第18話

“Don’t walk in front of me - I may not follow; don’t walk behind- I may not lead; walk beside me and just be my friend”


アリゾナ州は広い。アメリカ合衆国自体がすごく広大で、国立公園と呼ばれる公園は、僕の近所にあるようなちっぽけな整備された公園ではない。スージーに誘われて車の免許を取ったファン・カルロスと僕は、長期休暇を利用して遠出をすることになった。借りた車に, 簡易テント、寝袋、ブランケット、厚手のジャケットと靴下、重ね着ができる動きやすい服、2日分の食料品と水を入れたバックパックを載せて、北へと北へと研究所からグランドキャニオン国立公園へは200マイル以上、車で4時間近く掛かった。グランドキャニオンの谷底でキャンプをしよう、もう予約はしといたから。印刷した予約の紙が読んでいる本と僕の間に出現し、Juan Carlos Portillo OrellanaとSusumu Sato二人の名前が予約欄に並んでいた。スージーは家族とフロリダに行くから、質問するよりも早く返えされた答えに、何度も事故になりそうな瞬間に居合わせた彼女へ,了解以外の返事はしにくい。


「Nature and books belong to the eyes that see them」


両手を胸の前に出して「」のジェスチャーをするファン・カルロスはスージーのアメリカ人特有の言回しやボディーランゲージをよく観察し取り入れていた。エマーソンの引用をいつの間にか覚えている彼に、go onと次に出る言葉を促す。


「本は十分だろ、自然も見るといいってさ。」

「君はエマーソンを読んだの?」

「本は読んでないし、読めない。どこかで聞いたんだよ。そうだ、きっと、ベンソンだ。奴も本をたくさん読んでる。」


朝3時に研究所を出発し、街灯が照らす道路は前を走る車は皆無だった。この時間なら少しスピード違反をしても橋の下の影で速度探知機を載せたパトカーが待機していることはないし、大きな茂みの傍で警察が待ち伏せしていることはないだろう。日中なら反対車線をすれ違う車がウインカーをパチパチして合図をしてくれる事もあるが、道路には僕たちのハイビームしかない。途中のガソリンスタンドで補給をし、暖かいコーヒーを飲んでさらに北へ走り出す。グランドキャニオン国立公園駐車場に車を置き、バックパックをもって谷の底を目指す。


「これも見たのかな。アンセル・アダムスは」


ひたすら広がるうねり。彼の白黒写真の様にはっきりとしたコントラストが目の前に広がった。谷を挟んで向かい側に広がる薄青暗い大地がまだ見えない太陽の光で燃えるような赤に変わっていく。ファン・カルロスの顔もこの地の紅さにそまり、厚手のジャケットを羽織った体に暖かさが沁み込んでいく。狭い下り道をひたすら降りていく。荷物を持ったロバが横を通り過ぎる時は道を開ける。後ろから来たベテランのキャンパーは僕らに挨拶をし終わるときにはもう前を歩いていた。ペースは自分たちで決める。なれない道を早く歩きすぎると余計な体力を消耗し、機会は少ないが石に躓くこともある。水を飲み過ぎてもトイレは近くになく、ノロノロ歩いてもキャンプ場には着かない。


「ジムに通ってて本当に良かった。ねぇ、スポーツに興味がない僕がこんなに歩いても、まだ歩けるのはスージーのおかげだよ。」

「俺の住んでいた地域は農業で生計を立てている人が多かったから、太って見えていても割と体が鍛えられてるんだ。時間があればサッカーをしていたし。坂道も多いから、好んでで運動するなんてない。もちろんジムもサンサルバドルとか大きい街に行かないとないしね。だから、テレビのコマーシャルでアメリカ人がジムの宣伝をしたり、新しい運動機器でシックスパックを作れますってやってるのを見て、彼らはジムで体を鍛えるのが好きな人種だと、正直funnyだと思ってた。」

「高校生は普通ジムに行かないよ、日本では。学校ではスポーツをする人もいるけど強制ではない。もちろん、農業をやったことがある学生はあまりいないんじゃないかな。彼らの社会環境ではジムに通って体を鍛えることは一種のステータスだと思う。でも、スージーの哲学は僕を救ったし、素直に良かったと思うよ。始めたときは死ぬかと思ったけど。明日この崖をまた登るのかと思うと少し憂鬱だ。今日だけでもかなり足が痛い。家に帰ったらどれだけ筋肉痛になるか楽しみだよ。」


谷の底でキャンプ用の簡易テントを組み立てながらお昼ご飯の用意を並行して行う。持ってきたサンドイッチを食べ終えて、コーヒーとチョコレートをゆっくりと楽しんだ。谷底の気温は高く朝来ていた厚手のジェケットをテントの中に置き、空腹を満たした僕達は周りの探索をすることにした。川が流れ、木が茂り、花が咲き、生き物が住んでいて、切り立った崖の下にも切り立った崖の上と同じものがあった。ただ一つ違うことは太陽が通り過ぎた後ここは世界と隔絶される、目の前の切り立った岩肌は心底僕にそう言っているような気がした。一日の始まりに似た燃える様な鮮紅がまたもや近づいて離れていく。切り取られた夜の足音は今僕達と共にある。長時間の下り坂を降り切った、農家でも、スポーツ選手でも、シックスパックを持っているジム上級者でもない僕は、夕飯後の睡魔には勝てなかった。


“hey, are you awake?”


月が綺麗なんだ、コーヒーでもどうと、ファン・カルロスの声がテントの外から聞こえた。包まっていたブランケットをそのまま肩にかけテントの外に出ると、そこには星と欠けた月が写真の様に並んでいた。ほらと、熱々のコーヒーを入れたカップを渡された。


「ススム。俺はいつかこの暗闇に呑み込まれてしまいそうになるんだ。忘れることはない。その夜は月が無くてね、いつも父と見ていたはずの星もみあたらなくて、10歳の僕は一人で歩いたことがない道を道標もなしに歩かなければいけなかった。手に持った紙を何度も確認した。だって、反射するものがないんだ。本当の暗闇ってね、手の先も足の先も何も見えないんだよ。Abuelitaの住所が書いてあるその紙を絶対になくしてはいけないと何度も言われた。ポケットに入れられなかったんだ。落としたら見つけられないと思ったから。悴んだ手から落ちそうになるんだけど、手に縛っておける物もなにもなかったし、持たせても貰えなかった。怖かった。全てが怖くて、それでも歩き続けた。そしたら暗闇から3度救われた。朝日が暗い道を照らした時、国境警備隊の男が体を抱き上げて毛布でくるんでくれた時、abuelitaの家に連れていかれて母が作ってくれたのと同じアチョーテ入りの豚肉のトマト煮を食べた時だ。一度は救い出されたけど・・・」

「ねぇ、ファン・カルロス、もし君が深い深い闇の淵に立ち、光がある場所へ帰る事ができないのならば僕は君と一緒に死を選ぶこともできるよ。」

「… Oh my God,ススムは何を言っているんだ。誰と誰が死ぬって?俺が自殺の話をしていると思ったのか?お前は何を聞いていたんだ」

「暗闇に呑まれるんでしょ。自分を見失っていて死にたいからここに来たんじゃないの?真っ暗で僕達しかいないし」

「Oh my God, vos estas loco…自殺は許されないことを知らないのか?」

「君はよく君の神に祈るし、信じる教義に反することはしていない。家族を大事にしているし、隣人の僕を助けてくれている。もし、君が何らかの理由で死を選んでも、君の神は君を見捨てないと思うな。僕が考える神と君の信じる神は多分違うけど、僕が知っている神は罪を水に流してくれるから、僕達は多分同じ場所に行けるよ。」

「ススムの神の解釈は理解できないが、死にたいと思ったことはないよ。死ぬほどの恐怖の中に居たことはあるから、同じ経験をまたしたいとは思わないけど。俺はデートなら女の子としたいし、恋に落ちてセックスして、子供を作って、子供の成長を見て、その子供の子供を抱いて、暗闇の中から上る朝日を一緒に見たいんだ。俺はお前にも幸せになってほしい。だから、今回の申し出は辞退するよ。丁重にね。」

“ As you wish”


「そういえば、アメリカでは便器にトイレットペーパーを流せるって知らなくて。ほら、朝でる奴だよ、食後にさ。国境警備の施設のトイレでゴミ箱を探したんだけど置いてなくて、便器の後ろにそっと隠したよ。」

「普通、便器にトイレットペーパーは流せるよ?」

「俺の国では流せない。水圧や下水道管の問題で便器の横にはゴミ箱が設置されていて、それに使ったトイレットペーパーを入れるんだ。間違って流してしまうと、トイレットペーパーが詰まって水があふれてくる。」

「僕は間違えそうだよ…その習慣・・・便器にトイレットペーパーを流せないなんて考えたこともなかった。さすがにホテルや空港では違うでしょ?」

「ホテルも空港もそうだ。しかも空港のトイレは使用者が多いから、ゴミ箱が溢れている場合がある。詰まっているトイレがそのまま放置されてることも多い。」

「大変だね」

「慣れ、慣れ。俺もここの習慣になれたから、今帰ったらトイレを詰まらせて母さんに起こられそうだ。」


ファン・カルロスは大笑いしながら澄んだ星空を見上げた。雲が月を覆い隠し、僕たちの顔に落ちていた木々の影が辺りの色と同化した。暗闇に染り感情が隠された顔で、ススムと名前を呼ばれ、静まり返ったファン・カルロスと僕の間にボソボソとした声色が響く。


「カミュ?。随分ポエティックな物を今度は誰が読んでたの?」


短い暗闇は消え、月が新しく僕達を照らした。ファン・カルロスは確かに笑顔だった。

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