第26話

毎日変わるパスワードが非通知で携帯電話に送られてくるはずなのだが、今日はそれが届かなかった。使えないPCを前にして藤岡に連絡を入れたら、システムメンテナンス作業中だと言う。普通、影響の少ない夜にやるもんじゃないのかと思ったが、今日の日程は覚えている。木村真一に会う日だ。場所は真一のリクエストで水族館に決まっている。先日行きたい所はないかと尋ねたら、間髪入れず返答がかえってきた。学校の遠足で行くはずだったが風邪をひいて欠席してしまったらしい。


遠近法を借りて作られた立体の前に立ち尽くした木村真一と僕。深海の底から太陽を眺めたらこの様な光景に出会えるだろうか。青いグラデーションに溶け込んだ水族の群れは一つの生命体の様に水槽内を迂回し、差し込まれた一筋の光は後方に押し込まれた岩礁を照らしだし、幻想的な一体感を産み出す。彼らの吐く息は虹の粒となり光の分け目に吸い込まれていく。


「きれい。すごい。魚に囲まれているみたい。」


体験型を売りにしているこの水族館で真一は水槽の上から魚に餌をやり、巨大なプールの周りを囲んだ観客席からシャチショーに盛大な拍手を送り、プールの端に横になっているイルカの頭を恐る恐る撫で、ゴムを触ったみたいだと呟いた。


「知能が高い海獣を使役し社会教育としてその生態を展示する。」

「すすむはひくつだね。」

「え?えぇぇぇぇ?な、なに、急に・・・」

「あ、ちがった。へんくつだ」

「・・・・どっちもあまりいい意味の単語じゃないけど。それに、小学校で習うような単語じゃないと思うけど」

「学校では習ってない。今行ってるじゅくで習った。意味は・・・すなおじゃないとかだと思う。」

「・・・・・」

「じゅくの先生が、たんごはきおくだけしようとしても使わないと忘れやすいからふだんから使いましょう、って。」

「確かに塾の先生は正しいけど・・・選んで使えよ。」

「えらんで使ったよ。合ってたでしょ?」

「・・・・・・・・・」


子供の成長は早いと誰もが感じる。弱肉強食と言われる生態系の中で、人間の子供は周りの大人に頼って生きる時間が驚くほど長い。社会という過酷な競争原理の中で生き残る為に、彼らの親はその血縁者に知識を吸収させるという成長戦略を施す。知識を活かした経験、経験から学んだ知識、終わりよければ全て良し。多くを身につければきっと幸せな生活ができるからと、自分の夢を語る。木村真一は同い年の子よりも利発的だが、まだ子供特有の純粋さを持ち合わせてもいる。今までの真一との面会で彼の着ていた服はどれもいいものだった。9歳で中学生が習うような漢字を教える塾に通う。


「神秘的な光景だな」

「いきいきしてるね」


どんな言葉で修飾しようと簡潔な一言の方が端的に物事の大事な部分を捉えている時もある。彼から発せられる声は未熟で分かりやすい分、会話に困る。そして間違った会話をしてしまうようなシチュエーションは決まって美しい場所で起こる。


「すすむはなんでこの仕事をしているの?」

「なんで?」

「小学校でしょうらいの夢についての作文を書く宿題をだされてて、さいきん色々なしょくぎょうの人が学校に来てはなしをしてくれるから、今周りの大人に聞いてるんだ」

「成り行きでこの仕事をしているだけだ。」

「夢はなかったの?」

「特に成りたいものや将来の夢は覚えてないな」

「そっか・・・あんまり強い思いじゃなかったんだね。だって来た人はみんなしくはっく努力して夢をかなえたって言ってたよ。」

「そうゆう人達もいるさ。真一は何になりたいんだ?」

「とべないヒーローになりたい」


この世界で空を飛べるのは鳥と虫、と木村真一は言った。僕はそれにスーパーヒーローを付け足たそうとしたが、アメリカの話はどうでもいいと一蹴された。彼曰く、アンパンマンは飛べるけど仮面ライダーは飛べない。彼が今見ているアニメのヒーローは剣で戦い空は飛ばないらしい。そう考えると、確かに、真一は正しくヒーローを認識している。彼の観察眼は鋭いし、言っていることも的を得ている。ヒーローが木々を軽々飛び越えたり、空から降ってくるような描写もあるが、鳥や虫が上空で一定の距離を行き来している状態を真一は“空を飛んでいる”状態として捉えていて、僕の中にあるスーパーヒーローは必ず空を飛んで人々を助けてくれるといった古い考えは、通用しないらしい。


消防士か警察官に成りたいと言った木村真一。僕の目をまっすぐ見ながら、その選択肢の中に概念獣監察官を入れた。9歳の人種は僕に語った、大人には考えも及ばない子供ならではの発想で。


「がいねんじゅうと共に成長してがいねんじゅうを一番りかいできるはずだから他のがいねんじゅうに苦しんでいる人を助けられる。」


最後に腕をバタつかせたどたどしく歩いているペンギンを見終わると、彼は母親と手を繋ぎ水族館を後にした。


ベットに沈んだ無意識の身体に概念獣は話しかけてきた。か細い声で、また、始めるの?と。


次の日システムメンテナンスは終わり新しいパスワードが非通知で携帯電話に送られてきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る