第17話

世界はいつも世界の全てを理解したい意欲で溢れていて、それに関わる知的活動は推奨されている。画期的な発見。素晴らしい成果。人類の謎を解明する第一歩。


「偉大な研究になる可能性を秘めている。」


息を切らせてどこからか走ってきた藤岡の一言が僕に届いた時、藤岡は既にどこかへ去った後だった。興奮、熱狂的、歓喜、感情的、藤岡の特徴や性格を表す時はこれらの対義語を探せばいい。そんなに急いで、ここでも廊下を走ってはいけないんだよ。含むような言い方で、来週から新しいプログラムが始まる可能性があるとは聞いていた。多分、それに関してだろう。それよりも僕は明日の運転免許のペーパー試験を乗り越えなければいけない。スージーもファン・カルロスも簡単だと言ったが、僕は一回試験に落ちてしまった。再試験に合格しなければ、遠くから見ていれば美しい夜のアリゾナのサンダーストームの如きスージーの怒りが振り落とされる。随分前から免許が取れたら、3人でグランドキャニオン国立公園に行こうと約束している。すたすたと研究所を後にし、自分の部屋に向かう途中スージーが出やすい所を○してくれた教科書を反復し、着いた先の僕の部屋の前にファン・カルロスが立っていた。


「明日必ず受かるから。期待していて。そうしたらグランドキャニオン国立公園に行く計画を進めよう。」

「ススム、プログラムの変更があるのは知っているな?」

「それはまだ決まっていないよ。それとも何か聞いたの?」

「ススム、世界は情報で溢れているが、地球上全ての人間が同じ情報を共有して暮らしているわけじゃない。」

「・・・それで?」

「ウィキペディアでトリレンマを調べてみればいい。日本語では三すくみと訳され、日本での解釈が載せられている。それは英語やスペイン語とは異なる。日本語の三すくみを調べるだけでは英語のトリレンマの解釈にはたどり着かない。限りある時間を費やして、その他の言語で書かれた内容を翻訳しようとするか?」

「何の話?世界の人間は知らないけど、僕はしない。それより、明日の試験なんだけど・・・」

「今ススムと俺はAIのシステムで繋がっている。でも、考えがよぎるんだ。本当にススムは俺を、俺はススムを理解できているのか?もしAIがそのまま誰に編集されたかも分からないウィキペディアの情報を参照にして引用文献のファクトチェックを怠っていたら?それは誰のせいになる?人々は間にできた情報格差を埋められず、天才は天才であり続け、愚鈍者は愚鈍者であり続ける。これは正しいのか?」

「まって、ファン・カルロス、どうしたの?何があったの?何を思い詰めているの?」

「ススム、今から口に出す言葉をこの紙に書いて、’悪’の所を、’概念獣の存在’に書き換えて読んでみて」


もし神が悪を防げないのなら、神は全能ではない。

もし神が悪を防ごうとしないらな、神には善意がない。

もし神が全能で善意を持ち合わせているのなら、なぜ悪は存在するのか


もし神が概念獣の存在を防げないのなら、神は全能ではない。

もし神が概念獣の存在を防ごうとしないらな、神には善意がない。

もし神が全能で善意を持ち合わせているのなら、なぜ概念獣は存在するのか


「今度は何を読んだの?君はキリスト教ではないと言っていたじゃないか。概念獣を悪だと?僕のプログラムと何の関係がある?」

「俺たちはちっぽけな実を与えられたにすぎない。ちっぽけな実がどこから来たのか、何の意味があるかを探求したところで、はちっぽけな実はちっぽけな存在意義でしかない。」

「ファン・カルロス。君の言いたいことが、僕には分らない。もう一回、言う。僕には君の言いたいことが分からない。」

「ススム、俺たちはちっぽけだが特異な実を与えられたんだ。ススムの概念獣が俺の概念獣を食べる事が決まった。ススムが俺を食べる。神はなぜこの試練を俺に与えた。」


ファン・カルロスの表情は無だった。遠くで雷が鳴り始めた。僕達を囲う気温も示し合わせたように下がり始め、周囲の電灯がつき始めた。言いたいことを言い終えたのか、理解が追い付かない僕に愛想をつかしたのか、それ以上の会話はなく彼はその場を去った。


もし君が神の話をしたいなら、君と僕の神は違う、会話が続かなくなるようなそんな単純な理由しか思い浮かばない。僕のしっている神は全能でもなく、善意もあるかどうかわからない。そんな存在に、何を聞くんだ。理由もなく根拠もない。ただ受け入れる事しかできない現実が僕達の中の概念獣の存在ならば、それを神に聞いてどうする。AIが翻訳してくれるのか?神に縋ってどうする。代行者は失った過去を取り戻してくれるのか?


「お前の概念獣がお前以外の概念獣を食べれる可能性が高い。晋と接触のある被験者の能の使用領域が微弱ながら減少していることが確認できた。これはすごい事なんだ。今まで、増えることがあっても減ることはなかった。これは概念獣研究における革命ともなる発見になるかもしれない。根本的な治療方法や現在までの規制に変化が生まれるぞ。世界に貢献できる。」


来週からのプログラムの変更が言い渡された。変更の根拠はいつの間にかまとめられていた数十ページにも及ぶ詳細なデータと分析で、口頭の称賛で変更の意義も理解できた。被験者は世界的な発見なんて求めてない。これは僕の意見だ。僕が欲しいのは普通の生活と在り来たりな人生。これは被験者全員の意見だと思う。


頭に気持ちを追いつかせようと、急いで藤岡と姉がいた部屋から出た。暫く白いドアの後ろに立ち尽くし、気持ちが落ち着くのを待った。


姉は新しいプログラムの変更を実行するかを僕が決めていいと言った。今までのプログラムでも一定の成果は出ていて、空腹のコントロールが出来てきている。これ以上無理をする必要はない。仮定の段階にある新しいプログラムを証明するには時間が掛かる。もしかしたら辛い事も起こるかもしれない可能性もある。辛い事の定義は、まだよく分からない、と姉は答えた。研究者らしい物言いをしたらいい。新しい実験に失敗はつきもので、変化の経過観察が長引けば費用対効果を念頭に、何らかを犠牲にするかもしれないと。


「お前も救える」


最後に付け加える言葉が間違っていると、ようやく気持ちの追いついた頭で部屋に帰り、ファン・カルロスが冷蔵庫に入れたププサを出し電子レンジで温めなおし、遅い夕食を終わらせた。


次の日僕は試験に合格し、仮免許を手に入れた。藤岡から車を借り、運転免許を持っているスージーが同乗した左ハンドルのセダンで僕とファン・カルロスは練習を開始した。アリゾナ州では仮免許さえあれば公道での運転練習が認められているが、同乗者の最低一人が運転免許をもっていることと義務付けされている。オートマ車は発進も停止もギアの変更なしで行えるがスピード感覚が覚えにくい。車はノロノロと広い公道を走りながら、僕の横でスージーはポテトチップスを食べていた。交差点に差し掛かった時、なぜか左折しなくてはいけない、と強迫観念の様なものが押し寄せ、反対車線から交差点へ入ってくる車を見ながら、車のスピードを上げて左折した。スピードが出た分大回りをした車体に揺られ、フロントガラスから見る有象無象がスローモーション動画の様な動きをした。急ブレーキをかけた車は、曲がった道を5メートル位走ったところで停車し、スージーもファン・カルロスも暫くの間放心していた。僕は息をすることを躊躇った肺に溜まっていた空気をゆっくり口から出した。3人で同じ白昼夢を少し見ただけ。事件となるような人身事故も衝突事故も起こっていないので報告義務は発生せず、藤岡から次回の車のレンタルを取り付けることに成功した。ファン・カルロスはバック駐車がうまくできるようになりたいらしく、今回は人気のない空き地に行く事になった。暫く出たり入ったりの練習をしていると、警察の車が近くに止まった。練習を継続していると、白人の警察が一人近寄ってきた。尋問や身分確認をするかと思ったが、何をしているかと聞かれただけだった。離れた場所を一回りして、何事もないのを確認し本当に去っていった。スージーは、きっと誰かが通報したのね、と持ってきたリコリスを嚙みながらいった。近所に行ったり来たりしているだけの変な車がいたら、私だって通報すると言って笑っていた。気を付けて運転するようにと度々藤岡にくぎを刺されたが、僕達はいつも何もないような顔で車を借りに行った。ある日、ノロノロと走るファン・カルロスの運転でガソリンスタンドにはいったらそこにいた警察に呼び止められた。遅すぎるからと心遣いで注意されるのかと思ったら、車を調べだし、その結果車の保険が切れている事が分かり、車はその場で没収された。親切な警察官は帰り方が分からない僕達をパトカーの後部座席に乗せて研究所まで送ってくれた。藤岡には白い目で見られたが、保険が切れていたのは、紛れもなく藤岡の失態だ。


ドラマみたいな紆余曲折を経て、ファン・カルロスと僕は免許を持つことを許された。始めてのった高速道路でスピードを出せる感覚は気持ちがよく、ふと落ちた携帯を拾ったら、数メートル前に誰かの赤い車が止まっていた。ハンドルを握る手が強張り、ブレーキを踏む足に力が入った。衝突を免れた藤岡のセダンは煙幕に覆われた。


「ススム、貴方は自殺志願者なの?それとも注意散漫な狂人?私が運転するから、席を代わって。」


渋滞が続いている高速道路上で運転手を変更し、ブリトーを買うために小さなメキシコ料理の屋台に寄った。これでもかと言いたそうな量のカルニータスと米と豆が小麦粉で作られた大きく薄いトルティーヤにまかれていて、食べ応えがすごい。初めて食べたと呟いたファン・カルロスに、貴方達の料理じゃないと言い放ったスージー。中米の料理がメキシコ料理と混同されるのは心外で、エルサルバドのトルティーヤは小麦粉ではなくトウモロコシを原材料にしもっと厚みがあると力説したが、スージーはブリトーをアリゾナのリスの様に口に頬張るのに忙しそうだった。


アリゾナ州にも雪は降る。遠い過去に一度だけとかそんな大げさなものではないが、白くフワフワした物が緑のサボテンの上にあるのを見ると、流砂が吹けば一歩も歩くことのできない、一年の降水量が限りなく低く、夏か暑い夏の二択しか季節の選択肢がない、乾いた空気と灼熱の大地を一時忘れさせてくれる。


僕がいた時に一度だけ降った雪が降った。早朝から白景色の写真がインターネット上に拡散し、姉、スージー、ファン・カルロス、僕は藤岡が運転する車で雪の積もったとされる山に出かけた。今日のアリゾナの天気は快晴で、湿った空気のみじんもない道路をひたすら走って付いた先は、拡散された写真と瓜二つだった。気温が上がり着ていたジャケットを脱いで、雪の中に飛び込んだ。埋まっても転んでも痛くない柔らかい新雪は、昨日の天気予報の正当性を裏付けた。熱帯地域出身のファン・カルロス。押したら押しただけ沈む雪の上に膝をつき緩やかに全身が雪と重なっていくその様は、自分の世界に起こった小さな奇跡を抱きしめてる様に見えた。スージーと僕も彼の隣で体をうずめた。びちゃびちゃに濡れたはずの服は、窓を開けた帰りの車内の暑さで、綺麗に乾いた。


ベトナム料理屋に行こうと提案したのは姉だった。小さい商店が犇めく一角に、姉が好きだというベトナム料理屋があった。少し夕飯には早い時間だからだろうか、僕達の他に客はいな。姉が一番乗りで席に座り、藤岡は姉の横の座った。姉の真向かいにスージーが座り、その横にファン・カルロスが並んだ。スペースはあまり残っていないが、僕はファン・カルロスの横に自分の体を押し込んだ。頼んだビーフフォーは注文を予知していたかのようにすぐ出てきた。独特の匂いがあるとファン・カルロスは言ったが、君がこの前作った牛テールのスープもかなりの匂いだったとは言えない。白い米粉の麵の上にどこのパーツか分からないが柔らかい牛肉の薄切りがのり、そえられた大量の生もやしとなんかのハーブを上に乗せ、更にレモンを絞って頂く。藤岡は何気にレモングラスが入った鶏肉を頼んでいて、こっちの方が美味しそうだった。


「ところでススム。新しいプログラムでお前のパートナーになることを承諾したよ。Mr.Fにお前を救うために協力してほしいと言われた。世界も救えるって、おまけ付きでね。一緒にがんばろう。」


慣れない箸でフォーをつかみながら、ファン・カルロスはにんまり笑い藤岡と僕を交互に覗き込んだ。大人は狡猾でズルい。スープに映った不甲斐ない僕は本当の優先順位を彼に聞くことが出来ない。スープに映った疑心暗鬼にかられる僕はファン・カルロスの決意をそのまま受け取ることもできない。


「美味しかったね。ごちそうさまでした。」

姉は一人フォーを全て食べ終えていて箸を置き、ごちそうさまでした、と丁寧に手を合わせた。スージーも数分後フォーを完食し、ファン・カルロスは箸の所為で食べ疲れたのか、スープを半分以上残していた。藤岡は完食し終える僕を待ち会計を済ませ店をでた。あまりベトナム料理屋に好感が持ててなさそうなファン・カルロスの顔に、牛テールのスープよりは美味しかったと、死んでも口にしない様にしよう。


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