第7話

藤岡輝石は特定概念獣監察官であり、概念獣研修者でもある。研究発表や啓発活動も彼の職務の一環で概念獣の説明会を開くときは講師として呼ばれる。


昨日の夜一通のメールが来ていた。夜はPCを開かないと決めている。緊急時の電話番号が携帯の画面に現れなければ、携帯を弄る事もない。睡眠の質が下がるという一般常識と夜に届くメールに良いことはないと確信した実体験をもとにした僕の中にあるジンクス。 


「遺伝と概念獣の関係」についての説明会のお知らせ

講師:藤岡輝石

対象者:妊娠がわかっている夫婦

定員:100人

会場:市民館ホール

参加無料


概念獣は遺伝しない。それが概念獣研修者間の公式見解だ。それでも、母から子へと遺伝するのではないかとの懸念や遺伝するのなら子供を産むことを躊躇すると言った意見が政府の少子化対策アンケート結果の上位に来ている。自分の子供が自分とそっくりだから・・・似ていなくても遺伝するかも・・・もし、容姿の様に遺伝したら。自分の子供を概念獣保持者にしたくない。概念獣は個人の資質や生活環境によって左右されます。概念獣は遺伝しません、と繰り返されれば繰り返されるほど、’もしも’の最悪の場合を想像してしまう。子供を産む前から起こる可能性のない事を、子供を産んだら可能性の可能性を、子供が成長したら生涯の可能性を、親になることは、親でいることは、心が休まらない。もし、子供にこう言われたら・・・子供は親を選べない。もし、そう言われたら、親は子供を選べないと言わないでいられる人格者であれるだろうか。愛を持って全てを受け入れられるだろうか。


「今日は調子が悪そうだな」


開始時間より少し遅れて満員の会場に入った僕を既に見つけていたいつものスーツを着た藤岡が、講演後に僕の座っている席まで来た。全体を見渡せる位置に座っていた僕を見つけるのは、会場に用意された壇上に上がっていた彼にとって簡単だっただろう。いつもどうりだと、軽く彼をあしらった。昨日の夜見たメールの所為で夢見が悪かったとは到底言えない。対象者の欄を読んだとき、会ったこともない姉の親友を思い出した。


その顔のない彼女が夢の中まで出てきた。


佐々木美香は想像妊娠を繰り返している。


「彼女のお腹はその度に膨れたり萎んだりするんだ」


佐々木新は佐藤早苗の中学時代の同級生で、佐々木美香、旧姓青木美香は姉の親友だった。藤岡の姓を名乗る姉しか知らない、旧姓佐藤の姉はどんな人生を歩んでいたのだろうか。


本当に久しぶりに会ったのだろう。薄い茶色のチノパンツに同系色より少し濃いジャケットを白いシャツの上に羽織った新は嬉しそうに早苗に手を振りながら駆け寄ってきた。


「早苗!10年ぶりか。あまり変わってないな。今日は来てくれて本当にありがとう。弟さんも、わざわざ時間をとってもらってありがとうございます」

「変わってないね、新君。久しぶり。美香の事色々聞いてから心配してたんだけど、元気そうでよかった。ここじゃなんだから、お店に入ろう?」


改めて思い出したかのように店のドアを開け入室を促した新を姉は手で口元を隠しくすくす笑っている。急いでドアを開け、姉と僕の入店後ドアを押さえていた手を放し、彼自身も入店した。その少しの間に姉は座るところを確保していた。先に席に着いていた薄手の淡いクリーム色の布地の上に薄い空の色の様なカーディガンを肩にかけて青いスカートを履いた姉を前に少し困った様に謝る姿。待ち合わせ場所に入る前に会話を始めてしまう佐々木新の性格は、姉にとって中学の頃から変わらぬ友人である証拠であった。コーヒー三つを注文し、本題に入る。


「それで、美香には概念獣がいるか調べたの?今の私の見解だけど、中学時代の彼女の性格や考え方からは概念獣を保有しているように見えなかった。あるとすれば、どこかの時点で彼女の概念が一変するような突発的な出来事が起きた。」

「それなんだけど・・・」

「言いにくい事?弟は概念獣関連の事に詳しいわ。だから、余計なことを喋るようなことはしない。大丈夫だから、ね?」

「そうじゃないんだ。これは俺と美香の夫婦生活の事で・・・言いにくくて」

「言えないなら、仕方がないけど。協力もできないわよ。」

「・・・実は、俺、精子がないんだ。ずっと前からEDで、無精子症なんだ。美香もそれを知ってる。だから、美香が妊娠することはなくて・・・」


最初に妊娠を発見したのは妻だった。無精子症でも奇跡が起きたと、手を取り合って喜んだ。彼女のお腹が少しづつ大きくなるにつれて父親になる事の実感もわいてきた。疲れたかなとか、無理してないかなとか、今日の家事をもう少し頑張ろうとか、階段の手すりをもってゆっくり上がる彼女を見ながら考えた。少しして、彼女の行動に違和感があることに気付いた。1人で外出をしていても産婦人科には行っていなかった。胎児のエコー写真も見せてもらったことがない。今度貰ってくる、そう言いながら彼女は微笑んで自分のお腹をさすった。


「連れてった産婦人科で美香が想像妊娠をしている事が分かった。」


暫くして彼女のお腹は元の大きさに戻った。でも時間が経つと彼女のお腹はまた膨らむようになって今の状況に至る、と新は話を締めくくった。


「それで美香は概念獣を持っているの?」

「兆候は見られたと告げられただけだ。」

「それだけじゃよく分からないわ。ちゃんとした研究所か認定を受けた概念獣審査機関を受診したの?」

「・・・美香が行きたくないって。地域の割と大きい診察所に行ったけど、結果は今言った通りの事を言われただけだ。」

「何か心配や懸念があるなら私が美香と一緒に研究所での診断に付き添おうか?」

「違うんだ。美香はこのままでいたいって」


女性の幸せが’子供を産むこと’に直結しているわけではない。子供を産むのは一つの選択で、妊娠はその選択をしたときの副産物だ。妊娠期間は長く、脆弱性を補う生活を余儀なくされる。だから、女性の幸せは妊娠だけじゃない。それでも、生物学上人間の子供は人間の母親から生まれてくる。母親になるものだけの特権。


「美香は母親でいたいんだ。俺が・・・美香を母親にしてやれないから・・・」


コーヒーはいつの間にかテーブルにあり、すでに冷めていた。ひとくちも口を付けずに飲み残されたコーヒーの代金を払って店を後にした。概念獣が想像妊娠に関わっているなら決断次第では力になる、と姉は新に約束し、新は少しほっとした顔で店を後にした。


「彼は吐き出したかったんだね、きっと。晋も吐き出したいときは、吐き出しなさいね。」


公演の開始時間には間に合わない時間に起きた。ベッドの横にある棚の上に置いておいた携帯から、マンションの受付に電話しタクシーを呼んもらう約束を取り付け、頬をつたった乾いた残痕を洗面台で洗い流し、買い置きしてあるコンビニのツナマヨを大急ぎで食べて家を出た。会場は少し遠く、後部座席に座ったタクシーの中で今朝見た夢が回想し始めた。最後の言葉の後、なぜ僕は尋ねられなかったのだろう。姉さん、貴方はちゃんと吐き出しましたか? と。


夢見が悪くても、気分がすぐれなくても、お腹は空く。藤岡と会場を後にし、リブロース500gのステーキが食べられる店に入った。大盛ライスを追加で注文し、藤岡が残した肉も残さず食べた。店で出される水をがぶ飲みしてしまい、店員の顔を見ず店を出た。

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