枕草子に「もののあはれ」の入り口が……
「え? 逆じゃないの?」と思われた方も多いでしょう。
いえ、山本潤子さんの「枕草子のたくらみ」を読んで、私はとても「あはれ」だと思ったんです。
平安時代の女流文学「枕草子」は「源氏物語」と対になって取り上げられることが多いものです。
そして、清少納言の「枕草子」を貫く感性が「をかし」であり、紫式部が紡いだ「源氏物語」全体に流れるのが「あはれ」である……。
これが一般的な理解です。
高校生向けの古語辞典の解説によれば。
「をかし」=「すてき!」、「あはれ」=「じーんとした感動」とあります。
心の動きの「理知的・客観的・ドライ」な側面が「をかし」であり、「抒情的・主観的・ウェット」な側面が「あはれ」である、とも(いいずな書店「古文単語330」)。
枕草子は清少納言の「をかし」を見出す感性が遺憾なく発揮されたものです。
枕草子の有名過ぎるほど有名な「春はあけぼの」の夜明けの空の描写。
それに、現代の我々にも「分かりみが深すぎる」鋭い着眼点。「説教する御坊さんはイケメンがいい。だって話の内容が頭に入りやすいんだもん」「ムカつくもの。夏の夜に寝入ろうとしたときの、ブーンという蚊」。
あるあるある……ですねw Twitterなんかだと「いいね」が山ほどつきそうです。
清少納言は、現代で言うところの「人気ブロガー」「インフルエンサー」なのだと、そう取り上げられるようになって久しくなりました。
そんなリア充ぶりが、内向的な印象を与える紫式部と対比され、またその紫式部が清少納言を自分の日記の中でディスっているのも有名な事実ですので、「明るく外交的でさばさばした」清少納言と、「陰にこもったややコミュ症気味」の紫式部というキャラのイメージもすっかり定着した感があります。
(私には高校生の息子がいますが、こういった若い世代に古典や日本史を親しみやすくするのに、こういう分かりやすいキャラ設定も有効なんですよね)。
ですが、それが「つくられたキャラ」だったとしたら……。
山本淳子さんの「枕草子のたくらみ」はそう指摘します。清少納言は意識してキャラをつくっていたのではないか……と。
私たちは清少納言と紫式部が生きた時代を史実としても知っています。だって、日本史で習いますもんねw
平安時代といえば摂関政治。その摂関政治は藤原道長のときに最盛期を迎え、私たちも日本史でそう学習します。
私たちが定子について知っているのも、道長のサクセスストーリーに登場する悲劇の脇役としてです。
つまり、「道長の兄が娘の定子を一条天皇の后にして権力を握っていたが、その兄が死亡したため、次に道長が娘の彰子を入内させて外戚となった」という歴史の中で、定子は出家し後宮から退場してきます。
ところが。
その悲劇の后・定子に仕えていた清少納言は明るい。
周囲の物や人々の「をかし」な様を「あれもこれも」とじゃんじゃん書き連ねていきます。
清少納言の周囲は、住まいも物も、人々も、その振る舞いも風雅なものばかりで満ち溢れているかのよう。
「枕草子」は、登場人物が没落したのだという惨めを感じさせません。
私は現在平安ファンタジー小説を書いているので、平安時代についての本を手に取り、そして最近頑張って枕草子の原本を読んでいるところです。まだ前半ですが、古文だというのにシャープな明晰さを感じる文章とその軽妙な内容に、とても快活な空気を感じます。
山本淳子さんは「枕草子のたくらみ」の中で、この決して惨めさを感じさせない枕草子のありようこそが、清少納言の枕草子の意図(たくらみ)ではなかったかと指摘されています。
枕草子にもある程度は定子の不遇をうかがわせる事実関係が記述されています。また、同時代を生きた色んな人が日記などを残しています。それらの史料から、父も兄も失い、後ろ盾のない定子には辛い日々が続いたことが分かります。
それまですり寄ってきた人が離れていく。定子の身内を、政敵の道長に売る人もいる。可愛がっている女房の清少納言を引き抜きに掛かる人物もいる。出家した定子は華やかな後宮の住まいから、人が住むために建てられてはいない事務用の官庁のその狭い部屋で暮らすようになる……。
(「ほんの十七畳の狭さで、かつて定子のものだった内裏後宮の梅壺の母屋の三分の一にも満たない。だがこの手狭な場所に、定子はこの後二年以上滞在することになる」159頁)。
そんな局面でも、清少納言は目に映ったもの、日々起こった出来事、周囲の人々などの「をかし」を文章にしていきます。
定子の周りは明るく、輝かしく、悩みも惨めさもない、機知の飛び交う素晴らしい文化サロンであったのだと縷々書き綴っていくのです。
史実としても、一条天皇の出家した後の定子への寵愛は冷めず、その後も定子は懐妊しています。
そして、枕草紙の「世界観」ではそれも当然。
だって、どんなに政敵に貶められようと、定子は華やぎを失っていないのですから。知性と明朗さと慈しみ深さに満ちた、レベルの高い文化サロンの
清少納言は決して出自が高くありません。それなのに自分を高く評価し取り立ててくれた定子は慕わしい女主。主従愛も並々ではありません。また、双方知的レベルが高く、ツーカーで通じ合う者同士の心の絆があったでしょう(「香炉峰の雪」は良く知られるところです)。
清少納言は枕草子を、当然お仕えしている定子にお見せするわけです。
そして、その書物の中に「私たちの世界はこんなに気高く輝かしく明るく楽しいものなんですっ!」という世界を構築し、「貴女様こそ、その
山本淳子さんはこう指摘したうえ、さらに興味深い考察をされています。
道長の天下になった後『貴族社会には後ろめたさがあったんじゃないか』と。かつてその父が生きていた頃にはすり寄っていたのに、落ちぶれた途端に冷淡に扱った悲劇の姫君。思い返すと、自分達の仕打ちに後味の悪い思いをしたことでしょう。
平安時代といえば、蹴落とした政敵が怨霊になって復讐しに来るかもしれないという恐怖にとりつかれていた時代です。
そんな中で、お仕えしていた清少納言の枕草子では「惨めさのない、常に明るく華やかな定子様の世界」が綴られています。かつて冷たくした悲劇の姫君が「それでも明るく楽しく過ごしました」という内容の書物は、道長以降の貴族達の不安と恐怖を和らげてくれる役割を果たしたのではないでしょうか。
それが、後々の世まで「枕草紙」が読み継がれてきた理由ではないか。そして、山本淳子さんは、清少納言はそこまで意図して、あえて眩しいほど華やかな随筆を完成させたのではないかと書いておられます。
「枕草子」は、定子の鎮魂の書として書かれ、そしてのちの世まで生き延びられるような仕掛けの施された書である、と。
枕草子の書き手の清少納言もまた、輝かしく華やかな世界観の中で、明るくさばさばとしたキャラとして登場します。その世界観を盛り上げるためには自分や身内を道化役にするのも厭いません。
アノ清少納言にも、定子に仕え始めた頃にはオドオドとしか振る舞えなかった初々しい新人時代もあるのですが、それもお優しい定子さまがフォローして下さったというエピソードが加わります。
21世紀を生きる私たちも清少納言を、彼女が描いた通りのキャラとして認知しています。陰キャな紫式部に対して陽キャな清少納言、と。
清少納言は、「私の周りはこんなに素敵なんです!」と発信し、同時代や後世に影響を残した、まさに稀代のインフルエンサー。
「史実」に埋もれてしまいそうな、「清少納言にとっての現実」。
その爪痕を冴え冴えとした文才で歴史に残した清少納言。
道長側の紫式部にとっては「そんなの嘘よ!虚構よ!」と言いたいでしょうし、それも事実の一面です。権力者が認めた事実を史実と言うなら、それが歴史上の事実でしょう。にもかかわらず、千年以上にわたって、自らの産み出した虚構をもう一つの現実として認めさせてきた清少納言。
山本淳子さんの「枕草子のたくらみ」によって、私たちはその舞台裏を知るようになります。
「枕草子のたくらみ」の読了後、私は胸が詰まりました。
清少納言の枕草子の背後にある、主従愛、知的な女主人への憧れと愛情、理不尽な政争とその敗北に挫けまいとする闘志、文章で運命に立ち向かう気高さ、己の筆で歴史を変えんとするその野心──。
とても感動的な本です。枕草子も、そして山本淳子さんの「枕草子のたくらみ」も。
そして。
この、今の私が感じているしみじみした感動こそ、きっと平安時代の人々が「あはれ」と呼んだものであるに違いないと思うのです。
2023年1月12日追記
この取材をもとに、平安ファンタジー活劇は「錦濤宮物語 女武人ノ宮仕ヘ或ハ近衛大将ノ大詐術」を書き終えました!
↓ぜひ、お読みくださいませ!
https://kakuyomu.jp/works/16816927860647624393
2023年12月3日追記
このエッセイの更新ができていなくてスミマセン。
この間に、鷲生は日記エッセイを始めました。
そちらで日記の形で歴史ファンタジーの資料や取材記をつづっております。
どこからでもお読みいただけるので、ぜひどうぞ!
↓
「京都に住んで和風ファンタジー(時には中華風)の取材などする日記」
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