第23話
本名は佐藤真由美だと彼女は名乗った。
「杉本マユは芸名なんです。同じ佐藤ですね。宜しくお願いします。」
「杉本さん?それとも佐藤さん?は・・・・」
「杉本で大丈夫です。同じ苗字だと困惑しますね、ふふ・・・」
藤岡名義で予約をしてあった貸しオフィスの一室に、ほっそりとした、そして声がやけに耳に届く女性が眼鏡をかけた女に付き添われながら時間通りに入ってきた。彼女は深くかぶっていた帽子と顔の半分を隠すようなマスクを取り人形の様にちょこんとソファに座った。その横に座ったリクルートスーツの様なスーツを着たマネージャーから彼女の名刺が渡された。
「普通に喋れるんですね。」
「歌う時だけ声が出なくなるん・・・」
杉本マユの言葉を遮り、マネージャーが捲し立てるように状況の説明をしだした。藤岡はもちろん佐藤真由美に関するデータを受け取っているはずだ。それでも何も言わず彼女の話に耳を傾ける。最近始まったとされる、正確には一か月ぐらい前から、レコーディング中に声が出ない杉本マユの症状を立て続けに起こったことが発端で会社が深刻に捉えだした。普段は普通に喋れるのでこれと言った病気の可能性などは視野に入れなかったが、検査入院をして徹底的に体を検査しても健康そのもので、その方面の専門家の方にも見てもらったが原因の特定はできず、今は体調不良という建前で一時仕事を休んでいる状態だそうだ。杉本マユの仕事は多岐に飛び、ようやく長かったコンサートが終わり、新しい新曲のレコーディングを始めた最中で、藁にも縋る思いでほうぼうを虱潰しに探してここにたどり着いたと涙ながらに語った。
「・・・マネージャーの言う通りです。」
「何とかしてほしいんです。明日にでもレコーディングを再開しないとスケジュールが押して押して。プロモーションビデオの作成もこの後入ってまして、今回はセットにお金をかけているので、時間がズレると困るんです。それから・・・」
「2つの自我と概念獣の関係by イバァン・アレンスキー」
「いばん・・・誰ですか?」
「ロシアの穏健派概念獣研究者の論文です。我々には自我と無意識の自我があり、その二つの対立から概念獣は生まれると仮説を立てた研究者で、脳と心の狭間で葛藤が起こり・・・」
「・・・そんなことはどうでもいいですから、マユの治療を行ってください。出来るって聞いてきたのに、出来ないなら時間の無駄ですから。」
「杉本さんはそれで、大丈夫ですか?」
「佐藤さん、それでとは、どうゆうことでしょう?」
「歌が歌えるようになって大丈夫ですか?」
「・・・・」
鬼の形相でマネージャーは僕を見ると、何を言ってるのか、大丈夫に決まっていると杉本マユを全肯定した。明日からまた仕事を始めないと大勢の人に迷惑が掛かる。大手のスポンサーが付いた社運をかけたプロジェクトには数えたらきりがない程の会社や人が組み込まれていて、彼女がそこに穴をあけることは許されない。ナレーションを他人に任せた物語の主人公は、いっこうに自分の台詞を喋りださない。
「マネージャーさん。私は佐藤さんに聞いているんです。もう一度聞きます。それが貴方の望みですか?」
「・・・そうです。私は歌が歌えないと困ります。宜しくお願いいたします。」
「それではこちらの誓約書に署名をお願いします。」
藤岡の説明が終わるとマネージャーは内容の確認をし、佐藤真由美の前に置かれてある一枚の紙の裏表も念入りに確認し終えると、彼女に署名を促した。佐藤真由美は何も言わず本名で署名をし、僕は業の概念獣を食べた。
「杉本さん、お疲れ様です。治療が早くて驚きましたか?」
「藤岡さん。本当に一瞬で驚きました。これで仕事に戻れます。本当にありがとうございました。」
「最後に一つだけ。さっきうちの佐藤が遠回しに出した話題ですが、イバァン・アレンスキーは概念獣肯定派として知られています。悪い影響の方ばかり広がるんであんまり知られていないんですけど、彼の論文では概念獣は概念獣保持者を守る為のメカニズムで、保持者を助けているそうです。そして私は彼の論文が正しいと知っています。」
「・・・そうなんですね。」
「どうかご自愛ください。」
暫くして杉本マユの新曲のプロモーションビデオが渋谷のスクランブル交差点上の電光掲示板にマネージャーの言っていた大金が滞りなく動いた跡で埋め尽くされた。笑顔で白いウエディングドレスを纏い、ハッピーエンドを謳う歌詞は彼女が書いたのだろうか。「かけがえのない人」と題されたバラードはYouTubeで再生回数トップとなり、長い間音楽ランキングの上位に彼女の歌が並んでいた。
「その曲、彼女のだろ?」
「杉本マユ」
「そうそう。調子良さそうで安心した。あの子自分の意見が言えなさそうだから心配だったんだよ。」
「今でも言えてないと思うけど・・・、あの時のオドオドした態度とYou Tubeじゃ全然違うからすごいなと思ったよ。 やっぱりそっちの世界の人は使い分けが半端ない。」
きれいに洗いゴミを取り除いた乾燥タケアズキをたっぷりの水につけ、一晩おいて戻した。ぷっくり膨らんだ豆の中に、ニンニク、トマト、ピーマン、玉ねぎをぶつ切りにして沸騰するまで強火にかけ、泡が大鍋から溢れたところで弱火にし、コトコト煮ていく。乾燥豆は生の豆と比べて柔らかくなるのに時間が掛かる為、その間ファン・カルロスと僕は各々の読書に没頭した。時間をあけて豆の硬さを確認し、その都度足りなくなった水を足していく。ある程度豆が柔らかくなったら、豚肉のブロックと塩を入れさらに煮込んでいく。野菜は跡形もなくなり肉に豆の色が移るころ、肉と食べる分の豆を他の鍋にとりわけそれに隼人瓜とニンジンを入れ野菜が柔らかくなるまで煮込む。最後塩の調整をして、豆と肉のスープが出来上がる。
「大量の豆を煮てどうするんだ?」
「食べるけど」
「どうやって?」
「まず、この豆と肉のスープを食べる。残った豆の半分は冷凍庫で保存して、半分は冷蔵庫にいれておき、そのまま食べたり、ミキサーで液状にして油で炒めたり、ププサに入れたり、ホンジュラスではバリアーダにして食べたり。あっちではスクランブルエッグと食べたり、チーズと食べたり、毎日朝夕食べる人もいるってファン・カルロスは言ってたよ。色々おいしそうだよね。」
「お前が考えているよりもシンプルな食べ方だと思うぞ、本当は・・・」
「本場ではトルティーヤを添えて食べるらしいけど、僕は白米を入れた方が好きだから、パンもあるから、どっちでも好きな方を選んで。」
「俺はパンでいい。」
「いただきます」
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