第5話

世界の人々の概念獣は収集・分類の手順をふみ一元化され、その情報はデータバンクとして幅広く使用が認めれている。20歳から21歳の間、僕は藤岡輝石と姉と世界各国の心療内科と監獄を回った。その結果先進国でより多く概念獣を成長させた人々が見つかった。“労働”と“幸福”の概念獣に囚われた人々は心療内科を受診している確率が高く、“正義”と“暴力”の概念獣に囚われた人々は監獄に溢れていた。様々なサンプルを観察し統計をとった藤岡と姉は、概念獣が住み着くという初期の段階に至る要因に、人種や遺伝子は統計学的に有意だとは言えないという結果に至った。ある国々では概念獣に囚われている人の傾向として、その人物が一定の社会的地位にいる場合が多かったが、発表された研究にその文節が載ることはなかった。


「研究には出していいものと、出せないものがある。その線を引くのは俺じゃない、今は・・・」


顔に両手を当て深く椅子に座り込んでいる藤岡輝石の傍らで、姉は彼の肩を優しく包んで静かに頷いていた。真新しい当たり障りのない研究発表を外国で行った藤岡は、国からの助成金を得ることに成功し大学での地位を確立した。


「Island without Gainenzyu(概念獣のいない島)」小説の題名のような論文を発表した坂口保博士は藤岡輝石と同時期に同じ大学院に通っていて、同じ教授の研究室に在籍していた。アメリカ人言語学者によって書かれたある島の言語についての論文を読んだ彼は、大学院在学期間の殆ど費やしてその島で追跡調査を行い、「矛盾する概念の対立が概念獣を成長させる」と結論付けられた論文は大きな反響を呼び、卒業後海外の研究機関へ就職、その国の永住権を取得した。


「えぇっと・・・“人口3万人以下の島で使用される言語には“希望”という言葉が存在しなかった。正確には希望と似たような言葉は存在するがポジティブな概念としてとらえられていなかった。また、“諦める”という概念はネガティブな概念ではなかった”・・・“この島は無人島で入植に適した土地ではなかった”・・・“植民地間の奴隷を移送する際の中継基地として使われていた経緯がある”・・・“資源や産業はない”・・・“住民は家族の誰かを島外に出し海外送金で生活を成り立たせている現状がある”・・・“島の統治者(達)は兼ねてより外との繋がりが強く、外圧により政権は維持運営されていた。近年、外資誘致を通した経済発展を試みたが限られた人的資源や統治体制の懸念から外資は集まらず、島民の生活水準は依然として低い状態にある。(注:限られた人的資源とは、教育と経済成長の因果関係に対する認識不足から人的資本の概念が育っていない社会では、教育への長期的な投資や質の改善が忌避され、個人の持つ能力の成長が妨げられ、結果的に社会の成長を促す人材が少ない事)” ・・・“a connotation is usually defined by culture and society”・・・このconnotationはどう訳すんだ 」


「そんなもの読んでも役に立たないぞ。あいつにとっての研究は自身の興味を満たすことだけだからな」


藤岡は論文の題名を見るなりその言葉を吐き捨てて部屋を出ていった。論文の定義として役に立つことは必要なのだろうか。たまたま手に取って途中まで読んだシミや日焼け一つない紙束をもとの本棚の端に戻した。ただ題名に興味を惹かれ読んでみた内容は日本語でもよく意味が分からないConnotationの単語で散りばめられていた。随分歴史的背景の考察が多いし、人類学や言語学の分類に属する研究論文とされているが、飛ばし読みをしていたから全ての文脈を正確に理解したわけではない。新たに手に取った論文「Development of self-awareness and Gainenzyu (自己認識の発達と概念獣)」はあまり興味をそそられなかった。レポートを書いていた手を止め目を細めた姉は、ついでに僕が元の本棚に戻した英論文に目を向けた。


「輝石さんは社会に直接的な影響を与える研究しか興味が無いの。保さんの研究は興味深いけど、特殊過ぎてほとんどの地域では当てはまらないから」


論文に貴賤を問うこと自体見当違いであるし、役に立たないなら捨てればいい。自他共に認める実益主義なら、そうしそうなものだけど。坂口さんは特別なんだね-藤岡輝石の特別-言葉になる前の思考に違和感を感じ、言葉を噤んだ。そっと机に向かう姉に視線をずらす。カタカタとキーを打ち込む速度は変わっていない。姉にとって藤岡輝石は、藤岡輝石にとって姉は、お互いに特別だったのだろうか。


藤岡輝石は個人的な願いを聞く人物ではない。そして、僕も個人的な理由で自身の概念獣を使用することは許されていない。例外があるとすれば、それはある筋からの大儀名分がはっきりとした’正式な依頼’とゆう形でやってくる。基本的に概念獣保持者は見つけられ次第検査を受け、概念獣のランク分けがされ、担当者が就くことになっている。表向きは全ての概念獣保持者にこの基本方針が適用されるが、一般の概念獣監督官にさえ秘匿とされているリストが存在すし、そのリストに載っている概念獣保持者には監視目的の担当者は就かない。治外法権はそこかしこに存在するが、これはそういった類の依頼で、一介の概念獣監察官である藤岡に断る権利は勿論、ない。依頼人は、日本の会社に巨額投資をしている愛人の扱いに困った富豪だったり、不出来な政治家の息子をかくまう秘書だったり、国家間の友好を深めるために任命された名前も知らない国の大使館員だったりした。理由にもならない理由で自身が組み立てた予定調和が崩されることを藤岡は心底嫌っていた。僕としては招かれた先々で想像を絶する大きさの良く手入れの行き届いた個性的な庭が見られ、奇想天外で高価な食事が出される現場を嫌う理由はなかった。一度は見てみたい場所、一度は食べてみたい食事、その二つが一度で満たされる、彼らからの仕事を受けることは、僕にとって季節外れのボーナスをもらう事と同意義だった。


「こちらでお待ちください」


広い玄関で靴を脱ぎ、使用人の背中を見ながらひたすら廊下を歩いた。樹齢数百年はあるだろう木の横を通り、明るい緑に光る苔に覆われた切り立った岩の様な石を眺め終わり、通された部屋は落ち着いた和室だった。掛け軸と古めかしい壺が床の間に飾ってあり、壁には白黒で撮られた人物の写真がずらりと並び、髪型や服装の変化が一目でわかった。多分この時間フレームで文明開化が起こったんだろう。高価な着物から高価な洋服へ。白黒写真からカラー写真へ。この家はどんな歴史を刻んできたのだろうか。いい茶葉で入れられたお茶を飲み、百入茶色の色無地を着た家の主人といつもの黒いスーツを着た藤岡が現れるのを待った。


「来てくれ。こっちの部屋だ」


藤岡は家の主人との話を終え、僕を隣の部屋へと呼んだ。そこには美しい女性が布団に横たわっていた。彼女も家の主人と同じように品のよさそうな薄桃色の着物を纏っていた。この家の庭の様に凛とした趣のある閉じられた目元、長い髪は丁寧に横に束ねてあり、口には桜色の紅がさしてあった。他人に会うときに身なりを整えることは、この家にとって、彼女にとって、きっと大事な事なのだろう。


「話は通してある。90%だ」

「分かりました。始めます」


仕事は一瞬で終わる。本当に、瞬く間に、僕の概念獣は望の概念獣を食べ終わった。


「終わりました」


何が起きたかわからない家の主人は狼狽え、藤岡の顔を見る。あっちの部屋に行っていろ、と目で合図され、部屋を出る。食事は銀座から呼ばれた寿司職人に握らせた、飾り包丁や隠し包丁で丁寧に仕込まれたネタが乗った季節の江戸前鮨で、店での仕込みが終わったネタを目の前で握るパフォーマンスを見ながら、開け放たれた障子の先にある枯山水を正面にして、1人でゆっくりと味わった。数時間が経ち、帰りの車が用意されたと来た時とは明らかに違う竹林が連なる廊下を通って玄関まで案内され、待っていた家の主人の手から直接お土産を渡された。


「この度は、誠にありがとうございます。どれ程の言葉をもってしても、この感謝を表すことは出来ません。チョコレートがお好きだと聞きましたので。お口に合えば幸いです」


腫らした目元を見ない様に、藤岡と僕は車に乗った。


「お寿司は食べたの?あの場所に居なかったけど」

「別の場所で頂いたよ」

「美味しかったね」

「旨かったな」

「僕チョコレートが特別好きってわけじゃないけど」

「いいじゃないか、土産なんだから、貰えるだけ有難いと思えよ」

「有難いとは思っているけど・・・」

「俺はここのチョコレートが一番好きなんだよ」

「今日はいい日だったね」

「悪い日ではなかった」


藤岡は明日からのスケジュールを調整すると言ってチョコレートが入った袋を忘れる事なく黒塗りの高級車を降り、早々に家に帰った。


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