第22話

「お前は一度社会を経験するべきだ。」

「仕事はしていると思うけど」


夕飯が終わってソファの上に横になり本を読んでいた僕に藤岡がキレた。


「そうじゃない。お前の仕事への態度が良くない。確かに与えられている情報は限られているが、それでも、その態度はない。お前は概念獣だけを相手にしているんじゃない。お前が対峙している人達は、お前に人生を委ねる決意をして、お前の前に立っている。概念獣を減らしたり消したら終わりじゃないんだ。彼らの人生は続いている。人は過去を背負い現在を生き未来に向かう。そして、生きる為に経済活動をする。お前の着ている物、食べている物、住んでいる場所は全て彼らが今まで払ってきたものだ。衣食住足りて礼節を知るというが、お前には礼節がこれっぽちもない。それどころか食った分だけ無礼に拍車をかけている。どの様な労働でどの位の対価を得られるか一度身をもって体験すべきだと思ったから、明日から一週間はこっちの仕事はいれていない。ここにある施設に朝8時に向かえ。いいな?」


PCに送られてきたメールは簡素なものだった。仕事場の名前と地図、日程:月曜日から金曜日、拘束時間:午前8時から午後5時まで、休憩1時間、注意事項:食堂やコンビニ等近くにない為、昼食はご持参ください、給金の支払い方法:日払い、週払い対応可。現金での支払いも対応可。ご気軽にご相談ください。


「佐藤さん。概念獣保持者との事ですがここではそうゆう区別はありませんので。藤岡さんからのご紹介ですから今日は見逃します。現場には30分前に入ってください。仕事は8時から始まりますので、8時ちょうどに来られても困ります。」

「・・・はい。分かりました。明日は30分前に入ります。」

「それで、給金ですがどの様にしますか?日払いですか?週払いにしますか?」

「どちらでも」

「そういわれましても、こちらでは決めかねます。」

「えっと、じゃあ、日払いでお願いします。」

「はい、じゃあこちらですね。自給1000円で勤務時間8時間ですので、8000円。その他もろもろの経費は引いてあるので。もし確定申告をする場合は源泉徴収票を出しますので。うちはブラックじゃないんで、そうゆうとこはしっかりしてるんですよ。」

「そうですか」


自宅から普通電車で1時間半。駅から徒歩30分。何もない僻地に建った大きなコンクリートの建物。仕事はそこの掃除だった。時間ごとに割り当てられた場所を大きな掃除機を持って回り、床に散らばっているごみを大体取り終わったら、角に溜まったホコリも忘れずに吸い取る。業務用掃除機を押しながら長い廊下を永遠と進んでいく。廊下の先には部屋がありそこも掃除する。机や棚の物は触らず、ただ床だけを掃除していく。大きいゴミは手で拾い、ごみ箱の中を空にして、また同じ廊下に戻りその先の部屋を掃除器と目指す。一応、今日の仕事は合格を貰えたようで、マネージャーの男が掃除現場を確認後、諸注意と現金を同時に差し出した。


現金を入れる財布を持っていない事に気が付いた。ポケットに8枚の札束を入れて施設を後にし、試しに近くに止まっていたタクシーで駅まで行く事にした。信号機もない道路を渋滞もなく進んで、920円で、小銭を千円札が入っているポケットにいれ、駅で切符を初めて買った。乗り換えの回数で料金が違う、所要時間で運賃も変わってくる。今7080円残っている。立ち仕事で足が疲れた。早く家に帰りたい。この時間なら特急で帰れば一番早い。5時まで働いたから家に着くのは遅くても7時半頃か、それ以降だ。疲れたし、夕飯の支度をしていない。帰りどっかで買って帰るか。明日も肉体労働だし、肉でも食べたい。肉を買って帰るか。


次の日は1時間遅刻した。


「佐藤さん。この遅れは貴方の概念獣とは関係ないんですよね。昨日お伝えしたことなんですが、この様な事が続くと、うちとしましても雇用契約を改めさして頂きたいと・・・」

「えっとですね。今朝は人身事故がありまして電車が止まっていたんです。」

「遅延証明書は駅で配られてませんでしたか?」

「・・・遅延証明書ですか?」

「はい。何らかの事故で遅れが発生した場合駅の改札で遅延証明書を配っているんですよ。それを雇用主に提出するんです。貰いませんでしたか?」

「貰ってませんね。」

「・・・では今日は一時間遅刻分を差し引かせていただいて、7000円お渡しします。明日はくれぐれも遅刻等しない様お願いします。あと、もし何かありましたら、こちらの番号に電話をかけて知らせてください。先に分かっていれば、優先順位が高い場所を他のスタッフと入れ替えて、こちらで調整しますので。」

「あ、はい。分かりました・・・あっ、あと、ご迷惑をおかけして・・・すみませんでした。」


遅延の情報が車内で流れると無言だった大部分が携帯を弄りだした。今思えば、会社に連絡を入れ、他の路線に乗り換えられるか検索し、仕事の調整などをしていたのだろう。忙しない忍んだ騒音、誰もが押し黙りながらいつ電車がまた走りだすかを意識している中で僕は読んでいた本が読み終わるかもしれないと考えた。暫くして電車は動き出した。僕の乗っていた車両の出口には降りる前から、錯乱した空間の中で並んでいる人達だけが認識できる目に見えない列が形成されていて、出口が開いてもそこに混乱はなかった。乗り換えようとした電車が満員より満員の状態で、それに乗るのは馬鹿げている、きっとそんな愚かな思考が働いたのだろう、僕は何本か電車を見送って、駅の構内に設置されている椅子に座って続きのページを捲った。人だかりの列が降りた駅にはあり、僕は空いている改札を選んだ。連鎖的に起こった出来事に巻き込まれて謝罪をしたのは初めてだ。人身事故であれだけ電車が遅れるのか。明日はもう少し早く家を出た方がいいかもしれない、駅前のコンビニで買った肉まんを食べながら時刻表を携帯で検索し家路についた。今日は昨日の残り物で夕食を済まそう。バタバタした日は本当に疲れる。


「佐藤さん。ご苦労様です。時間は・・・大丈夫そうですね、今日は。後、オフィスのスタッフからもう少し丁寧に、机の下なども掃除機を掛けて欲しいとの要望が来てます。私どものスタッフは基本的に建物内の各会社の書類や備品にはノー・タッチです。コンプライアンスの問題です。置いてある場所を変えてしまって紛失した例や、机の下に丸めてあった紙を捨てあると勘違いしてそれをゴミに出してしまった例もありまして、掃除と言っても人によって考え方が違いますから、結構気を遣うんですよ。貴方は食べる?に特化した概念獣だと伺いましたが・・・あ、だから身長が高いのかな・・・あ、ゴミは食べちゃダメですよ。明日はベテランの伊藤さんと一緒に回ってもらって、細かい事を覚えてください。こちらが今日の日給です。明日もよろしくお願いします。」


言われた所は全て掃除したと思ったが。もしかして、一番最初のあの汚いオフィスからの苦情だろうか。要望と言っていたがクレームだと思う。駅から少し離れていることを考慮しても建物の設備や部屋の大きさを見ればここの賃貸が安いわけがない。コンピューターが机の大半を占め、紙やファイルは床に散らばり、弁当の空箱で埋まった部屋の角。隣の部屋には仮眠室が併設されているらしく、なるべく静かに掃除機を掛けてあげてと言われたときは困惑した。掃除機の騒音などコントロールできるわけがない。なんでもコンプライアンスの問題にして偏屈な要求に応えなければいけないのは納得がいかない。そう思いながらやけ食いをしようとたまに行く焼肉屋に寄ったが手渡された現金では到底足りないと、メニューの横の値段を見て気付いた。注文する前でよかったと胸をなでおろし、店員に断りを入れ店を出た。残り物は昨日食べてしまったから買い物に行かないと家で夕飯の支度が出来ない。まだ開いている駅のスーパーに戻り、既にタレが絡めてある焼き肉用お得パック(野菜付き)を買い、家で丼にして食べた。安い肉でも味がいいと食が進む。これはいい買い物だった。


「佐藤さん。ここのオフィスのスタッフはね、夜中も働いている人が多いの。だからこっちの音が出ない方を使ってあげてね。吸引力が少し劣るし時間も掛かるけど、邪魔にならないから。」


小太りの伊藤さんは子気味良く指示を出しながらを廊下を掃除し、用意していた家庭用の掃除機のをもって最初のオフィスに入った。


「佐藤さん。ここはね、左の机の人は何も触ってほしくないの。片付けられちゃうと、混乱してしまうんですって。あ、そこの真ん中の人はいつも机上を片してくれているから、埃を拭き取ってあげて欲しい。最後の机の人は、下の書類は持ち上げてその下だけ掃除してあげて。」


2番目に入った割ときれいに整頓されているオフィススタッフの細かい好みを伊藤さんは把握していて、短い指で的確な指示を送ってきた。


「佐藤さん。あと15分でお昼の時間ですから、給湯室だけ終わらせましょう。水回りは時間が掛かるけど、しっかり清潔にね。ほら、オフィスで働く人はストレスとか人間関係とか複雑なこともあるでしょ?。仕事の合間にお茶とか入れる時にね、綺麗になっているといい気持ちになるから。他の部屋は午後からちゃっちゃとやってしまいましょうね。あと、休憩は1時間ちゃんと取ってくださいね。」


建物に入っているオフィスの事情や人の動きを全て把握しているかのような伊藤さんの一つ一つの動作には無駄がなく、時間に追われることなく掃除の区切りがついた。初めて、休憩時間に休息を取っていて罪悪感や焦りが湧かなかった。午後からの掃除も優秀な指揮官の元、恙なく仕事は完遂された。


「佐藤さん。お疲れ様でした。今日はどうだったかしら?明日から一人で回れそう?今日言ったところを気をつけてくれれば、苦情もなく仕事を終えられると思うわ。何かあったら休憩時間にでも声を掛けてちょうだい。」

「はい。大変参考になりました。ありがとうございます。明日から伊藤さんのご指導の通りにやってみます。」

「あらあら,畏まっちゃって。佐藤さんくらいの年齢の男性がこんな仕事に就くことは中々ないでしょうから、分からなくて当然よ。仕事は単調だし、たまに若い子が来てもすぐ辞めちゃうから。お給料も沢山もらえないから。まぁ、しょうがないわね、こんな仕事だし。」


化粧っ気のない50代後半の女性は、深いシワが出始めた目尻を細めて優しく笑った。マネージャーと挨拶を交わし給料を受け取り、建物を後にした。終了した5分の3の日程を振り返り、5分の2の日程を優秀な指揮官の教え通り消化した僕は、「また機会がありましたら今度も宜しくお願いします」と笑顔のマネージャーの言質を取り、手には最初の日と同じ金額の給金を獲得した。3万9千円を5日間で得た。伊藤さんに再度礼を言う事も別れの挨拶をすることもなく労働契約は終わり、僕は建物を去った。


駅はいつもの様に明日の為に家に帰る人々で溢れ、終わりなく経済活動が続いている。ふと、2日目の人身事故を思い出した。あれはきっと概念獣保持者が起こしたものだろう。水面に落ちた一粒の水滴。きっと僕の今立っているホームで起こったことではない。明日を目指すことをやめた誰かが、遠くの駅を通るどれかの路線に身を投げたんだろう。一粒でも水面が揺れ水紋が生まれる。人間が社会の中で生きると言う事はこの水紋の影響を受け続けるという事だ。それは、伊藤さんの言葉と同じで、しょうがない事、なのだろう。


遅延もなく家に戻れた僕を待っていたのはソファに座り今回の給金じゃ到底手に入らない夜景を眺めながら一人でビールを飲んでいる男だった。黒いスーツを着た男は、コンビニで売られている最新のマヨネーズで和えてある総菜とお気に入りのナッツの詰め合わせをガラスのテーブル上に広げ、勝手に出され冷蔵庫でよく冷やされた錫のビアタンブラーを傾け、少し泡が立つようにビールを注いでいた。


「おかえり。お疲れ様」

「ただいま、お疲れ様です」

「ビール冷蔵庫に入ってるぞ。それで5日間の社会奉仕はどうだった?」

「全部聞こえてたくせに・・・遅延証明書が必要な時もあるって学んだよ。」

「それだけ?あとは?」

「気を使うって疲れる。檻の中に1人でいたら分からなかった。」

「そうか・・・良かったな・・・」

「・・・・そうだね。明日は貴方の資料室の掃除をしようと思う。あんな汚い所で仕事をするのは非人道的だ。」

「・・・いいんだよ。あれは俺にしか分からない様にしてあるんだ。」

「大丈夫。個人の要望にはなるべく沿う形で仕事を遂行する大切さをしっかり学習したから。あと、ゴミは捨てないと非衛生的だ。」


一週間の努力に贈呈された褒美は、コンビニの安いビールを藤岡が直接僕のタンブラーに注いでくれるという、破格の待遇だった。


後日木村真一との面会時、自分で得た給料で何か買ってあげるとの上機嫌な口ぶりに、彼はあっさりとその申し出を拒否した。真一は僕の言った子供じみた意地悪を上手く親に伝え、彼の親はまだ習うはずのない大人の慣習や物のやり取りを言葉を砕いて息子に教えたのだろう。


「ママが人から物をもらったら、お返しをしなきゃいけませんて言ってた。僕は返せる物がないからもらえません。大人になってはたらいてお金をもらうまで、待っててほしい。」


用途が途絶えた現金で和牛ステーキを買いカリフォルニア産のワインと一緒に飲み込んだ。

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