第28話

台所のシンクの前に立つとそこには僕の目の高さに合わせた鏡がある。食べ物を口にする僕の姿を想像し、心の奥に住んでいる僕自身を覗くためだ。一度深く目を瞑り、そしてゆっくりと見開く。


PCの電源を入れ、毎日変わるパスワードを入力し、今日の仕事の確認を終える。行き先は心療内科だ。


いつもの様に病院の入り口を入ってすぐの受付でパスワードに使われた番号を伝えると、すぐに黒いスーツを着た担当者が僕を迎え入れた。注意深く管理された扉は無限回楼へいざなう入り口で永遠に届く場所に続くような気がしたが、見慣れた椅子一つとモニターだけの部屋についた。担当医と藤岡は患者についての話し合いを終え、僕の横に並んだ。


「なんで概念獣研究者になったの?」

「どうした急に」

「真一と話していて、将来の夢やなりたい職業について聞かれたんだ。」

「俺の理由は憧れとかとは程遠い、とても個人的なものだ。」

「聞いても?」

「もし聞く気があるのなら話すが、あまり気分がいいものじゃないぞ。ほら、患者がきたから今はこっちに集中しろ。」


手順が変わるわけではない。二人の看護師が一人患者に付き添う。アイマスクとノイズキャンセリングのイヤホン。脳の活動領域を測るモニター。快方を待つ患者が座る中の椅子と解放者である概念獣が座る外の椅子。前回と同じ患者がいない事だけが唯一異なる。新規の患者が15人。軽度が10人。重度が5人。50%解放の患者が2人。70%解放の患者1人。80%解放の患者1人。完治者無し。同じ椅子に座りながら最後に退室した患者を遠目で見ながら藤岡が医者と話し終わるのを待った。


藤岡と僕は病院を後にし、いつもとは違う場所でコーヒーを飲んだ。最近できた新しいコーヒーの専門店で、中南米のコヒー豆が売りらしい。豆の選別の仕方や淹れ方を説明をされながら、メニューにエルサルバドルの豆があるのを発見した。ブルボン種、パカマラ種、生産量が少ないゲイシャ種も揃えられていて、ホンジュラスで飲んだフルーツの香りがするコーヒーの話をしたらパカマラ種をV60で淹れることを勧められた。少し時間が掛かりますからと注文時に念を押され、すぐに挽いた豆のいい香りが室内に広がった。儚いフルーツの花の香りが鼻を抜けて酸味が舌に残るコーヒーを口に含みながら藤岡の視点で紡がれた彼の過去を知ることになった。


藤岡輝石には田村ヒカリと呼ばれる幼馴染がいた。隣同士に住み、親同士の仲も良く、輝石とヒカリは幼少期から青年期に移行しても当たり前の様に一緒に過ごしていた。輝石は男の子でヒカリは女の子だから、と親戚に言われる事もあったし、小学校で手を繋いでの登下校をしていて同年代の男女に揶揄われたこともあった。それでも輝石は輝石、ヒカリはヒカリだから、距離を置いたり、話をしなくなるといった思春期の男女にありがちな情景は起こらなかった。不幸は突然訪れるというが、それは見ず知らずの他人に頭を後ろからガツンと殴られるぐらい身に覚えのない感覚だった。幼い頃からの親友は概念獣の暴走で亡くなった。ニュースには母親が娘と夫を巻き込んで無理心中をしたと流れたが、正しくはヒカリの母親は非特定概念獣保持者で彼女の概念獣が突然変異した結果、娘と夫はその暴走に巻き込まれ命を落とした。藤岡輝石は初めて概念獣の存在を知り周りに真相を求めたが、周りは藤岡輝石に理解を求めた。語られないことが理解することだとは思えない。真実を追求する為に概念獣研究で成果を上げている大学を受験し、概念獣学を専攻し、大学院では研究に没頭した。データバンクを漁れば漁るほど、光のない洞窟を一人で歩いているような心細さに見舞われた。不幸は突然訪れたが、真実も突然目の前に現れた。探していたケースファイルが見つかった。世界で起こる概念獣が起因しているテロや虐殺の様な大事件のファイルの中に隠れていた平和な日本で起こった名もない家族の死について、とうとう突き止めた。


ヒカリの母親は愛の概念獣を持っていた。ありきたりな非特定概念獣保持者だった。愛の概念は沢山あり、愛と紐づく概念もまた多い。愛はポジティブにもネガティブにも受け取ることができ、診断の結果は良性だったのだろう。彼女の概念獣に突然変異が起きたということは、他の概念獣が合わさり、新しい概念獣を産んでしまったのかもしれない。愛憎のような。


「別に愛はありきたりじゃないよ。僕は愛された覚えがない。それで、どうして概念獣研究者になったの?」

「何も出来なかった自分が許せなかったから。無知ではいたくなかった。」

「・・・・・・・・」

「お前は何で俺に協力する?早苗か?ファン・カルロスか?まさか自分自身の信念でやってるってことはないだろ?行動は協力的だが、否定的な言葉が多いからな、お前は。」

「何も否定はしていない。肯定もしないけど。」

「どっちつかずでどうするつもりだ?傍観者でいてどうする。自分からは何も決めないで、人と関りがなければ非難されないからか?」


藤岡輝石は続けた。早苗が死んだのはお前の所為じゃない。早苗はお前と身体的接触が多かったのは彼女がお前の家族で、お前を生かしたいと願い、それが偶然死につながっただけだ。その身体的接触が奇跡的にお前を助けていた。でもそれは後付けにすぎない。


僕は姉さんを殺してない?


ファン・カルロスが目を失ったのもお前の所為じゃない。あの時のファン・カルロスはもうすでに概念獣に支配されていた。お前の概念獣が彼を救ったんだ。彼は目が見えなくなっても研究所に残って今も概念獣の研究をしている。そして、今度は被験者になることを選んだ。

彼は世界に貢献している。


僕はファン・カルロスの人生を奪っていない?


俺は研究の為にお前と一緒にいるんじゃない。早苗の弟だからでもない。俺はお前の事を本当の家族だと思っていままでやってきた。お前を守りたい。お前を自由にしてやりたい。


僕と藤岡輝石は家族として繋がっている?


藤岡輝石は続けて問う。お前はどうしたい?お前はどうなりたい?お前はどうゆう未来を生きたいんだ?と。


未来を選べる権利が僕にあるの?


“Susumu, May I ask something personal?”

“Sure”

“When are you gonna go see Juan Carlos?”

“What do you mean?”

“I mean what I mean, it’s very straight forward.”

“I don’t know”

“What do you mean by you don’t know. You mean, you don’t know when you can go. You mean, you don’t know when you want to go. You mean, you don’t know when you should go. What else? Do you want me to keep going?”

“ …………………………”

“I think, you should go because you want to go but you cannot go because of who you are. Look, you got Mr. F with you. He will understand and help you out like always he did. Hey my friend, listen carefully, we all know that you did not leave him behind. You understand that, right? Nobody could do anything. Nobody’s fault. Susumu, you should move on. He is waiting you here and I am too.”


この会話は聞き覚えがある。スージーと国際概念獣研究センターの新技術について話したときの続きだ。スージーも藤岡輝石も同じ言葉を僕に繰り返す。


“Susumu, staying alone is not same as being left behind. If you feel alone and nobody is catching up your loneliness, you should remember that Susy, Mr. F, your sister and I, we are all there for you. We always believe in you. Don’t you dare forget that.”


グランドキャニオン国立公園でのファン・カルロスの言葉。君はまだ自分の目で僕を見て話していた。同じ言葉を今の僕に向けられる?


不都合な真実しか現実にはないんだと思っていた。こんな都合がいい夢を見たいと思ってしまう僕は愚かでどうしようもなく弱い。僕の概念獣はなぜ僕を食べない。全てを喰らい尽くせばいい。何も無くなった時、僕は僕から解放される。


君だけは僕の本当の味方でいてくれるでしょ?


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