第12話

「ススム、ファン・カルロスがcanの助動詞を使う時、気を付けて。彼は本当に本が読めないと言っているわ。英語のcannotは何らかの制限があって、身体能力的に可能か可能じゃないかを現す時もあるわ。」

「どうゆう事?」

「私のお母さんがね国語の授業でよくmay とcanの使い方を注意されていたの。例えば、授業中にトイレに行きたい時、Can I go to bathroomと言って、I hope soって言われてたんですって。間違いに気づいて May I go to bathroomって言い直すと、You mayって言われるんだって。何回も間違えてしまって恥ずかしかったって言ってたわ。だから小学校に上がる前に何度も教えられたの。」


前日、本を読んでいるはずのないファン・カルロスがあまりにも内容をよく知っているから問い詰めてしまった。タンクトップとショートパンツのスージーはジム帰りに僕たちの会話を一部始終聞いていたらしく、次の日の朝早く僕の部屋に押し掛けてきて、詳しく英語の文法について教えてくれた。


暗闇の概念獣をもつファン・カルロスは本が読めない。黒いインクで書かれた文字が闇を思い起こさせるらしい。教科書を開かない彼に、普通の教師はページを開くことを強制し、目から入る漆黒を彼の概念獣は喜んで取り入れ、以前から少し出ていた手の痙攣が悪化した。症状緩和の為、覚える内容は全て音声に直され、彼は一人で学習するようになった。


「ススムといると落ち着く」


ファン・カルロスと僕はプログラム以外の時間を一緒に過ごすことが多かった。僕は本を読み、彼は本を聞いた。


「このプログラムは拷問じゃないか。本当にこんなことが許されるのか?ススムは大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。プログラムの意義は理解している」

「・・・何かあったら言えよ。駆けつけるから」

「はは、大げさだな。でも解った。何かあったら宜しく。」


今日から始まるプログラムの3ページにも及ぶ詳細を読み終え、笑顔から段々と怪訝になる顔つきをまるで隠さないファン・カルロスは不安げに僕を見上げた。部屋の外のベンチに横になって一人で本を聞いている彼を見かけて、暫くの間アパートを留守にすることを伝えようと足を運んだが失敗だった。僕にできることは、目を瞑り僕の手を握り祈り始めた信心深い彼の祈りが届くようにと願う事だけ。


「ススム、言っておくけど、俺はキリスト教を信じているわけじゃない。教会にも数えるほどしか行ったことがない。これは習慣なんだ。俺の家族の。家族の安全を祈ることは悪い事じゃないだろ?」


僕の浅はかな願いを見透かしたようにファン・カルロスは笑い、ベンチに座りながら僕を見送った。


今回のプログラムは、僕の今後の厚生プログラムを組むうえで作られた、いわば前段で、要約すると僕の概念獣が僕を乗っ取るまでを可視化しよう、という簡素なものだ。関係者が整えた安全な環境で、欠食を続ける。ただそれだけを繰り返す。脳の使用領域を観測するセンサーが付けられた頭。隣に並ぶ無数のディスプレイ。その先で数値を観測する沢山の関係者。その中の藤岡輝石と僕の姉。右にある大きなホワイトボードには端から端までみっちりと組まれたスケジュール表が貼ってあり、確認する人が後を絶たない。左の大きなホワイトボードには、どの程度の欠食で脳の支配領域が浸食されるのか、空腹を食べるとはどういう現象を現しているのか等々、理解できない現象を理解する為、理論の整理や今後の課題など幾つもの項目が書きめぐらされている。全て、僕が生きる為に行われている。


一日目は前日と変わらない気分でスケジュールを消化した。

二日目も一日目とさほど変わりがなかった。

三日目は思っていたよりもだいぶしんどかったと記憶している。

四日目は体に力が入らなかった。

五日目からは記憶はたどたどしいが、そんなに辛くなかった。

六日目は気持ちが軽くなった。

七日目は体も軽くなった。

八日目は周りの声が聞こえなくなった。

九日目は目が虚ろになった。

十日目はずっと寝ていてもいいと思った。


目を開けると、僕は白いベッドの上で横たわっていた。点滴と心拍センサーが繋がれている。


「君は空腹に慣れ過ぎてる。私達は君の概念獣がもっと早くに君の空腹を食べるものだと思っていたが、実際はそうではなかった。君の概念獣は君の記憶の混濁を避けながらゆっくり空腹を喰らっていた。君の過去をもっと考慮するべきだった。辛い思いをさせて、すまなかった。」

「僕は大丈夫ですよ」


表情筋をフル活動させても笑顔が作れない、せめて声色だけでも明るく振舞おうとした僕に、関係者の一人は申し訳なさそうな、今にも泣きそうな顔で部屋から出ていった。藤岡輝石とファン・カルロスと僕が部屋に残された。


「ススム、cannotと言ってくれ。お願いだよ。大丈夫と言って、笑顔を見せないで。こんなことは出来なくてもいいし、する必要もない。」

「ファン・カルロス、晋はこの先、生きる続ける為にこのプログラムをこなしている。彼は今戦っているんだ。今回のプログラムで成しえた成果は、この先ある晋の未来の助けになる。何を犠牲にしても、行わなければならなかったことだ」

「生きるために戦えとか、生きる為の犠牲だとか、生きる為と言えば何をしてもいいのか?貴方の口から吐き出される“生きる為”は彼への贖いか」

「救いたいと思って何が悪い」

「貴方は誰を救いたい?」

「ファン・カルロス。僕はこのプログラムを理解して受け入れた。それだけだよ」


ファン・カルロスは何も言わず、ドアを静かに開け、静かに閉め、部屋を後にした。


「晋。今回は辛い思いをさせてしまったが、色々な発見があった。そのおかげで、新しい対処法を取り入れたプログラムが開始できる。それまで、暫く休息してくれ」

「分かりました」


藤岡輝石はそう言い残して、ドアを静かに開け、静かに閉め、僕を後にした。

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