第8話

今日一人の子供と会った。その子はまだ9歳で、概念獣と会話ができるんだ、とこっそり耳打ちしてくれた。子供が親や周りの人間に言い含められているとこはよくある。誰かにこの事を話してはいけない。彼が概念獣の話をするたびに何度も囁かれたのだと思う。彼の通う学校の生徒は彼を想像力の豊かな友達からおかしい事を喋る子へ格下げし、彼は誰にも相手にされなくなった。部屋から出てこない息子をどう扱ったらよいのか悩んだ彼の母親は、概念獣相談所の児童福祉課に相談した。母親は、黒いスーツを着た藤岡に、彼らの相談を受けた相談員ではなく、お願いします、お願いします、と繰り返した。


「この子に概念獣はいないとの検査結果がでた。でも、違和感を感じるんだ。だから、お前に頼みたい。この子と話をしてくれるか?」


どこのブランドかは分からないが、質の良い素材と質の高い縫製で作られた、デザインと色の調和のとれた上下の衣服を着て短く整えられた髪と年相応の背丈をした男の子は、ソファーに座ってアイスを食べながら、彼の概念獣が飼っている犬の話をしだした。ライカと名付けられたベルギーシェパードはお手、お座り、伏せ、待て、教えたことをすぐ覚えるとても賢い犬で、彼もその犬が欲しいと概念獣に頼んだ。概念獣は喜んで犬を渡すと言い、その代わりお願いを聞いてほしいと言った。僕の犬の代わりになってほしい。この犬は君の傍にいるけど、僕には何もなくなってしまう。それじゃあ寂しいから、犬の代わりに傍にいてほしい。寂しいのは悲しいから、貰った犬と一緒に居てあげると約束した。概念獣は犬の飼い方を教えてくれた。飼い主は飼い犬を散歩に連れて行かなければいけない事、食事や水を与えなければいけない事、危険から守ってあげなくてはいけない事、愛情をもって接してあげなければいけない事、躾をしなければいけない事、楽しい時間を共有する事、他の犬や動物や人間を攻撃してはいけない事、悲しい時間も共有する事、メスとオスの生殖行為の事、人間より遥かに短い人生である事、メス犬は多くの子供を産む事、長い間人間の良き供として傍にいる歴史がある事、ほとんどの場合人間より先に死期が訪れる事、みんな教えてくれた、と彼は言った。だから、彼の概念獣も彼を大事にすると言った。喜怒哀楽を共有し、一緒に知識を吸収して成長し、一緒に死のうと。


「僕の概念獣は優しいんだ。だから一緒に居たい」


犬の絵を描きながら彼はそう言って笑った。


「彼の話は概念獣との契約のようだ。多分、概念獣をもう持っていると思う。僕は彼の概念獣を探知できなかったし、今の医学が彼の概念獣を測定できることはない。でも、なぜか確信があるんだ。彼の概念獣が危険な物かは分からない。でも、特別ではある。多分・・・」

「多分・・・何だ」

「いったら怒りそうだから、言わない。」

「言ってみたらいい。何事も挑戦しなきゃ結果は出ないだろ。」

「多分、坂口保より面白い論文が書けるよ。」

「聞きたくないが・・・・・・根拠は何だ?」

「創造、洗脳、協調、独占、愛、悲壮、言ったら限がないけど、相容れない物同士の結合、

社会を変革する概念獣を持ってる、そう感じるんだ。幸せか、不幸せか、彼は藤岡輝石に出会う機会に恵まれた。彼は保護した方がいい。」

「それは誰の意見だ?」

「僕と僕の概念獣の勘。今介入できれば、後の始末も楽に済む。」

「それは誰の意見だ?」

「特定概念獣監察官としての使命だよ」

「・・・」

「貴方が今介入を決めれば、僕は貴方の役割を手伝える。あの子の社会的責任は貴方に負ってほしい。僕は彼の精神的責任を負う。最後まで見届ける。約束するよ。」

「少し考えさせてほしい」

「真剣に考えて答えを出してほしい。これはあの子の人生を決める決断を僕達がすることになるのだから」

「お前は諦めないか?」

「僕は最後まで貴方を信じる」


この仕事が始まってから時々夢を見る。それは決まって、藤岡輝石が何らかの理由で「諦める」と口にする時だ。夢は決まって暗闇の淵に佇み僕は幾度となく概念獣と会話を交わしたときの事だ。


「君はどうしたい」まだ大きささえも図れない細胞の概念獣が尋ねた。

「お腹が空いた」

「いいよ。空腹を食べてあげる」まだ大きささえも図れない細胞の概念獣はそう言った。


「君はどうしたい」ミトコンドリアぐらいになった概念獣が尋ねた。

「明日学校に行きたい」

「いいよ。空腹を食べてあげる」ミトコンドリアぐらいになった概念獣がそう言った。


「君はどうしたい」人間の卵子ほどに成長した概念獣が尋ねた。

「これから友達とゲームしたい」

「いいよ。空腹を食べてあげる」人間の卵子ほどに成長した概念獣尋がそう言った


「君はどうしたい」ミジンコの様なスケールの概念獣が尋ねた。

「幸せに眠りたい」

「いいよ。空腹を食べてあげる」ミジンコの様なスケールの概念獣がそう言った。


「君はどうしたい」アリンコのように小さい概念獣が尋ねた。

「勉強に集中したい」

「いいよ。空腹を食べてあげる」アリンコのように小さい概念獣がそう言った。


「君はどうしたい」挽く前のコーヒー豆ほどになった概念獣が尋ねた。

「嫌なこと全て忘れたい」

「分かった。海馬の働きを止めるよ」挽く前のコーヒー豆ほどになった概念獣尋がそう言った


「君はどうしたい」芋虫の様にふっくらとした概念獣が尋ねた。

「体が痛いんだ」

「分かった。侵害刺激を取り除いてあげる」芋虫の様にふっくらとした概念獣がそう言った。


「君はどうしたい」5センチ程のまりもに育った概念獣が尋ねた。

「悲しいんだ」

「分かった。大脳辺縁系の機能を切ったよ」5センチ程のまりもに育った概念獣がそう言った。


「君はどうしたい」木から落ちたリンゴの様な概念獣が尋ねた。

「生きたい」

「出来ることは全てやったよ。後は君の番だ。」木から落ちたリンゴの様な概念獣は最後にそう言った。


僕の夢は最後死んだ姉の言葉で終わる。


「貴方の概念獣は誰よりも何よりも一番貴方を癒し生かそうとした。貴方がお腹が空いて苦しまない様に底なしの空腹を食べ続けた。純粋ね。とても純粋で、とても矛盾している。貴方が口に出せないのなら、貴方の概念獣の声が私には聞こえないから、私が声を出して言ってあげる。生きたい。貴方は生きたい。晋。諦めてはいけない。生きる事を諦めてはいけない。」


姉の三回忌の法要は藤岡のマンションで身内のみで行われた。無宗教でお経をあげてもらうのはおかしいけど、そうゆうものだから、と姉は言っていたらしい。


「姉さんは無宗教だったの?」

「日本人で宗教的意識やまして意識して行動や活動をしている人口がどれくらいいると思っている?俺の場合、七五三は近所の神社で、高校受験の合格祈願は湯島天神にまで足を運んだ。大大学祝いは早苗が貰ってきたクリスマスケーキの材料が余ったもので作られていたし、祖父さんも祖母さんも真言宗に則った葬式をした。多分俺も同じところに入るんじゃないか。先祖代々の墓だから。」


葬式の喪主を務めた藤岡が今度は施主として簡素なあいさつをし、僧侶の読経が終わり、藤岡、藤岡の両親、佐々木夫妻、僕と順番に焼香を行った。僕を入れてたった6人の参列者。藤岡にも姉以外の家族がいるし、死んだ姉にも彼女を慕っていた人達がいた。僕と藤岡を唯一繋いでいた姉はもういない。僕達は家族ではないのだから。仕事では毎日顔を合わせ、僕の全てを知っている藤岡輝石。何も知らないのは、僕だけ。


早苗が好きだったイタリアンレストランを予約しているからと、藤岡が言った。正式には精進料理を用意するべきと聞き、予約の前に僧侶に確認を取ったところ、故人様が懇意にしていたところでいい、自分はなんでも食べますので、との色好い返事をもらったと、裏事情が説明された。


「あそこか!ひさしぶりだなぁ」

「さっちゃん、あのお店のトマト系のパスタ大好きだったものね」

「早苗ちゃんがあそこのケーキよく貰ってきてくれてたな」

「あそこは、野菜だけのメニューもあるから大丈夫ですよ」


中学の頃からよく通っていたとされるイタリアンレストランはすぐ近所にあった。高校に入りバイトが可能な年齢になった彼女は、求人が出されていない店の主人に直談判して、週3回の給仕のバイトとして雇ってもらった。賄が大好きだった。あまったケーキをいつも持ち帰っていた。ハキハキトした口調でテキパキと働く彼女に好意を持つ男性は多く、店先や店の裏で何回か告白をされていた。働いていた3年間、毎年クリスマスに売れ残ったケーキを自腹で買って、家族と藤岡と佐々木夫妻にプレゼントしていた。料理は苦手で、でも簡単な賄の作り方を習って藤岡に試作品を食べさせていた。ブカティーニのアマトリチャーナ、アンチョビとタグリアテッリ、リコッタチーズとほうれん草のラビオリ、バジルペストちリガトーニ、ベシャメルとトマトのラグのラザニア、マスカルポーネとエスプレッソを浸したレディフィンガーを重ねたティラミス、姉はこのレストランの全てのメニューを愛していた。3人座りのカウンターの後ろにある狭いキッチン、3組の4人掛けの四角いテーブル、テレビや雑誌のレストラン特集には載らない姉の様な近所の人だけが知る、姉のお気に入りだった場所。La Casa, イタリア語で家と言う意味らしい。家族や友人が沢山集まる場所の様に居心地の良い空間にしたい、そんな思いが込められた場所。


「いつもの味だね。」

「腕は落ちていませんね。」

「懐かしい」

「また、食べれて良かった」


貴方が好んで食べていたという料理の味を、ここにいる全員が知っていてそれを共有している。それはとてもすごい事だと思うんだ。姉が居ても居なくても、共有された味はここに残っていて、僕は今日初めてそれを食べたよ。


「どうだ」

藤岡は僕に尋ねた。

「美味しいと思うよ」

僕は藤岡にそう答えた。藤岡は少し目を伏せて、嬉しそうだった。

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