第21話
佐藤晋は最近過去の話をするようになった。過去と言っても15歳以降の割と新しい記憶に限るが。
ある日思い付きで注文した無農薬のトマトとキュウリでサラダを作っていた時、ファン・カルロスから聞いた彼の父親の苦労話をボソッと語った。ファン・カルロスの父親が無農薬農法で野菜を作ってほしいと依頼されたのが事の始まりで、丁寧に作付けし自家製の堆肥を使い害虫や病気から守るための防除法を懸命に探して試行錯誤したが、虫に食われた葉っぱが付いた実の小さな野菜を地元の生鮮マーケットで売り出されているオルガニックベジタブルよりも品質が低いと安い値段で買いたたかれた。農薬を100%使用しない化学肥料も使わないと謳われた生産者の顔も見えないどこの畑で作られているかもわからない野菜には価値があり、目の前の生産者の3カ月の無休の苦労に価値は認められなかった。彼の父は、自分で作ってみなきゃわからない、とファン・カルロスの頭をなで、売れなかった濃い味のする野菜を家族全員で食べたそうだ。晋はインターネット上で生産者の顔を確認して高い値段で買ったからと大丈夫と言っていたが、ファン・カルロスが伝えたかったのはそこじゃないだろうと思いながら、確かに送られてきたトマトとキュウリの野菜自体の味は濃厚で美味しかった。
現在の晋は鮮明に物事を記憶し、少し解釈の違いは見られるが過去を整理し統合性のある形で思い出すことができる。
佐藤晋には幼少期の記憶がない。そして、佐藤早苗には佐藤晋の記憶がなかった。父親の佐藤宏と母親の佐藤恵子、佐藤家に頻繁に出入りしていた俺や佐々木新、早苗の家に入り浸っていた親友の青木美香も、彼の記憶がない。不自然に一部の記憶が抜けているとか、記憶が曖昧で思い出せないといった, ‘晋がいなかった’との認識障害や記憶障害ではなく、身近にいた人間の中で’晋がいた’という認識や記憶がなく、根本的な存在の欠如が起こっている。それでも、佐藤晋には戸籍があり法的にその存在が記録されている。近所の幼稚園、家から近い公立の小学校、同じ区域にある公立の中学校に通っていて、卒業証書などの公式記録も彼の名前で作られている。家族のアルバムや学校のアルバムから幼いころからの成長が見て取れる。小学校の担任教諭だった小林裕子に彼についての印象を聞いても、普通の子でした、としか言われない平凡な子供だった佐藤晋。田中誠二郎は佐藤晋の存在を認知できていたし、それなりの関係を築いていた。中学の担任教諭である林徹は病院にも連れていき事態の対処を試みるほどに晋の状態を理解していた。
なぜこのような認識や記憶の乖離が起こっているのか?
そもそも概念獣とは何なのだ?
ナマの事実を掘り下げたところで何の解決にもならないと分かっている。
それでも考えずにはいられない。
人類にとって概念獣はどんな意味がある?
なぜ佐藤晋の概念獣は他の概念獣を食べれるのか?
概念獣を食べる概念獣をもつ佐藤晋の存在をもしカニバリズムの様に捉えるならば、道徳的に人の在り方を否定している。人が人を食べる行為と言ったファン・カルロスの揶揄はあながち間違っていない。しかし、食べると言う概念を吸収するや取り込むといったような解釈で考えれば、概念の新陳代謝、古い知識が新しい知識にとって代わられる、と言ったような先人の知識を吸収して発展してきた人類そのものの在り方と見ることもできるのではないか。
しかし、目下の問題は彼の人格だ。記憶はどうしようもないが、あの人格形成を促したのが俺なら、それを正さなければ・・・
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