調和
ある週、トランペット吹きが姿を現さなかった。
それは定例会が開催されてきた期間の中では初めての出来事だったので、黒田氏と堺氏は動揺を隠せなかった。とはいえ、今まで2名がトランペット吹きと言葉を交わした事は無く、彼の様子を確かめる術が無かった。
「静かですね。」
黒田氏との会話が途切れ、しばらく沈黙が流れたところでようやく堺氏が音楽の不在に触れた。定例会はいつもの音の聞こえないままなんとなく開始され、それまでの数時間、ダラダラと引き伸ばされていたのだ。
「解散しましょうか。」
無音に耐えかねた黒田氏は、足元の蟻を眺めながら提案した。まだ日は登りきっておらず、野村氏は定例会に姿を現してすらいなかったが、2名はすぐに解散に同意した。
明くる週も、トランペット吹きは姿を現さなかった。
今までトランペットの音色が埋めてきた間は黒田氏と堺氏の想像を遥かに超えて長く、音楽の無い定例会は不愉快なまでにぎこちなかった。結果、会は前回よりも更に短いまま終了し、2名はどこかむず痒い感情のまま帰路についた。
野村氏も現れなかった。
更に続いて3週間、トランペット吹きは姿を現さなかった。
次第に黒田氏と堺氏の関心は定例会のぎこちなさよりもトランペット吹きの中年に向き、話題は彼の事ばかりになっていた。
「どこか、体を悪くされたのでしょうか。」
堺氏は目の上の毛をハの字にして呟いた。
「あれくらいの年齢ですからね、可能性はあるでしょう。職業によっては、出張という事もあるかもしれませんよ。」
黒田氏は答えた。しかし、出張という単語は堺氏に新たな不安要素を与え、その想像力を広げてしまった。
「ああそうか。彼の体調ばかり気にしていましたが、物理的な移動の可能性もあるんでしたね。」堺氏のハの字は更に角度を増した。「転勤や引っ越しという場合もある。そうしたらもう会えないかもしれませんね。」
「残念ですねえ」
堺氏ほど悲観的にはならずとも、黒田氏も当然トランペット吹きの中年を気にかけていた。彼の音楽が定例会の流れを支えていた事は明白で、可能ならば今すぐにでも中年にトランペットを吹いてほしいと思っていた。
トランペット吹きはそのまま数ヶ月間現れなかった。
話題の欠如と沈黙の不快感によって定例会は徐々に短くなっていき、野村氏の存在は忘れ去られた。そして何度も語っているうちに、堺氏の悲観的想像は深さを増していた。
「病気、それももし肺の病気だとしたら、長時間トランペットを吹き続ける事は難しいかもしれません。例え完全に病気が治癒しても、術後肺に残るダメージや、彼の年齢から推測した体の耐久性を考慮すると、もう2度とトランペットは吹けないかもしれません。」
「ええ」
季節が変わり、すっかり寒くなった事で口を動かす気力を失った黒田氏は、ただひたすらに足元を観察していた。地面には乾いた芝がまだらに散らばり、夏場のみずみずしい地面の様子からは想像がつかないほど荒れきっていた。今朝の小雨の水分が土壌の小さな窪みに溜まり、所々薄い氷が張っていた。
「定例会にあのトランペットの音色が響く事はもうないのでしょうか。」
「さあ…」
悲観と乾燥で乾ききった鼻を舐め、珍しく堺氏が解散を提案した。2名はトランペット吹きに再開する希望を失いかけていた。
冬が深まり、日の移動が早まるに連れ、定例会はさらに縮小された。社交辞令としての挨拶と天気の話を済ませると、2名は数言だけトランペット吹きについての悲観的な意見を述べ、すぐに帰路についた。堺氏の自慢の白い毛皮のコートをもってしても、公園はあまりに寒すぎたのだ。ある日は黒田氏の尻の位置まで雪が積もり、定例会の開催はただただ苦痛となった。
自体が好転したのは、公園の雪が溶けきり、晴れ間が増え、わずかに湿った風が吹き始めた頃だった。堺氏と黒田氏がいつもの段差の前に来てみると、そこにはトランペット吹きの姿があった。
あまりにしれっと現れたので、2名は戸惑った。待ち望んだはずの人の姿を前にして、黒田氏と堺氏はしばらく驚きに支配され、動く事が出来なかった。何より、そもそも両者ともトランペット吹きと言葉を交わした事は無い。飽くまで一方的に認識しているだけの他人に対して、何か大きな反応を取る事は不適切だったのである。
しかし、中年が革のケースからいつものトランペットを取り出し、顔の前に構えると、堺氏と黒田氏の心臓が高鳴り出した。驚きは喜びと期待の混じった興奮に変わり、じわじわと2名の体を温めていった。
中年は練習を開始する際、いつも同じ曲から演奏した。以前黒田氏は、音楽家は調子を試す際に演奏する曲を決めている事が多いのだと説明した。実際、中年はこの曲を吹くのが素人目にも一番うまかった。一方堺氏は、この曲が中年にとって思い出深い曲なのでは無いかと推測していた。だから中年の演奏は自然と上達し、奏順も決まったのだと解釈した。
音色は懐かしい響きで堺氏と黒田氏の耳にそっと入ってきた。曲が終わると、2名は安堵で満たされていた。あまりの心地よさに、堺氏はなんだか少し感極まってしまっていて、体に力が入っていた。
「帰ってきてくださったのですね。」
とうとう気持ちをこらえなくなり、堺氏は言葉を漏らした。あくまで黒田氏に向けて語りかけていたが、頭は完全にトランペット吹きに向いていた。中年は堺氏の声に気がつくと、驚いた様子で少し眉を上げ、2名の姿を数秒ほど見つめた。そして、頰の緊張を緩めると穏やかな笑みを浮かべて会釈した。双方、随分長い事お互いを認知していながら、初めての交信だった。
堺氏は予想外の返事に照れてしまい、中年から目をそらした。喉の奥がごろごろと鳴っていた。黒田氏も何かしたくなり、両手をはためかせて拍手した。小さな音だったが、不思議と中年の耳に届き、彼の心をくすぐった。中年は黒田氏の方をみると、笑顔で再び会釈した。
最初は黙って音楽に耳を傾けていた2名だったが、2曲、3曲と続いていくうちに、ぽつりぽつりと会話が始まり、自然に定例会へと流れ込んだ。柔らかな音色で会話の間が埋まり、言葉の追いつかない沈黙も、心地よい音楽で包み込まれた。不思議と気まずさは消え、定例会は以前のように日が頭上に登り切るまで引き伸ばされた。
公園のベンチの裏の木陰から、野村氏が姿を現した。定例会の音楽と言葉を妨げないよう、そろりそろりと2名に近づくと、後ろに続く小さな影が見えた。野村氏の子供のようだった。
「お久しぶりです。野村氏も来てくださったのですね。」
純粋な喜びで堺氏の声は高ぶっていた。
「トランペットの音が聞こえたので。」
簡潔に黒田氏と堺氏への挨拶を済ませると、野村氏は腰を屈め、小さな声で子供達に何かを呟いた。3名の子供は慌てて姿勢を正し、それぞれ黒田氏と堺氏の方向を向いて順番にお辞儀した。直角でぎこちない礼だった。
暖かく伸びやかなトランペットの音色。ゆったりと会話を続ける黒田氏と堺氏、音楽に合わせて体を揺らす野村氏、同じく音に乗って首を傾ける子供達。久しぶりに訪れた安らかな定例会は、中年の演奏中止とともに締めくくられた。トランペットの音が聞こえなくなると、黒田氏、堺氏、野村氏は顔を見合わせ、言葉少なに挨拶を済ませて公園を去った。
中年は丁寧に楽器の表面を吹き上げ、トランペットを革のケースにしまいこんだ。ベンチを立ち、後ろを振り返るともうそこには誰もいなかった。
日曜日 @Y_words
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