1-(10)
眠れずに悶々とするうち喉が渇いてきて、なにか飲ませてもらおう、と私は与えられた布団と部屋をそっと抜けだした。
リビングとひとつづきになっているキッチンのほうへ向かうと、暗がりの中に、火の玉のようにぼんやりとした明かりが小さく浮かび上がっていた。音を立てないように覗くと、ダイニングテーブルにノートパソコンを置いて、澱みなくキーボードを叩いている男の人の背中がある。
その視線は液晶にのみ注がれていると思っていたのに、くる、とその顔は、ふいにこちらをふり向いた。
私は、驚いてあとずさる。
「あれ、目が覚めた?」
けれど、同じベッドに引きこもうとしていたのと同じ人間だとは思えないほど、存外にやさしい声で問われて拍子抜けした。清潔な香りが鼻腔を掠めて、私は素直に頷いた。
「ホットミルクでも入れようか?」
言うと、虹さんはつい先ほどまで熱中して向き合っていたはずのパソコンの画面からあっさりと離れ、冷蔵庫からとりだした牛乳をミルクパンに注いだ。コンロの火をつけて、ミルクパンを弱火にかける。その間に思わず視界に入れてしまったノートパソコンの液晶には、文字の羅列が浮かび上がっていた。
——仕事、だろうか。
さっきはもう眠るかのような会話をしていたのに。私が就寝へ向かったあとに起きて仕事をしているなんて、なんだかすごく立派な大人の人みたいだった。そういえば年齢も聞いていない、と思う。みずみずしい肌は高校生と言われても納得できるけれど、その落ち着きぶりと暮らしぶりからして、少なくとも私よりはいくらか年上に違いなさそうだった。
前世がどうとか言う不思議な人だけれど。それでも「みたい」じゃなくて、ちゃんと大人なのか。
小説家、なのだよね? と、ミルクを匙で混ぜているその人をこっそり見やる。
上着を着ていても痩せていることが見てとれたけど、あたたかい部屋でロングTシャツ一枚だけをだらっと着ていると、よりいっそうその身の細さがうかがえた。脂肪が詰まっているとは思えない痩身は、その皮を剥いだらもうあとは骨だけなのではないかと思わず想像してしまう。さすがにそんなはずはないのだけれど、でもそのぐらいに華奢な身体つきは、痩せている、の度を越してやや不健康そうだとも思われた。
「そんなに見つめられると照れるなあ」
「み、……てません」
「でも嬉しい。ずっと見てて?」
「見てませんってば」
「俺も見るから」
「やめてください」
虹さんはおだやかな表情を浮かべながら、完成したらしいホットミルクをマグカップに注いで、お待たせ、とこちらに差しだしてくれた。
「ありがとう、ございます……」
湯気を立てている陶製のマグカップに、そっと口をつける。ふわりと甘い匂いとともに、ホットミルクのやさしい味が口内を浸した。
「……おいしい、です」
「ほんと? 良かった」
油断していたら、飲んでいるホットミルクよりも甘やかな笑みを向けられてどこを見ていいかわからなくなった。ミルクへ視線を落として夢中で飲むふりをしていると、そうだ、と虹さんが口をひらく。
「ごめん。やっと会えたのが嬉しくて、大切なことを伝えてなかった」
「え?」
「起こすのも悪いし、明日にしようかと思ったんだけど……あ、まだ間に合う」
ちら、と給湯パネルに表示された時刻を見やった虹さんは、リビングからいそいそとなにかを持ってきて、私の前に跪いた。
「誕生日おめでとう」
手のひらに載るほどの小箱が、目の前でひらかれた。
「遅くなってごめんね」
差しだされた小箱の中には、透き通るような宝石のついた指輪がおさまっていた。
「な……え? これ?」
虹さんが見たとき23:57と表示されていた時刻は、私が呆気にとられているこの間に一分進んだ。ゆるくウェーブのかかったアームに支えられた石座に鎮座する大きなかがやきに戸惑う。ダイヤ、の、指輪。
「プレゼント」
蕩けそうなまなざしが、一直線にこちらを向いていた。
「……なんで、知ってるんですか」
「ん、なにが?」
「誕生日……」
どうにか絞りだした声は、困惑で震えた。
「そりゃあ恋人のことだから」
「恋人、のつもりはない、です」
「ああ、今世はそういうことになってたね」
甘美な視線にあてられて、返す言葉を見失った。やっぱり、話が通じない。ひとつ大きく息を吸いこんで、私はゆっくりともう一度口をひらいた。
「あの、こんなの受けとれない、です」
初対面の人間に、こんなどう見ても高価な指輪をもらう筋合いは、ないのだ。それを言いだせば、家に入れてもらって食事を提供してもらうことも、部屋を与えてもらってあたたかな布団で眠らせてもらうこともそうなのだけれど、それらすべてに目をつぶったって、やはり突出しておかしなことではないかと思う。
いや、やっぱり全部おかしいけれど。
でも、だってこんなの。
「受けとれない、ってどうして?」
何十万円は優に。ひょっとしたら何百万円としかねない。
「いきなりこんな、高いもの、もらう意味がわかりません」
「いきなりじゃないよ、だってきみとは前世で——」
「前世はいま置いておいてください」
「婚約指輪のつもりだったんだけどな」
「なおさらもらえないんですが」
当惑する私を置いて、時が進んで、日付が変わる。
「デザインが好きじゃない? ごめん、リサーチ不足だった。直してもらうよ」
「いいです、いらないです」
「ん、デザインはこのままがいい?」
「違、こんな……指輪じたい、いらないです、もらえません」
センターストーンの光に酔いそうだった。宝石そのもののまばゆさはもちろん、流線型の細いアームにも緻密な彫りが入っていて、拘ってつくられたものだと見てとれる。かつて憧れだった母のジュエリーボックスに散りばめられていたきらめきよりも、きっと、圧倒的に、最上級の品に躍り出るだろうと思われた。
いま目の前にあるこれは、とても自分の手の及ぶものではない。それぐらいはわかる。
「もしかして……」
虹さんが、はっと息を飲んだ。
「友達だと婚約もまだ早い?」
「あたり前で……」
言いかけて、でもあたり前、というものは人間が勝手につくりだした価値観でもあるから、そんなに多くは存在しないものかもしれないと思い直した。
だけどそれにしたって。
物事には順序というものがある、いろんな段階をすっ飛ばして、婚約指輪だとか言われても困る。かと言って未来で渡されても困るので、まだ早い、などという問題でもなかった。
そういえば彼は、自分は私の婚約者だなんて、警察の人にも話していた。虹さんの中では勝手にそういうことになっていたのかと考えると、その認識はどこから降ってきたのかと思うし、訂正をこころみる必要がある気がする。けれどそんな元気はもうない、とも思う。
「なるほど。じゃあただの誕生日プレゼントって思ってもらってくれる?」
「じゃあとは?」
受けとれないとくり返しても、虹さんは笑って私を見つめるばかりで聞き入れてはくれない。
「もらってくれるまで何度でも贈るけどね」
機嫌良さそうに口角を上げると、彼は紳士然として私の左手をとり、その銀の輪を薬指にあてがった。
「ちょ、と」
「ん、ぴったり」
その言葉の通り、指輪はするりと吸いつくみたいに、私の左手の薬指に綺麗におさまった。私のためだけに用意されたのだ、とそんなうぬぼれたようなことが、けれどたしかに察せられるほどに。
「もらえないです、って……」
すぐに外して返そうとしたけれど、それは本当に、薬指の底にぴたりと嵌りこんでいた。そろりと摑めば第二関節のところで一瞬立ち止まるみたいに引っかかる。抜けないことはないだろうけれど、傷をつけるのも怖くて決して乱雑には扱えない。弱い力でおそるおそる抜こうとすれば手こずって、あたふたする私を見て、虹さんがくすくすと笑った。
「ふふ、かわいい」
疲労感がどっと増して、容赦なく襲いかかってくる。なおも指輪も格闘する私の手を、虹さんは上からつつみこんで制止した。
「天が好きだよ。だから、これは返さないで」
私を困らせる瞳で、彼は懇願した。
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