し目を動かして景を見た。


「あら、もしかしてその子が?」


「もしかしてじゃないよ。目がさめそうだよって昨日言ったよね? どうして誰も待ってないのさ」


 シゲはそういいながらも、穏やかな声色を維持した。女は鼻で笑う。


「どうせアレがあるんだ。アレの後に会ったほうが色々楽だろうさ」


「決め付けるのはよくないよ。まぁいいや。あんなこと言いながら待っててくれた彼女は羽月くん。若く見えるけど、もう三十は過ぎてたみたいだよ」


 羽月は白のクレヨンを投げた。


「余計なこと言わなくいいんだよ。あと、待ってない」


 羽月の隣に目を移すと、そこで一生懸命に絵を描いていた子供が顔を上げた。子供はくりくりの目で羽月を見た後、シゲ、景へと視線を動かす。


 景が足元に落ちたクレヨンを拾って子供に目を戻すと、子供はスケッチブックで顔を隠していた。


「あの子は翼くん。恥ずかしがりやだけど、君の目が覚めるのを三番目に楽しみにしてたんだよ」


「あ、三番目……ですか」


 歓迎されてるのかされていないのかわからない、反応に困る数字だった。景がクレヨンを渡しに行くべきか悩んでいると、景たちがいるのとは別のドアが開く。


「……」


 ドアから無言で入ってきたのは、円盤状の自走掃除機だ。その掃除機の後ろに人影がある。掃除機と同じ速度で歩くそれは、時代錯誤の黒いドレスに身を包んでいた。


 羽月が翼を抱えて離れていったが、景はそれに気付かない。景の視線はドレスを着た、宍色の髪の少女に釘付けになっていた。人形のように美しい顔立ちに、何も知らない無垢な瞳。間違いない。


「あぁ、そういえば。景くんは掬くんのことを知ってるんだったね」


 シゲの声に、掬は掃除機から顔を上げた。


「景……?」


 掬が足を止め、掃除機が一人で景の足を小突いて直角に逃げる。


「どうして掬が……?」


 どうして掬の家に掬がいないと思ったのか。そんなことを考えている余裕は景になかった。さっき『あっさり殺されとけば』と思ったのが嘘のように、体が芯から冷え始める。


「景……」


 掬が一歩、前に出た。それと同時に景は一歩下がる。


「な、なんだよ……」


 死んでしまっているのに死の恐怖を感じるなんておかしな話だ。だがこれではっきりとわかった。死は怖いものなのだと。


 掬はまた一歩――


「来るな! こっちに来るなよ!」


 景は五歩後ろに下がった。視界にシゲも入る。


「景くん。そんなに逃げちゃかわいそうだよ?」


 シゲはにやけたような表情を一切変えない。掬は顔をうつむかせて口をとがらせた。景は、それが落ち込んだときに見せる表情だと知っている。


「か、かわいそうなんかじゃない! そんな顔見せたって、僕はもうお前に近寄らないからな!」


 景は二人に背中を向けた。


「どこに行くんだい?」


「帰る! こんなとこにはいられないよ!」


 景は走り去った。


「ほーらね」


 部屋の端から、羽月が得意気に言った。シゲはあごに手を当てる。


「うーん。時間をかけて説明すれば大丈夫だと思ったんだけど……。羽月くん。君も部屋にずっといるなんて、なかなかの野次馬根性だね」


 羽月は舌打ちをし、足元に来た掃除機を蹴飛ばして翼とともに部屋を出た。


※ ※ ※


「はて、君はもしや」


 景がやみくもに走った先にいたのは学ランを着た、高校生ぐらいの坊主頭の男だった。背は高くないが、肩幅は広くてガタイはいい。


「な、なんですか……」


 景は足を止め、距離を保った。この屋敷にいるということは、掬側の人間かもしれない。


 学ランの男は右手を伸ばして手のひらを見せた。


「いや、いいのだ。話は今度しようじゃないか。出口はあっちだ」


 男は左へのびる廊下を指差した。


「えっ、でも……」


「どうせアレなのだろう? さっさと行きたまえ」


 景は一瞬迷ったが、どうせ出口を探してそこらじゅうを走ることになるのだと、半ばヤケになりつつ男の指した方向へ走った。


 すぐに大きな両開きのドアが見える。ぶつかるようにドアを押すと思っていたよりもドアは軽く、あっさりと外へ弾き出された。


 景をむかえたのはいつもの見慣れた町だった。一番の高台に建つ童中のお屋敷から、海にむかって扇状に広がる金裾町。真っ直ぐな本道から葉脈のように構成される町並みはいつも通りだ。ただ建物から出ただけなのに、異世界から帰ってきた気分になった。


「ただいま……」


 景は一言呟き、本道を駆け降り始めた。町一番の通りなので、商店が多く並んでいる。ブランドもなにもない服飾店。景がジュース以外買わなくなった駄菓子屋。コンビニとは名ばかりの夜には閉まるコンビニ。テレビゲーム以外は特に見ることもなくなった町唯一のおもちゃ屋。どれも掬と一緒に行ったことのある場所ばかりだ。


 掬はどの店に行っても、景が見飽きた長らくの売れ残り品を見ても、無垢な瞳で熱視線を浴びせ「これは何?」とか「景は好き?」などと質問をした。


 短期間で刷り込まれたそんな光景が、ただ町を走るだけで真っ先に景の頭にフラッシュバックする。


「くそ、なんなんだよ……」


 足がだんだんと速まっていく。


 少し前までは楽しく感じていたことなのだが、今は腹が立ってしかたがない。掬が自分を殺そうとしていたのに、どうして気づけなかったのかと。


 笑っている場合ではなかったのにと。


「あれ……?」


 景は大きな違和感に足を止めた。そして坂を少し上がる。ガラスに白いシャツとチノパンで少しだけおしゃれした少し小柄な中学生――景の姿が映る。だが景が気になったのは自分の姿ではなく、ガラスの奥だった。


「やっぱりここって……」


 景はガラス張りの建物をのぞきこむ。この建物も景がよく知っている場所で、何度も通いつめた場所だ。


 ここは掬と出会った場所。町のシンボルでもある剥製屋だ。外からもよく見える店内には、大小様々な剥製が所狭しと並んでいる――はずだった。


 しかし今の店内には剥製が一つもない。展示されていた土台は残っているものの、岩の上から見下ろしていたトラの姿や、川から鮭を叩き出していた熊の姿などは消えてしまっている。

 

「潰れちゃった……のかな?」


 店はシンボリックな存在であったものの、観光客などほとんどいない金裾町では客足はないに等しかった。繁盛しているとはお世辞にも言えたものではない。


(いや、いいんだ。こんな場所はなくて)


 景は自分に言い聞かせた。この店を経営しているのは童中の家だ。人殺しが経営する店など、町の汚点でしかないのだからと。

 

 景は大きくそっぽを向き、通りを下り始めた。景の家ももうすぐだ。


(あれ? そういえば……)


 景はもう一つの違和感に気づき始めていた。


(お屋敷を出てから、誰とも会ってない……)


 景が歩いているのは町で一番の通りだ。あらゆる店が集中しているこの通りで、誰ともすれ違わなかった日などない。


 徒歩に戻っていた足が駆け足になる。嫌な予感が景の中を駆け巡った。


 ひとつ脇道に入り、景は自宅の前に立つ。やはり人の気配はない。


 自宅のドアに伸ばす手が震える。いっそ、外から大声で誰か呼んでみようかと考えたぐらいだ。

 

 だが景の手はドアを開けることを選んだ。鍵はかかっていない。


「ただいま……」


 大きな声は出なかった。返事もない。


 景は入ってすぐのリビングをのぞきこんだが、人の姿はなかった。そのままリビングを抜けてキッチン、洗面所と回る。書き置き一つすら見つからない。

 

 景の足取りは自然と慎重になっていった。無意識のうちに足音を殺して、階段を上る。そのおかげか、景の耳にかすかな音楽が届いた。どこかで聞き覚えのある音楽だったが、とても小さくてうまく聞き取れない。

 

(ゲーム?)


 景は音のする方向――自分の部屋へと近寄る。音楽はだんだんと鮮明になり、時折ボタンを指で弾く音が聞こえるほどになった。


 景に兄弟はいない。父親も母親もゲームはしなかった。つまり、家族以外の誰かが景の部屋でゲームをしている。

 

 景は中の者に気づかれないよう、ドアに耳をよせた。


 音楽は同じ曲が二つ、ずれて流れているように聞こえた。ときおり固い何かを机に置いたような音も聞こえる。そして――


「景のやつ、もっと色々育てといてくれればよかったのに。そろそろ飽きてきた」


 女の声が聞こえた。聞き覚えのある声に、景は思わずドアを開く。


かがり!? 篝だよね?」


 景の勉強机に、ショートカットで艶やかな黒髪の少女が座っていた。幼馴染の大きく見開いているつり上がった目に、強い安心感を抱く。


「け、景!? ちょっ、なに? どうして?」


 篝は机の上にあった折り畳み式の携帯ゲーム機を背中に隠した。


「それはこっちの台詞だよ。どうして僕の部屋に……いや、でもよかった。町の人が消えちゃったのかと思った」


「え? 何を言って……」


 篝は窓の外に一瞬だけ目を向け、景へと視線を戻した。


「そう、何も聞かないで出てきたのね」


「出てきたって、童中のお屋敷のこと? だってあそこには……」


 掬が――と言いかけて、景は自分が死んでいることを思い出した。ここが死者の世界なら、町の人もいないのが普通なのだ。そこに篝がいるということは――


「篝も......死んだの?」


「まぁね。それはわかってるんだ?」


 景は黙ってうなずき、右を見る。そこではT字型に組まれた枝が土台の上に立っていた。


「フクロウがなくなってる」


 景が人生で初めて買った、小さなフクロウの剥製がそこにあるはずだった。


「篝。ここにフクロウの剥製がなかった?」


 篝は少しの間だけ目を閉じ、小さく息を出しながら笑った。


「本当に何も聞いてないのね。いいよ。知ってるから教えてあげる。ついてきて」

 

※ ※ ※

 

 大通りを上っていく篝の後ろを、景は歩いていた。篝がショートパンツの後ろポケットに押し込んでいる携帯ゲーム機が、嫌でも目につく。


「ねぇ、そのゲーム機、僕のだよね?」


 ゲーム機の色は水色で、景が持っていたのと同じ色だ。篝も同じゲーム機を持っていたが色はピンクで、それは篝の右手に握られている。


 篝は左手でゲーム機を隠した。


「なにお尻見てんの?」


「そ、そんなんじゃないよ。なんで僕のゲームを篝が持ってるの?」


 篝は振り向いて、後ろ歩きになる。


「いいじゃない。どうせやってなかったんでしょ?」


「そうだけど......」


 掬と付き合い始めてから、ゲーム機には全くといっていいほど触っていなかった。


「でも、それは篝が僕のゲームを持っていっていい理由にはならないよ」


「男のくせにうっさい。どうせあたしがゲームやろうって言わなかったら、買わなかったんでしょ?」


「それも、そうだけど......」


「ならいいじゃん」


 篝は前を向いて、景に背中を見せた。景は足を速めて、篝の横に並ぶ。


「でも僕のまで篝が持ってたら、僕のモンスターは育てられないし、対戦もできないよ」


「へぇ、対戦する約束覚えてたんだ? じゃあなんで全然やってないの?」


 篝が足を速め、前に出た。景はそれを追う。


「やったよ。ストーリーはクリアしてる」


「でもそれじゃあ、満足に対戦できないでしょ。そんなの意味ない」


「僕だって――」


 篝が突然足を止め、景は体を鉄格子にぶつけた。


「いった......」


 思わず尻餅をついて、ぶつけた横顔をなでる。鉄の香りがした気がしたが、血は出ていない。実は痛くもなかった。


「何やってんの?」


 篝に半ば無理やり腕を引かれ、景は立ち上がった。


「前見てなかったから……ここは?」


 景の目の前には学校の門を高くしたような大きすぎる鉄門。その奥には町のどこからでも見上げられるお屋敷が、存在感たっぷりに佇んでいた。


「童中の......お屋敷?」


「そう。ここから出てきたんでしょ?」


 篝は門を少しだけ開き、体を滑り込ませた。


「ま、待ってよ! ここには入らない方がいいって! 童中の人って、本当はすごく怖い人たちなんだよ!」


 景は門に半分入り、篝の腕をつかんだ。篝は立ち止まって顔だけで振り向き、腕を力いっぱい引く。


「知ってる」


「わっ……」


 景は前にバランスを崩し、篝よりも前に立ってしまう。屋敷が視界を埋め尽くし、景の体は小さく震えた。

 

「何やってんの? 男なんだから、しっかりしなさい」


 篝は景の背中を叩いて大きな音を鳴らし、歩いて景を追い抜く。そしてためらうことなく屋敷の扉を開いた。


「来るの? 来ないの?」


「い、行くよ! 行けばいいんだろ!」


 半ばヤケになりつつ、景は篝に続いて屋敷へと入った。


 バドミントンコートぐらいならとれそうな広間の中心を篝はまっすぐ横断し、正面の廊下へと進む。その様子はまるで自分の部屋を歩いているようで、不釣合いな場所にも関わらず妙になじんでいた。景はその後ろを慣れない足取りで追いかける。


「ん……?」


 ふと、後方でドアが開いた気がして、後ろを見た。だがドアは閉じられており、人影もない。

 

「気のせい……かな?」


「なに止まってるの? さっさと行くわよ」


 篝に呼ばれ、景は小走りで追いつく。


「ねぇ、どこに向かってるの?」


「楽しい場所。黙ってついてきなさい」


 篝は廊下を右に進み、次の角を左に曲がった。景がそれについていくと、正面に屋敷の中では小さめの――普通サイズのドアが見える。


 篝はそのドアを開き、その先を手の平で示した。


「百聞は一見にしかず。自分の目で確かめたら?」


「え? 何を......?」


 景はドアの中へと踏み込んだ。そこは芝生になっていて、靴越しでも柔らかい感触が伝わってくる。


「外……?」


 芝生はちょっとした公園程度に広がっていて、三十メートルほど先から森になっていた。初めて来る場所だったが、お屋敷の裏が森になっているのは町の人みんなが知っている。見たところ芝生にも森にも特別変わったところはない。


「ねぇ、何が――」


 景が振り向こうとすると、背中に強い衝撃が走った。景は芝生へと倒れこむ。


「バッカじゃないの? そんなお人よしだからすぐ騙されるの! そこで反省しなさい!」


 篝の怒号が響いた後、ドアが大きな音を立てて閉まった。


「……え?」


 景は三秒かけて状況を理解した。立ち上がってドアノブを回すが、押しても引いても開く気配はない。

 

「ねー! 開けてよ! 何か悪いことしたんなら謝るからさ!」


 景は軽くドアを叩いた。だが返事はない。


「なんなんだよ……もう」


 景はゆっくり振り向く。後ろで何かが動いた気がしたのだ。


「……」


 それは無言だった。二つの琥珀色の瞳をまっすぐ景に向けている。黄色と黒のしま模様は迷彩の役割をするというが、芝生の上ではただの自己主張でしかなかった。


「トラの……剥製?」


 さっき森を見たときはなかったはずだ。目立っているので、見逃していたということはないだろう。


(誰かいるのかな?)


 そう思って目を凝らすと、森の中に黒い大きな影が見えた。影はかがんで四足歩行になり、ゆっくりと近づいてくる。


「く、熊……?」


 森から姿を現したのは間違いなく熊だった。動いているので剥製ではない。


「に、逃げなきゃ......」


 景は後ろに下がろうとして、ドアに背中をぶつけた。後ろには逃げれない。反射的に左に駆け出すと、トラが同じ方向に走り出した。


「え、ええ!」


 景は思わず足を止めてしまった。その瞬間をトラは逃さない。


 トラは『く』の字を描くように進路を変え、三歩で間合いを詰めて景に飛び掛った。


「うわぁ!?」


 景は右に体を投げ出してそれを避けようとした。だが避けきれず、三本の爪が景の二の腕を捉える。大きな爪は景の皮膚をたやすく切り裂いた。


「ああ! あー!」


 景は思わず叫んだが、不思議なことに痛みはなかった。右手で傷口を押さえ、地面に体を投げ出す。トラはゆっくり狙いを定めた。景は芝生の上を足の力だけで這ったが、トラとの距離はほとんど離れない。

 

 トラは芝生を踏み切った。


「うあぁぁ!」


 景は頭を抱え込んだ、トラの爪が景を襲うことはなかった。


 トラの顔に白い小さな影が飛び込んだのだ。それは白い羽をまき散らしながらトラの顔に張り付き、暴れた。トラが頭を振って引き剥がしても、すぐに同じ場所へアタックし、トラに立て直す余裕を与えない。


「ふ、フクロウ……?」


 部屋に飾っていた剥製のフクロウだ。二ヶ月ほどだが、毎日見てると嫌でも目になじむ。


 トラ相手にフクロウは善戦していたが、それも長くは続かない。景がぼぅっと眺めている前で、フクロウは猫パンチの餌食となった。


「あ……」


 トラのナイフのような爪は、フクロウの体をたやすく切り裂く。片翼はもげ、首から足へと袈裟のように傷が開いた。真っ白な羽毛が舞う。


 景のすぐ前に落ちたフクロウは、それでも翼で地面を叩き続けた。トラの目は動き続けるフクロウに釘付けになる。


 トラが右足を持ち上げた。


「や、やめろよ!」


 思わず声が出た。トラの目が景に向けられ、持ち上げられた足は景の方へと踏み込まれる。


「う……」


 景はゆっくり後ろに下がった。トラの目を見て、ゆっくりと。トラもそれにあわせてゆっくりと近づいてくる。


 景が目を逸らしそうになった瞬間、目の前に時代錯誤の黒いドレスが降ってきた。ドレスはトラの頭に着地し、トラを踏み倒す。ドレスから伸びる手には細長い金属の棒が握られていた。その尖っている方を、倒れたトラの体へと突き刺す。


「す、掬……?」


 名前を呼ばれ、掬は景にはにかんで見せた。そしてスカートの中から鉄の棒をもう一本取り出し、トラの上から景の方に飛び降りて振りかぶる。


「え……? ま、待って――」


 刺される。そう思った瞬間、すぐ後ろで芝生を蹴る音が聞こえた。振り向いた先には、駆け込んでくる熊の姿。

 

 掬は熊めがけて鉄の棒を投げた。それが熊の肩口に深く突き刺さると、熊は左へと逸れ、壁へとぶつかる。


 そのまま熊は動かなくなった。


「た、助かっ……た?」


 状況をすべて把握したわけではないが、景は肩の力を抜いた。


「景」


 突然名前を呼ばれ、景の体は硬直した。まだ、可愛らしい殺人鬼が近くにいるのだ。


「な、なに?」


 景はこわばった首をゆっくりまわし、掬を見た。掬は景の左肩のあたりを指差している。


「腕、みせて」


「う、腕?」


 景は傷を負った左腕を右手でおさえているのを思い出した。右手を離してみるが、やはり痛みはない。それどころか右手に血すらついていない。代わりにキラキラときらめく綿のような、それでいてやけに繊維質なものが右手についている。

 

「なに、これ?」


灰雪ほのゆき


 掬はかがんで傷口に顔をよせた。三本の傷口はぱっくりと開き、そこからは綿のようなものがはみ出している。


 掬は袖のフリルから小さな針を抜き出し、逆の手で自分の髪の毛を一本抜いた。そして針に髪の毛を通し、綿――灰雪を指で押し込みながら傷口を縫い始める。


「え……? え? えぇ!」


 景は悲鳴をあげたが、針を使われている恐れからか、体は動かなかった。その間にも掬は慣れた手つきで二本目、三本目の傷口も縫い合わせていく。


 それを見ていた景は少しずつ冷静になっていった。


「えっと、ありがとう……でいいのかな? どう、なってるの? その……灰雪だっけ? 痛くないのはそれのおかげ?」


 景が質問すると掬は手を止め、景と目をあわせた。が、首を傾け表情に『?』マークを浮かべる。

 

「そんなわけないでしょ」


 篝が芝生の上へと出てきていた。篝は足元のフクロウがまき散らす羽の中から、繊維状の綿を選んでつまんだ。


「灰雪。童中家秘伝の詰め物よ。詰め方で筋肉のようにも、脂肪のようにもなる不思議な詰め物」


「つめもの……?」


 景にはすぐ理解できる単語ではなかった。その間に掬は景の傷を縫い終え、傷がほとんど見えなくなった肌を一撫でする。満足気にうなずくと、立ち上がって腰から細身のナイフを抜いた。


「え、ちょ……!」


 景は両手で顔面をかばったが、ナイフが向けられたのは景ではなく篝だった。


「なに? 一丁前に怒ってるの? いいじゃん。死なないんだから」


「壊れちゃう」


 掬は頬を膨らませた。滑稽な表情だったが、篝は笑わずに舌打ちをする。


「壊れたらあんたが直せばいいでしょ。それしかできないんだから」


「ま、待ってよ!」


 二人の常軌を逸した会話に、景は思わず声を上げる。


「二人は何の話をしてるの? 死なないとか、壊れちゃうとか」


 掬が篝にナイフをむけたまま振り向き、首を傾けた。嫌な予感が景を駆け抜ける。


 篝がナイフをどけて、景の顔を見せた。


「景。あなたのことに決まってるでしょ。傷から灰雪が出てた意味、わかってる?」


 景は大きく息を吸った。


「……僕が、剥製だって言いたいの?」


 そんなことがあるわけがない――と、景は強く念じた。だが心のどこかで否定しきれない。


 トラやクマはもちろん、フクロウは大きすぎるケガを負っている。それなのに、この場所に血の色は一つもない。フクロウの羽毛も純白を保っている。


 不思議なことだが、彼らが剥製だとすれば全て納得がいく。だが――


「『剥製が動くわけない』とか思ってるんでしょ?」


 篝に図星をつかれ、景は体を震わせた。


「動くわけ……ないよ」


「そうね。じゃあ納得いくまで調べてみたら? 景でもフクロウでも、クマでもトラでも、なんなら掬とかあたしを調べてみる?」


「二人は関係な――」


 まさか――と景の言葉が途切れる。


「二人も……剥製なの?」


 掬は首を傾けたが、篝はうなずいた。


「もうこの町に普通の人間はいないの。金裾町は剥製だけが生きる町。もしかしたら他の場所もね」


 信じがたいが、嘘を言ってるような様子ではなかった。


「それって父さんも母さんも、みんないないってこと? そんな……僕はこれからどうしたら………」


 景がほうけていると、篝が近寄って頭をはたいた。


「だっさ。男なのにうじうじしてさ」


「篝も最初は泣いてた」


 掬はフクロウの体と羽を抱き上げ、景の近くに寄った。


「あたしは女だからいいの。余計なこと言わないでよね」


 篝は景の腕を強引に引き、立ち上がらせた。


「景がどうするかは自分で決めなよ。とはいっても、この町で目が覚めた人……っていうか剥製? は、みんなこのお屋敷に住んでるから、それ以外の選択肢は自分で探すしかないけど。なんなら掬のぬいぐるみにでもなってあげれば?」


「うん。一緒がいい」


 掬はうなずいた。景は篝の手を振り払う。


「冗談じゃない。剥製になってまで、殺されるなんて嫌だよ」


「剥製は死なないって、さっき言ったじゃない。まぁ、掬と一緒にいるのが嫌ならそれでもいいんだけど」


 篝が掬を横目で見ると、掬は頬を膨らませた。景は大きく首を振り、倒れたままピクリとも動かないトラを指差す。


「じゃあアレは何なんだよ! アレは死んでるって言わないの? クマだって全然動いてないじゃないか!」


 篝はトラの方に振り向くと「ああ、あれね」とトラに近寄った。そしてトラに刺さっている鉄の棒を引き抜く。するとトラは頭を動かして篝を見たあと、走り出しながら起き上がり、そのまま森の中へと姿を消した。

 

 篝は鉄の棒を、景の足元に刺さるよう投げる。


「展示ピン。動いてたって剥製だからね。これ刺さると動けなくなるみたい」


「ピ、ピン……?」


 景のすぐ前に立っている鉄の棒はピンと呼ぶには大きすぎる。鉄パイプなどに比べたらかなり細いが、直径が一センチはありそうだ。長さも景の腰近くまである。


「これで『めっ』するの」


 掬はピンを地面から抜いて、足で土を落としてからスカートの中に収納した。


「ひ、人には使わないよね? 篝にはナイフ向けてたし」


 景がおそるおそる聞くと、掬は首を横に振った。


「二本しか入らないの」


 掬はスカートをめくりあげ、中を見せようとした。が、横からピンに押さえられる。


「なにやってんの。やめなさい」


 ピンを差し出したのは篝だった。その後ろでクマが森へと帰っていく。


 掬は頬を膨らませ、篝からピンを奪ってスカートのなかにしまった。


「景。行こう」


 掬は景の腕をとったが、景はそれを振り払う。


「嫌だよ。鉄の棒に怯えながら暮らすなんて、まっぴらごめんだ」


 景が距離をとると、掬はうつむいて口を尖らせた。景は掬を避けて、出てきたのと同じドアから建物の中に入る。


 正面の壁に、シゲがよりかかって立っていた。


「やぁ。君ならすぐに戻ってくると思ってたよ」


 シゲは相変わらずにやけた表情を浮かべている。


「何か、用ですか?」


 景は距離を維持するために足を止めた。だがシゲは構わずに壁から離れ、景の肩に手を置く。


「そんなに警戒しないでよ。不安なのはわかるけど、一人じゃなにもできないよ? もうすぐ昼食の時間だから、ダイニングに行こう。その時間にはみんないるからね。今度こそみんなに紹介するよ」


「みんな……?」


 会ってみてもいいかもしれない。景はそう思った。篝のように、知り合いが剥製になっているかもしれないからだ。


「はい。じゃあお願いします」


「お、いいね。やっぱり君は冷静だ」


 シゲに背中を押され、景はダイニングへと向かった。

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