第2話

概念自体に善悪がないように概念獣自体に善悪はない。それでも、善に分類される概念と悪に分類される概念は存在し、その分類方法が取り入れられた社会では悪の概念獣の成長が見られた人物に概念獣監察官がつけられる。要素があるだけでは概念獣は成長せず、成長にはそれ相応の養分が必要になる。


犯罪の予兆が垣間見える概念獣の報告が入ると、その日の日程はすべて変更される。


「We are all born with sinful nature…これは真実だろ。世界で一番読まれている本が言ってるんだ。世界が信じればそれは真実になる。つまり、環境が揃えば皆等しく犯罪者になる。」

「飛躍だよ、それは・・・なりたくて犯罪者になる人ばかりじゃない」

「人間には自由意思がある。取捨選択できる。そう言いきりたいが、なりたくなくてもある一定の環境や状況に置かれれば犯罪を犯す確率は大幅に増える。だから、犯行前の意思決定に介入することは、なりたくない奴らの犯罪を未然に防げる。You know? We are challenged by God」

「キリスト教徒でもないのに…チャレンジはなんて訳すんだっけ。私達は神に試されている…?未然に防いでも、潜在的な問題は残ったままだ。いたちごっこだよ」

「Well… only God knows…」


藤岡は車のハンドルを離さずに肩をすくめるジェスチャーをした。経費で買われた最新のGPSが搭載された灰色のセダンは公共交通機関での移動が困難な時や緊急事態にしか使用されない。目的地を入力する手つきはたどたどしく、指示された道のりを右往左往しながらバックミラーを見ることを忘れ目的地に着く事だけに腐心している藤岡の横で、今から対峙する男はどっち側の人間なのか考えたが、過ぎ去る景色を目で追ううちにその思考は停止した。開けた窓から滑る様に侵入した湿った空気が車内を一周して外に戻る。一時停止で止まっているバスには老人しかいない。バイク配達員がスマホをチェックしている。妊婦と男の子が手を繋ぎながら横断歩道を渡っている。生垣には青い紫陽花が咲いている。灰色と白の車両が車道を埋める中、すぐ後ろに位置する黄色はとても目立つ。当たり前だが、どこかの国と違って進む方向の走路を逆走する車はなく、秩序を維持している法が機能する国の公道は安全で、隣が四苦八苦していても、僕は呑気に窓を開けて外を見ていられる。

郊外のこじんまりとしたビルの一室で人質をとって立てこもりが起こり、犯人とされる男は彼の概念獣監察官を呼ぶよう人質をたてに警察を脅し、彼らの上司の命令で担当官の他に藤岡輝石が現場に呼ばれた。


「担当の概念獣ぐらいちゃんと監理しろよ・・・」

「大丈夫だと思ってたんだけどな」


着る者を選びそうな紺色のスリーピーススーツとそれに合わせた茶色の丁寧に手入れされた革靴を履き、いつも同じ黒い安物のスーツを着て無表情の藤岡とは対照的な人当たりの良さが滲み出る品の良い笑顔。小声で悪態をついている仁王立ち男を横目に、松田人志監察官は目を閉じて立てこもり犯の人物像を確認している。概念獣監察官の脳の中には担当ファイルと呼ばれるチップが移植され、必要に応じて情報の取り出しができる。概念獣保護法において、概念獣監察官は①特定概念獣保持者か②非特定概念獣保持者のどちらかを担当する。松田監察官は②非特定概念獣保持者を担当し、担当人数は数百人に上る。藤岡の持っている特殊端末に送られてきた立てこもり犯の照会情報は、端末画面の半分にも満たなかった。


「信頼の概念獣保持者・・・普通の男じゃないか。定期検査は良性だったんだろ?」

「そうなんだよ。まったく」


非特定概念獣保持者の概念獣は通常社会に対する影響が少なく危険度が低い。彼らの抱える概念獣が犯罪そのものの原因となっている確率が限りなく低い為、監察官は付くが行動範囲の制限はなく情報提出も当たり障りがないものになっている。大抵は警察の管轄になっている。松田監察官は深く溜めた息をゆっくり吐いて、彼らを呼んだ刑事の元に向かった。

特定概念獣保持者が起こす犯罪は概念獣が間接的に深く複雑に関わっている場合と概念獣自体が引き起こしている確率が極めて高い。概念は伝染する。元となっている概念がウイルスの様に増幅し、噂や都市伝説の様に人から人へ社会全体へと広まっていく。強い概念はより早く伝染し、より深く浸食し、より人々を狂わせる。


「君は大丈夫?」


松田監察官は僕の前に立っていた。右腕に付けられた見たこともない時計。カフスがはめられた白いシャツがシワのないスーツの袖から垣間見える。顔の前を行ったり来たりする彼の手と血色の良い爪が僕の瞳に写った。彼は誰と話している?僕自身か?それとも僕の概念獣か?僕は大丈夫なのか?僕の概念獣は大丈夫なのか?答えられない僕を見越して、こいつは大丈夫だと、いつの間にか傍に立っていた藤岡は僕の頭を軽くたたいた。


「私はこれから顛末書ですよ。まったく、彼は何を考えてこの様な行動に至ったのやら」

「それを報告するのがお前の仕事だろ。ほら、さっさと尋問しに行け」


松田監察官は藤岡と僕に礼儀正しく一瞥した。3台駐車してある内の一台へ向かう際、車内から捲し立てる様相の犯人に視線を送ることなく、現場の人間に効率よく挨拶をして、狭く長い廊下の端までこだまする様な靴は来た時と同じ歩調で帰っていった。一時的に悪夢に憑りつかれた世界から3台の車は消え去り、野次馬を隔離していたロープは撤去され、切り取られた日常は2時間前と同じ状態に戻った。


「ほら、帰るぞ。明日以降の日程はこっちで調整するから、ちょっと待っててくれ。そういえば、お前も運転免許持ってただろ。今度車使うときは、お前が運転したらどうだ。あいつらとよく外いってただろ。」

「免許持ってないよ。」

「アリゾナでとってただろ?」

「日本で免許の切り替えしてないから、多分もう無理だとおもう。日本の公道は狭いし煽り運転とか怖いし、やたらと似た標識は多いし、僕の技術や記憶力じゃここでとるのは難しいと思うな。公共交通機関がこれだけ発達している場所で、車にのる意味あるの?」


家に着くまでの1時間、車を運転する藤岡とそれ以上話をすることはなかった。



特定概念獣保持者を担当している監察官は少ない。藤岡は僕と少なくとも後もう一人担当していると思われる。僕の記憶から抹消された幼少期から現在にかけて接点となるあらゆる情報を藤岡は持っている。家族構成、交友関係、学歴、職歴、病歴、概念獣の誕生背景と成長具合、思想傾向を把握する為の読んだ本の題名やインターネットのアクセスログ、食べるという概念を制御する為の毎日の食事事情、睡眠時間、僕の夢、僕ができる事とできない事・・・特定概念獣保持者を担当するとは、特殊端末画面をスクロールし続けても果てがなく尽きない情報を管理することに他ならない。精査はされているが膨大な情報量は管理する監察官の身体機能に弊害をもたらすことも多く、担当できる人数と情報量は制限されている事を知っている。家柄が良く高い教育を受け人の上に立つように育てらた人種が非特定概念獣監察官の職務に就く。大多数の主に弊害がないと思われる概念獣保持者を担当する松田監察官とあなたの負う重責は違う。第一級危険概念獣監察官であるあなたを、僕は殺してしまわないか、僕は確信が持てない。外出先のホテルを聖書の有無で決めるくせに、知りうる全ての空間に聖書は置かれていない。僕の全てを知っている藤岡輝石に聞きたい。あなたの信じる何かは、僕の存在を赦したのかと。


「うちではカシラの部分は取り扱っていないの。ごめんなさいね。」

「いえ、お手数をおかけしました。」


アパートの近くにあるスーパーに豚ホホ肉は売っていなかった。若い店員に声をかけたら特売の鶏むね肉を並べていた手を止めて精肉売り場の責任者にわざわざ確認に行った。言い直された名前で丁寧に謝られた僕は、店員が残りの肉を並べ終わるのを待って、特売の値札が付いた鳥肉を3パック買って店を出た。無性に鶏肉のから揚げが食べたいと思った。薄いピンク色のぷっくりとした肉質にショウガとニンニクのすりおろしをまぶし醬油と酒で下味をつけ、少し休ませて味をしみこませる。鶏肉のから揚げがさらに食べたくなった。唐揚げ粉をまぶし、余分な粉を払って、多めに用意した油に入れて、まず中温で中に火を通し、一度取り出し、もう一度高温で表面に揚げ色が着くまでしっかりと揚げきる。鶏肉のから揚げにはビールを付けた方がよさそうだ。お皿にはよく水を切ったレタスとレモンを添えて、副菜はトマトを切ればいい。色どりは大切だって言ってたから。3パックはさすがに食べ過ぎだから、下味をつけて冷凍しよう。


そうすれば同じ味がいつでも食べられる。

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