第9話

14歳だった。担任の教師が体重の異常さを気にして、保健室の先生を巻き込んで僕を地域の病院へと連れて行った。精密検査の結果、特別な異常が見つかることはなかった。初めて僕を診た医者は異常が無い事の異常性に心療内科の受診を勧めた。精密検査の結果と渡された紹介状を両親に見せると、病気でもない人間が病院に行くのは間違っている、そう言って、渡された全ての書類を燃やした。僕も両親が正しいと思った。燃やされた書類の事はその日のうちに忘れた。担任の教師は放課後、学校の視聴覚室で一緒にお菓子を食べながらスポーツ観戦をすることを体育の授業やスポーツ行事を欠席する代わりとしてくれた。


僕の親は泣いている赤ん坊に食事を与えるわけでもなく、おむつを替えるわけでもなく、寝かしつけることをするわけでもない人達だった。幼い頃の記憶が欠損している僕は、それでも最低限の何かを与えられていたのだと思う事にした。隣の田中さんはの家で毎日ご飯を食べる事を変だと思い始めたころ、若い女の人が夕飯を食べている最中に僕の前に現れてすぐいなくなった。田中さんに何かを言い紙袋を渡し、僕の前に座った。かすれた声は良く聞こえなかった。閉じた目から涙を流しているように見えたが、僕にはこの人が僕の前で泣く理由が理解できなかった。田中さんの家を後にしようと玄関で靴を履いていると、数十分前に作り出された振動が今やっと動き出し、僕の鼓膜に彼女の呟きを届けた。


「もうすぐ迎えに行くからね」


僕の姉だと、田中さんは教えてくれた。


田中誠二郎は60代後半の男性で癌で妻に先立たれてから10年以上一人で暮らしてきた。彼は生まれたこの場所で、受験をして、就職して、結婚して、子供を育てて、父親を看取って、子供の結婚を祝福して、孫の出産に立ち会って、母親を看取って、妻の闘病に付き添って、退職して、妻を看取った。引っ越しも、転勤も、この場所を離れる理由も、彼の人生には起こらなかった。子供たちは自分と同じ様に親になり、一人で生きたことがない父親を心配した。古い家に年老いていく父親の一人暮らしをさせるのは心苦しい。妻の葬式が厳かに行われるなか、もっともな理由で一緒に暮らそうと同意を求められた。この場所以外で死ぬことは望まない、心の底から望めなかった。それはとても些細で我儘な願いだと思ったが、今更駅からの帰り道が分からない場所に住む気には、どうしてもなれなかった。葬式が終わり、自分の声だけが響く家で生きる事になった。妻は料理がとても得意で新しいレシピを見つけてはノートに書き写していた。彼女の死後、そのノートを台所の隅で発見し、残されたメモが目に入った。


「誠二郎さん。食べる事は生きる事です。このノートを貴方に残します。サキより」


丁寧な折り目が着いたメモの文字はぐちゃぐちゃになって跡形もなくなった。濡れた紙は乾かしてノートに挟んでおくと決めた。納棺の時、このノートを副葬品として一緒に入れて欲しいと遺言に書き残し、その足で買い物に出かけた。初めて一人で入ったスーパー内をさまよい、一回りして圧倒された。棚には所狭しと企業努力が見て取れる商品が陳列し、種類の多さに、今まで自分がどこのメーカーの食品を食べていたか検討もつかなかった。家に何があるのか、気にしたことなど無かった。買い物カゴは最後まで空っぽで、レジを通ることもなく、家に帰った。調味料や米などは買い足さなくても十分な量がまだ台所に残っていた。少し鮮度の落ちたキュウリとナスが野菜室に、生姜焼きによく使われていた薄切りの豚肉がパックのままチルド室に置かれていた。味噌汁に使われていたのは田舎味噌だった。ダシはパックの物をもうずいぶん前から使っていたようで、シンクの上に設置されている棚の中に買い置きされていた。妻は家にある物で新しい味を作る事を殊更好んでいて、よく今日は家にある物で作ったのと、一風変わった献立が食卓を彩ることもあった。ある物で食事を作る。ノートに乗っていた豚の生姜焼きとナスの味噌汁を作った。キュウリはどうすればいいか分からなかった。生姜焼きを作った後、米は炊かないと食べれないことを思い出した。ご飯が炊けて、豚の生姜焼きを再度温め皿に移し、お茶碗に味噌汁をよそって、席に着いた。箸を出し忘れていたことに気が付いた。食事の支度を終えエプロンを外しながら、段取りも大切な要素なのよと、いつも目の前の席に座っていた妻がそう言って微笑んだような気がした。


「田中さん、今日の夕飯は何ですか」

「今日は鶏肉と大根の煮物だよ。ほうれん草のおひたしと、豚汁を仕込んでおいた。寒い日には豚汁が一番だ。大根が安かったから3本買ったんだ。早く手を洗ってきなさい。ご飯にしよう。」


僕の家族と特別な近所付き合いがあったわけではないと思う。


「田中さん、今日の夕飯は何ですか」

「今日は筍を煮てみたんだ。旬だからね。菜の花のおひたしもあるよ。こっちも旬だから。ワカメとアサリの澄まし汁を注ぐから、ご飯をお茶碗に持ってくれ。」


初めて彼の家で食事をした日の事は覚えていない。


「田中さん、今日の夕飯は何ですか」

「ナスとトマトを頂いたんだ。妻が好きだったナスのしげ焼だ。冷ややっこをだしてと。トマトと玉ねぎのみじん切りをオリーブオイルとリンゴ酢でマリネしたものだよ。これも好きだったんだ。オクラと豆腐となめこの味噌汁をついで、さあ、いただこう」


ずっと前だった様な気もするし、最近の様な気もする。


「田中さん、今日の夕飯は何ですか」

「油がのったサンマはこの時期じゃなきゃ食べれないからな。紅葉大根は食べたことあるか。醤油のつけ過ぎは良くない。せっかくの味が台無しだから。栗ご飯のお替りもあるから、ゆっくり食べなさい。シイタケ、シメジ、マイタケの汁物も美味しいだろう。柿も買ってあるから食後に一緒に食べよう」


ただ言えることは、僕が食べていた毎日の夕飯は彼によって作られていた、その事実だけだ。


15歳の頃の記憶はない。意識不明で半年以上寝ていたらしい。目を開けた時、横に座っていた女の人が「おかえり」そう言って、彼女の額を僕の額に押し付けた。


「ごめんね・・・ごめんね・・・ごめんね・・・」


違和感がある胸に手を当てることもできないくらい重たく弱った体と論理的思考力を奪われた脳は目の前で触れ合っている姉の繰り返される謝罪に対して反応を示せなかった。僕は僕が空っぽな事しか解らなかった。


「お腹すいた・・・様な気がする」

「うん、うん、そうだよね。今、輝石さんを呼んでくるね」


何も思いつかない脳で相槌を打ち、なぜか天井が白い事は認識できた。僕の概念獣は空腹の分だけ僕の食べるという概念を食べていたと藤岡輝石が説明してくれた。深層にいた概念獣が表層に現れ空腹を支配した結果、食事が不可能となり身体機能を維持する為のエネルギーが枯渇し意識不明となり、血液に直接栄養をおくりこむことで表層を支配していた僕の概念獣は深層に戻り意識が戻ったらしい。半年間血液に直接栄養を流し込まれた僕の体重は50キロまで増えていた。青い血管が透けて見える腕や骨が浮き出ているような鎖骨、165㎝で30キロと知っている担任の教師は風で飛ばされるぞと、放課後いつもアメやお菓子を内緒でくれた。体内のどこかに落ち着いた20キロを動かすのに1カ月以上かかった。その間姉と藤岡輝石は毎日僕の病室を訪れた。退院日、真っ白なベッドと病室の壁を後にし、姉が住む場所に藤岡輝石と向かった。藤岡輝石・藤岡早苗と印刷された表札がかかっているマンションの一室に通され、そこには今まで与えられていた物一式が全て運び込まれていた。クローゼットには30キロの時に着ていた服と、それよりも人も一回り大きい服が一緒に並んでいて、扉に取り付けてある鏡の前でその服の一枚をとり体に当て、それが僕の為であると確信した。確信した心の中で、彼らはきっと僕に興味がなかった。僕を育てるという概念がなかったと思う事にした。


新しく移住したマンションから学校までは普通電車を2本乗り換える。都心から・・・固定された形状が連なり息が詰まる風景は次第に空いた窓から季節の色が入り混じった風が吹き抜ける抽象的な空間・・・田舎へ。社会全体が進軍する方向とは逆を進む、席が自由に選べる片道2時間半の電車の中で、卒業までの毎日本を読んだ。進路調査票がうまることもなくも三者面談も実現しなかった。高校には行かなかった。


16歳から18歳までアリゾナ州にある研究所内で被験者として過ごした。藤岡輝石と姉はその研究所の特別フェローとして招かれていた。彼らがマンションの契約を解除する為、僕も荷物をまとめた。これを機に前の家で使っていた物は全て廃棄しようと奮い立てた気持ちでかき集めたゴミを、不法投棄をするような住民がいないゴミ捨て場は丁寧なプラカードによって分類されたごみが整然と並びガラス類と金属類に区別された洗われ乾燥された資源ゴミの中の一部に重ならないようにちょこんと並べた。数日後に回収されるゴミを待たずに、僕たちはアメリカ行きの飛行機に乗った。

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