第3話

渋谷の交差点に立ち尽くそうとしたところで、誰かとぶつかって、ぶつかったその人に謝り、信号がちかちかしだしたら、やっぱり歩道を渡り切ろうと急いでしまう。気候変動対策、持続性がある社会の構築、グローバル規模でのシェアリングエコノミーによる民間が持つ資源の有効活用、社会が目指す道の向こうに僕一人がいなくなっても、こんなに沢山の人で溢れている世界は回り続ける。一人の命が、一人の人権がといっても、社会に機能障害は起こらないし、世界の秩序は維持されている。


藤岡は労働局からの依頼をよく取ってきた。労働問題に関する相談を担当する場所に、仕事と労働の違いを哲学的に考えるハンナ・アーレントはやってこない。活動と仕事と労働の違いを考えたところで、日雇いで一日に稼げる金額は変わらないし、短期のパートやバイトで専門的な技術が身につき誇りをもつなんてことは多分そんなにないと思うし、契約社員をしていて、責任の所在や仕事内容が明確でなかったりと正社員との違いは曖昧で自発的な生産性が生まれる要素にまるでならない。生きる為にどの形態に従事するか、また出来るかは様々だが、深く深く考えて働いている人はどれぐらいいるのだろうか。


「働く事が幸せにつながるなら、どれでも良いだろ。俺たちはその他の話を聞きに来ているんだ。哲学的な解決は誰も喜ばない。晋。お前の仕事時間は短い。重労働もない。それでいて普通以上の生活が出来ている。普通以上とは、寝食にまず不備がなく、ジムに行く時間と金に余裕があり、好きな時に旅行に行ける自由と、貯金もできる収入を得ている、お前の様な人間の生活を言う。普通の人間はハンナ・アーレントの「人間の条件」を考えて仕事をしない」


黒いスーツ藤岡のいう通り、僕は25年の人生の一度も普通の仕事をしたことはない。40階のタワーマンションに住んでも、平屋のアパートに住んでも, 僕にできる仕事をしているつもりだ。社会を助けながら、社会に助けられる、相互扶助を体現していると思っている。それは、貴方が望んだ概念獣との在り方じゃないのか。


「すみません。大変お待たせしました」

「いえ。大丈夫ですよ。それで、ご相談にあったお二人はみえているんですか?」

「それがですね、建築家の方はいらしているんですが、陶芸家の方はまだでして・・・」

「そうなんですね。では、建築家の方から始めましょう。彼には概念獣がいないとの診断が出ていますが、こちらにはどの様な訴えで来られているんですか?」


要約すると二人の芸術家の要求は、①建築家のケース:持っていた素晴らしいインスピレーションが概念獣によって奪われたので何とかしてほしい、②陶芸家のケース:持っていた素晴らしいインスピレーションが尽き、芸術の概念を概念獣を使って成長させたいから何とかしてほしい、だった。二人とも別の医療機関で概念獣の有無を測る検査を受けており、検査の結果は脳の活動に何の異常も認められないとの事で、これ以上の治療もとい診察を断られている。概念獣監察庁に問い合わせたが、取り合ってもらえなかった。藁にもすがる思いで、労働局に設置してある概念獣関連の相談所に来れば概念獣監察官に面会できるとの噂を聞いてきたそうだ。


「大部分の国民は概念獣の定義や治療方法について詳しく知りません。認識不足からくる概念獣保持者に対しての差別もあります。理解を深める為に啓発活動もしていますが、人手不足も相まって、なかなか浸透しません。ここに寄せられる殆どの概念獣関連の相談は、何かしらの噂を聞きつけたものです。間違ったとは申しませんが、明らかに的を得ていない目的でお越しになる場合も多々ございます。」

「経費や人員も限られている中、奮闘して頂いて有難く思っております。こちらとしましても、なるべく多くの方に概念獣に対する良い認識を広めて差別を解消し、知識や理解の不足に起因する不自由を解決していきたいと思っておりますので、ご助力のほど、よろしくお願い申し上げます。」


今日の晩御飯はププサにしようと思い、仕事帰りにスーパーによって米粉を買ってきた。ファン・カルロスが故郷の味だと言って作っていたロロコのププサは作れないが、伸びるチーズを使えば、とろとろのチーズのププサが作れる。チチャロン入りのリブエルタも作りたいが、1人暮らしの僕には大量の油で豚の脂身を揚げチチャロンを作る事も食べきれないほどの赤い豆を煮る事も現実的ではない。チチャロンは入れないことにしている。ファン・カルロスが僕達に教えるときにしていたように、調理用ミルを持っていない僕は、買った缶の豆をどろどろになるまでミキサーにかけ、フライパンに油を敷いてドロドロの豆を炒めていく。最初は注がれる油の量に驚き、スージーは自分用に少ない量の油を使って作っていたが、美味しさと油の量は比例する事が実証されたので、毎日食べるわけじゃないと言ったファン・カルロスのその言葉を僕はそれを受け入れた。後で知ったが、ププサはエルサルバド人の国民食でどこでも売っていて朝と夜の両方の時間帯で食べる事ができるらしい。昼は食べないそうだ。もちろん家でも作ると言っていた。米粉に少しの少しの塩とぬるま湯をいれて混ぜていく。パンの様にグルテンがあるわけではないから、こねてもひとまとまりにはならないが、しっとりするまでよくこねる必要がある。適当にこねた米粉を掌にのせ、その中に油で炒めた豆と溶けるチーズをいれて、クルクルと生地をまわしながら包んでいく。とてもじゃないがそんな料理上級者のようなことは出来ない。餃子を上手く包むこともできない僕は、サランラップを使ってもいいと言われた。伸ばした生地を二つ用意しその間に材量を挟んでサランラップに包みその上を手で押し2つの生地をくっつければいいと。子供がすることだと言われたが、出来ないものはしょうがないし、不格好でもププサの味は楽しめる。生地をフライパンで焼いていく。家の外に設置された釜土に薪をくべながら、祖母は土で出来たコマルで、母親は薄い鉄板で、ププサを焼いていた。ここではIHでプライパンを使ってププサを焼く。コマルと鉄板とで味が違うけど、チーズがはみだして焼き色がつくぐらいが一番好きだとファン・カルロスは言っていた。


「藤岡第一級危険概念獣監察官。お疲れ様です。何枚食べるの?」

「4枚。チーズ多めで頼む」

「今日の二人は面白い人たちだったね。あんな理由でわざわざ概念獣監察官に会いに来るなんてどうかしているよ」

「どんな理由でも、それで悩んでいるなら話を聞くべきだ」

「偉いね。概念獣監察官としての責任や概念獣研究者としての責務を立派に果たしているよ」

「お前だってそうだろ」

” No, no way. You are wrong. I am not responsible for nobody. I cannot help people like you.”

“That is alright, I am not asking you to do like me or anybody else does. I do what I want and you do what you want. That is all.”

「そんなことは分かってる。ほら、焼けたから食べよう」

「いただきます」


ロロコと言う花を入れたププサが一番好き。君の言う花が入った国民食、ここにも売ってないかな。

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